エクセター (重巡洋艦)
エクセター
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艦歴 | |
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発注 | デヴォンポート造船所に1928年3月15日発注 |
起工 | 1928年8月1日 |
進水 | 1929年7月18日 |
就役 | 1931年7月27日 |
退役 | |
その後 | 1942年3月1日に戦没 |
除籍 | |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:8,390トン 満載:10,410トン |
全長 | 175.25m(p/p:575ft) |
水線長 | 164.6m(p/p:540 ft) |
全幅 | 17.67m(58 ft) |
吃水 | 6.17m(17 ft) |
機関 | アドミラリティ式重油専焼三胴型水管缶8基 +パーソンズ式ギヤード・タービン4基4軸推進 |
最大出力 | 80,000hp |
最大速力 | 32.5ノット |
航続性能 | 14ノット/10,000海里 |
燃料 | 重油:1,900トン |
乗員 | 620名 |
兵装 | Mark VIII 20.3 cm(50口径)Mk.II 連装砲3基6門 Mk.V 10.2 cm(45口径)単装高角砲4基4門 ヴィッカース Mk.III 12.7mm(50口径)単装機銃8基 53.3 cm(21インチ)三連装魚雷発射管2基 |
装甲 | 舷側: 76mm(機関区水線部) 89mm(前後隔壁) 甲板: 25〜38mm(主甲板) 主砲バーベット: 25mm(最厚部) 砲塔: 38〜51mm 主砲弾薬庫: 64〜127mm(最厚部) 水密隔壁: 89mm(最厚部) 司令塔: -mm |
航空兵装 | なし (1932年に水上機:2 機 カタパルト:固定式2基) |
レーダー | なし (1941年に284型(砲射撃指揮、水上警戒)、279型(対空警戒)) |
エクセター (HMS Exeter, 68) は、イギリス海軍の重巡洋艦[1]。 ヨーク級重巡洋艦の2番艦[2][注釈 1]。艦名はデヴォン州のエクセターに因む。 エクセターの名を持つ艦としては4隻目にあたる[注釈 2]。 日本語ではエクゼター[4][5][6]、エキゼター[7]、エキセターと表記することもある[注釈 3][注釈 4]。
第二次世界大戦の初期、ラプラタ沖海戦において[10][11]、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) のポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーに損傷を与えて勝利に貢献したが[12][13]、自らも損傷した[14][15][注釈 5]。
1941年(昭和16年)3月から戦線に復帰、おもに大西洋での船団護衛任務に従事した[13]。 太平洋戦線に転戦後の1942年(昭和17年)2月下旬、スラバヤ沖海戦で日本海軍の重巡洋艦および水雷戦隊と交戦して損傷する[17][18]。 ジャワ島から撤退中の3月1日[19]、エクセターは護衛の駆逐艦2隻と共に日本海軍水上部隊と遭遇[20]、砲雷撃戦の末に3隻とも撃沈された[21][注釈 6]。
概要
[編集]イギリス海軍の1927年度海軍計画において巡洋艦1隻の建造が認められ、建造されたのが「エクセター」である[13]。本艦の発注は、姉妹艦「ヨーク」の2年後であった。本級2隻は、それまでの英連邦10,000トン級巡洋艦の8インチ主砲8門(連装砲塔4基)[23]とは異なり、8インチ主砲6門(連装砲塔3基)を装備して基準排水量を約8,400トンに抑えた[24]。これは1921年 - 1922年におけるワシントン海軍軍縮条約による保有トン数量の制限の影響であり[25]、船価を下げて建造隻数を増やすための措置であった[26]。ヨーク、エクセターとも2本煙突だが[27]、艦橋やマストの形状、煙突の位置など外観上の大きな相違点もある[28]。
ロンドン海軍軍縮会議と軍縮条約の成立により本艦の姉妹艦3隻は建造中止となり[29]、エクセターがイギリス海軍最後の重巡洋艦になった[30]。このあと、イギリス海軍は本級を縮小したようなリアンダー級軽巡洋艦を建造し[31]、その後は二等巡洋艦(軽巡洋艦)の増強に乗り出してゆく[32][注釈 1]。
艦形
[編集]エクセターの設計にあたっては、「ヨーク」をタイプシップとして既存のカウンティ級で得られた運用実績により実戦的な設計がなされ、従ってエクセターの設計はヨークでの経験を踏まえた改良が組み込まれた[13]。トップウェイトの増加に合わせて艦幅は1フィート広げられた。就役後に船首楼の側壁を魚雷発射管の手前まで伸ばし、居住空間を増した。
前後に長い塔型艦橋の形状はより低くされ、水面から16 m 以内に抑えられた。これはネルソン級戦艦を参考にしたという[13]。ボイラーからの排煙管はボイラー室後方に収められ、ヨークでは傾斜した煙突が必要だったのが、エクセターは艦橋から離れた位置に直立した煙突を装備し、排気煙の確実な排気ができるようになった。その結果マストは直立し、後方の煙突は太くなった。
8インチ主砲塔の天板はヨークで考えられたカタパルトの装着には不適であったため、エクセターでは就役後に2番煙突の後方に航空施設を設け、中心線から斜め45度の角度で2基のカタパルトを埋没させた。この工夫により、風向きに関係なく水上機を発艦させることができた。水上機の運用には右舷にクレーンを装着した。
就役後の1941年の大修理の際に艦橋に遮風装置が付けられ、前後のマストを三脚型とし、新たに搭載した279型レーダーのアンテナを設置した。また、1番煙突の側面にあった10.2 cm 単装高角砲4基が撤去されて、新型の10.2 cm 連装高角砲を艦橋と1番煙突の側面に1基ずつ計4基とした。
