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ジャカルタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャカルタ特別市から転送)
ジャカルタ

Jakarta
インドネシアの旗
ジャカルタ首都特別州
Daerah Khusus Ibukota Jakarta
左上から: 旧バタヴィア市庁舎、ホテル・インドネシア・ラウンドアバウト、ジャカルタ遠景、ゲロラ・ブン・カルノ・スタジアム、TMII(英語版)、モナス(国家独立記念塔)、ムルデカ宮殿、イスティクラル
左上から: 旧バタヴィア市庁舎、ホテル・インドネシア・ラウンドアバウト、ジャカルタ遠景、ゲロラ・ブン・カルノ・スタジアムTMII英語版モナス(国家独立記念塔)、ムルデカ宮殿イスティクラル
ジャカルタの旗
ジャカルタの公式印章
印章
標語: 
Jaya Raya
ジャカルタの位置(ジャワ島内)
ジャカルタ
ジャカルタ
ジャカルタの位置(インドネシア内)
ジャカルタ
ジャカルタ
ジャカルタの位置(東南アジア内)
ジャカルタ
ジャカルタ
南緯6度12分 東経106度48分 / 南緯6.200度 東経106.800度 / -6.200; 106.800座標: 南緯6度12分 東経106度48分 / 南緯6.200度 東経106.800度 / -6.200; 106.800
インドネシアの旗 インドネシア
政府
 • 種別 州(首都特別州)
 • 知事代行 テグ・セヤブディインドネシア語版
面積
 • 首都特別州 740.28 km2
 • 陸地 662.3 km2
 • 水域 6,977.5 km2  1.12%
 • 都市圏
7,062.5 km2
標高
7 m
人口
(2020)[1]
10,562,088人
 • 密度 16,262人/km2
 • 都市圏
33,430,285人
 • 都市圏密度 4,733人/km2
住民
 • 民族 ジャワ人 (35%)、ベタウィ人英語版 (28%)、
スンダ人 (15%)、華人 (6%)、
バタック族 (4%)、ミナンカバウ族 (3%)
 • 宗教 イスラム教 (86%)、
プロテスタント (6%)、カトリック (4%)、
仏教 (4%)、ヒンドゥー教儒教
 • 言語 インドネシア語ブタウィ語
ジャワ語スンダ語
等時帯 UTC+7 (WIB)
市外局番 +62 21
ISO 3166コード ID-JK
ウェブサイト jakarta.go.id
地図

ジャカルタ首都特別州(ジャカルタしゅととくべつしゅう、インドネシア語: Daerah Khusus Ibukota Jakarta)、通称ジャカルタ: Jakartaインドネシア語発音: [dʒaˈkarta] ( 音声ファイル))は、インドネシア首都であり同国最大の都市[注釈 1][注釈 2]ジャワ島にある。

人口は950万人を超えており、2016年の近郊を含む都市圏人口は3,120万人と、東京都市圏に次いで世界第2位[2]。世界屈指のメガシティであり、東南アジア有数の世界都市でもある。東南アジア諸国連合 (ASEAN) の事務局が置かれる[3]

名称

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古くはスンダクラパスンダ語: Sunda Kelapa, (スンダのココナッツ), 397年 - 1527年)と呼ばれていた。 1527年にファタヒラー英語版率いるイスラム軍がポルトガル軍を追放してこの地を手中に収めたことからジャヤカルタ: Jayakarta, 偉大なる勝利, 1527年 - 1619年)と改められた。

1619年にオランダ東インド会社がこの地を制圧し、バタヴィア: Batavia, バタヴィの土地, 1619年 - 1942年)に改めた。

第二次世界大戦中の1942年に日本がこの地を制圧し、ジャカルタ: Djakarta, 1942年 - 1972年)に改められ、1950年のインドネシア共和国成立後もこの名称が使用された。また、1972年に綴りがインドネシア語正書法のJakartaに改められた。

ジャガタラ (Jacatra) とも呼ばれ、オランダとの交易を持った日本では、江戸時代以降この名が定着し(ジャガイモもこの名に由来する)、ジャカルタという都市よりジャワ島全体を指す呼称として用いられた。

ジャカルタの名称は、サンスクリットの(ジャヤ, [栄光・勝利])+कृत(カルタ, 達成・獲得)の二つの単語から作られた合成語が起源である。

「ジャカルタ首都特別州」は外務省の呼び名で、同市と姉妹都市関係を結ぶ東京都ではジャカルタ特別市と呼んでいる(英語正式表記もSpecial Capital Region of Jakarta)[4]

