ダーリーン・ハード
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ダーリーン・ハード(左) | ||||
基本情報 | ||||
フルネーム | Darlene Ruth Hard | |||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||
出身地 | アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルス | |||
生年月日 | 1936年1月6日 | |||
没年月日 | 2021年12月2日(85歳没) | |||
死没地 | アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルス | |||
身長 | 170 センチメートル | |||
利き手 | 右 | |||
殿堂入り | 1973年 | |||
生涯獲得賞金 | 値なし | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | ベスト8(1962) | |||
全仏 | 優勝(1960) | |||
全英 | 準優勝(1957・1959) | |||
全米 | 優勝(1960・1961) | |||
優勝回数 | 3(仏1・米2) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | 準優勝(1962) | |||
全仏 | 優勝(1955・1957・1960) | |||
全英 | 優勝(1957・1959・1960・1963) | |||
全米 | 優勝(1958 - 1962・1969) | |||
優勝回数 | 13(仏3・英4・米6) | |||
4大大会最高成績・混合ダブルス | ||||
全豪 | 準優勝(1962) | |||
全仏 | 優勝(1955・1961) | |||
全英 | 優勝(1957・1959・1960) | |||
全米 | 準優勝(1956・1957・1961) | |||
優勝回数 | 5(仏2・英3) | |||
国別対抗戦最高成績 | ||||
BJK杯 | 優勝(1963) | |||
ダーリーン・ルース・ハード(Darlene Ruth Hard, 1936年1月6日 - 2021年12月2日)は、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の女子テニス選手。1950年代後半から1960年代初頭にかけて活躍し、4大大会で女子シングルス3勝・女子ダブルス13勝・混合ダブルス5勝を獲得した選手である。最盛期の1960年には、全仏選手権と全米選手権の女子シングルス年間2冠と、マリア・ブエノ(ブラジル)とのペアで全仏選手権・ウィンブルドン選手権・全米選手権の女子ダブルス3連勝を成し遂げた。彼女のテニスは、どの技術も生き生きした男性的な力強さにあふれ、とりわけボレーとオーバーヘッド・スマッシュ(頭上から放つスマッシュ)で攻撃力を発揮した。
来歴
[編集]ハードは1953年から選手経歴を始め、1954年の全米選手権で初めてルイーズ・ブラフとの準決勝に進出した。1955年の全仏選手権で、ハードは女子ダブルスと混合ダブルスの2部門制覇を成し遂げ、ダブルス選手として最初の成功を収めた。1957年の全仏選手権女子ダブルスでシャーリー・ブルーマー(イギリス)と組んで2年ぶり2度目の優勝をした後、ハードはウィンブルドン選手権で女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてで決勝に進出した。アリシア・ギブソンと組んだ女子ダブルスと、メルビン・ローズとの混合ダブルスの2部門で優勝したが、女子シングルス決勝ではギブソンに 3-6, 2-6 で敗れた。ギブソンはこの大会で、黒人テニス選手として最初のウィンブルドン優勝者になった。1958年、ハードは全米選手権の女子シングルス決勝にも初進出したが、ここでもギブソンに 6-3, 1-6, 2-6 で競り負けた。この年から1962年まで、ハードは全米選手権の女子ダブルスで「5連覇」を達成する。
1959年のウィンブルドン選手権で、ハードは再び女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門決勝進出を果たすが、この年も女子ダブルス・混合ダブルスの2冠獲得で止まり、女子シングルスは2度目の準優勝に終わった。2度目の3部門決勝進出は、女子シングルス決勝で敗れた相手がマリア・ブエノ、女子ダブルスのパートナーがジーン・アースで、混合ダブルスのパートナーはロッド・レーバーであった。翌1960年にハードはテニス経歴の最盛期を迎え、全仏選手権と全米選手権の女子シングルスで初優勝を飾り、ブエノとのコンビで全仏選手権・ウィンブルドン選手権・全米選手権の女子ダブルス3連勝を成し遂げた。全仏選手権の女子シングルス決勝で、ハードはヨラ・ラミレス(メキシコ)に 6-3, 6-4 のストレート勝ちを収め、ここで4大大会女子シングルス初優勝を決めた。ウィンブルドン選手権では、ロッド・レーバーとの混合ダブルスで2年連続優勝を果たすが、女子シングルスでは準々決勝でサンドラ・レイノルズ(南アフリカ)に不覚の敗戦を喫してしまう。全米選手権では、ハードはブエノとの決勝対決を 6-4, 10-12, 6-4 で制した。パートナーのマリア・ブエノは、年頭の全豪選手権の女子ダブルスはクリスティン・トルーマン(イギリス)と組んで優勝したため、1960年はブエノ1人について「女子ダブルス年間グランドスラム」が成立する。
