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ダーリーン・ハード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダーリーン・ハード
Darlene Hard
ダーリーン・ハード(左)
基本情報
フルネーム Darlene Ruth Hard
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
生年月日 (1936-01-06) 1936年1月6日
没年月日 (2021-12-02) 2021年12月2日(85歳没)
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルス
身長 170 センチメートル
利き手
殿堂入り 1973年
生涯獲得賞金 値なし
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト8(1962)
全仏 優勝(1960)
全英 準優勝(1957・1959)
全米 優勝(1960・1961)
優勝回数 3(仏1・米2)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 準優勝(1962)
全仏 優勝(1955・1957・1960)
全英 優勝(1957・1959・1960・1963)
全米 優勝(1958 - 1962・1969)
優勝回数 13(仏3・英4・米6)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全豪 準優勝(1962)
全仏 優勝(1955・1961)
全英 優勝(1957・1959・1960)
全米 準優勝(1956・1957・1961)
優勝回数 5(仏2・英3)
国別対抗戦最高成績
BJK杯 優勝(1963)

ダーリーン・ルース・ハードDarlene Ruth Hard, 1936年1月6日 - 2021年12月2日)は、アメリカカリフォルニア州ロサンゼルス出身の女子テニス選手。1950年代後半から1960年代初頭にかけて活躍し、4大大会で女子シングルス3勝・女子ダブルス13勝・混合ダブルス5勝を獲得した選手である。最盛期の1960年には、全仏選手権全米選手権の女子シングルス年間2冠と、マリア・ブエノブラジル)とのペアで全仏選手権・ウィンブルドン選手権・全米選手権の女子ダブルス3連勝を成し遂げた。彼女のテニスは、どの技術も生き生きした男性的な力強さにあふれ、とりわけボレーとオーバーヘッド・スマッシュ(頭上から放つスマッシュ)で攻撃力を発揮した。

来歴

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ハードは1953年から選手経歴を始め、1954年全米選手権で初めてルイーズ・ブラフとの準決勝に進出した。1955年全仏選手権で、ハードは女子ダブルスと混合ダブルスの2部門制覇を成し遂げ、ダブルス選手として最初の成功を収めた。1957年全仏選手権女子ダブルスでシャーリー・ブルーマーイギリス)と組んで2年ぶり2度目の優勝をした後、ハードはウィンブルドン選手権で女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてで決勝に進出した。アリシア・ギブソンと組んだ女子ダブルスと、メルビン・ローズとの混合ダブルスの2部門で優勝したが、女子シングルス決勝ではギブソンに 3-6, 2-6 で敗れた。ギブソンはこの大会で、黒人テニス選手として最初のウィンブルドン優勝者になった。1958年、ハードは全米選手権の女子シングルス決勝にも初進出したが、ここでもギブソンに 6-3, 1-6, 2-6 で競り負けた。この年から1962年まで、ハードは全米選手権の女子ダブルスで「5連覇」を達成する。

1959年ウィンブルドン選手権で、ハードは再び女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門決勝進出を果たすが、この年も女子ダブルス・混合ダブルスの2冠獲得で止まり、女子シングルスは2度目の準優勝に終わった。2度目の3部門決勝進出は、女子シングルス決勝で敗れた相手がマリア・ブエノ、女子ダブルスのパートナーがジーン・アースで、混合ダブルスのパートナーはロッド・レーバーであった。翌1960年にハードはテニス経歴の最盛期を迎え、全仏選手権全米選手権の女子シングルスで初優勝を飾り、ブエノとのコンビで全仏選手権・ウィンブルドン選手権・全米選手権の女子ダブルス3連勝を成し遂げた。全仏選手権の女子シングルス決勝で、ハードはヨラ・ラミレスメキシコ)に 6-3, 6-4 のストレート勝ちを収め、ここで4大大会女子シングルス初優勝を決めた。ウィンブルドン選手権では、ロッド・レーバーとの混合ダブルスで2年連続優勝を果たすが、女子シングルスでは準々決勝でサンドラ・レイノルズ南アフリカ)に不覚の敗戦を喫してしまう。全米選手権では、ハードはブエノとの決勝対決を 6-4, 10-12, 6-4 で制した。パートナーのマリア・ブエノは、年頭の全豪選手権の女子ダブルスはクリスティン・トルーマンイギリス)と組んで優勝したため、1960年はブエノ1人について「女子ダブルス年間グランドスラム」が成立する。

