オルズベック・ナザロフ
基本情報 | |
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本名 |
オルズベック・ナザロフ Орзубек Пулетович Назаров |
通称 | グッシー |
階級 | ライト級 |
身長 | 171cm |
リーチ | 180cm |
国籍 | キルギス |
誕生日 | 1966年8月30日(58歳) |
出身地 | キルギス・ソビエト社会主義共和国 |
スタイル | サウスポー |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 27 |
勝ち | 26 |
KO勝ち | 19 |
敗け | 1 |
獲得メダル | ||
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ソビエト連邦 | ||
男子 ボクシング | ||
世界ボクシング選手権 | ||
銅 | 1986 リノ | ライト級 |
ヨーロッパボクシング選手権 | ||
金 | 1987 トリノ | ライト級 |
オルズベック・ナザロフ(Orzubek Nazarov、1966年8月30日 - )は、キルギス共和国・カント出身のウズベク人のプロボクサー。元WBA世界ライト級王者。
来歴
[編集]1989年秋、勇利アルバチャコフ(後のWBC世界フライ級王者)等と共にソ連(当時)から来日。協栄ボクシングジムにスカウトされた6人のアマチュアエリートボクサーの1人であった。
1990年2月1日、「グッシー・ナザロフ」のリングネームでプロデビュー。西沢誠(後の日本ライト級王者)を初回KO勝ち。
1991年4月22日、6戦目で日本ライト級王座を獲得。同王座は2度防衛後に返上した。
1992年5月11日、12戦目でOPBF東洋太平洋ライト級王座を獲得。世界挑戦準備のため1993年9月に王座を返上するまで5度の防衛に成功。
1993年10月21日、18戦目で世界王座初挑戦。敵地南アフリカに渡り、WBA世界ライト級王者ディンガン・トベラに挑む。4回にプロ初のダウンを奪われるも、10回にダウンを奪い返すなど、猛反撃を展開。12回判定勝ちを収め、無敗のまま世界王座を獲得した[文献 1]。トベラとは翌1994年3月19日の初防衛戦で再戦し、この時も12回判定勝ちを収めた[文献 2]。
その後、本人の強い希望により、リングネームを本名「オルズベック・ナザロフ」に改める。
1995年5月15日の3度目の防衛戦からは3戦連続で日本国内で試合を行うが、海外出身の「輸入ボクサー」であるが故、同時期の国内の現役世界王者と比べて知名度は格段に低かった。そのため、試合でも観衆をあまり多く集められず、ファイトマネーも安い状態であった(テレビ中継も深夜に関東ローカルでの録画中継枠を確保するのが精一杯)。こうした背景から、1996年4月15日の5度目の防衛成功後は試合すら出来ない状況に陥る。協栄ジムと交渉の末、同年12月、同ジムを離れフランスに拠点を移すことを正式に決定。
1997年5月10日、フランス移籍初戦。1年1か月ぶりの試合であったが、長期間のブランクを感じさせずレバンダー・ジョンソンに7回TKO勝ち。6度目の王座防衛に成功。その後、ノンタイトル戦を2度行い、いずれも勝利。
1998年5月16日、7度目の防衛戦。ジャン=バチスト・メンディ(フランス)の挑戦を受け、12回判定負け。4年半あまり保持してきた世界王座を手放し、結局この試合を最後に現役を引退した。
戦績
[編集]- アマ:175戦153勝(80RSC)12敗
- プロ:27戦26勝(19KO)1敗
戦 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 |
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1 | 1990年2月1日 | ☆ | 1R | KO | 西沢誠 | 日本 | プロデビュー戦 |
2 | 1990年4月12日 | ☆ | 3R | TKO | 田鎔万 | 韓国 | |
3 | 1990年7月9日 | ☆ | 1R | KO | 野口泰雪 | 日本 | |
4 | 1990年9月10日 | ☆ | 1R | KO | 斉藤孝 | 日本 | |
5 | 1990年11月12日 | ☆ | 1R | KO | 堂本忠志 | 日本 | |
6 | 1991年4月22日 | ☆ | 4R | KO | 八木賢治 | 日本 | 日本ライト級タイトルマッチ |
7 | 1991年8月1日 | ☆ | 2R | KO | 丸山勝美 | 日本 | 日本王座防衛1 |
8 | 1991年10月28日 | ☆ | 4R | KO | アーニー・アレスナ | フィリピン | |
9 | 1991年12月16日 | ☆ | 10R | 判定 | ダウマイ・シスコドム | タイ | |
10 | 1992年3月11日 | ☆ | 1R | KO | 中野猛仁 | 日本 | OPBF防衛2 |
11 | 1992年4月10日 | ☆ | 2R | KO | ノバラットナエ・ワオワラボル | タイ | |
12 | 1992年5月11日 | ☆ | 12R | 判定 | 大友厳 | 日本 | OPBF東洋太平洋ライト級タイトルマッチ獲得 |
13 | 1992年6月24日 | ☆ | 10R | KO | フランシス・ベラスケス | フィリピン | OPBF防衛1 |
14 | 1992年9月28日 | ☆ | 2R | KO | ノバラットナエ・ワオワラボル | タイ | OPBF防衛2 |
15 | 1992年12月11日 | ☆ | 5R | KO | アーニー・アレスナ | フィリピン | OPBF防衛3 |
16 | 1993年3月22日 | ☆ | 2R | KO | 宗光植 | 韓国 | OPBF防衛4 |
17 | 1993年7月19日 | ☆ | 12R | 判定 | ボーイ・リーガス | フィリピン | OPBF防衛5 |
18 | 1993年10月21日 | ☆ | 12R | 判定 | ディンガン・トベラ | 南アフリカ共和国 | WBA世界ライト級タイトルマッチ |
19 | 1994年3月19日 | ☆ | 12R | 判定 | ディンガン・トベラ | 南アフリカ共和国 | WBA防衛1 |
20 | 1994年12月10日 | ☆ | 2R | KO | ジョーイ・ガマチェ | アメリカ合衆国 | WBA防衛2 |
21 | 1995年5月15日 | ☆ | 2R | KO | 朴元 | 韓国 | WBA防衛3 |
22 | 1995年11月14日 | ☆ | 12R | 判定 | ディンド・カノイ | フィリピン | WBA防衛4 |
23 | 1996年4月15日 | ☆ | 4R | KO | アドリアヌス・タロケ | インドネシア | WBA防衛5 |
24 | 1997年5月10日 | ☆ | 7R | TKO | レバンダー・ジョンソン | アメリカ合衆国 | WBA防衛6 |
25 | 1997年10月4日 | ☆ | 4R | KO | オスカー・ロペス | アルゼンチン | |
26 | 1998年4月8日 | ☆ | 8R | 判定 | フレディ・クルス | ドミニカ共和国 | |
27 | 1998年5月16日 | ★ | 12R | 判定 | ジャン=バチスト・メンディ | フランス | WBA王座陥落 |
テンプレート |
獲得タイトル
[編集]参考文献
[編集]- ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]前王者 八木賢治 |
第40代日本ライト級王者 2001年6月23日 - 1991年3月11日(返上) |
空位 次タイトル獲得者 齋藤孝 |
前王者 大友厳 |
第26代OPBF東洋太平洋ライト級王者 1992年5月11日 - 1993年9月21日(返上) |
空位 次タイトル獲得者 アドリアヌス・タロケ |
前王者 ディンガン・トベラ |
WBA世界ライト級王者 1993年10月21日 - 1998年5月16日 |
次王者 ジャン=バチスト・メンディ |