ケン・モッカ
ブルワーズ監督時代(写真中央・2009年) | |
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ペンシルベニア州アレゲーニー郡 |
生年月日 | 1950年9月29日(74歳) |
身長 体重 |
6' 2" =約188 cm 217 lb =約98.4 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手 |
プロ入り | 1972年 MLBドラフト6巡目 |
初出場 |
MLB / 1974年9月14日 NPB / 1982年4月4日 |
最終出場 |
MLB / 1981年9月30日 NPB / 1985年9月19日(引退試合) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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ケネス・エドワード・モッカ(Kenneth Edward "Ken" Macha , 1950年9月29日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身の元プロ野球選手、監督。
実際の発音は「モッカ」というよりは「マッカ」だが、「真っ赤」と読まれるのを嫌った球団が本人の同意のもとで「モッカ」と登録[1]。現在でも日本のマスコミはこの表記を用いて報道している。
アメリカ野球殿堂入りを果たしているハル・ニューハウザーは「おじ」にあたる。
経歴
[編集]MLB時代
[編集]ピッツバーグ大学より1972年のMLBドラフト6巡目でピッツバーグ・パイレーツに指名され契約。1974年9月14日にメジャーデビュー。その後、カナダに本拠地を置くモントリオール・エクスポズ、トロント・ブルージェイズの両球団でプレーした。
中日時代
[編集]1981年12月11日に中日ドラゴンズに入団することが発表された[2]。中日在籍4年間は3番・三塁手として活躍。三塁守備は失策の多さと守備範囲の狭さから不安定だったものの、打撃では3割を超える打率を3回残し、円熟期の田尾安志・平野謙・谷沢健一・大島康徳・宇野勝・中尾孝義らとともに、強竜打線と呼ばれる打線の一員として活躍する。中日時代の応援歌は「ミッキーマウス・マーチ」だった[3]。
1982年中日優勝の立役者の一人であり、シーズン終盤の読売ジャイアンツとの壮絶なデッドヒートの最中には、中日ナインに「最後まで絶対にあきらめるな」と激励し続けた。1984年にはキャリア最多の31本塁打、93打点を記録する[4]。
1985年も打撃は好調だったが、高齢による更なる守備の衰えもあり、前年入団の藤王康晴をレギュラーとして育成したかったチームの方針により、球団から戦力外通告を受ける。モッカもこれを受け入れ、同時に「最後(9月19日)の巨人戦まで置いてくれ」とフロントに懇願。この日がモッカの引退試合となり、最終打席は西本聖の前に三ゴロに倒れた。試合後は選手から胴上げされ、チームメイトにはユニークなプレゼントを贈った[5][6]。
アメリカへ帰国後、1987年に古巣エクスポズのコーチに就任し、1992年からはカリフォルニア・エンゼルスに移籍。1995年から1998年はボストン・レッドソックス傘下のマイナーリーグ2A、3Aで監督を務める。1999年にパイレーツ時代のチームメイト、アート・ハウ監督の下、オークランド・アスレチックスのベンチコーチに就任。ハウがニューヨーク・メッツの監督に転じた2003年にはアスレチックスの監督に昇格した。3年契約終了後の2005年のオフシーズンには再契約が難航し一時は退団が発表されるが、その後契約合意がなされた。
2006年はアメリカンリーグ西地区で優勝したが、リーグチャンピオンシップシリーズでデトロイト・タイガースに敗れ解任された[7]。この影響で、同年の日米野球ではMLBチームの指揮を執ることが予定されていたが、レッドソックスのテリー・フランコーナ監督に代わると発表された[8][注 1]。
2003年にも東京ドームで予定されていたシアトル・マリナーズとのMLB開幕戦がイラク情勢の悪化で中止となってしまったため、結局監督として来日(凱旋)する機会を2回も失ってしまうこととなった。
2009年からミルウォーキー・ブルワーズ監督を務めたが、2010年シーズン終了後に解任されている。現在は地元の公立大学ウエストモーランド・コミュニティー・カレッジの野球部でコーチを務めている。
モッカは2021年6月12日にBS1で放送された『ワースポ×MLB』に出演し、日本でプレーした時代を振り返った[10]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1974 | PIT | 5 | 5 | 5 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .600 | .600 | .800 | 1.400 |
1977 | 35 | 101 | 95 | 2 | 26 | 4 | 0 | 0 | 30 | 11 | 1 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 17 | 6 | .274 | .317 | .316 | .633 | |
1978 | 29 | 65 | 52 | 5 | 11 | 1 | 1 | 0 | 14 | 5 | 2 | 0 | 0 | 1 | 12 | 1 | 0 | 10 | 3 | .212 | .354 | .269 | .623 | |
1979 | MON | 25 | 40 | 36 | 8 | 10 | 3 | 1 | 0 | 15 | 4 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 1 | 1 | 9 | 3 | .278 | .333 | .417 | .750 |
1980 | 49 | 120 | 107 | 10 | 31 | 5 | 1 | 1 | 41 | 8 | 0 | 2 | 1 | 0 | 11 | 1 | 1 | 17 | 5 | .290 | .361 | .383 | .745 | |
