オチル・ボラト
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オチル・ボラト(モンゴル語: Очирболд、中国語: 斡斉爾博羅特、1490年 - ?[1])とは、モンゴルのハーンであるバト・モンケ(ダヤン・ハーン)の息子の一人。『アルタン・ハーン伝』ではウデ・バラト(üdebalad)とも表記され、明代の漢文史料では「阿赤頼台吉」と記されている[2]。
概要
[編集]ダヤン・ハーンとその正妻マンドフイ・ハトンの間の息子として生まれた。ダヤン・ハーンの五男と見られ、『蒙古源流』ではアルチュ・ボラトと双子で生まれたとも記される[3]。『蒙古源流』によるとオチル・ボラトとアルチュ・ボラトが生まれそうな頃、オイラトの襲撃があったが、フンギラトのエセレイ大夫、ハチンのジフイ・ダルハン、バルガチンのバヤン・ボケ、アストのバト・ボラトの助けによって無事逃れ、双子を産むことができたという[4]。
オチル・ボラトはダヤン・ハーンよりチャハル・トゥメンのオトクの一つであるケシクテンを分封された。オチル・ボラトの子孫を戴くケシクテン部はチャハル・ハーン家が滅亡した後も存続し、清朝の支配下に入ってジョーオダ盟ケシクテン旗とされた。現代のヘシグテン旗はケシクテン部、ケシクテン旗の直接の後身となる。
子孫
[編集]- ダライ(打頼台吉) - オチル・ボラトの長男
- サイン・アラク(打児汗台吉) - ダライの長男
- ウイジェン・ホン・バートル(威敬台吉) - ダライの次男
- ダライスン - オチル・ボラトの次男
脚注
[編集]- ^ 『蒙古源流』の記載に拠る(岡田2004,239頁)
- ^ 吉田1998,232頁
- ^ モンゴル語史料の記述に従えば、マンドフイ・ハトンは3組もしくは4組の双子を続けて出産したことになるため、双子で生まれたというのは疑問視されている(森川1988,2頁)
- ^ 岡田2004,225頁
- ^ 井上2002,556-557頁
参考文献
[編集]- 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
- 吉田順一『アルタン・ハーン伝訳注』風間書房、1998年