歴史

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オランダ以前

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ジャカルタはもともと、16世紀初めまで、西ジャワのパジャジャラン王国の港町、スンダ・クラパとして発展した。14世紀に成立した中国・明朝のもとでインドネシアの海域は册封体制下におかれ、アジア域内における交易ネットワークに組み込まれていた。スンダ・クラパもまた、この海域の他の港市とともに、中国との朝貢貿易や私貿易、中継貿易で重要な港町として発展した。

スンダ・クラパをジャヤカルタ (Djajakarta) と改名したのは、1527年にこの地を征服したバンテン王国スルタン、ファタフィラである。

バタヴィア市の成立

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バタヴィア城(1656 - 58年頃、画: Andries Beeckman.)
バタヴィア市庁舎、現在はジャカルタ歴史博物館英語版

16世紀末に、この海域でのポルトガル香辛料独占に対抗するため進出してきたオランダは、西ジャワの王族の内紛に介入し、その一方に軍事援助を行う見返りとして、ジャヤカルタを手に入れた。1619年オランダ東インド会社総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがジャヤカルタに要塞を建設し、この地をオランダの先住民バタウィにちなんで、バタヴィアと改称した。その後、オランダ東インド会社の基地として、さらに後にはオランダ領東インド国家の中心都市として発展していくことになった[5]1629年には東隣の中部ジャワを統べる大国であったマタラム王国のスルタン・アグンが侵攻して来たものの、クーンが築いた城壁によって撃退に成功し、これがジャカルタ市拡大の契機となった。チリウン川は直線に流路を改修され、それまでチリウン川東岸に限られていた城壁が拡張されて西岸にも達し、川を市街の中心として両岸に市街地が広がるようになった。また、街の周囲には運河兼用の掘割が張り巡らされ、石やレンガ造りのオランダ風の建物が立ち並び、当初「東洋の真珠」と呼ばれる美しい町並みとなったが、この町並みはジャワの気候とは必ずしもあっていなかった上に、城壁内の風通しが悪かったことや周囲の水質悪化によって死亡率が非常に高くなり、やがて「東洋の墓場」とも呼ばれるようになった。また、このころにはジャワ人やアンボン人、スンダ人など、オランダ領東インド各地からバタヴィアへやってきた人々の混血が進み、ベタウィ人英語版と呼ばれる新しい民族集団が誕生した。

ウェルトフレーデンの開発

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フランス革命の余波によってオランダ連邦共和国が滅び、バタヴィア共和国が成立すると、バタヴィアもバタヴィア共和国の領土となった。1807年には東インド総督としてヘルマン・ウィレム・ダーンデルスがバタヴィアに赴任したが、彼はバタヴィア(現コタ地区)が瘴癘の地と化していることを知り、その南に広がるやや標高の高いウェルトフレーデン地区を開発し、ここを行政の中心とした。ウェルトフレーデンには官庁が立ち並び、ワーテルロー広場(バンテン広場)を町の中心として開発が進められたものの、ワーテルロー広場が手狭であったためやがてその西にあった練兵場であるコーニングス広場(ムルデカ広場)付近に官庁が移転していき、ここが街の中心となっていった。

1811年にはイギリスがバタヴィアを占領し、イギリス東インド会社の元でトーマス・ラッフルズが副総督としてこの地を統治した[6] が、1817年にはオランダ王国へと返還され、再びオランダ領東インドの政治的中心として発展していった。

1873年にはジャカルタとボゴール間に鉄道が開通し、1877年には市の北東に新港であるタンジュンプリオク港が開港した。ジャカルタの市街地は19世紀から20世紀初頭にかけて南へと一貫して伸びていった。1912年にはウェルトフレーデンの南のゴンダンディアが白人居住区となり、さらに南のメンテン地区にも住宅街が広がっていった。

日本

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第二次世界大戦では、1942年初頭に大日本帝国がオランダ植民地軍を破り東インドのほぼ全域を占領し、その後日本軍政当局がバタヴィアをジャカルタと改称した。以後、その名称は現在に至っている[7]。なお日本軍は市政からオランダ人を放逐した。日本軍の占領は1945年8月まで続いた。

独立後

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日本軍が降伏すると、スカルノらは1945年8月17日にジャカルタでインドネシア共和国の独立を宣言したが、復帰したオランダ軍によって再びジャカルタは占領された。この時期、オランダは市の南部に高級住宅街クバヨラン・バルを建設するなど、再び長期統治の姿勢を見せた。しかしオランダとの独立戦争はインドネシアの勝利に終わり、1949年にジャカルタからオランダ軍は撤退してジャカルタはインドネシア共和国の首都となった。