機関
[編集]搭載機関には重巡洋艦と同じく、ボイラーはアドミラリティ三胴式重油専焼水管缶8基、タービン機関はパーソンズ式オール・ギヤードタービンを4基4軸合計で最大出力80,000 shp で最大速力は32.5ノットを発揮した。
機関配置は前大戦時の装甲巡洋艦のように艦首側に缶室、艦尾側に機関室(推進機室)を配置する全缶全機方式であった。カウンティ級においては3本煙突であったが、追い風時に排煙が艦橋にかかるのを防ぐために前側2基と中央部の4基の排煙を1番煙突に導いたために煙突の本数は2本であった。
防御
[編集]舷側防御は機関区のみを防御する物で、高さ4 m の装甲板がもっとも厚い箇所が76 mm で、末端部は25 mm へとテーパーしており、前後隔壁の89 mm 装甲と接続されていた。
弾薬庫は舷側防御とは別個で、側盾が127 mm で前後隔壁と天蓋が76 mm であった。主砲塔は最厚部で25 mm でしかなく、バーベットは最厚部で19 mm である。水平防御は主甲板の平坦部が25 mm で傾斜部は38 mm であった。
機関区を守るだけの短い範囲内のみで艦首から艦橋脇、後檣から艦尾までの広範囲は無防御であり、その防御様式の正当性は実戦で証明された。
弾薬庫は艦中央部にあったものが艦前方および後方に分散配置され、「]ボックス・シタデル(箱砲郭)」で守られた。10.2 cm 副砲兼高角砲は弾薬庫の移動に合わせて、容易に給弾できるよう前方に移動した。ラプラタ沖海戦ではこの強化された増設装甲帯 (armored box) がエクセターを助けたと考えられている。
武装
[編集]艦名 | 主砲 | 対空火器 | 備砲 | 機関砲 | 近接火器 | 雷装 | レーダー | その他 |
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エクセター | 20.3 cm(50口径)連装速射砲3基 | 10.2 cm(45口径)単装高角砲4基 | 4.7 cm(40口径)単装機砲4基 | 4 cm(39口径)単装ポンポン砲2基 | なし | 53.3cm魚雷発射管三連装2基 | なし | 1932年にカタパルトとフェアリー III型水上機搭載 |
エクセター(1933) | ← | ← | ← | 撤去 | なし | ← | なし | |
エクセター(1935年) | ← | ← | ← | ← | 12.7mm(62口径)四連装機銃2基 | ← | なし | (1937年に水上機がウォーラス水上機に更新 |
エクセター(1939年) | ← | ← | 撤去 | ← | ← | ← | なし | |
エクセター(1941年) | ← | 10.2 cm(45口径)連装高角砲4基 | ← | 4 cm(39口径)八連装ポンポン砲2基 | ← | ← | 284型、279型レーダー搭載 |
艦歴
[編集]「エクセター」はデヴォン州プリマスのデヴォンポート造船所で1928年(昭和3年)8月1日に起工し、1929年(昭和4年)7月18日に進水、1931年(昭和6年)7月27日に竣工した[13]。
1932年(昭和7年)には艦中央部の上部デッキに装甲が追加され、煙突後部に作業スペースが形成され、フェアリー III型水上機2基が搭載された。1935年(昭和10年)には.50"/62ヴィッカース機関銃が多数増設された。1937年(昭和12年)に水上機(偵察機)がスーパーマリン ウォーラス飛行艇に更新された。
第二次世界大戦勃発前夜、「エクセター」と軽巡洋艦「エイジャックス」からなる南アメリカ戦隊(ヘンリー・ハーウッド代将)は新たに作られた南大西洋艦隊に移された[33]。「エクセター」(F.S.ベル大佐)は1939年8月25日にデヴォンポートより出航[33]。翌日、ドイツのポケット戦艦2隻が大西洋にいる可能性があることから「エクセター」は輸送船「Dunera」の護衛に加わるよう命じられた[34]。8月28日に「エクセター」は船団と別れ、ハーウッドが艦隊司令長官と会うためフリータウンに向かった[34]。9月3日、イギリスはドイツに宣戦布告。9月7日、「エクセター」はリオデジャネイロに着いた[34]。
9月8日に出航した「エクセター」はドイツ商船がパタゴニア沿岸に集まろうとしているとの情報により南下し、翌日「エイジャックス」と合流した[35]。ハーウッドは、ドイツ商船はフォークランド諸島を襲撃しようとしているかもしれないと思い、「エイジャックス」をポート・スタンリーへ派遣[35]。一方、「エクセター」はラプラタ川へ向かった[35]。9月22日、モンテビデオから船団が出航した[36]。「エクセター」は午前中に船団と合流する[37]。船団は夕方に分散し、「エクセター」はポート・スタンリーへ向かう「Lafonia」と護衛の駆逐艦「ホットスパー」を支援できる位置に留まった[38]。
9月30日、イギリス船「クレメント」がドイツ装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」に沈められた[39]。そのことはドイツ艦に対する9つの部隊の編成に繋がり[40]、「エクセター」は重巡洋艦「カンバーランド」とともに南米東岸を担当するG部隊となった[41]。