1961年全米選手権で、ハードはイギリスアン・ヘイドンを 6-3, 6-4 で破り、女子シングルス2連覇を達成した。1962年、彼女は初めてオーストラリアに渡り、キャリア唯一の全豪選手権に出場する。オーストラリアの地では、ハードは女子ダブルス・混合ダブルスの2部門は準優勝したものの、女子シングルスは準々決勝でジャン・レヘインに敗退した。3連覇を目指した全米選手権でも、ハードは決勝でオーストラリア女子の第一人者、マーガレット・スミスに 7-9, 4-6 で敗れてしまう。1962年全米選手権の女子ダブルス決勝で、ハードとブエノはビリー・ジーン・モフィットカレン・サスマン組を 4-6, 6-3, 6-2 で破り、ハードはこの部門で「5連覇」を達成した。しかし、1963年の全米女子ダブルス決勝でマーガレット・スミス&ロビン・エバーン組に 6-4, 8-10, 3-6 で敗れたことにより、ハードは全米女子ダブルス6連覇を逃した。彼女の4大大会シングルス成績は、1963年ウィンブルドン選手権ベスト4と全米選手権のベスト8で終わっている。

1963年、女子テニス国別対抗戦「フェデレーションカップ」(現在のフェドカップ)が創設された。ハードは第1回大会のアメリカ代表選手に選ばれ、ビリー・ジーン・モフィットキャロル・コールドウェルとともに、最初のフェデレーション杯でアメリカ・チームを優勝に導いた。ハードのフェデレーション杯出場は、最初の1度だけである。

それから6年後の1969年、ダーリーン・ハードは「全米オープン」の女子ダブルスで7年ぶり6度目の優勝を果たす。テニス界は前年の1968年から「オープン化措置」を実施し、プロテニス選手の4大大会出場を解禁したため、大会名称も「全米オープン」に変更された。ハードは全米オープンの女子ダブルスでフランソワーズ・デュールフランス)とペアを組み、マーガレット・スミス・コートバージニア・ウェード組に 0-6, 6-4, 6-4 の逆転勝利を収めた。こうして、ハードは1963年ウィンブルドン選手権以来6年ぶりの4大大会タイトルを取り、総計「21勝」(女子シングルス3勝+女子ダブルス13勝+混合ダブルス5勝=21勝)を獲得した。1973年国際テニス殿堂入りを果たしている。

引退後は南カリフォルニア大学の職員として45年ほどを過ごした。結婚したが、子供には恵まれなかった。また、キャリアのすべてにおいて、女子テニスがアマチュアスポーツであったハードは、周囲に経歴を告げることはなかったという[1]

2021年12月2日、ロサンゼルスの病院にて死去[1]。85歳没。

4大大会優勝

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  • 全仏選手権 女子シングルス:1勝(1960年)/女子ダブルス:3勝(1955年・1957年・1960年)/混合ダブルス:2勝(1955年・1961年)
  • ウィンブルドン選手権 女子ダブルス:4勝(1957年・1959年・1960年・1963年)/混合ダブルス:3勝(1957年・1959年・1960年) [女子シングルス準優勝2度:1957年・1959年]
  • 全米選手権 女子シングルス:2勝(1960年・1961年)/女子ダブルス:6勝(1958年 - 1962年・1969年) [女子シングルス準優勝2度:1958年・1962年/女子ダブルス5連覇を含む]
大会 対戦相手 試合結果
1960年 全仏選手権 メキシコの旗 ヨラ・ラミレス 6-3, 6-4
1960年 全米選手権 ブラジルの旗 マリア・ブエノ 6-4, 10-12, 6-4
1961年 全米選手権 イギリスの旗 アン・ヘイドン 6-3, 6-4

参考文献

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  • Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis” (コンサイス・テニス辞書) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3

脚注

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外部リンク

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