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コミック&コミック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コミック&コミック』は、かつて徳間書店から発行されていた成人向け劇画雑誌[1][2][3][4]アサヒ芸能の別冊で、表紙は『別冊アサヒ芸能 コミック&コミック』と記載されていた[1]

概要

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1973年5月30日[3][5]、1973年6月13日号として第一弾を刊行[1][4][5] 。以降、基本、月2回の水曜日刊行[5]1974年9月4日号で休刊[4]

創刊経緯

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1960年代の映画斜陽の影響等で、映画製作配給部門への依存度が高かった大映日活が事実上脱落したことから[6][7]、その二社に似た体質を持つ東映の当時の岡田茂社長が映画部門以外から利益を出そうと1972年6月に映画会社で初めて事業部制を敷き[3][8][9][10]サラ金[11]パチンコ屋[11]進学塾[9]葬儀屋[12]ラーメン店など[13]、社員に色々やらせた[9]。岡田自身が新規事業として一番意欲的だったのが出版事業[3]、1973年2月1日に設置したテレビ関連事業室に[3][14]、最初にやらせたのが黒崎出版との提携と1973年2月の『テレビランド』の創刊で[3][5]、『テレビランド』に次いで岡田と徳間書店社長・徳間康快とで企画したのが『コミック&コミック』であった[2][3][5]。岡田と徳間が構想したのが、映画監督劇画家を組ませた映画作品を映画化するというもので[5][15]、創刊号に掲載された主要8作品のうち、3作品が東映の監督原作によるものだった(中島貞夫はフリー)[1]。東映は1960年代以降、岡田の指揮下で[5]エロ暴力を前面に押し出した"不良性感度路線"を突き進み、特異なエネルギーを放っていたが[5]、当時最も熱気があった劇画と東映映画の二つのサブカルチャーを強引に結びつける力業で創刊された雑誌は読書にも歓迎され二十数万部を記録した[3][5]。映画と劇画を平然と往復しようとする大胆な感覚は、以降のスマートなメディアミックスを先取りしており野心的であった[5][16]。1972年8月より梶芽衣子主演・伊藤俊也監督で篠原とおる作の劇画「女囚さそりシリーズ」が成功したことで、劇画を新しい映画の原作供給源と理解していた[5]

岡田と徳間は『コミック&コミック』創刊と同じ1973年に『山口組三代目』の原作となる田岡一雄の自伝を『アサヒ芸能』に連載したり[17][18][19]大映を再建中の徳間を岡田が支援するなど[20]、もともと仲がよかったといわれ、ビジネス上の付き合いも深めていた[20]。徳間は岡田を"刎頸の友"と表現していた[7]

鈴木敏夫は『アサヒ芸能』の特集部に配属の後[21]、この『コミック&コミック』編集部を経て[5][22][23]、『テレビランド』編集部に自ら志願して加わり[22][24]、その後『アニメージュ』編集部に移った[22]。鈴木は「『コミック&コミック』でキャッチコピーを学んだ。漫画編集の仕事をしながら、知らぬ間に宣伝のやり方を学んだ」と話している[23]大塚英志は「東映の気難しい監督たちと若手劇画家を繋ぐ調整役は胃が痛くなる思いだったのではないか」と指摘している[5]。また「『劇画』『漫画』と『映画』『アニメーション』の間の障害はこの国で低いと誰も感じているはずだ。岡田茂と徳間康快という二人の怪物による『コミック&コミック』の近さは、やはり『ナウシカ』における『まんが』から『映画』への近さの問題と地続きだと思える。『まんが』の読み手も創り手も『まんが』や『映画』を『アニメーション』に脳内で置き換えることにこの国の人々は困難さを感じない。その『劇画』と『映画』の境界の上で雑誌を作ろうと考えた『コミック&コミック』はメディアミックスの語では表現できない二つのジャンルの『近さ』をやはり象徴する雑誌だったように思う。『ナウシカ』がまんがからアニメという道を自然に歩むことになる一つの前史がやはり『コミック&コミック』に見出すことができる気がしてならない」と論じている[25]

組合色が強かったことが災いしたとされ[25]1974年9月4日号で告知なく休刊した[25]。スタッフは『アサヒ芸能』や『テレビランド』などに散らばった[22][24][25]