10月5日までに「エクセター」、「エイジャックス」、駆逐艦2隻(ハヴォック、ホットスパー)はリオデジャネイロエリアに集結し、戦闘に備えた[42]。10月27日、ハーウッドは「エイジャックス」に移り、「エクセター」は軽微な修理のためポート・スタンリーへ向かった[43]。11月4日にフォークランド諸島より出航した「エクセター」は、Rouen Bank・サンアントニオ岬間の哨戒を行った後、マル・デル・プラタに着いた[44]。同地で燃料が得られなかったため、「エクセター」はSan Borombon湾での給油を命じられた[44]。G部隊は休養や修理のため喜望峰エリア担当であったH部隊と担当海域を入れ替えることになっていた[45]。「エクセター」は給油艦「Olynthus」から給油を受けたが、強風の影響で遅れが生じ、11月13にに給油を完了して「カンバーランド」とともにサイモンズタウンへ向け出航した[46]。11月15日、インド洋に入っていた「アドミラル・グラーフ・シュペー」がイギリス船「アフリカ・シェル」を沈めた。それにより、そちらに敵がいることが判明し、G部隊とH部隊の入れ替えは取りやめとなってG部隊はリオデジャネイロの方へ向かわせられた[47]。11月29日、「エクセター」は修理のためポート・スタンリーに着いた[48]。
12月2日、南大西洋で「アドミラル・グラーフ・シュペー」はイギリス船「ドリク・スター」を沈めた[40]。「ドリク・スター」からの通信により敵の場所が判明[49]。ハーウッドはリオデジャネイロエリア、ラプラタ川、フォークランド諸島の内、最も重要であるラプラタ川沖に戦力を集中させることにした[50]。12月12日、ラプラタ川沖で「エクセター」は英連邦軽巡2隻と合流した[51]。
12月13日[52]、イギリス連邦巡洋艦3隻(エイジャックス、アキリーズ、エクセター)はラプラタ川とモンテビデオ沖合で「アドミラル・グラーフ・シュペー」(艦長ハンス・ラングスドルフ大佐)と交戦した[14][注釈 7]。 当初、シュペー側はイギリス側戦力を巡洋艦1隻とJ級駆逐艦2隻と誤認したので、相手が重巡1隻と軽巡2隻と気付いた時には逃げられなかった[54]。 砲火力で劣るイギリス巡洋艦3隻は、数的優勢と機動力でドイツ豆戦艦に対抗する[注釈 8]。 「エクセター」は英連邦軽巡2隻と別れて「シュペー」に攻撃をおこない、20cm砲を何発か命中させた[5][注釈 9]。発射した魚雷は命中しなかった[57]。だが「シュペー」の反撃により、「エクセター」もひどく損傷する[58]。ドイツ艦が発射した11インチ砲弾7発の直撃を受けた[59]。本艦では61名が死亡、23名が負傷[60][注釈 10]。 艦橋を破壊され、各所で火災が発生、全ての8インチ砲塔が破壊されるか故障した[62][63]。浸水により左舷へ10度傾斜し、速度も18ノット(33 km/h)に低下する[60]。最後の手段としてベル艦長は「エクセター」による「シュペー」への体当たりを決意したが、「エイジャックス」と「アキリーズ」がドイツ艦の注意をひきつけたので、エクセターの「特攻」は未然に終わった[60]。
後退を余儀なくされた「エクセター」はフォークランド諸島のポートスタンリーで応急処置を受けた[64]。その後、イギリス本国に戻る[59]。 1940年(昭和15年)2月15日にプリマスへ帰投し、チャーチル海軍大臣等の出迎えを受けた[注釈 11]。 エクセターやエイジャックスの一部乗組員はロンドンに派遣され、イギリス国王ジョージ6世から勲章を授与されている[注釈 12]。
その後、1941年(昭和16年)3月までデヴォンポートで修理が行われた。ナチス・ドイツの宣伝省は、ホーホー卿のプロパガンダ放送を通じて「エクセターは沈没したのだろう」と揶揄し、たまりかねたイギリスは「場所は公表できないが、修理中である。」と発表した[注釈 13]。 「エクセター」が大口径砲の直撃を受けながらも沈没しなかったのは、乗組員によるダメージコントロールの努力と設計上の改良によるものであった。この時に対空火器が強化され、279型レーダーも装備された。なおベル艦長の後任としてエクセター艦長に補職されたベケット大佐は、本艦の修理完成直前に急死した。そこでオリバー・ゴードン大佐がエクセター艦長に任命された。
1941年(昭和16年)3月に艦隊に復帰すると、大西洋での船団護衛任務に就いた[13]。その中にはドイツの戦艦「ビスマルク (DKM Bismarck) 」追撃戦の間に行われた、中東に向かうWS-8B船団の護衛を含む。7月、「エクセター」は極東へ向かった[68]。イギリスは東インド戦隊 (East Indies Squadron) と中国艦隊 (The China Station) を統合再編し、東洋艦隊 (East Indies Fleet) を新編する[68]。太平洋戦争開戦直前、東インド戦隊は重巡3隻(エクセター、コーンウォール、ドーセットシャー)を擁していた。本艦はセイロン島在泊中で、同島にはアーバスノット提督旗艦の戦艦「リヴェンジ」や空母「ハーミーズ」などが停泊していた[69]。「リヴェンジ」や「エクセター」は、戦争が勃発したらシンガポールへ前進するよう命じられていた[69]。
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦により、大日本帝国が枢軸国として参戦した[68]。日本陸軍と日本海軍は南方作戦を発動し、東南アジアに侵攻する[70]。イギリス東洋艦隊は緒戦のマレー沖海戦で主力艦2隻を失い、巡洋艦で日本軍の攻勢に対抗することになった[71][注釈 14]。シンガポール脱出後の東洋艦隊(司令長官レイトン提督)は、ジャワ島のバタヴィアに船団護衛部隊の司令部を設置する[72]。「エクセター」は、日本軍の侵入からオランダ領東インド諸島防衛を意図したオーストラリア・イギリス・オランダ・アメリカによる四国連合艦隊(ABDACOM)の一部を形成した[17]。
1942年(昭和17年)1月13日、「エクセター」は輸送船団を護衛してシンガポールに到着した[73]。本艦はウォーラス水上飛行艇を1機しか積んでいなかったので、巡洋戦艦レパルス所属機でマレー沖海戦を生き延びたウォーラスを受け取った[73]。その後も、シンガポールへの補給船団を護衛した。マレー作戦と比島作戦に勝利した日本軍は、ジャワ島やスマトラ島攻略を目指して蘭印作戦を発動した(Battle of Java)[74]。
