ザクセン=コーブルク=コハーリ家
ザクセン=コーブルク=コハーリ 家 | |
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国 |
ハプスブルク君主国 ポルトガル王国 ブラジル帝国 ブルガリア王国 |
主家 |
ザクセン=コーブルク=ゴータ家 (男系) コハーリ家 (女系) |
当主称号 |
ザクセン=コーブルク=ゴータ公子 ポルトガル及びアルガルヴェ国王 (1837年–1910年) ブルガリア公 (1887年–1908年) ブルガリア国王 (1908年–1946年) |
創設 | 1826年 |
家祖 |
ザクセン=コーブルク=ゴータ公子フェルディナント と コハーリ・ド・チャーブラーグ・エ・シトニャ公女マーリア |
民族 | ドイツ人、オーストリア人、ハンガリー人 |
分家 |
ブラガンサ=コブルゴ家 サクスコブルクゴツキ家 |
ザクセン=コーブルク=コハーリ家 (Sachsen-Coburg-Koháry)は、 ドイツ中部にあったザクセン=コーブルク=ゴータ公国の君主の家系であるザクセン=コーブルク=ゴータ家のカトリック系の分家で、ザクセン=コーブルク=ゴータ公子フェルディナントとコハーリ・ド・チャーブラーグ・エ・シトニャ公女マーリアが結婚したことにより始まった。同家からは、最後のポルトガル国王3代(ルイス1世、カルロス1世、マヌエル2世)並びにブルガリア国王3代(フェルディナント、ボリス3世、シメオン2世)が出ている。
歴史
[編集]1816年1月にザクセン=コーブルク=ゴータ公子フェルディナントとコハーリ・マーリア・アントーニアが結婚し[1]、1826年に妻の父親であるコハーリ・ド・チャーブラーグ・エ・シトニャ公ヨージェフが没すると、フェルディナント公子は妻の実家であるハンガリー、コハーリ家 (ハンガリー語版) の爵位と領地を相続してローマ・カトリックに改宗した。その傍系子孫はブラジル皇女、オーストリア大公女、"フランス人の"王女、ベルギー王女及びザクセン公女と巧みに結婚した。その子孫 (wikitionary) フェルディナントは、新生ブルガリアの公(クニャズ)、後に国王(ツァール)に即位し、その一族は1946年まで同国を統治した。現ブルガリア王家の当主で、最後のブルガリア国王シメオン2世は第二次世界大戦後の廃位 (英語版) と亡命を経て シメオン・サクスコブルクゴツキ の名で帰国し、2001年から2005年までブルガリアの首相を務めた。
フェルディナント公子、マーリア公女夫妻は以下の4人の子を儲け、いずれもカトリックで育てた。
- フェルナンド2世 (1816年 - 1885年) - ポルトガル女王マリア2世の王配。
- アウグスト (1818年 - 1881年) - ブルガリア国王フェルディナントの父。
- ヴィクトリア (1822年 - 1857年) - ヌムール公ルイと結婚。
- レオポルト (独語版) (1824年 - 1884年)
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コハーリ・ド・チャーブラーグ・エ・シトニャ女公マーリア(1797年–1862年)
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ザクセン=コーブルク=ゴータ公子フェルディナント (1785年–1851年)
分家
[編集]ブラガンサ=コブルゴ家
[編集]ブラガンサ=コブルゴ家ないしブラガンサ=サクセ=コブルゴ・イ・ゴータ家は、ザクセン=コーブルク=コハーリ家の分枝にあたる。この家系は、1836年4月9日にフェルディナント公子(後のフェルナンド2世)がブラガンサ家のポルトガル女王マリア2世の王配になったことにより始まる。
コハーリ公家
[編集]フェルディナント公子は、義父であるコハーリ・ド・チャーブラーグ・エ・シトニャ公ヨージェフの死を受けて2つの信託遺贈地にあった家の財産を再編して自身と信託遺贈の受益者たるその後継者のために「公爵」の称号を用いた[2] 。1851年にフェルディナントが、1862年にその妻のマーリアが没すると次男のアウグストが家長となった。長男のフェルディナントはマリア2世と結婚したことにより継承権を放棄しなければならなかったからである [3]。アウグストの後はその長男であるフィリップ (1844年–1921年)が家長となった。フィリップの唯一の息子であるレオポルトが父に先立って没したことにより、甥アウグスト・レオポルトが1921年に財産を相続した。コハーリ公家の信託遺贈地はアウグスト・レオポルトの次男ライナーの代の1938年に廃された。公爵位はフィリップからアウグスト・レオポルトの兄ペーター・アウグスト、さらにライナー、そしてその長男ヨハネス・ハインリヒに受け継がれた。2010年のヨハネス・ハインリヒの死により、アウグストの継承権を有する男系男子は途絶え、ブルガリア王室のシメオン2世に継承された。2012年、シメオン2世は姉マリヤ・ルイザ王女にコハーリ公爵位を譲り、これによりコハーリ家の家督と爵位は分離することになった。
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アウグスト公の息子達。
ブラジル帝室
[編集]アウグスト公とクレマンティーヌ・ドルレアン の次男であるルートヴィヒ・アウグストは1864年12月15日にリオデジャネイロにてブラジル皇女レオポルディーナと結婚した。1889年にブラジル帝国が崩壊すると、一族はヨーロッパに戻った。両夫妻の長男ペーター・アウグストが1921年にコハーリ公家の家長となった。
ブルガリア王室
[編集]アウグスト公とクレマンティーヌの末子であるフェルディナントは1887年にブルガリア公、1908年にブルガリア国王になった。現ブルガリア王室は彼の子孫であり、2010年から2012年までシメオン2世はコハーリ公家の家長となった。
財産と宮殿
[編集]信託遺贈地