1950年には周辺地域をジャカルタに編入し、市域は大幅に拡大した[8]。独立後、政治機能のみならずそれまでスラバヤなどいくつかの都市と同じ規模であった経済機能もジャカルタに集中することで都市機能が肥大化し、地方・島嶼部の人口が大量に流入してアジアでも最大規模の都市の一つとなった。また、インドネシア共和国の中心としてスカルノはモナスなど大量のモニュメントを市内に建設していった。

1966年から1977年にかけて在任したアリ・サディキン知事の下で都市基盤の整備が開始され、やがて南北方向だけでなく東西方向へも都市開発が進んでいった。ニュータウンの開発が進められる一方で、市内各所にある住宅の密集地域であるカンポンの改良計画も行われるようになった。しかし他の発展途上国の首都同様、現在でも交通や住宅などインフラ設備が整うには程遠く、深刻な都市問題を抱える。

1997年に起きたアジア通貨危機により景気が悪化し、1998年5月のジャカルタ暴動英語版の引き金となる。この暴動で、多くの華人の店舗が焼かれた。2018年8月から10月にかけて、アジア競技大会アジアパラ大会が開催される。ジャカルタでのアジア競技大会の開催は1962年以来56年ぶり2度目。

首都移転計画

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交通渋滞・自然災害などを理由にジャカルタのあるジャワ島外に移転すると首都移転が計画され2019年に閣議決定された[9][10]ジョコ・ウィドド大統領は同年8月、自身のTwitterで首都の移転先をジャワ島外とすると発表した。新首都の最適候補地としてカリマンタン島ボルネオ島)東岸の東カリマンタン州クタイカルタネガラ県北プナジャムパスル県の両県にかかる地域であるバリクパパン近郊であるとした[11]

なお移転にかかる経費は3兆円超と膨大な費用がかかる[12]上、2020年以降は新型コロナウイルスの感染拡大の影響があり、具体的な動きは先送りされた。2024年以降に計画の再始動が予定されているが、実現は2030年代後半以降になる見込み[13]。2024年に移転を開始し、2045年までの完了を目指すとする説明もある[14]

2022年1月18日、このバリクパパン近郊の新首都名を「ヌサンタラ」とすることがインドネシア議会で可決されたことをスハルソ国家開発企画庁長官が明らかにした[15][16]

気候

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ジャカルタはケッペンの気候区分では熱帯モンスーン気候 (Am) に属し、高温多湿である。気温は一年中ほとんど変わらないが、赤道に比較的近いにもかかわらず明確な雨季乾季がある。7月から10月にかけての4ヶ月は乾季であり、11月から6月までの8ヶ月は雨季にあたる。ジャカルタで最も降雨が多いのは1月で、389.7 mmの降雨がある。逆に最も降雨が少ないのは9月で、月平均降水量は30.0 mmである。

ジャカルタの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 31.5
(88.7)
32.3
(90.1)
32.5
(90.5)
33.5
(92.3)
33.5
(92.3)
34.3
(93.7)
33.3
(91.9)
33.0
(91.4)
32.0
(89.6)
31.7
(89.1)
31.3
(88.3)
32.0
(89.6)
32.6
(90.7)
平均最低気温 °C°F 24.2
(75.6)
24.3
(75.7)
25.2
(77.4)
25.1
(77.2)
25.4
(77.7)
24.9
(76.8)
25.1
(77.2)
24.9
(76.8)
25.5
(77.9)
25.5
(77.9)
24.9
(76.8)
24.9
(76.8)
24.8
(76.6)
雨量 mm (inch) 389.7
(15.343)
309.8
(12.197)
100.3
(3.949)
257.8
(10.15)
139.4
(5.488)
83.1
(3.272)
30.8
(1.213)
34.2
(1.346)
30.0
(1.181)
33.1
(1.303)
175.0
(6.89)
123.0
(4.843)
1,706.2
(67.173)
平均降雨日数 26 20 15 18 13 17 5 5 6 9 22 12 168
湿度 85 85 83 82 82 81 78 76 75 77 81 82 81
平均月間日照時間 189 182 239 255 260 255 282 295 288 279 231 220 2,975
出典1:World Meteorological Organization[17]
出典2:Danish Meteorological Institute (sun and relative humidity)[18]

地理

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上空から見た北ジャカルタ市街
ビジネス街を通る幹線道路

ジャワ島北西岸、チリウン川河口に位置する。海岸に近い旧市街と内陸部の新市街に分かれている。インドネシア最大の商業都市であり大規模な繁華街が展開している。北部のタンジュンプリオク地区に港湾施設があり、工業地域となっている。繊維工業造船業などが行われているものの比較的小規模である。ジャカルタ特別区は、陸地面積662 km2、水域面積6,977 km2から成る[19]