2月15日(シンガポール陥落日)、エクセターはABDA連合艦隊(司令官ドールマン提督)の指揮下[75]、軽巡4隻(デ・ロイテル、ジャワ、トロンプ、ホバート)、駆逐艦8隻と共にガスパル海峡を北上し、パレンバン方面の日本軍輸送船団攻撃に向かっていた[6]。日本軍は空母龍驤(第四航空戦隊)艦上機および基地航空隊の一式陸上攻撃機や九六式陸上攻撃機により、反復攻撃を行った[76]。2本煙突の軽巡「ホバート」等が軽微な被害をうけ[77]、エクセターでも水上偵察機が破損したという。航空機の援護のないABDA連合艦隊は反転・避退した[78]。日本側は「エクセター型甲巡1隻を爆沈せしめた」と大本営発表をおこなった[79]。
2月27日、エクセターはスラバヤ沖海戦[80](連合国側呼称[81]、Battle of the Java Sea) に参加した[7][注釈 15]。 ABDA部隊の多国籍巡洋艦は、デ・ロイテル(オランダ)、エクセター(イギリス)、ヒューストン(アメリカ)、パース(オーストラリア)、ジャワ(オランダ)の単縦陣を形成していたという[82][83][注釈 16]。
第五戦隊(司令官高木武雄少将)、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)、第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将)と交戦中、妙高型重巡洋艦の8インチ砲弾が「エクセター」に命中した[注釈 17]。直撃弾により機関が損傷[86]、速力が15ノットに低下する[87]。後続艦は衝突を避けようとして針路を変更し[17]、さらに旗艦の意図が麾下艦艇に伝わらず、ABDA部隊の陣形が乱れる[88]。ABDA部隊の混乱に乗じて日本軍駆逐艦が接近し、混戦となる[89]。本艦は軽巡「パース」が展開した煙幕に覆われて窮地をのがれ、ドールマン少将よりスラバヤへの後退を命じられた[90]。また海戦の最中で本艦を掩護した連合軍駆逐艦3隻のうち[90]、駆逐艦「エレクトラ」が撃沈されている[91]。
「エクセター」は駆逐艦2隻(エンカウンター、ヴィテ・デ・ウィット)に護衛されてスラバヤに戻った[92]。 生き残ったABDA艦隊残存艦のうち、アメリカ駆逐艦4隻はバリ海峡を通過し[93]、オーストラリアへ脱出した[94]。だが「エクセター」は吃水が深くてバリ海峡を通過できず、ロンボク海峡は日本軍の警戒が厳しいと思われたので、バタビアからスンダ海峡を経由して脱出する航路を選んだ[95][注釈 18][注釈 19]。
「エクセター」は辛うじて23ノットを出せるようになった[94]、駆逐艦2隻(エンカウンター、ポープ)に護衛され、2月28日夜のうちにスラバヤを出発した[100][注釈 15]。 スンダ海峡に達した3月1日午前中、エクセター部隊はオランダの病院船「オプテンノール」を捜索していた日本海軍の駆逐艦曙(第7駆逐隊)と遭遇、砲撃戦となった[101][102]。続いて偵察機に誘導された重巡洋艦2隻(第五戦隊高木武雄少将:那智、羽黒)と駆逐艦2隻(山風、江風)が出現する[103]。弾薬の不足していた第五戦隊は、第三艦隊(司令長官高橋伊望中将)直率の重巡2隻(足柄、妙高)と駆逐艦2隻(雷、電)の援軍を要請し、第五戦隊と第三艦隊の両者でエクセター部隊を挟撃した(第2次ジャワ海海戦)[20][104][105]。
日本重巡から零式水上偵察機が発進し、弾着観測をおこなう[106]。圧倒的不利な情勢下で、エクセター部隊は粘り強く戦った[107]。第五戦隊の将校は、従軍記者へ戦闘経過を語った際に「思へば一昨年南米ウルグアイのラプラタ海峡に盟邦ドイツの豆戰艦シュペー號を遂に自沈せしめた誇りに生きる彼が、今又無敵皇軍へ一矢酬いとする敵ながら天晴れな姿だ」と評している[注釈 20]。やがて砲撃雷撃の集中攻撃を受けた「エクセター」は右舷に大きく傾き始め[109]、13時30分に沈没した[110]。 さらに日本艦隊の追撃と空母龍驤が放った九七式艦上攻撃機等の支援により[111][注釈 21]、イギリス駆逐艦「エンカウンター」[113]、アメリカ駆逐艦「ポープ」も撃沈された[114]。
なお「エクセター」の沈没時、妙高偵察機が[115]、日本軍駆逐艦による雷撃とエクセター被雷の瞬間、および沈没を写真撮影した[116]。この写真[117] は写真週報第215号に掲載された[注釈 6]。大本営海軍報道部はエクセターがラプラタ沖海戦で自沈に追い込んだポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーの仇を討ったと宣伝している[注釈 6]。なお妙高偵察機が救命ボートを撮影しようと機首をむけるとエクセター生存者が小銃で反撃し、妙高乗組員達に「イギリス海軍侮りがたし」と感銘を与えたという[118]。
この日、駆逐艦天津風(第16駆逐隊)は病院船オプテンノール護送のため戦闘海域を航行していた[101]。するとABDA艦隊沈没艦の生存者多数を発見、所属する第二水雷戦隊の旗艦神通(司令官田中頼三少将)に救助を依頼すると漂流者に対し「別に救助船が来る」と英語で知らせ、その場を去った[101][119]。 その後、エクセターの艦長のO・L・ゴードン大佐を含む798名の連合軍将兵は日本海軍により救助され、各艦によってボルネオ島バンジャルマシンに連行されていた病院船「オプテンノール」に引き渡された[120](救助詳細は、工藤俊作 (海軍軍人)、電 (吹雪型駆逐艦)などを参照)[121]。エクセターの料理人は腕利きで、重宝されていたという[122]。さらに、マカッサルで「オプテンノール」から陸上に移されたその後、各艦の捕虜はオプテンノールからマカッサルで陸上に移された[123]。 また山風に救助されていたエクセターの乗組員67名は、マカッサルでオランダ軽巡「ジャワ」の生存者と共に海軍陸戦隊へ引き渡された[124][125]。 エクセター乗組員の衣服が簡易救命具の役を果たしていた事に対し、駆逐艦漣(第7駆逐隊)では人命尊重に対する日本軍と連合軍の意識の差を感じたという[注釈 22]。