[編集]コハーリ女公マーリアは、150000 ヘクタール以上にも及ぶ、所用地、森林、鉱山、工場をも含む下オーストリア、ハンガリー、スロバキアの地を相続した。1843年に彼女の息子であるアウグストがクレマンティーヌと婚姻を結んだ際の財産目録に従うとするならば、コハーリ公家の財産には、ウィーンの中心にある巨大なコハーリ家の宮殿 並びに同都市の幾つかの邸宅、下オーストリアのエーベンタール市における夏の家と土地、ヴェルム、デュルンクルト、 Walterskirchen、Bohmischdrut、Althofleinにおけるオーストリアの所有地、同じくハンガリーにおける多数の邸宅、Kiralytiaにおける領地、ペシュトにおける大邸宅が含まれていた[4]。 1868年にマーリア女公の孫にあたるアランソン公フェルディナン・ドルレアンが結婚した時には、彼とその3人の兄弟姉妹は母方の祖母の所有地を分割することで総額100万フランを相続したと見積もられる[4]。
義父であるコハーリ公ヨージェフ没後にフェルディナント公子は、2つの信託遺贈地にあった家の財産を再編して自身と信託遺贈の受益者たるその後継者のために「公爵」の称号を用いた[2]。第一次世界大戦までザクセン=コーブルク=ゴータ家のコハーリ公家はハンガリーにおける三大地主の一つであった。
- コーブルク公子供フェルディナント信託遺贈地
- コハーリ伯信託遺贈地
から成る2つの信託遺贈地がコハーリ公家を、一族全体が有することによって財産を得ることを可能とした。ただし、信託遺贈地を経営することが出来たのは 受益者たる家長のみであった。貴族一門は、家長たる一家の代表者が財産の遣り繰りをさせ且つ宮殿、城址を維持し、個々の財産のない一族の者への手当を支給させるためにこの遣り方を利用した。 1938年のアンシュルスにより信託遺贈地は廃された。
宮殿
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今日ではホテルになっているコーブルク宮殿。
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今日では博物館になっているスロバキアの聖アントニウス宮殿。
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今日では個人が所有するところの下オーストリアのエーベンタール市にある宮殿。
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コハーリ公家が未だに所有するポイスドルフ付近のWalterskirchen城。
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今日では自治体のシティーホールになっているデュルンクルトの宮殿。
埋葬地
[編集]1851年にアウグスト公子を長とする委員会はコーブルクにて地下納骨堂付のカトリックの教会を建設する計画を練った。聖アウグスチノ教会は1860年8月28日に落成した。地下室には15人のコハーリ公家の遺骸が安置されている。
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コーブルクにある聖アウグスチノ教会。
系図
[編集]エルネスティン家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナント | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポルトガル王 フェルナンド2世 | アウグスト | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポルトガル王 ペドロ5世 | ポルトガル王 ルイス1世 | コハーリ公 フィリップ | アウグスト | ブルガリア王 フェルディナント | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポルトガル王 カルロス1世 | コハーリ公世継子 レオポルド | ブラジル帝位請求者 ペーター・アウグスト | コハーリ公 アウグスト・レオポルト | ブルガリア王 ボリス3世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポルトガル王太子 ルイス・フィリペ | ポルトガル王 マヌエル2世 | コハーリ公 ライナー | コハーリ公 マリヤ・ルイザ | ブルガリア王・首相 シメオン2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
コハーリ公 ヨハネス・ハインリヒ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ http://www.kuk-wehrmacht.de/biograph/b0003scsk.html
- ^ a b August Wilpert, Bayerische Bibliographie .Kurze Geschichte der katholischen, sog. "Koháry"-Linie des Herzoglichen Hauses Sachsen-Coburg und Gotha, http://gateway-bayern.de/BV014584282 Page 4
- ^ https://www.deutsche-digitale-bibliothek.de/item/3YXRN32VPUYFVRDXFMVAJQO6PUFLC2QL
- ^ a b Paoli, Dominique (2006). Fortunes & Infortunes des Princes d'Orléans. France: Editions Artena. pp. 107, 113, 372. ISBN 2-35154-004-2