クンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポ
クンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポ(Kun dga' legs pa'i 'byung gnas rgyal mtshan dpal bzang po、1308年 - 1330年)は、チベット仏教サキャ派の仏教僧。大元ウルスにおける9代目の帝師を務めた。
漢文史料の『元史』では公哥列思八沖納思監蔵班蔵卜(gōnggē lièsībā chōngnàsī jiānzàng bānzàngbǔ)と表記される。
概要
[編集]チベット語史料によるとクンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポは先代帝師クンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポの異母弟であったという。
『元史』釈老伝はクンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポの後に旺出児監蔵なる人物が帝師になったが泰定2年(1325年)に亡くなり、クンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポが跡を継いで帝師になったとする[1]。一方、チベット語史料の『フゥラン・テプテル』では「クンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポがイェスン・テムル・カアンの時に国師と帝師におなりになった」と記されており、双方の史料は「(クンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポが)秦定帝の治世に帝師になった」 とする点で合致する[2]。ただし旺出児監蔵という人物は実在が疑わしく、『元史』泰定帝本紀に基づいて泰定4年(1327年)2月にクンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポが死去した後、同年4月にクンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポが帝師に任命されたと見るのが正しいと考えられている[3]。
イェスン・テムル・カアンの在位中、致和元年(1328年)3月に興聖殿でカアンに仏界を授けたと記される「帝師」はクンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポを指すとみられる[4]。しかしイェスン・テムル・カアンが死去すると天暦の内乱が勃発し、イェスン・テムル・カアンの遺児のアリギバを擁する派閥を打倒して即位したジャヤガトゥ・カアン(文宗トク・テムル)は改めてクンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポを帝師に任命した[5]。
内乱終結後の天暦2年(1329年)11月には帝師(クンガ・ロドゥ・ギェンツェン・パルサンポ)が皇后に仏戒を受けたとの記録があるが[6]、12月には新たな帝師が任命されており、この頃に帝師の地位を退いたようである[7]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「旺出児監蔵嗣、泰定二年卒。公哥列思八沖納思監蔵班蔵卜嗣、賜玉印、降璽書諭天下、其年卒。天暦二年、以輦真乞剌失思嗣」
- ^ 稲葉1965,140頁
- ^ 稲葉1965,140-141頁
- ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[政和元年三月]己卯、帝御興聖殿受無量寿仏戒于帝師。……丙戌、詔帝師命僧修仏事于塩官州、仍造浮屠二百一十六、以厭海溢」
- ^ 『仏祖歴代通載』等でクンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポが1328年(戊辰)9月に帝師に任命されたと記されるのは、この間の経緯を誤解したものとみられる(稲葉1965,142頁)。
- ^ 『元史』巻33文宗本紀1,「[天暦二年]十一月乙卯、以立皇后、詔天下。受仏戒於帝師、作仏事六十日。丙辰……后八不沙請為明宗資冥福、命帝師率群僧作仏事七日于大天源延聖寺」
- ^ 稲葉1965,142-143頁
参考文献
[編集]- 乙坂智子「サキャパの権力構造:チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって」『史峯』第3号、1989年
- 佐藤長/稲葉正就共訳『フゥラン・テプテル チベット年代記』法蔵館、1964年
- 中村淳「チベットとモンゴルの邂逅」『中央ユーラシアの統合:9-16世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 11〉、1997年
- 中村淳「モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究 <科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書>』、2008年
- 野上俊静/稲葉正就「元の帝師について」『石浜先生古稀記念東洋学論集』、1958年
- 稲葉正就「元の帝師について -オラーン史 (Hu lan Deb gter) を史料として-」『印度學佛教學研究』第8巻第1号、日本印度学仏教学会、1960年、26-32頁、doi:10.4259/ibk.8.26、ISSN 0019-4344、NAID 130004028242。
- 稲葉正就「元の帝師に関する研究:系統と年次を中心として」『大谷大學研究年報』第17号、大谷学会、1965年6月、79-156頁、NAID 120006374687。