ジャカルタの北部の海抜は低く、南部は丘陵地となっている。そのため河川は南部から北部へと流れる。最も重要な河川はチリウン川で、ジャカルタ市域のほぼ中央を流れている。これらの河川は、ジャカルタの低い地形、潮の干満、そして雨季の降水量によってしばしば氾濫を起こす。特にジャカルタの後背地であり水源である南部のボゴール市やデポック市は、都市化による人口増加と森林伐採によって近年洪水は被害を拡大する傾向にある。さらに、洪水は直接的な被害のみならず、社会経済的に複雑な問題をジャカルタにもたらす引き金となっている[20]1996年の洪水時には[21] 5000ヘクタールが浸水し[22]2007年の大洪水時には[23] 5兆2000億ルピアの被害と85名の死者を出し[24]、少なくとも35万人が家屋に被害を受け[25] 、ジャカルタ市域の70%が浸水し、一部地域では水深は4mにまで達した[26][27]。近年は地盤沈下が進行しており、ジャカルタは毎年5 - 10 cmずつ沈んでいると言われている[28]

また、ジャカルタ行政区を含めた4地域はまとめて、ジャボデタベック (Jabodetabek) と呼ばれている。これは、ジャカルタ (Jakarta) と西ジャワ州のブカシ市 (Bekasi)、ボゴール市 (Bogor)、デポック市 (Depok)、バンテン州のタンゲラン市 (Tangerang) の頭文字を繋ぎ合わせたもので、ジャカルタ首都圏の呼称として定着している。

行政区画

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ジャカルタ首都特別州には5つの行政市(Kota Administrasi, 日本の政令指定都市の行政区に相当)と、リゾートとして知られる島嶼部のケプラウアン・セリブ(千の島)から成る1つの行政県 (Kabupaten Administrasi) がある。その5市 (kotamadya) は、43区 (Kecamatan) にわかれ、さらにその下に265町 (Kelurahan) - 2499町内 (Rukun Warga) - 2万8981隣組 (Rukun Tetangga) がある。かつてはジャカルタの知事は官選であったが、2007年8月、地方分権化の一環として史上初のジャカルタ知事選挙が行われ、民選の知事が誕生した[29]

1945年から1960年まではジャカルタには市長がいたが、1960年の終わりには市長から知事へと変わった。1974年、地方自治体の基礎となる「1974年の法律第5号」によって、ジャカルタはインドネシアの首都であり、インドネシアを構成する26州のうちのひとつと定められた[19]

ジャカルタ首都特別州の区画図
ジャカルタ首都特別州の各行政区画
行政市(Kota Administrasi)
/行政県 (Kabupaten Administrasi)
面積 (km2) 総人口 (2010)[30] 男性人口[30] 女性人口[30] 人口密度 (km2)[30]
南ジャカルタ市
(Jakarta Selatan)
141.27 2,057,080 1,039,677 1,017,403 14,561
東ジャカルタ市
(Jakarta Timur)
188.03 2,687,027 1,368,857 1,318,170 14,290
中央ジャカルタ市英語版
(Jakarta Pusat)
48.13 898,883 453,505 445,378 18,676
西ジャカルタ市
(Jakarta Barat)
129.54 2,278,825 1,162,379 1,116,446 17,591
北ジャカルタ市英語版
(Jakarta Utara)
146.66 1,645,312 824,159 821,153 11,218
ケプラウアン・セリブ県英語版
(Kepulauan Seribu)
8.7 21,071 10,695 10,376 2,422
合計
(DKI JAKARTA)
662.33 9,588,198 4,859,272 4,728,926 14,476

ジャカルタは、次の各地域に分かれている。

中央ジャカルタ市 (Jakarta Pusat) はジャカルタ5市の中で面積人口ともに最小であるが、ジャカルタの中央に位置し政治経済の中枢が集中しており、ジャカルタの中心部となっている。オランダ植民地時代のからの官庁街でありムルデカ広場、独立記念塔(モナス)、ムルデカ宮殿国立モスクジャカルタ大聖堂、インドネシア国立中央博物館などもここに位置している[31]。在インドネシア日本大使館も中央ジャカルタ市にある

