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スティーマー・ベイ (護衛空母)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スティーマー・ベイ
基本情報
建造所 ワシントン州バンクーバーカイザー造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
艦種 航空母艦護衛空母
級名 カサブランカ級
艦歴
起工 1943年12月4日
進水 1944年2月26日
就役 1944年4月4日
退役 1946年2月4日
除籍 1959年3月1日
その後 1959年8月29日にスクラップとして売却
要目
基準排水量 8,319 トン
満載排水量 11,077 トン
全長 512フィート3インチ (156.13 m)
水線長 490フィート (150 m)
最大幅 65フィート2インチ (19.86 m)
飛行甲板 474×108フィート (144×33 m)
吃水 満載時20フィート9インチ (6.32 m)
主缶 B&W製ボイラー×4基
主機 5気筒スキナー式ユニフロー蒸気機関英語版×2基
出力 9,000馬力 (6,700 kW)
推進器 スクリュープロペラ×2軸
最大速力 19ノット (35 km/h)
航続距離 10,240海里 (18,960 km)/15ノット
乗員 士官・兵員860名
兵装
搭載機 28機
その他 カタパルト×1基
艦載機用エレベーター×2基
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スティーマー・ベイ (USS Steamer Bay, CVE-87) は、アメリカ海軍護衛空母カサブランカ級航空母艦の33番艦。艦名はアラスカ州南東部エトリン島英語版のスティーマー湾 (北緯56度9分59.8秒 西経132度42分23.2秒 / 北緯56.166611度 西経132.706444度 / 56.166611; -132.706444 (スティーマー湾)) に由来する。

艦歴[編集]

「スティーマー・ベイ」は1943年12月4日にワシントン州バンクーバーカイザー造船所で起工する。1944年2月26日にヘンリー・S・ケンダル夫人によって進水し、1944年4月4日にステッドマン・テラー艦長の指揮下で就役した。

ピュージェット湾での海上公試の後、「スティーマー・ベイ」は5月2日にサンディエゴへ向けて出航した。第61海兵航空団の兵員および航空機を搭載すると、14日にニューヘブリディーズ諸島へ向けて出航する。30日にエスピリトゥサント島に到着、航空機と兵員を降ろすと6月2日に帰途に就く。6月20日から7月19日まで西海岸に留まり、298名の海兵隊員と72機の航空機を搭載すると再びマーシャル諸島へ向けて出航した。

「スティーマー・ベイ」は8月1日にマジュロに到着し、積み荷と乗客を降ろす。その後真珠湾に向かい、補充航空機の運送艦として第3艦隊ウィリアム・ハルゼー大将)に加わる。72機の航空機が搭載された。8月21日にマヌス島ゼーアドラー湾に向けて出航した。続く2ヶ月半にわたって第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)に対しての補充の航空機およびパイロット運搬を担当し、パラオフィリピンへの攻撃作戦の支援を行った。11月15日から12月5日までは真珠湾で修理および訓練を行い、1944年12月17日にゼーアドラー湾に戻る。第77.4任務群、サン・ファビアン空母グループに配属されると、1945年1月1日に出撃した。

フェリックス・スタンプ少将指揮する6隻の護衛空母から成るタフィー2は、リンガエン湾上陸作戦を支援した。1945年1月の第1週にリンガエン湾からスールー海南シナ海へと航行する間、部隊は数多くの敵機による攻撃に遭遇した。6隻の護衛空母の内、「オマニー・ベイ (USS Ommaney Bay, CVE-79) 」は1月4日に特攻機による攻撃で大破、沈没した。翌日には「マニラ・ベイ (USS Manila Bay, CVE-61) 」および「サボ・アイランド (USS Savo Island, CVE-78) 」は大きく損傷する。上陸作戦中護衛空母群は1,400回以上の出撃を行い、地上部隊を支援した。スティーマー・ベイは第7艦隊トーマス・C・キンケイド中将)と共にフィリピン海域に留まり、1月31日にウルシー環礁へ帰還した。

2月5日から10日までウルシー環礁に停泊した後、第5艦隊レイモンド・スプルーアンス大将)と共に硫黄島攻略に向けて出航する。「スティーマー・ベイ」は他の4隻の護衛空母と共に、2月16日に作戦担当区域である硫黄島西方50カイリの海域に到着した。その任務は2月19日の作戦当日までに小笠原諸島の日本軍基地を無力化することと、作戦当日の海兵隊上陸部隊に対する航空支援、直接支援を行うことであった。

「スティーマー・ベイ」は3月7日に戦場を離脱し、12日にレイテ島サンペドロ湾に到着した。3月27日に沖縄へ向けて出航し、4月1日の朝に沖縄本島南部の作戦海域に到着する。その後5月26日まで沖縄海域に留まり、修理のためグアムアプラ港に向かった。6月10日に宮古島東方の第3艦隊への合流を命じられ、先島諸島の日本軍基地への攻撃を支援する。6月14日から22日まで航空攻撃を支援し、その後ウルシー環礁へ向かった。

「スティーマー・ベイ」は7月3日にウルシー環礁を出航し、日本本土に対する攻撃を行う高速空母部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の補給支援グループの援護を行う。7月20日に部隊から分離し、グアムおよび真珠湾を経由して8月10日にサンディエゴに到着した。

日本が降伏した8月15日、「スティーマー・ベイ」は修理のためドックに入渠中であった。艦内には帰還兵のための寝棚が取り付けられ、9月28日に真珠湾を出航、「魔法の絨毯」作戦に参加する。

「スティーマー・ベイ」は1946年2月4日に太平洋予備役艦隊に配属され、ワシントン州タコマに係留された。1947年1月に予備役となり、1955年6月12日にCVHE-87(護衛ヘリ空母)に艦種変更された。1959年3月1日に除籍され、1959年8月29日にイリノイ州シカゴのハイマン=マイケルズ社にスクラップとして売却された。

「スティーマー・ベイ」は第二次世界大戦の戦功で6つの従軍星章を受章した。

参考文献[編集]

  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0ISBN 4-7887-8218-9

関連項目[編集]

外部リンク[編集]