掲載作品

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その他特徴

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一頁目は必ず外国人女性のヌードピンナップ[1]。他に飲食や映画、ショッピングなどのガイド・コミコミマルチガイドと、東映と徳間書店のタイアップ雑誌らしい東映スター(菅原文太梅宮辰夫千葉真一梶芽衣子ほか)サイン入り色紙、東映撮影所見学招待(東京京都)、東映映画無料招待、東映直営ボウリング場同伴招待、徳間と関係の深い五木ひろし最新アルバム(LP)、徳間音工に所属していた森昌子セカンドアルバム(LP)などが当たる懸賞があった[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 「目次他」『コミック&コミック』1973年6月13日号、徳間書店、1、90–93頁。 
  2. ^ a b クロニクル東映 1991, pp. 52–59.
  3. ^ a b c d e f g h 岡田茂(代表取締役社長)・福中脩(国際部長代理)・布施建(教育映画部企画部長)・矢沢昭夫(人事部次長)・今井均(宣伝部宣伝課長代理)・青木洋一(コンピューター部課長代理)「―今月のことば― "東映NN計画"(東映全国事業網拡大計画)/東映NN計画 "おはようございます"社長」『社内報とうえい』1973年2月号 No.172、東映株式会社、2-11頁。 渡邊亮徳 (取締役テレビ事業部兼テレビ企画営業部長、テレビ関連事業室長)・飯島敬(テレビ関連事業室課長)・泊懋(テレビ企画営業部次長)・渡辺洋一(テレビ企画営業部次長兼テレビ関連事業室次長)「テレビ事業部" もーれつでいこう"」『社内報とうえい』1973年2月号 No.172、東映株式会社、12-16頁。 「《東映グループの動き》 五月三〇日に創刊した劇画雑誌『コミック&コミック』(前号既報)の売れ行きについて―」『社内報とうえい』1973年6月号 No.176、東映株式会社、12頁。 
  4. ^ a b c コミック & コミック”. 国立国会図書館サーチ (2016年9月18日). 2019年7月17日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 二階の住人 2016, pp. 80–83.
  6. ^ 高木教典/初山有恒「自壊の中の日本映画・その2 『腐敗映画を生む経済機構―五社"転落"の過程』/自壊の中の日本映画・その3 『エロとヤクザと観客 ―東映独走のかげに』」『朝日ジャーナル』1969年3月30日号、朝日新聞社、17 - 26頁。 「映画界東西南北談議情報 日本映画界の沈滞を破る独立プロの活躍」『映画時報』1969年4月号、映画時報社、29 - 31頁。 「邦画五社の下半期業績展望」『映画時報』1969年6月号、映画時報社、28 - 29頁。 “脱映画へまっしぐら〉上〈映画各社の現状まずボウリング資産を生かし多角経営”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 8. (1971年11月8日) 「東映・岡田茂会長インタビュー 『儂に残された仕事はこれなんだよ』」『映画時報』1994年7月号、映画時報社、27頁。 朝日新聞「ウイークエンド経済」編集部 編「時代の流れについていく感覚とは義理と人情東映会長岡田茂」『私の「経営」説法 ―ビジネス戦記 8人のトップが語る「マネジメントの要諦」』プレジデント社、1995年、47-48頁。ISBN 4833415917 金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9 NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した(Internet Archive)
  7. ^ a b 河合基吉「五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終」『経済界』1980年3月21日号、経済界、18 - 21頁。 
  8. ^ クロニクル東映2 1992, pp. 52.
  9. ^ a b c 映画界のドン 2016, pp. 12-36、74-81.
  10. ^ “東映機構改革と大巾人事異動 本部制から事業部制への移行”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 4. (1972年6月17日) 「匿名座談会 ヘンシンを余儀なくされる映画産業の構造 ゴルフ場経営まで 総合レジャー産業に発展 儲かるものなら何でもの岡田方式 映像中心にあらゆる職種に進出」『映画時報』1972年11月号、映画時報社、7 - 9頁。 「警戒警報の諸問題 安定ムードのなかの危機 邦画界の最新情報 岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映」『映画時報』1973年10月号、映画時報社、16頁。 「東映にできた『何でもやる課』」『週刊新潮』1972年6月3日号、新潮社、13頁。 「警戒警報の諸問題 安定ムードのなかの危機 邦画界の最新情報 岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映」『映画時報』1973年10月号、映画時報社、16頁。 沿革”. 東映. 2019年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月18日閲覧。数字で見る東映”. 東映. 2019年7月17日閲覧。
  11. ^ a b 「東映直営『四百台勢ぞろい』 新潟パチンコ店」『週刊新潮』1972年11月25日号、新潮社、15頁。 
  12. ^ クロニクル東映 1991, pp. 152–59.
  13. ^ 「NEWS MAKERS 東映が清純派路線をうちだした背景」『週刊ポスト』1973年8月17日号、小学館、44頁。 
  14. ^ “東映傍系にKKタバック設立 テレビ事業部新設室と人事”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 4. (1973年2月10日) 
  15. ^ a b 東映ゲリラ戦記 2012, pp. 129–135.
  16. ^ 浪漫アルバム 1999, pp. 247.
  17. ^ 三流週刊誌 2006, pp. 134.
  18. ^ 波瀾万丈の映画人生 2004, pp. 220–227.
  19. ^ 新橋アンダーグラウンド 2017, pp. 129.
  20. ^ a b “馬場正男と撮影所・京都カツドウ屋60年:/169 再生の徳間ラッパ”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 5. (2018年6月5日). オリジナルの2018年6月7日時点におけるアーカイブ。. https://archive.fo/mGpZ3 2019年7月17日閲覧。 『徳間康快追悼集』「徳間康快追悼集」編纂委員会、2001年、82-83頁。 針木康雄「東映会長・岡田茂 メディアミックス時代の名プロデューサー『もののけ姫』の生みの親 徳間康快氏の死を悼む」『月刊BOSS』、経営塾、2000年11月号、56-57頁。 金澤誠『徳間康快』文化通信社、2010年、46頁。 室井実「スタジオジブリを創った男 徳間康快伝」『月刊経営塾(現・月刊BOSS)』、経営塾、2011年10月号、108-109頁。 「映画界東西南北談議 スターと体制着々進行の"新大映"」『映画時報』1974年6月号、映画時報社、32-33頁。 
  21. ^ 三流週刊誌 2006, pp. 297–298.
  22. ^ a b c d 三流週刊誌 2006, pp. 295–298.
  23. ^ a b 鈴木敏夫『人生は単なる空騒ぎ―言葉の魔法―』角川書店、2017年、59頁。ISBN 9784041061886 湯婆婆が“人生&恋愛の悩み”に助言をくれる!「鈴木敏夫とジブリ展」
  24. ^ a b あの旗を撃て 2004, pp. 12–19.
  25. ^ a b c d 二階の住人 2016, pp. 85–86.

参考文献

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