北ジャカルタ市 (Jakarta Utara) は、ジャカルタ5市の中で唯一ジャワ海に面している。北ジャカルタはジャカルタ市発祥の地であり、かつてバタヴィアと呼ばれオランダ東インド会社の一大拠点であったジャカルタ旧市街コタ地区の大部分を含んでいる。旧市街には植民地時代の古い建物が残っており、観光の目玉となっている。コタ地区の南西にはチャイナタウンが広がっている。また北ジャカルタにはアンチョール遊園地もあり、観光エリアとなっている。北東部にはジャカルタの産業港であるタンジュンプリオク港があり、大規模・中規模の工業が集積している[32]

南ジャカルタ市 (Jakarta Selatan) はもともとジャカルタの衛星都市並びにベッドタウンとして開発された地域であり、近代的な大規模ショッピングモールや、高級住宅、高層アパートメントが多く集まる地域となっている。インドネシアのリトル東京と言われるブロックM (Blok M) は、かつては日本人向けの歓楽街の様相を呈していたが、昨今はインドネシアの大衆若者文化の情報発信拠点へと変化をしてきている。ジャカルタのCBD (Central Business District) 地域は南ジャカルタのSetia Budi地区と、それに隣接する中央ジャカルタ市のTanah Abang/Sudirman地区に集中している。

西ジャカルタ市 (Jakarta Barat) は小企業がジャカルタでもっとも密集している地域である。西ジャカルタはジャカルタの旧市街の一部を含んでいる[33]

東ジャカルタ市 (Jakarta Timur) はいくつかの産業の集積する工業地帯となっている[34]。この地域には水田湿地などがまだわずかながら残っている[34]

ケプラウアン・セリブ県(Kepulauan Seribu、千の島)はジャワ本島ではなく、ジャカルタの北のジャワ海に浮かぶ110の島々からなっている。この島々は独自で価値ある生態系を持っている。この豊かな自然を生かし、ダイビング[要曖昧さ回避]水上オートバイウィンドサーフィンなどのマリンスポーツが盛んであり、上記二つを目的に多くの観光客が訪れる。島々の間の交通機関はスピードボートや小型のフェリーが中心である[35]

ジャカルタのパノラマ写真

人口推移

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人口
1870年 65,000
1875年 99,100
1880年 102,900
1883年 97,000
1886年 100,500
1890年 105,100
1895年 114,600
1901年 115,900
1905年 138,600
1918年 234,700
人口
1920年 253,800
1925年 290,400
1928年 311,000
1930年 435,184
1940年 533,000
1945年 600,000
1950年 1,733,600
1959年 2,814,000
1961年 2,906,533
1971年 4,546,492
年月日 人口
1980年10月31日 6,503,449
1990年10月31日 8,259,639
2000年6月30日 8,384,853
2005年1月1日 8,540,306
2006年1月1日 7,512,323
2007年6月 7,552,444
2010年 9,588,198

2010年の人口調査の結果では、ジャカルタの人口は958万人となっている[36]。この結果、ジャカルタの人口密度は14,464人/km2となり、世界で9番目に人口密度の高い大都市となった[37]

経済

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日系企業

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日本企業が多く進出し、自動車・オートバイ・工業製品などの生産を行っている。日本企業の工場は、タンジュンプリオク・プロガドゥンなどのジャカルタ行政区内やジャカルタの東側に隣接する、西ジャワ州ブカシ県に多く建設されている。都市部の人件費や物価の高騰から2000年代は東側に進出する傾向が強まり、中でもチカンペック高速道路沿いには日系商社が開発した工業団地が集中し、カラワン県などの工場団地に多く工場が建設されている。

地元TV局のRCTIが石森プロダクション・伊藤忠商事バンダイと提携して放送中の特撮変身ヒーロー番組ガルーダの戦士ビマ』は当市で撮影されている。

日系企業が進出している主な工業団地(いずれもジャカルタと隣接するブカシ県にある)

  • MM2100 (Cibitung, Bekasi)
  • EJIP (West Karawang, Bekasi)
  • Jababeka (Cikarang, Bekasi)
  • Deltamas GIIC (Cikarang, Bekasi)
  • Delta Silicon (Cikarang, Bekasi)
  • Lippo Cikarang (Cikarang, Bekasi)
  • KIIC/ Karawang International Industrial City (Karawang, Bekasi)

