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シハーム・シュライテフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Siham Shraiteh

シハーム・シュライテフ
生誕 シハーム・シュライテフ
レバノンの旗 レバノン
失踪 1978年失踪(21歳)
レバノンの旗 レバノン ベイルート
国籍 レバノンの旗 レバノン
配偶者 ジェリー・パリッシュ(夫)
子供 ナヒ(長男)
マイケル(次男)
リッキー(三男)
ムントハ・シャハディ・ハイダール(母)
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シハーム・シュライテフ (Siham Shraiteh; 1956年または1957年- ) は、1978年7月にレバノン共和国の首都ベイルートで起こった拉致事件レバノン人女性拉致事件)の被害者[1]。「日本で仕事がある」といわれて騙され、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に連行された[2]ムスリマ(イスラム教徒)。拉致時点での年齢は21歳。いったん救出されたがイスラームの教えにしたがって北朝鮮に戻り、アメリカ人脱走兵のジェリー・パリッシュの妻となって3人の子を育てた[2]

拉致事件

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1978年夏、キリスト教女子青年会(YWCA)秘書学院に2人の東洋人が訪れた[1]。2人は、日本日立製作所の関係者であると名乗り、「容姿端麗で未婚、フランス語ができる女性」を秘書として募集している旨を告げ、現地の女性に応募を呼びかけた[3][4][注釈 1]。そして応募の結果採用が決まった女性4人を目的地であるはずの日本ではなく、ユーゴスラビアベオグラード経由で北朝鮮に拉致した[1][3][4][5]

女性達は主体思想に基づいたスパイ教育を受け続けており、約束が違うと再三にわたって帰国を要求したが断られた[3][6][注釈 2]。彼女たちは北朝鮮はどうしても自分たちを工作員に養成しようとしていることに気づき、従順な姿勢をとるようにした[3]。一方、日本に到着して連絡をくれるはずの女性たちからいつまで経っても連絡がないので、家族たちが異変に気づいた[5]1979年4月、4人のうちの2人がベオグラードに送られ、家族に電話をかけさせられ「元気で暮らしているから心配しないで欲しい」と告げるよう強制された[3][5]。ベオグラードからの電話に不穏なものを感じたシハームの母親はイタリア警察に相談したという[7]

女性たちは1979年夏までに何度か工作活動の練習として海外に派遣されることがあった[8]。サミア・カブラとナイマ・カシルの2人はこの機会を逃さず、同年8月、ベオグラードのホテルで「美容室に行きたい」と願い出て許され、そのまま市内のレバノン大使館に逃げ込んで保護された[6][8]。この2人は脱出に成功した[1][5]。これにより、女性たちが北朝鮮によって拉致されていたことが明らかになった[8]

彼女たちの証言により拉致事件が発覚し、捜査が開始された[5][8]。その結果、最初にYWCAを訪れた東洋人2名は実は北朝鮮工作員であり、レバノン国内に協力者がいることも明らかになった[5][8]。レバノン国内では連日、「エル・ナハル」("EL NAHAR")紙などにより事件の報道がなされ、世論が後押しして政府を動かした[8]。レバノン政府は北朝鮮に対して強硬に抗議し、国交断絶を宣言した[8]。また、女性返還に応じなければ武力による攻撃も辞さないと北朝鮮側に圧力をかけた[8]。これに対し北朝鮮当局は残りの女性2人、ハイファ・スカフとシハーム・シュライテフを1979年11月に解放し、彼女たちは極秘手段で無事にベイルートに帰還した[1][5][8]。しかし、シハーム・シュライテフはアメリカ人脱走兵のジェリー・パリッシュと結婚しており、妊娠していた[1][5][9][10]妊娠中絶はイスラームの教義に反しているので、彼女は仕方なく再び北朝鮮に戻り、夫のパリッシュとともにチャールズ・ジェンキンス曽我ひとみ夫婦らと同じアパートで暮らした[1]

北朝鮮での生活

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チャールズ・ジェンキンスは自伝の中で、シハームと他の3人の若いレバノン人女性は騙されて北朝鮮に連れてこられた事件の被害者であり、うち1人は、レバノン政府の有力者を両親に持っていたので、4人ともいったんはレバノンに帰されたのだと証言している[9]。正確には、うち2人はベオグラードで脱出に成功し、シハームを含む残る2人も帰されたのであった[1][5]。ただし、シハームだけはイスラム教徒だったので、家族はその教えにしたがい北朝鮮に送り返したという[9]。母ハイダールにとってシハームは一人娘であったが、北朝鮮という国がどういう国家であるかの認識に乏しく、韓国とほぼ同じようなものだと考えており、また、娘が北朝鮮の人権状況や暮らしぶりを知っていたら送り返すようなことはしなかったと後悔した[7]。シハームはまた、パリッシュが北朝鮮で自分を守ってくれた人だとも母親に伝えていた[7]

