ジョーゼフ・W・バーンズ・シニア
ジョーゼフ・W・バーンズ・シニア Joseph Wellington Byrns, Sr. | |
---|---|
生年月日 | 1869年7月20日 |
出生地 | アメリカ合衆国、テネシー州シーダー・ヒル |
没年月日 | 1936年6月4日(66歳没) |
死没地 | アメリカ合衆国、ワシントンD.C. |
出身校 | ヴァンダービルト大学 |
所属政党 | 民主党 |
第46代下院議長 | |
在任期間 | 1935年1月3日 - 1936年6月4日 |
選挙区 | テネシー州第6区 |
当選回数 | 12 |
在任期間 | 1909年3月4日 - 1933年3月3日 |
選挙区 | テネシー州第5区 |
当選回数 | 2 |
在任期間 | 1933年3月4日 - 1936年6月4日 |
ジョーゼフ・ウェリントン・「ジョー」・バーンズ・シニア(Joseph Wellington "Jo" Byrns, Sr., 1869年7月20日 – 1936年6月4日)は、アメリカ合衆国の政治家である。テネシー州選出の民主党下院議員を14期務めた。
生涯
[編集]テネシー州ロバートソン郡シーダー・ヒルで、ジェームズ・ヘンリー・バーンズ、メアリー・エミリー・ジャクソン夫妻の息子として出生。母方のおじジョーゼフ・ウィリアム・グリーン・ジャクソン(南北戦争で戦死)によって名付けられた。公立学校卒業後、政治に強い関心を示した彼は1894年にテネシー州下院議員に選出され、1896年及び1898年に再選を果たした。1900年、テネシー州上院議員に選出された。
1902年、彼はテネシー州デーヴィッドソン郡の地方検事に立候補したが、落選した。これは、生涯19回の選挙のうち、唯一の敗北であった。1908年、バーンズは連邦下院議員候補者指名を民主党から受け、同年11月に当選。1909年3月4日より下院議員となり、残りの政治家人生を下院に捧げた。
バーンズは幅広い尊敬を集め、その影響力は歳月を経るにつれて増大した。1928年から1935年まで民主党議会選挙対策委員会の委員長を務めた[1]。1931年、彼は強大な権限を有する下院歳出委員会の委員長に任命され、1933年には下院多数党院内総務となった。1935年、下院議長となった。
バーンズはワシントンD.C.で死去したとき下院議長であり、再選を目指して出馬を予定していた。葬儀はローズヴェルト大統領や高官らの出席のもと、連邦議会議事堂で開催され、遺体はナッシュヴィルのマウント・オリヴェット墓地に埋葬された。後に、息子のジョー・バーンズ・ジュニアは下院議員を1期務めたが、父ほどの人気は遂に得られなかった。
遺物
[編集]彼の故郷ロバートソン郡内(アダムズ近郊)にあるジョー・バーンズ高等学校は、彼を顕彰して命名された。
註
[編集]- ^ Irish, Ann B. (2001). Joseph W. Byrns of Tennessee: a political biography. Knoxville: University of Tennessee Press. pp. 220. ISBN 1-57233-131-3
- ^ Leonhart, James Chancellor (1962). The Fabulous Octogenarian. Baltimore Maryland: Redwood House, Inc.. pp. 277
外部リンク
[編集]議会 | ||
---|---|---|
先代 ヘンリー・T・レイニー |
下院議長 1935年1月3日 – 1936年6月4日 |
次代 ウィリアム・B・バンクヘッド |
先代 ウィリアム・R・ウッド |
下院歳出委員長 1931年 – 1933年 |
次代 ジェームズ・P・ブキャナン |
先代 ジョン・W・ゲインズ |
テネシー州第6区選出下院議員 1909年3月4日 - 1933年3月3日 |
次代 クラレンス・W・ターナー |
先代 ユーウィン・L・デーヴィス |
テネシー州第5区選出下院議員 1933年3月4日 - 1936年6月4日 |
次代 リチャード・M・アトキンソン |
党職 | ||
先代 ヘンリー・T・レイニー |
下院多数党院内総務 1933年 – 1935年 |
次代 ウィリアム・B・バンクヘッド |