コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ニール・フレーザー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ニール・フレーザー
Neale Fraser
ニール・フレーザー
基本情報
フルネーム Neale Andrew Fraser
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
出身地 オーストラリアの旗 オーストラリアメルボルン
生年月日 (1933-10-03) 1933年10月3日
没年月日 (2024-12-02) 2024年12月2日(91歳没)
死没地 オーストラリアの旗 オーストラリア
身長 185cm
利き手
バックハンド 片手打ち
殿堂入り 1984年
4大大会最高成績・シングルス
全豪 準優勝(1957・59・60)
全仏 ベスト4(1958・62)
全英 優勝(1960)
全米 優勝(1959・60)
優勝回数 3(英1・米2)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 優勝(1957・58・62)
全仏 優勝(1958・60・62)
全英 優勝(1959・61)
全米 優勝(1957・59・60)
優勝回数 11(豪3・仏3・英2・米3)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全豪 優勝(1956)
全英 優勝(1962)
全米 優勝(1958-60)
優勝回数 5(豪1・英1・米3)
国別対抗戦最高成績
デビス杯 優勝(1959-62)

ニール・フレーザー(Neale Fraser、1933年10月3日 - 2024年12月2日)は、オーストラリアメルボルン出身の男子テニス選手。1960年ウィンブルドン選手権優勝者で、全米選手権でも1959年1960年に大会2連覇を達成した。また、ダブルスでもロイ・エマーソンとのペアで「キャリア・グランドスラム」を達成している。左利きの選手。身長185cmの長身から繰り出す、爆弾のようなサーブと強力なボレーを最大の持ち味にした。彼の全盛時代から、空前絶後の厚い選手層を誇ったオーストラリア・テニス界の黄金時代が始まった。

来歴

[編集]

フレーザーは1955年から、男子テニス国別対抗戦・デビスカップオーストラリア代表選手となった。1957年に地元の全豪選手権で男子シングルス・男子ダブルスの2部門に初の決勝進出を果たし、シングルスではアシュレー・クーパーに敗れて準優勝になったが、ルー・ホードとのダブルスで初優勝を果たす。同年の全米選手権では、全豪決勝で敗れたクーパーとペアを組んで男子ダブルス初優勝を飾り、以後フレーザー&クーパー組は翌1958年全仏選手権まで4大大会男子ダブルス「3連勝」を達成した。1959年1960年に、ニール・フレーザーは選手経歴の絶頂期を迎える。この年から、フレーザーはダブルスでロイ・エマーソンとペアを組むようになった。年頭の全豪選手権では、シングルス決勝でアレックス・オルメドペルー)に敗れて2度目の準優勝になったが、ウィンブルドン選手権の男子ダブルスで、エマーソンとのペアで初優勝を果たす。続く全米選手権で、フレーザーは男子シングルス・男子ダブルスの単複2冠を獲得し、シングルス決勝では全豪で敗れたオルメドに 6-3, 5-7, 6-2, 6-4 で雪辱を果たして、4大大会の男子シングルスに初優勝を飾った。男子ダブルスでも2年ぶり2度目の優勝を果たすが、パートナーはエマーソンであった。

1960年度の4大大会は、全仏選手権を除く3大会で、ニール・フレーザーとロッド・レーバーが“左利き対決の決勝”を戦った。全豪選手権ではレーバーが 5-7, 3-6, 6-3, 8-6, 8-6 で勝ち、フレーザーに2セット・ダウン(先に相手に2セットを取られた状態)からの逆転勝利を収める。フレーザーは全豪選手権で3度の準優勝に終わり、とうとう地元ではシングルス優勝を果たせなかった。ウィンブルドン選手権決勝ではフレーザーがレーバーに 6-4, 3-6, 9-7, 7-5 で勝ち、全米選手権でも 6-4, 6-4, 9-7 でフレーザーが勝った。後に男子テニス史上2人目の「年間グランドスラム」達成者となるレーバーにとって、キャリアの最初期に壁となったのが同じ左利きで、5歳年上の先輩に当たるフレーザーであった。全米選手権では、フレーザーはエマーソンとの男子ダブルスでも2連覇を果たし、2年連続で単複2冠を獲得した。そしてついに、1962年全豪選手権男子ダブルス決勝で、フレーザー&エマーソン組はボブ・ヒューイット(当時はオーストラリア国籍、後に南アフリカへ移住する)&フレッド・ストール(オーストラリア)組を 4-6, 4-6, 6-1, 6-4, 11-9 で破り、同一ペアで「キャリア・グランドスラム」を完成させた。フレーザーの4大大会男子ダブルス優勝は総計「11勝」となったが、最初の4勝(初優勝はルー・ホードと、その後アシュレー・クーパーと3連勝)を除く「7勝」をエマーソンとのペアで獲得したことになる。

フレーザーは混合ダブルスでも、全仏選手権を除く3大会で優勝があり、この部門で通算「5勝」を獲得した。1956年全豪選手権の優勝パートナーはベリル・ペンローズであった。1958年から1960年にかけて、フレーザーはマーガレット・オズボーン・デュポンアメリカ)と組んで全米選手権の混合ダブルス3連覇を達成した。1962年ウィンブルドン選手権混合ダブルスで優勝した時、(フレーザーとは15歳年上にあたる)オズボーン・デュポンは44歳の高齢を迎えていた。

ニール・フレーザーは1963年に現役生活を退いたが、それから10年後の1973年ウィンブルドンの男子ダブルス決勝に再び姿を見せた。この時はアシュレーの弟ジョン・クーパー(1946年生まれ)とペアを組んで出場したが、イリ・ナスターゼルーマニア)&ジミー・コナーズアメリカ)組に 6-3, 3-6, 4-6, 9-8, 1-6 のフルセットで敗れた。フレーザーにとっては、これは39歳からのダブルス再挑戦だった。1970年から1993年まで、フレーザーは24年間デビスカップオーストラリア代表監督を務めた。1984年国際テニス殿堂入りを果たし、現在も故郷のメルボルン市に在住している。

2024年12月3日に訃報が発表された。91歳没[1]

4大大会優勝

[編集]
  • 全豪選手権 男子ダブルス:3勝(1957年&1958年・1962年)/混合ダブルス:1勝(1956年) [男子シングルス準優勝3度:1957年・1959年・1960年]
  • 全仏選手権 男子ダブルス:3勝(1958年・1960年・1962年)
  • ウィンブルドン選手権 男子シングルス:1勝(1960年)/男子ダブルス:2勝(1959年・1961年)/混合ダブルス:1勝(1962年)
  • 全米選手権 男子シングルス:2勝(1959年&1960年)/男子ダブルス:3勝(1957年・1959年&1960年)/混合ダブルス:3勝(1958年-1960年)
大会 対戦相手 試合結果
1959年 全米選手権 アメリカ合衆国の旗 アレックス・オルメド 6–3, 5–7, 6–2, 6–4
1960年 ウィンブルドン選手権 オーストラリアの旗 ロッド・レーバー 6–4, 3–6, 9–7, 7–5
1960年 全米選手権 オーストラリアの旗 ロッド・レーバー 6–4, 6–4, 10–8

男子ダブルスの4冠達成ペア

[編集]

脚注

[編集]

外部リンク

[編集]