1961年の全米選手権で、ハードはイギリスのアン・ヘイドンを 6-3, 6-4 で破り、女子シングルス2連覇を達成した。1962年、彼女は初めてオーストラリアに渡り、キャリア唯一の全豪選手権に出場する。オーストラリアの地では、ハードは女子ダブルス・混合ダブルスの2部門は準優勝したものの、女子シングルスは準々決勝でジャン・レヘインに敗退した。3連覇を目指した全米選手権でも、ハードは決勝でオーストラリア女子の第一人者、マーガレット・スミスに 7-9, 4-6 で敗れてしまう。1962年全米選手権の女子ダブルス決勝で、ハードとブエノはビリー・ジーン・モフィット&カレン・サスマン組を 4-6, 6-3, 6-2 で破り、ハードはこの部門で「5連覇」を達成した。しかし、1963年の全米女子ダブルス決勝でマーガレット・スミス&ロビン・エバーン組に 6-4, 8-10, 3-6 で敗れたことにより、ハードは全米女子ダブルス6連覇を逃した。彼女の4大大会シングルス成績は、1963年のウィンブルドン選手権ベスト4と全米選手権のベスト8で終わっている。
1963年、女子テニス国別対抗戦「フェデレーションカップ」(現在のフェドカップ)が創設された。ハードは第1回大会のアメリカ代表選手に選ばれ、ビリー・ジーン・モフィット、キャロル・コールドウェルとともに、最初のフェデレーション杯でアメリカ・チームを優勝に導いた。ハードのフェデレーション杯出場は、最初の1度だけである。
それから6年後の1969年、ダーリーン・ハードは「全米オープン」の女子ダブルスで7年ぶり6度目の優勝を果たす。テニス界は前年の1968年から「オープン化措置」を実施し、プロテニス選手の4大大会出場を解禁したため、大会名称も「全米オープン」に変更された。ハードは全米オープンの女子ダブルスでフランソワーズ・デュール(フランス)とペアを組み、マーガレット・スミス・コート&バージニア・ウェード組に 0-6, 6-4, 6-4 の逆転勝利を収めた。こうして、ハードは1963年ウィンブルドン選手権以来6年ぶりの4大大会タイトルを取り、総計「21勝」(女子シングルス3勝+女子ダブルス13勝+混合ダブルス5勝=21勝)を獲得した。1973年に国際テニス殿堂入りを果たしている。
引退後は南カリフォルニア大学の職員として45年ほどを過ごした。結婚したが、子供には恵まれなかった。また、キャリアのすべてにおいて、女子テニスがアマチュアスポーツであったハードは、周囲に経歴を告げることはなかったという[1]。
2021年12月2日、ロサンゼルスの病院にて死去[1]。85歳没。
4大大会優勝
[編集]- 全仏選手権 女子シングルス:1勝(1960年)/女子ダブルス:3勝(1955年・1957年・1960年)/混合ダブルス:2勝(1955年・1961年)
- ウィンブルドン選手権 女子ダブルス:4勝(1957年・1959年・1960年・1963年)/混合ダブルス:3勝(1957年・1959年・1960年) [女子シングルス準優勝2度:1957年・1959年]
- 全米選手権 女子シングルス:2勝(1960年・1961年)/女子ダブルス:6勝(1958年 - 1962年・1969年) [女子シングルス準優勝2度:1958年・1962年/女子ダブルス5連覇を含む]
年 | 大会 | 対戦相手 | 試合結果 |
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1960年 | 全仏選手権 | ヨラ・ラミレス | 6-3, 6-4 |
1960年 | 全米選手権 | マリア・ブエノ | 6-4, 10-12, 6-4 |
1961年 | 全米選手権 | アン・ヘイドン | 6-3, 6-4 |
参考文献
[編集]- Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis” (コンサイス・テニス辞書) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3
脚注
[編集]- ^ a b “グランドスラム大会のシングルスで3度優勝したダーリーン・ハードが85歳で逝去”. テニスマガジン. (2021年12月5日) 2021年12月6日閲覧。