この救助の時の事を、雷艦長伝令だった佐々木氏は「流石イギリス海軍士官」と思ったといい、次のように回想している。
「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が『エクセター』副長(安全確認のため、艦長よりも先に上がった)、次に『エクセター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。」「当初『雷』は自力で動ける者を先に上げ、重傷者は後回しにしようとしたのですが、彼らは頑として応じませんでした。その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、これと対照的な情景を目にしました」[127]。
原為一(当時、天津風駆逐艦長)も、オプテンノール(天応丸)におけるエクセター艦長の紳士的な態度について回想している[122]。
創作への影響
[編集]1956年のイギリス映画、『The Battle of the River Plate(邦題:戦艦シュペー号の最後)』では、エクセターとしてフィジー級軽巡洋艦の軽巡洋艦「ジャマイカ」が用いられ、ベル艦長はジョン・グレックソンが演じた。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b (中略)英國の甲級巡洋艦は一九三一年完成のエキゼターが最新のもので、其の後は乙級に全力を注いてゐます。エキゼターはヨークと共に八千三百九十噸、三十二節、八吋砲六門で、防禦は舷側三吋、甲板二吋と傳へられてゐます。現在英國はケント級(九千八百五十噸、三十一節半、八吋砲八門)七隻、ロンドン級(九千七百五十噸、三十二節四分の一、八吋砲八門)四隻、ノルフォーク級(九千八百五十噸、三十二節四分の一、速力備砲ロンドン級に同じ)二隻とヨーク級二隻を併せ十九隻であります[3]。(以下略)
- ^ エクセターの艦名を持つイギリス海軍艦艇一覧。
- ^ 一等巡洋艦 “ノーフオルク Norfolk”[8] 全要目{排水量9,850噸 速力32.25節 備砲20糎砲8門 10糎高角砲4門 魚雷發射管8門(53糎水上4聯装) 起工1926年2月 竣工1930年4月 建造所ポーツマス海軍工廠} 同型艦“デボンシヤイアー Devonshire” “シュロツプシヤイアー Shropshire” “サセックス Sussex” “ロンドン London” “ドーセツトシヤイア Dorsetshire”
この型は概ね1929年乃至30年竣工のもので現在英國海軍の第一線巡洋艦として重きをなしてゐる。特に英國海軍の一等巡洋艦は艦内の居住設備と航續距離に於ては列強巡洋艦中最も考慮されてゐる。兵装としては上記の外に3ポンド砲4門と小砲16門を有す。尚英國海軍には一等巡洋艦は以上記述した外に“ヨーク York”及び“エキセター Exeter”の2隻があり、現有量合計は19隻、その排水量合計183,396噸。而してロンドン條約に得たる保有量は15隻146,800噸である。 - ^ 獨艦スペーの行動[9](中略)この事件について、英國海軍省が、どんな處置をとつたかについては、われわれは知るところはない。たゞ組織だつた捜索が行はれてゐることと、南米の東岸沖には、代将(後に少将となる)サー・ヘンリー・ハーウードの指揮する三隻の英國巡洋艦があることだけはわかつてゐた。/ この三隻といふのは、ハーウード司令官の旗艦アヂャックス(艦長ウードハウス大佐、七〇〇〇噸、三十二節半、六吋砲八門)と、同艦の姉妹艦で新西蘭艦隊の一艦アキレス(艦長バーリー大佐)、並に、開戰と同時に再就役したエキセター(艦長ベル大佐)である。この三隻のうちで、エキセターは最大の巡洋艦で、八四〇〇噸、三十二節、六門の八吋砲をつんでゐた。(以下略)
- ^ 傷ついた英巡洋艦 英領に避難[16](モンテビオ十八日發同盟)グラーフ・シュペー號を相手としてプンタ・デレマテ沖の海戰で大損傷を蒙つた英國巡洋艦エクセター號は、十八日午前零時南米最南端に近い英領フオークランド軍港のポート・スタンレーに入港した旨、本日在モンテデオ英國公使館より發表された、戰死者の遺骸六十一、負傷者二十三名を乗せてゐると云はれる(以下略)
- ^ a b c 独逸海軍の仇 エクゼターを屠る スラバヤ沖海戰 撮影海軍省[22] スラバヤ沖の海戰に敵の聯合艦隊を撃滅した帝國海軍は世界戰史に誇る赫ゞの偉勲を大東亞海に打ち樹てたが、この輝かしい戰勝を物語る寫眞がこんど海軍省から發表された。寫眞は英巡洋艦『エクゼター』が先つわが砲撃に傾き、驅逐艦の發射した魚雷にあへなく轟沈された状況をわが○○機が空中から具さに撮影したものである(以下略)
- ^ 敵艦見ゆ![53](中略)それからの四日間は、スペーは南西に航してプレート河口方面に向ふつた。艦長ラングスドルフ大佐は、同方面で英艦の一又は二隻位には出逢ふものと豫期したかも知れない。しかし同艦に収容されていた英人捕虜の語るところでは ― この人達は非常に自由を許されて喜んでゐた ― 乗組の水兵達は、自分の艦が天下無敵であること、英國軍艦の多くは既に打沈められてゐると考へてゐること、ドイツでは、英國巡洋戰艦のフード、レナウン、レパルスの三隻は、アーク・ロイヤルと同様、戰闘に適せない程度の大損害を蒙つてゐると信じてゐたといふことである。