シハームはジェリー・パリッシュとのあいだに3人の息子をもうけた[11]1980年4月生まれのナヒ、1981年8月生まれのマイケル、1986年春に生まれたリッキーである[11][注釈 3]1984年11月、立石里に米国人用のアパートが完成し、4世帯がそこに入居した。ジェームズ・ドレスノクドイナ・ブンベアの夫婦、ジェンキンスと曽我ひとみの夫婦も同じころ子どもができていたので、アパートはさながら幼稚園の様相を呈したという[11]ラリー・アブシャーの未亡人となったタイ人アノーチャ・パンジョイの棟の1室が子どもたちの遊び場となり、アノーチャが子どもたちのおばさんのような役目をになった[11][注釈 4]。3家族の子どもたちはみな互いにたいへん仲が良かったという[11]

ジェンキンスはまた、ヨーロッパで拉致され、夫婦となっていた石岡亨有本恵子を平壌市内で目撃したことを、手記に記している[14]。それによれば、目撃したのは1986年のある日で、場所は外貨専門の楽園百貨店、ジェンキンス・ひとみ夫妻とパリッシュ・シハーム夫妻の4人で買い物に来ていた[14]。シハーム・シュライテフと有本恵子は病院での出産以来の知り合いのようにみえたという[14]

ジェンキンスによれば、シハームは数年に一度里帰りが許される特別待遇を受け、数週間の間、レバノンかイタリアに住む母親のもとへ帰ることができ、母からの仕送りや手紙を受け取ることもできた[9][11]。パリッシュ夫妻はそのため、自分の家族は他の4家族よりも身分が上であるように振舞うことがあったという[9][11][注釈 5]

夫のジェリー・パリッシュは1998年に死去した[15]。シハームの母ハイダールは2005年12月、日本を訪れ、東京および大阪で開かれた「家族会」「救う会」、「拉致議連」主催の国民大集会に参加して娘の解放を訴え、第3次小泉改造内閣麻生太郎外務大臣、安倍晋三内閣官房長官とも面談した[5][7]

脚注

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注釈

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  1. ^ 石高の調査によれば、月給は1,300米ドル(レバノン国内報道では1,500米ドル)で3年契約、彼女たちはパスポートと前金として3.000米ドルを受け取ったという[3]。パスポートは北朝鮮到着後に没収された[5]
  2. ^ スパイ・キャンプには、フランス人3人、イタリア人3人、オランダ人2人を含む中東・欧州出身の若い女性28人が集められ、柔道テコンドー空手盗聴技術などの指導がほどこされていたという[2][5]
  3. ^ 「救う会」が2010年に入手した平壌市民200万人の2004年発給のデータのなかに、シハームが掲載されており、民族欄には「レバノン」とある[12]。ナヒ・パリッシュ、マイケル・パリッシュの名もあり、米国人と記載されているが、リッキーの名がなかった[12]。なお、このデータには横田めぐみ曽我ひとみの名が記載されていることでも注目されている[12]
  4. ^ アノーチャは1989年4月、ドイツ人と再婚するために立石里のアパートを離れた[13]
  5. ^ シハームに反感を感じたジェンキンスたちは、彼女のことを皮肉をこめて「人民班長(インミンパンジャン)」と呼んだという[11]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 救う会TV第9回「金正日の拉致指令-1978年に起きた世界規模の拉致」”. 救う会全国協議会ニュース. 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 (2020年6月5日). 2022年4月15日閲覧。
  2. ^ a b c 島田洋一救う会副会長の米議会下院公聴会への提出文書(日本語訳)”. 救う会全国協議会ニュース. 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 (2006年6月5日). 2022年4月15日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 石高(1997)pp.124-126
  4. ^ a b 高世(2002)pp.198-200
  5. ^ a b c d e f g h i j k l フランス人、イタリア人、オランダ人拉致被害者に関する有力情報”. 救う会全国協議会ニュース. 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 (2006年3月10日). 2022年4月15日閲覧。
  6. ^ a b 高世(2002)pp.200-203
  7. ^ a b c d ムントハ・シャハディ・ハイダール 日本で仕事が-娘の夢に付け入った北朝鮮”. 国際会議「北朝鮮による国際的拉致の全貌と解決策」全記録. 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 (2006年3月11日). 2022年4月15日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i 石高(1997)pp.126-129
  9. ^ a b c d e ジェンキンス(2006)pp.111-113
  10. ^ ジェンキンス(2006)pp.292-298
  11. ^ a b c d e f g h ジェンキンス(2006)pp.163-168
  12. ^ a b c 救う会が入手していた平壌市民データについて”. 救う会全国協議会ニュース. 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 (2011年11月17日). 2022年4月15日閲覧。
  13. ^ ジェンキンス(2006)p.177
  14. ^ a b c ジェンキンス(2006)pp.168-171
  15. ^ ジェンキンス(2006)p.200

参考文献 

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  • 石高健次『これでもシラを切るのか北朝鮮―日本人拉致 続々届く「生存の証」』光文社カッパブックス〉、1997年11月。ISBN 978-4334006068 
  • 高世仁『拉致 北朝鮮の国家犯罪』講談社講談社文庫〉、2002年9月(原著1999年)。ISBN 4-06-273552-0 
  • 崔銀姫申相玉 著、池田菊敏 訳『闇からの谺(こだま) - 北朝鮮の内幕(上)』文藝春秋文春文庫〉、1989年3月(原著1988年)。ISBN 4-16-716202-4 
  • チャールズ・ジェンキンス『告白』角川書店角川文庫〉、2006年9月(原著2005年)。ISBN 978-4042962014 

関連項目

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外部リンク

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