観光

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ジャカルタの夜景
モナスとジャカルタ

地区

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ジャカルタの旧市街で歴史的建造物が多い。最北にはかつて栄えたスンダ・クラパ港がある。
南ジャカルタに位置しており、バスのターミナル、デパート、レストラン、カラオケ店が多く密集している商業地区。娯楽地区であるブロックMの中央にはBlok M Mallがあり、一般大衆をターゲットとした小規模小売店や大型スーパーマーケットのCarrefourがテナントとして入っている。また同地区東にデパート・パサラヤ (Pasaraya)、同地区西にショッピングモールのBlok M Plaza がある。
タムリン地区の東側の裏通りの通り名。ムルデカ広場の南側に位置する。バッグパッカー向けの安宿が立ち並ぶ。
  • ジャラン・タムリン (Jl. M.H. Thamrin)/ジャラン・スディルマン (Jl. Jenderal Sudirman)
官公庁&ビジネス街として知られる通りである。タムリン通りには在インドネシア日本国大使館がある。また日系を含む多くの外資系企業の現地法人本社や駐在事務所が存在する。タムリン通りとスディルマン通りは事実上1本の道であり、途中には戦後賠償によって建てられたHotel Indonesia(現在はHotel Indonesia Kempinskiとして運営されている)や、高級モールであるGrand Indonesia (Hotel Indonesia Kempinski併設) と、Plaza Indonesia(Grand Hyatt Jakarta併設) もある。

建築物

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国立中央博物館

交通

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市内一般道

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ジャカルタは常に深刻な交通渋滞に悩まされており、世界的に見ても最悪レベルの停滞率である。

1992年より市内目抜き通りの解消のために「Three in One」のルールを導入していた。これは、平日午前7:00から午前10:00まで、また午後4:00から午後7:00までの通勤ラッシュの時間帯、指定道路には「1台に3人以上乗っている乗用車しか乗り入れができないというものであった。しかし規定人数に満たない自家用車への同乗を仕事とする「ジョッキー」という人たちが発生したため、この規制は有名無実化となっていた。

そこでジャカルタ州政府は2016年より「Three in One」に代わる新たな規制として「車両ナンバープレート末尾数字の奇数・偶数 (Ganjil Genap)」を利用した流入規制を開始している。カレンダー偶数日には車両ナンバープレート末尾数字の偶数車両が、また奇数日には奇数車両の通行が可能である。この規制が適用される時間帯と適用道路は以下の通りである。

○規制適用時間帯:平日の午前6時から午前10時まで、午後4時から午後8時まで (土日祝祭日は規制の適用外)

○規制適用道路:Jl. Medan Merdeka Barat、Jl. M.H. Thamrin、Jl. Jenderal Sudirman、Jl. Sisingamangarajaの全線、及びJl. Gatot Subrotoの一部 (Persimpangan Jl. HR Rasuna Said と Gerbang Pemudaの間)

空港

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スカルノハッタ国際空港第3ターミナル

ジャカルタ市の北西に隣接するスカルノハッタ国際空港(西ジャワ州タンゲラン県チェンカレン地区)がジャカルタのメイン空港であり、ここから各地へ国際線、国内線が就航する。空港名は独立時の大統領と副大統領であったスカルノモハマッド・ハッタにちなんで名づけられた。この空港はインドネシア人にはチェンカレンまたはソエッタの通称で呼ばれている。空港のIATAコードであるCGKは、空港所在地であるチェンカレン (Cengkareng) に由来している。スカルノハッタ国際空港は年6300万(2017年実績値)が利用するインドネシア最大規模の空港である。

ジャカルタの第二空港であるハリム・ペルダナクスマ国際空港は市の南東に位置し、1985年にスカルノハッタ国際空港が開港するまではジャカルタのメイン空港であった。現在ではプライベートやVIP機・大統領機・軍用機などの発着、及びメッカ巡礼のフライトに供されている。

ジャカルタ都市圏にはこの他に、Pondok Cabe空港や、離島であるケプラウアン・セリブ (Kepulauan Seribu) 県のプラウ・パンジャン (Pulau Panjang) 飛行場などがある。

鉄道

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ジャカルタコタ駅

地域内には国営会社のPT. Kereta Apiが運営する鉄道が走っている。ジャカルタコタ駅が近郊路線(コミューターライン)のターミナル駅となっているが、中長距離列車はガンビル駅パサール・スネン駅から発着する。日本から中古で輸入されたJR東日本の205系をはじめとした日本製中古電車が近郊部を結ぶ通勤電車として運行されている。

ジャカルタ・モノレール英語版が構想され、2004年から建設が開始されたが財政・法律上の問題により中止と再開を繰り返し、2015年に正式に計画はキャンセルされた[38]

市内中心部の輸送力を増強し道路の混雑緩和を図るため、南ジャカルタのルバックブルスから中央ジャカルタのドゥクアタスの間の14.5 kmにJakarta Mass Rapid Transit(Mass Rapid Transit、都市内部の高速交通機関)の建設が決定された。2006年11月、インドネシアと日本の間で円借款の調印が行われ、2008年6月にMRT条例が可決されて、MRT会社の設立登記の準備が進められ[39] 建設費が抑制できるLRTへの代替が検討されたが、地下鉄として着工され、使用車両も搬入され、2019年3月に開業した。

