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クライド・ライト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クライド・ライト
Clyde Wright
カリフォルニア・エンゼルス時代
(1972年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テネシー州ジェファーソンシティ
生年月日 (1943-02-20) 1943年2月20日(81歳)[1][2][注釈 1]
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席 左投右打
ポジション 投手
プロ入り 1965年 MLBドラフト6巡目
初出場 MLB / 1966年6月15日
NPB / 1976年5月29日
最終出場 MLB / 1975年9月26日
NPB / 1978年7月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

クライド・ライトClyde Wright, 1943年2月20日[1][2][注釈 1] - )は、アメリカ合衆国テネシー州出身の元プロ野球選手投手)。左投右打。

来歴・人物

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カーソン・ニューマン大学で活躍し、ミネソタ・ツインズからドラフト指名され、入団。カリフォルニア・エンゼルス移籍後の1966年6月15日にメジャー初登板。この試合では4安打完投勝利を収め、フルシーズン3年目の1968年には10勝6敗の好成績を残す。

1969年には不調で1勝8敗に終わるが、チームメイトのジム・フレゴシの勧めで現在でいうウインター・リーグに参戦。そこでスクリューボールチェンジアップを習得し、1970年には22勝12敗、防御率2.83の自己最高の好成績を記録し、ア・リーグカムバック賞を受賞。7月3日オークランド・アスレチックス戦ではノーヒット・ノーランを達成したが、これはエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム開場初のノーヒッターとなった。また、2009年終了時点でエンゼルスの球団史上唯一の左腕の20勝投手である。

その後も1972年に16勝17敗、1973年に18勝11敗、1974年に11勝19敗と2桁勝利をあげるが、1974年ミルウォーキー・ブルワーズに移籍、さらに1975年テキサス・レンジャースに移籍し、メジャーでの球歴はここまでで、通算100勝をあげた。

1976年4月28日、読売ジャイアンツMLB出身の外国人投手として球団初の入団が決定し、5月6日に来日して、3シーズンにわたってプレーした。普段は好人物なのだが、気性の激しさから「クレージー・ライト」と呼ばれ、審判や相手打者とケンカするだけでなく、自分のユニフォームを引きちぎってしまった事や、カメラマンのカメラを取り上げて叩き潰してしまった事もあった。1978年7月15日に事実上の退団が決定、翌16日に現役引退が正式に決まった。また、1977年には規定投球回に到達したが、この年以降巨人の外国人左腕投手が規定投球回に到達したのは2001年のダレル・メイ、自前の外国人左腕投手に限れば2015年のアーロン・ポレダが記録するまでに長い期間が経っていた。

引退後は実業家に転身し、CLYDE WRIGHT'S TENNESSEE BAR-B-QUE を経営。ジャック・ダニエルズを隠し味にしたポークサンドイッチをエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムで販売しており、長蛇の列ができている[3]

2018年4月29日に放送されたサンデーLIVE!!ではエンゼルスの球団職員と紹介されていた。

息子も元メジャーリーガーのジャレット・ライト(父とは違い、右投げ投手)。1970年にノーヒットノーランを達成した際には、最後の打者フェリペ・アルーを二塁ゴロに打ち取り、エンゼルスの二塁手サンディー・アロマー・シニアがダブルプレイに仕留めた。それから27年後、1997年のワールドシリーズには、ライトの息子ジャレット(投手)と、アロマーの息子サンディー・アロマー・ジュニア(捕手)が所属するクリーブランド・インディアンスと、アルーの息子モイセス・アルーが所属するフロリダ・マーリンズが対戦。マーリンズが勝利した。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1966 CAL 20 13 3 1 0 4 7 0 -- .364 380 91.1 92 11 25 4 1 37 1 0 39 38 3.74 1.28
1967 20 11 1 0 0 5 5 0 -- .500 323 77.1 76 5 24 2 1 35 2 0 33 28 3.26 1.29
1968 41 13 2 1 1 10 6 3 -- .625 534 125.2 123 13 44 6 2 71 7 0 58 55 3.94 1.33
1969 37 5 0 0 0 1 8 0 -- .111 272 63.2 66 4 30 5 1 31 3 0 33 29 4.10 1.51
1970 39 39 7 2 0 22 12 0 -- .647 1086 260.2 226 24 88 4 7 110 8 0 97 82 2.83 1.20
1971 37 37 10 2 1 16 17 0 -- .485 1107 276.2 225 17 82 10 3 135 7 0 105 92 2.99 1.11
1972 35 35 15 2 1 18 11 0 -- .621 1029 251.0 229 14 80 6 4 87 4 0 101 83 2.98 1.23
1973 37 36 13 1 2 11 19 0 -- .367 1102 257.0 273 26 76 0 3 65 4 0 120 105 3.68 1.36
1974 MIL 38 32 15 0 1 9 20 0 -- .310 996 232.0 264 22 54 4 0 64 6 0 122 114 4.42 1.37
1975 TEX 25 14 1 0 1 4 6 0 -- .400 423 93.1 105 7 47 3 1 32 3 1 56 46 4.44 1.63
1976 巨人 21 21 5 2 0 8 7 0 -- .533 541 130.0 123 6 44 3 4 51 2 1 54 48 3.32 1.28
1977 31 25 5 1 2 11 9 0 -- .550 754 172.0 190 25 62 5 8 82 3 1 87 81 4.24 1.47
1978 7 7 0 0 0 3 2 0 -- .600 160 38.0 29 6 20 3 2 9 0 0 21 21 4.97 1.29
MLB:10年 329 235 67 9 7 100 111 3 -- .474 7252 1728.2 1679 143 550 44 23 667 45 1 764 672 3.50 1.29
NPB:3年 59 53 10 3 2 22 18 0 -- .550 1455 340.0 342 37 126 11 14 142 5 2 162 150 3.97 1.38

表彰

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MLB

記録

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MLB
NPB

背番号

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  • 38 (1966年 - 1973年)
  • 52 (1967年)
  • 38 (1974年)
  • 25 (1975年)
  • 38 (1975年)
  • 30 (1976年 - 1978年)

脚注

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注釈

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  1. ^ a b MLB.comなど、#外部リンクの「選手の通算成績と情報」にある合計5団体分のウエブサイトのプロフィール全てには、1941年生まれとあるが(いずれも2020年10月12日閲覧)、時事ドットコムのウエブ記事[2]には「彼のさまざまなプロフィールで1941年生まれと誤記されているが、正しくは1943年生まれである」との旨が記されている。

出典

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  1. ^ a b 一般社団法人日本野球機構. “ライト(読売ジャイアンツ) | 個人別年度成績”. NPB.jp 日本野球機構. 2020年10月12日閲覧。
  2. ^ a b c “元巨人「クレイジー・ライト」、ON・大谷を語る”. 時事ドットコム. https://www.jiji.com/jc/v4?id=crazywright0001 2020年10月12日閲覧。 
  3. ^ BSベストスポーツ 『KARENレポート:エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム』 NHK BS1、2011年10月1日放送。

関連項目

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外部リンク

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