1981 | TOR | 37 | 94 | 85 | 4 | 17 | 2 | 0 | 0 | 19 | 6 | 1 | 1 | 0 | 1 | 8 | 0 | 0 | 15 | 2 | .200 | .266 | .224 | .489 |
1982 | 中日 | 130 | 538 | 483 | 57 | 150 | 20 | 2 | 23 | 243 | 76 | 1 | 1 | 1 | 3 | 49 | 2 | 2 | 74 | 10 | .311 | .374 | .503 | .877 |
1983 | 111 | 427 | 389 | 40 | 110 | 16 | 1 | 15 | 173 | 45 | 0 | 1 | 0 | 3 | 31 | 1 | 4 | 57 | 18 | .283 | .340 | .445 | .784 | |
1984 | 130 | 530 | 465 | 71 | 147 | 25 | 1 | 31 | 267 | 93 | 1 | 2 | 1 | 2 | 55 | 4 | 7 | 54 | 22 | .316 | .395 | .574 | .969 | |
1985 | 102 | 412 | 362 | 46 | 109 | 20 | 2 | 13 | 172 | 54 | 4 | 4 | 0 | 1 | 46 | 4 | 3 | 40 | 17 | .301 | .383 | .475 | .859 | |
MLB:6年 | 180 | 425 | 380 | 30 | 98 | 16 | 3 | 1 | 123 | 35 | 4 | 4 | 2 | 2 | 39 | 3 | 2 | 68 | 19 | .258 | .329 | .324 | .652 | |
NPB:4年 | 473 | 1907 | 1699 | 214 | 516 | 81 | 6 | 82 | 855 | 268 | 6 | 8 | 2 | 9 | 181 | 11 | 16 | 225 | 67 | .304 | .374 | .503 | .878 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
[編集]年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2003年 | OAK | 西1位 | 162 | 96 | 66 | .593 | 176 | .254 | 3.63 | 53歳 | |
2004年 | 西2位 | 162 | 91 | 71 | .562 | 189 | .270 | 4.17 | 54歳 | ||
2005年 | 西2位 | 162 | 88 | 74 | .543 | 155 | .262 | 3.69 | 55歳 | ||
2006年 | 西1位 | 162 | 93 | 69 | .574 | 175 | .260 | 4.21 | 56歳 | ||
2009年 | MIL | 中3位 | 162 | 80 | 82 | .494 | 182 | .263 | 4.83 | 59歳 | |
2010年 | 中3位 | 162 | 77 | 85 | .475 | 182 | .262 | 4.58 | 60歳 | ||
通算:6年 | 972 | 525 | 447 | .540 |
- 2010年度シーズン終了時
記録
[編集]- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:1982年4月4日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、3番・三塁手で先発出場、4打数1安打
- 初本塁打:1982年4月20日、対読売ジャイアンツ3回戦(藤崎台県営野球場)、新浦壽夫から
- NPBその他の記録
- 連続試合本塁打:5 (1984年5月27日 - 6月2日)
- オールスターゲーム出場:1回 (1982年)
背番号
[編集]- 34 (1974年)
- 30 (1977年 - 同年途中)
- 29 (1977年途中 - 1978年)
- 31 (1979年 - 1980年)
- 8 (1981年)
- 4 (1982年 - 1985年)
- 39 (2003年 - 2006年)
- 40 (2009年 - 2010年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 後にフランコーナも入院したため辞退[9]。サンディエゴ・パドレスのブルース・ボウチーが監督となった。
出典
[編集]- ^ “チャンスで好打を連発の打撃で中日を8年ぶりのリーグ優勝に導いた!ケン・モッカ”. ラブすぽ (2024年2月10日). 2024年2月10日閲覧。
- ^ 「大リーガー、モッカ入団」『毎日新聞』(毎日新聞社)1981年12月12日、東京朝刊 19頁。
- ^ 「2024ドラゴンズ あす開幕 世界の竜党 愛を叫ぶ」『中日新聞』(中日新聞社)2024年3月28日、朝刊 別1版13面 13頁。
- ^ モッカ 最後に胴上げされたドラゴンズ史上最高の優良助っ人/プロ野球1980年代の名選手
- ^ 【9月19日】1985年(昭60) さらば…超優良助っ人 初の惜別胴上げ
- ^ 【プロ野球仰天伝説70】引退の際、仲間たちに贈ったユニークなプレゼント【助っ人トンデモ話】 週刊ベースボールオンライン、2018年3月4日、2020年8月7日閲覧
- ^ 「大リーグ アスレチックス モッカ監督を解任」『中日新聞』(中日新聞社)2006年10月17日、夕刊 夕刊スポーツ 7頁。
- ^ 「日米野球 米大リーグ選抜監督、モッカ氏からフランコナ氏に」『読売新聞』(読売新聞社)2006年10月22日、全国版 東京朝刊 スポB 24頁。
- ^ 「日米野球 米選抜監督のフランコナ氏が辞退」『読売新聞』(読売新聞社)2006年10月25日、全国版 東京朝刊 スポA 25頁。
- ^ 元中日ケン・モッカが日本時代の思い出を語る | ベースボールスポット
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 選手の通算成績と情報 ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com