十二月十二日午前七時、アヂャックス、アキレス、エキセターの三隻は、プレート河口の東方百五十浬の集合地點で相會した。ハーウード司令官は、その日の大部を、麾下艦長に獨艦と會した場合にとるべき戰術を説明するのに費やした。司令官の方針は、各艦個々に行動しながら敵と接戰し、かくして味方の砲を有効に使用するにあつた。それが終ると、司令官は自ら三隻を率ひて、これを實地に行ふ演習までも行つた。/ 十三日の日が明けると、天候快晴、視界は充分で、申分のない日和であつた。海上には南西の微風があり、海は輕いうねりをあげてゐた。英艦隊はアヂャックスを先頭に、アキレス、エキセターとこれにつゞき、單縦陣をつくりながら、十四節の速力で東北東の方向に航進した。/ 午前六時十四分、左舷正横の水平線上に煤烟を認めた。直ちにエキセターを派遣してこれを險べさしたが、二分後になつて、同艦は「ドイツの豆戰艦らしい」と報告した。/ 敵はたうとう現れたのだ! - ^ 一四 英海軍今後の戰果[55](中略)ハーウツド少将の言によれば、モンテヴィエド沖のグラーフ・シュペー號との遭遇戰は、次の如くであつた。彼は、グラーフ・シュペー號が、もし機會を與へるならば、その強力なる火器により、英の三巡洋艦を撃破するものと觀測してゐた。シュペー號は十一吋砲六門を二つの砲塔に装備してゐる。從つて一薺に砲撃する方向は二つしかないわけである。これをよく知つてゐた少将は、單縦陣を以て進み、これに砲火を集中する際に、シュペー號の側面に出る作戰を取らなかつた。即ちその軍艦三隻を長距離に分散せしめたため、シュペー號は三方向への砲撃を必要とするに至り、行動上また射撃上非常な不利に陥つてしまつた。(以下略)
- ^ 記録ではシュペーに6インチ砲弾17発(エイジャックス、アキリーズ)、8インチ砲弾2発(エクセター)が命中したという[56]。
- ^ (十七日リオデジャネロ發)[61] 英航空母艦アーク・ロイヤル号及戰艦レナウン号は十七日午後當地に到着した/(十七日ロンドン發)海軍省發表、グラーフ・スペー号との血戰に傷つける英巡洋艦エクセター号では戰死将校五、兵士五十六、負傷将校三、兵二十を出した(記事おわり)
- ^ 【プリマス(英國)十五日AP】[65] 舊臘南米ウルグアイ沖合に於けるドイツ袖珍戰艦グラフ・シュペー號との大海戰に参加した英國巡洋艦エクゼツター號は本日南大西洋より當地に歸港したがチャーチル海相は之を歡迎して『當地に於ける諸君の戰友が機雷或はドイツ・ユー・ボートを相手に長期間の錯雜せる戰ひを行つてるに反し諸君はあの華々しい戰闘の好運に惠まれた事を特に祝福する』と述べた 尚ほ昨年十月スカパヽフローに於て撃沈した英國戰闘艦ロイヤル・オーク號と時を同じくして撃沈した旨ドイツ側の主張してた英國戰闘巡洋艦リパルス號は修理の爲め當地に到着して居る(記事おわり)
- ^ 二月十五日エキゼターはプリマスに到箸し、同艦も亦盛なる歡迎を受けた[66]。チャーチル氏は第一海軍軍事委員及びサー・ジョン・シムソンを伴ひ、同艦を歡迎する爲め同港に到り、乗員に對して一場の挨拶を行つた。二月二十三日アジャックス及エキゼターからの派遣隊は倫敦に到り、近衛騎兵觀兵式を擧行せられて國王の閲兵を受けた。此の時國王はリヴァープレート沖の會戰に際して功績ありし人々に對し勲章授與式を行つた。エキゼター、アジャックス兩艦の派遣隊は、それよりギルドホールに於いて倫敦市長の招宴に列し、同時にアキレスの乗員はオークランドに於ける市の時宜に適せる歡迎會に列した。/ 是等の祝典に相應はしき追記としてアドミラル・グラーフ・シュペーの殘骸は同地方にて解體して約千磅で賣却されたことが其の後發表された。(以下略)
- ^ 弱味を發々ホーホー卿「母子放送」で同情喚起 獨―英第四戰線//歐洲覆ふ電波戰[67](中略)怪放送の主は次のやうな對英プロパガンダを發する『グラーフ・シュッペー號のため戰闘力をなくしたエクセター號は何處にゐるか、諸君はエクセター號が南大西洋の海底に藻屑となつてゐないといふ確信をもってゐるのか』 英海軍省はこの質問に遂にたまりかねて『エクセター號の假泊場所は發表することは出來ないが英本國バーミュダ、フォークランド諸島の何れかで修理中である』 と反駁聲明を發している(以下略)
- ^ 木俣滋郎『連合軍艦艇撃沈す』(2013年)94頁では、エクセターが第4巡洋艦戦隊に所属していたと記述する[68]。
- ^ a b 艦隊全滅・惨たる敗北[19]〔【上海特電十六日發】ロンドン來電=イギリス海軍省は十四日夜ジャヴァ方面海戰(スラバヤ、バタビア兩海戰)の敗戰を認め、同日アメリカ海軍省との共同發表の形式を以て其戰況を左の如く發表した 〕 二月二十七日反樞軸聯合艦隊の濠乙巡パース、英甲巡エクゼター、米甲巡ヒューストン、蘭乙巡デ・ロイテル、ジャヴァの五隻はスラバヤ沖に集結、此處でイギリス驅逐艦エレクトラ、ジュピター、エンカウンター、蘭驅逐艦コルテネールと合流しデ・ロイテル坐乗のオランダ海軍少将ドアーマン提督指揮の下に行動を開始した、英米蘭聯合艦隊司令長官ヘルフリツヒ中将は艦列外にあつてこの作戰を指揮してゐた、二十七日午後四時十四分スラバヤ島バウエアン島の中間において日本艦隊と遭遇した、日本驅逐艦隊はこゝに砲門を開いて聯合艦隊に巨彈を集中し始めた、續いてに日本水雷戰隊の第一隊は魚雷攻撃を開始した、米英蘭艦隊はこれを避けるべく行動に移つたが時既に遅く先づ巡洋艦エクゼターは機關部に命中彈を受け忽ち速力を落して艦列から脱落した(中略)(2月28日)同夜エクゼター號は大損傷のためスピードは半減し、エンカウンター號と米驅逐艦ポープに護られスラバヤを出發したところ、三月一日朝エクゼター號より日本巡洋艦隊の襲撃を受けたとの無電があつた、斯くてこれを最後として三艦よりの消息は絶えた(以下略)
- ^ (昭和17年3月2日)〔 二日〇五五二第二水雷戰隊司令官(宛略)[84] 「ス」沖海戰ニ於ケル神通(飛行)長ノ目撃及「デロイテル」乗組信號係将校英「ジヤクソン」大尉訊問ノ結果ヲ綜合スレバ左ノ如シ( )内ハ捕虜陳述
一.参加兵力 巡洋艦五(「デロイテル」「エクゼター」「ヒューストン」「パース」「ジャバ」ノ順)驅逐艦九(英三 米四 蘭二) 晝戰ニ於テ敵反転時巡洋艦一褐色煙ノ蔭ニ姿ヲ没シ他ノ巡洋艦一 一時黒煙ヲ吐キ落伍気味ナリ第一次夜戰参加ハ巡洋艦四驅逐艦六(終始信號甲板ニアリシ爲全般ノ状況不詳ナルモ反転後列中ノ一巡洋艦落伍セルハ確認セリ兩夜戰ニ参加セル巡洋艦ハ四隻ニシテ驅逐艦ハ三隻認メタリ)
