テレビテニス
メーカー | エポック社 |
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種別 | 据置型ゲーム機 |
世代 | 第1世代 |
発売日 | 1975年9月12日 |
コントローラ入力 | 内蔵パドルコントローラ |
売上台数 | 1万台から4万台[1][2][3] |
次世代ハードウェア | システム10 |
テレビテニスは、1975年9月12日にエポック社から発売された日本初の家庭用テレビゲーム機である。発売当時の定価は19,500円[4](2023年時点の38,780円と同等)。販売台数は文献によって差異があり、1万台から4万台[1][2][3]。
ゲーム内容は、モノクロ画面に表示される左右に飛びかうボールを、2人のプレイヤーがパドルを操作して画面左右それぞれの端にある縦長のバーを上下に動かし、ピンポン(卓球)のように互いに打ち合うというルール[4]。
ハードウェア
[編集]ハードウェアの中枢は8個の集積回路 (IC) と26個のトランジスタで構成されている。製造は音響機器メーカーの白光無線(1976年9月に倒産)が担当した[5]。本体のアンテナからUHF帯の電波を発信し、テレビ側のUHFチャンネルで受信するというワイヤレス機能を搭載している[4][6]。本機にはスコア機能がなかったため、本体上でスコアをカウントするためのダイヤルが付いている[4][6]。
同年代の競合製品
[編集]当時、テレビを使ってピンポンゲームをする技術はアメリカ合衆国のサンダース・アソシエイツが特許を持っており[7]、同国ではマグナボックスがこれをオデッセイとして商品化した。日本では、オデッセイは輸入雑貨の貿易商を営んでいたブレーンとその関連会社のジョリーブを通して既に販売されていたが、58,000円(2023年時点の115,345円と同等)と高価であった[8]。一方エポック社は本機の発売に際して、マグナボックスから特許の使用許諾を得て[9]、19,500円という低価格で販売する[10]も本機を含む家庭用テレビゲーム機の国内販売は伸びなかった[11]。
1976年にジェネラル・インストゥルメントやナショナル・セミコンダクタなどがゲームの種類やボール速度の設定などを加えて改良した回路をワンチップに収めたLSI(大規模集積回路)の供給を開始する。日本でも他のメーカーから同様のゲーム機が発売されると、本機は機能や価格面で不利になった[9]。エポック社も同年8月よりNEC半導体事業部の協力を得て、専用LSIの開発[11]および新しいテレビゲーム機の開発にとりかかり、1977年8月にシステム10として発売したが、その直前に任天堂から低価格機のカラーテレビゲームが発売されるなどの厳しい競争に晒された。
脚注
[編集]- ^ a b “テレビゲームの数”. Classic Videogame Station ODYSSEY. 寺町電人. 2024年4月11日閲覧。 “「エポック社の伝説のテレビゲーム」封入の解説書(エポック社/2005年)より、総販売台数1万台”
- ^ a b 『ホームビデオゲーム・ホビーパソコン市場の需要分析と今後の展開』矢野経済研究所、1983年、23頁。「輸出も含めて3万台は売っている」
- ^ a b 「国内短信:エポック社がテレビゲーム機と電子学習機を発売」『電子材料』第16巻第9号、工業調査会、1977年、15-16頁、ISSN 0387-0774。「2年間で約4万台販売(エポック社前田竹虎代表取締役)」
- ^ a b c d M.B.MOOK『懐かしファミコンパーフェクトガイド』99ページ
- ^ “クラシックゲーム100の謎を解け!”. Classic Videogame Station ODYSSEY. 寺町電人 (2005年6月5日). 2024年4月9日閲覧。
- ^ a b コアムックシリーズNO.682『電子ゲーム なつかしブック』p.50.
- ^ アメリカ合衆国特許番号US3659284 “Television gaming apparatus”、日本国特許番号第778416号『テレビジョン・ゲーム及び訓練装置』。
- ^ アンソニー・ペレグリノ『外国品は儲かる : 滞日10年の極秘情報』実業之日本社、1975年5月25日、185頁。
- ^ a b 編集部「今月の話題 ブームを呼ぶ電子化ゲーム機器 (2)」『電子材料』第15巻第5号、工業調査会、1976年、2-5頁、ISSN 0387-0774。
- ^ 「家庭TVゲーム時代来る エポック社、他」『ゲームマシン』第31号、アミューズメント通信社、1975年9月1日、3面。2024年9月4日閲覧。
- ^ a b 「話題の任天堂製品 プライスショックで普及早まるか」『ゲームマシン』第77号、アミューズメント通信社、1977年8月1日、2面。2024年9月4日閲覧。