クンガ・ギェンツェン・パルサンポ
クンガ・ギェンツェン・パルサンポ(Kun dga' rgyal mtshan dpal bzang po、1310年 - 1358年)は、チベット仏教サキャ派の仏教僧。大元ウルスにおける11代目の帝師を務めた。
漢文史料の『仏祖歴代通載』では公哥児監蔵班蔵卜(gōnggēér jiānzàng bānzàngbǔ)と表記される。
概要
[編集]『漢蔵史集』によるとクンガ・ギェンツェン・パルサンポは第9代帝師クンガ・レクペー・ジュンネーの弟で、父親が49歳の時、すなわち1310年(庚戌)に生まれたという[1]。漢文史料の『元史』には泰定年間に「帝師弟公哥亦思監」なる人物が訪れた時中書省が羊酒でこれを迎えたとの記録があり[2]、この「公哥亦思監」がクンガ・ギェンツェン・パルサンポと同一人物とみられる[3]。
『フゥラン・テプテル』や『漢蔵史集』等のチベット語史料によるとクンガ・ギェンツェン・パルサンポは22歳の時(1321年)、泰定帝イェスン・テムル・カアンの治世に大元ウルス朝廷に赴いて国公に任命され、ジャヤート('Jwab ya du=文宗トク・テムル)・リンチェンパル(Rin chen dpal=寧宗リンチンバル)・トガンテムル(Tho gan the mur=順帝トゴン・テムル)の治世に「三皇帝の師におなりになり、帝師の御名を贈られた」 という[4]。これに対応するように『元史』文宗本紀には至順2年(1331年)12月に「帝師を迎えにイェス・ブカらを派遣し」[5]、至順3年(1332年)3月に「帝師が京師に至った」との記録があり[6]、この文宗の治世末に迎えられた帝師こそがクンガ・ギェンツェン・パルサンポであるとみられる[7]。
また、『仏祖歴代通載』は元統元年(1333年)に「公哥児監蔵班蔵卜(=クンガ・ギェンツェン・パルサンポ)が帝師とされた」と記すが、これはウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)の即位によって改めて帝師に任命されたことを指すと見られる[8]。
クンガ・ギェンツェン・パルサンポの没年について『漢蔵史集』には50歳の時=1359年(亥年)、『テプゴン』には49歳の時=1358年(戊戌)とそれぞれ記されるが、秋葉はパクサム年表に基づいて後者が正しいとする[9]。『マルポ史』には「権力はあったが学問には昏かった」との評があり、元末の混乱した政治情勢の中で政治的手腕によって帝師の地位を得た人物とみられる[10]。なお、この頃チベット中央部はパクモドゥパ派のチャンチュプ・ギェルツェンによって制圧されサキャ派は衰退していたが、チャンチュプ・ギェルツェンはクンガ・ギェンツェン・パルサンポと対照的にツェタンの大寺院を至正11年(1351年)に建立し学問の振興に努めていたことが知られている[11]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 乙坂智子「サキャパの権力構造:チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって」『史峯』第3号、1989年
- 佐藤長/稲葉正就共訳『フゥラン・テプテル チベット年代記』法蔵館、1964年
- 佐藤長『中世チベット史研究』同朋舎出版、1986年
- 中村淳「チベットとモンゴルの邂逅」『中央ユーラシアの統合:9-16世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 11〉、1997年
- 中村淳「モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究 <科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書>』、2008年
- 野上俊静/稲葉正就「元の帝師について」『石浜先生古稀記念東洋学論集』、1958年
- 稲葉正就「元の帝師について -オラーン史 (Hu lan Deb gter) を史料として-」『印度學佛教學研究』第8巻第1号、日本印度学仏教学会、1960年、26-32頁、doi:10.4259/ibk.8.26、ISSN 0019-4344、NAID 130004028242。
- 稲葉正就「元の帝師に関する研究:系統と年次を中心として」『大谷大學研究年報』第17号、大谷学会、1965年6月、79-156頁、NAID 120006374687。
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