バス

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トランスジャカルタの路線バス

トランスジャカルタという専用レーンを走行するバスが7路線で運行されている。ジャカルタ特別州当局では2008年9月までにあと3路線を新設する計画で工事を進めている。当初は運賃が割高なため利用客が少なかったが、政府による燃料費補助削減の影響を受けて自家用車からバスへの転移が進み、徐々に利用者が増加しつつある[39]

トランスジャカルタ以外にも路線バスが運行されており、中型バスはメトロミニ、コパジャなどと呼ばれている。大型バスでは冷房化が進行している[39]

タクシー

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ジャカルタ内には42事業者、25,019台のタクシーが登録されており、それ以外に周辺都市から85事業者約16,600台が乗り入れて営業している[39]

通常のタクシー以外には近年ではスマートフォンを利用した配車アプリである、Grab Car(乗用車)、Grab、GO-JEK(いずれもバイクタクシー)の利用者が急激に増加している。

また道で拾う従来スタイルのOjek(オジェック)と呼ばれる二輪タクシーや、Bajaji(バジャイ)と呼ばれる三輪タクシーも存在し市民の生活の足となっているが、料金交渉が必要である事や、目的地周辺地理をある程度理解しておく必要があり若い層を中心に次第に敬遠される傾向にある。 

尚自転車タクシーであるBecak(ベチャ)は、交通渋滞解消と交通事故時の危険性を理由にジャカルタでの運行は禁止されている。

教育

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インドネシア大学

ジャカルタには多数の高等教育機関が存在する。以下はその一例。

なお、ジャカルタには在留邦人の子弟向けのジャカルタ日本人学校 (SEKOLAH JEPANG JAKARTA) (JJS/ Jakarta Japanese School) がある。1969年5月5日開校当時は南ジャカルタのラグナン地区にあったが、現在はジャカルタ郊外のタンゲラン県ビンタロ地区に小学部と中学部、幼年部が設置されている。以下その他参照。

姉妹都市

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ジャカルタは世界中に姉妹都市を有している[40]

その他

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  • 日本ではジャカルタから伝来したとされる植物に「ジャガタラ」と名付けられたものがある。
    • ジャガタラ芋 - 植物食物の「ジャガイモ」の名前は、この町から日本に伝来したことから生まれた。16世紀末にジャガタラ芋としてオランダ商船により輸入されたことに起源すると言われる[41]
    • ジャガタラ柚(ゆ) - ブンタン(ザボン)について『大和本草』では「朱欒(ザンボ)」と記され、京師(京都)では「ジャガタラ柚(ゆ)」と呼ばれているとしている[42]。ただし「ジャガタラ柚(ゆ)」はジャカルタから伝わったブンタンの近縁種で獅子柚子のことともいわれている[42]
  • ジャカルタ日本人学校は、バンテン州タンゲラン県に位置する。(ジャカルタ市内ではない・州境付近)

脚注

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注釈

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  1. ^ 「1974年の法律第5号」により、ジャカルタはインドネシアの最大都市であり、インドネシアを構成する26州のうちのひとつと定められた。詳細後述
  2. ^ 行政区画としてのジャカルタ(首都特別州)を短く表す場合は、略語を使ってDKI Jakarta(デーカーイー・ジャカルタ)もしくはDKI、または「大ジャカルタ」の意味のJakarta Raya(ジャカルタ・ラヤ)を使用する。