二.敵ノ被害 (イ)晝戰 巡洋艦一爆沈一被害アリ(第一項ノ外米蘭驅逐艦各一沈没) (ロ)第二夜戰(デロイテル火災後爆沈「ジヤバ」大火災 長官Adomiral Doorman艦ト運命ヲ共ニセルモノト認ム)
三.晝戰ニ於テ被害發生後大混乱ノ裡ニ急反転シ俄ニ「ジクザク」運動ヲナシツヽアリシ点(捕虜モ確言ス)ニ鑑ミ敵ハ我魚雷ニ依ル被害或ハ雷跡ヲ認メタルニ依リ潜水艦ノ襲撃ト誤認シ之ヲ回避セント努メタルモノノ如シ(略)(ロ)當日参加ノ英艦ハ二月二十六日「バタビヤ」ヨリ「スラバヤ」着 (ハ)敵艦隊ハ「スラバヤ」艦艇ノ殆ンド全力 〕 - ^ 重巡「羽黒」の発射した主砲弾と推定されている[85]。
- ^ 日本軍西部侵攻部隊を邀撃するために出動した連合軍艦隊(巡洋艦ホバート、ダニー、ドラゴン、駆逐艦スカウト、テネドス)は敵艦隊を発見できず、スンダ海峡を経由してインド洋に脱出した[96]。
- ^ 先行してスンダ海峡通過を目論んだ豪州海軍軽巡「パース」と米海軍重巡洋艦「ヒューストン」および蘭海軍駆逐艦「エファーツェン」は[97]、バンタム湾で日本軍上陸船団と護衛部隊と遭遇[96](バタビア沖海戦)、3隻とも撃沈された[98][99]。
- ^ 【○○にて佐藤、坂元兩海軍報道班員二十日發】[108] スラバヤ沖海戰に敵の聯合艦隊を撃滅赫々の偉勲を樹てた無敵艦隊が舳艫相揮銜んで堂々と○○基地に凱旋して來た、世界海戰史上に萬古不滅の燦たる一頁を記録して今ぞ歸港した我無敵の艨艟、而も武威に傲らず聊かの損傷も認めず熱帶の海に浮かぶ鐡城、儼たるその威容を感激の涙して迎へた記者達は砲煙の下に奮戰した○○海軍大佐にスラバヤ沖海戰の生々しい大勝の詳報を聽いた。】(戦闘経過略)
- ^ 第十一航空戦隊の水上機母艦2隻(千歳[要曖昧さ回避]、瑞穂 )からも攻撃隊が発進したが、戦闘終了までに間に合わなかった[112]。
- ^ 日本海軍の駆逐艦は、短艇数隻と浮き輪数個しか艦載していない[126]。
出典
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- 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030043000。
- 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030043100。
- 『昭和17年2月24日~昭和17年3月11日 第2水雷戦隊戦闘詳報(1)』。Ref.C08030093400。
- 『昭和17年2月24日~昭和17年3月11日 第2水雷戦隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030093500。
- 『昭和17年2月24日~昭和17年3月11日 第2水雷戦隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030093600。
- 『昭和17年2月24日~昭和17年3月11日 第2水雷戦隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030093700。
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- ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド2 German Pocket Battleships 1939-45 ドイツ海軍のポケット戦艦 1939 ― 1945』柄澤英一郎〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2006年1月。ISBN 4-499-22899-9。
- 岡部, いさく 著、小川 光二 編『英国軍艦勇者列伝 Legend of British Fighting Ships』(初版)大日本絵画、東京都,千代田区、2012年6月。ISBN 9784499230865。
- 「 HMS“反社会的悪ふざけ号” E級駆逐艦 “E”class destroyer」
- 木俣滋郎『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7。
- 木俣滋郎『連合軍艦艇撃沈す 日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2794-8。
- (7)イギリス重巡洋艦「エクゼター」/(8)オーストラリア軽巡洋艦「パース」
- エドウィン・グレイ『ヒトラーの戦艦 ドイツ戦艦7隻の栄光と悲劇』都島惟男 訳、光人社〈光人社NF文庫〉、2002年4月。ISBN 4-7698-2341-X。
- ラッセル・グレンフェル「第十一章 蘭印の敗北」『プリンス オブ ウエルスの最期 主力艦隊シンガポールへ 日本勝利の記録』田中啓眞 訳、錦正社、2008年8月(原著1953年)。ISBN 978-4-7646-0326-4。
- (監修)毒島刀也、(著者)門田充弘、神奈川憲、小高正稔、後藤仁、谷井成章、山崎龍『COSMIC BOOK 世界の艦艇完全カタログ 第一次世界大戦から現代までの全1249種』株式会社コズミック出版〈ミリタリーシリーズ〉、2019年7月。ISBN 978-4-7747-8657-5。
- 重本俊一(当時、妙高乗組)「第一章 南溟の砲戦」『落日の日本艦隊 体験的連合艦隊始末記』光人社〈光人社NF文庫〉、2014年7月。ISBN 978-4-7698-2841-9。
- クリストファー・ショアーズ、ブライアン・カル『南方進攻航空戦 1941 ― 1942 BLOODY SHAMBLES』伊沢保穂 訳、株式会社大日本絵画、2002年1月。ISBN 4-499-22770-4。
- 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『写真シリーズ 軍艦の構造美を探る(3) 巡洋艦 WORLD CRUISERS IN REVIEW』株式会社海人社〈世界の艦船 別冊〉、2007年6月。
- 編集人 木津徹、発行人 石渡長門「<第2部> 条約時代の巡洋艦」『世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史』株式会社海人社〈2010年1月号増刊(通算第718号)〉、2009年12月。
- デイヴィッド・トーマス (著)関野 英夫 (翻訳)、『スラバヤ沖海戦―連合国艦隊潰滅す』、早川書房、1969年。252p
- イアン・トール『太平洋の試練(下) 真珠湾からミッドウェイまで』村上和久 訳 、文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6。
- チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲・富永謙吾 訳、恒文社、1962年12月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年5月。
- 橋本衛『特型駆逐艦「雷」海戦記 一砲術員の見た戦場の実相』光人社〈光人社NF文庫〉、2014年8月(原著1999年)。ISBN 978-4-7698-2255-4。
- 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7。
- リチャード・ハンブル「3 ポケット戦艦「シュペー」」『壮烈!ドイツ艦隊 悲劇の戦艦「ビスマルク」』実松譲 訳、サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫 26〉、1985年12月。ISBN 4-383-02445-9。
- ドナルド・マッキンタイア「第三章 国旗の名誉のために死ね〈グラフ・シュペー〉の最期 ― ラプラタ沖海戦」『海戦 ― 連合軍対ヒトラー ―』関野英夫、福島勉 訳、早川書房、1971年7月。
- 「丸」編集部編「萱嶋浩一 重巡「那智」神技の砲雷戦を語れ」『巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9。 萱嶋は海軍大尉、那智主砲発令所長。
- 三神國隆「第1章 スラバヤ沖海戦とオプテンノール号」『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年1月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2443-2。
- 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「イギリスの巡洋艦」『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3。
- 安永弘『死闘の水偵隊』朝日ソノラマ文庫、1994年。 著者は「妙高」偵察機操縦者として戦況を観測・報告した。
- 安永弘『サムライ索敵機 敵空母見ゆ! 予科練パイロット3300時間の死闘』光人社、2002年。 朝日ソノラマ文庫の改訂
- 吉田俊雄「第二章 太平洋の嵐」『指揮官たちの太平洋戦争 青年士官は何を考え、どうしようとしたか』光人社〈光人社NF文庫〉、1996年9月(原著1984年)。ISBN 4-7698-2134-4。
- (117-124頁) 戦場の掟 <スラバヤ沖海戦 ※「足柄」飛行長・越智武雄大尉>
- 歴史群像編集部編「雨倉孝之 人物抄伝/太平洋の群像 駆逐隊司令・駆逐艦艦長列伝(1)」『水雷戦隊I 特型駆逐艦 米英を震撼させたスーパー・デストロイヤーの全貌』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.18〉、1998年5月。ISBN 4-05-601768--9。
- (144-151頁)「漣」砲手の海戦秘話―吹雪型駆逐艦「漣」後部三番砲塔・右砲一番砲手が綴る海の戦いの生々しい実相と「漣」の最期。― 文 = 川島俊英
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版』海軍研究社、1935年5月 。
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』海軍研究社、1937年2月。
- 海軍有終會編輯部同人 共譯『一九四〇年版 ブラッセー海軍年鑑(譯書) ― 本文全譯 ―』海軍有終會、1940年10月 。
- タフレール他「第一篇 豆戦艦スペーの最後」『独英海戦記』聖紀書房、1941年6月 。
- 中外商業新報政治部 編「第四章 今次大戦に於ける海戦の様相」『烈強の臨戦態勢 経済力より見たる抗戦力』東洋経済新報社、1941年12月 。
- 海軍中佐早川成治「二、日英米最新巡洋艦」『最新國防叢書 第五輯 巡洋艦の話』科学主義工業社、1938年3月、09-14頁 。
- 若林秀一「第八章 英國海軍の戰闘力」『英国はいつまで戦へるか』三栄社、1941年4月 。
- Hitler's Ghost Ships: Graf Spee, Schamhorst and Disguised German Raiders, University of Plymouth Press, 2012, ISBN 978-1-84102-308-3
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- HMS Exeter Final Days
- How H.M.S. Exeter Fought Her Last Battle, The War Illustrated, 1 February 1946.
- Photos of Exeter