出典

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  1. ^ Hasil Sensus Penduduk 2020” (インドネシア語). 中央統計庁. p. 9 (2021年1月21日). 2021年1月21日閲覧。
  2. ^ 世界の都市圏人口の順位(2016年4月更新) Demographia 2016年10月29日閲覧。
  3. ^ ASEAN概況”. 外務省 (2019 年10月7日). 2020年3月3日閲覧。
  4. ^ 東京都姉妹友好都市 ジャカルタ特別市
  5. ^ M.C.Ricklefs, 1993, p.30-31.
  6. ^ 「世界の歴史 第13巻 アジアの多島海」pp249 - 251 永積昭 講談社 昭和52年11月20日第1刷
  7. ^ M.C.Ricklefs, 1993, p.202.
  8. ^ 「事典東南アジア-風土・生態・環境」p464 平成9年3月15日初版第1刷 弘文堂
  9. ^ インドネシア、首都移転へ ジャワ島外が候補
  10. ^ インドネシア首都移転へ 交通渋滞、洪水被害を問題視
  11. ^ Joko Widodo氏のツイート(2019年8月8日)”. 2019年8月10日閲覧。
  12. ^ 東カリマンタンへの首都移転、2024年中に開始”. JETRO (2019年9月3日). 2021年9月6日閲覧。
  13. ^ 首都移転には15~20年必要=バペナス長官”. NNA (2021年9月7日). 2021年9月6日閲覧。
  14. ^ ニューズウィーク2023年1月17日, p. 63.
  15. ^ インドネシア議会、首都移転法案を可決 新首都は「ヌサンタラ」1/18(火) 18:25配信 - ロイター
  16. ^ インドネシア新首都、ヌサンタラ 政府が方針、「群島」を意味:中日新聞Web”. 中日新聞Web. 2022年1月17日閲覧。
  17. ^ World Weather Information Service – Jakarta”. World Meteorological Organization (June 2011). March 9, 2013閲覧。
  18. ^ Indonesien - Jakarta, Java” (Danish). Climate Data for Selected Stations (1931-1960). Danish Meteorological Institute. p. 128. March 9, 2013閲覧。
  19. ^ a b Jakarta in Figures. Statistics DKI Jakarta Provincial Office, Jakarta. (2008) 
  20. ^ Key to Jakarta's floods: Basin flood management”. The Jakarta Post (22 March 2008). 14 March 2011閲覧。
  21. ^ Asian News”. Asiaviews. 27 April 2010閲覧。
  22. ^ 1996 2007 Global Register of Major Flood Events”. Dartmouth Flood Observatory. Dartmouth College. 2012年8月12日閲覧。
  23. ^ Asia”. Bloomberg (4 February 2007). 27 April 2010閲覧。
  24. ^ Three killed, 90,000 evacuated in Jakarta floods: officials – Yahoo! News[リンク切れ]
  25. ^ Disease fears as floods ravage Jakarta(2007年2月6日時点のアーカイブ
  26. ^ Jakarta Flood Feb 2007 « (Geo) Information for All(2007年6月2日時点のアーカイブ
  27. ^ 2007 Global Register of Major Flood Events, Dartmouth Flood Observatory, 1 May 2008
  28. ^ http://www.thejakartapost.com/news/2011/07/27/dutch-study-new-dike-jakarta-bay.html
  29. ^ “Jakarta holds historic election”. BBC News (BBC). (8 August 2007). http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia-pacific/6936276.stm 
  30. ^ a b c d 2010年国勢調査速報(PDF)
  31. ^ Central Jakarta Profile”. The City Jakarta Administration. Jakarta.go.id. 2009年9月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年12月19日閲覧。
  32. ^ North Jakarta Profile”. The City Jakarta Administration. Jakarta.go.id. 2009年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年12月19日閲覧。
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  34. ^ a b East Jakarta Profile”. The City Jakarta Administration. Jakarta.go.id. 2009年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年12月19日閲覧。
  35. ^ "Thousand Island" Profile”. The City Jakarta Administration. Jakarta.go.id. 2009年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年12月19日閲覧。
  36. ^ "After census city plans for 9.5 million". Jakarta Pos
  37. ^ BRT – CASE STUDY 5 – Annex 5 Case Studies and Lessons – Module 2: Bus Rapid Transit (BRT): Toolkit for Feasibility Studies. Sti-india-uttoolkit.adb.org. Retrieved 12 June 2011.
  38. ^ “Ahok confirms cancellation of monorail project”. The Jakarta Post (Jakarta). (10 September 2015). http://www.thejakartapost.com/news/2015/09/10/ahok-confirms-cancellation-monorail-project.html 21 September 2015閲覧。 
  39. ^ a b c d 交通新聞2008年7月14日第4面
  40. ^ Stadt Berlin: Städtepartnerschaften von Jakarta
  41. ^ https://gogen-yurai.jp/jyagaimo/
  42. ^ a b 柑橘歴史散歩・文旦とザボン”. 愛媛県農林水産研究所. 2021年2月18日閲覧。

参考文献

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  • “インドネシア「新首都」への通り道のり”. ニューズウィーク日本版(2023年1月17日号). CCCメディアハウス. (2023-1-17). 

関連文献

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  • Taylor, J.G., The Social World of Batavia - European and Eurasian in Dutch Asia, The University of Eisconsin Press, 1983
  • Ricklefs, M.C., A History of Modern Indonesia since c.1300 2nd edition, Stanford University Press, 1993

関連項目

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外部リンク

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