イーゴリ・ヤロスラヴィチ
表示
イーゴリ・ヤロスラヴィチ Игорь Ярославич | |
---|---|
ヴォルィーニ公 スモレンスク公 | |
在位 |
ヴォルィーニ公:1054年 - 1057年 スモレンスク公:1057年 - 1060年 |
出生 |
1036年? |
死去 |
1060年 |
子女 |
ダヴィド フセヴォロド |
家名 | リューリク家 |
父親 | キエフ大公ヤロスラフ1世 |
母親 | インゲゲルド・アヴ・スヴェーリエ |
イーゴリ・ヤロスラヴィチ(ロシア語: Игорь Ярославич、聖名ゲオルギー、1036年? - 1060年)は、ヤロスラフ1世とインゲゲルド(en)との間の子である。ヴォルィーニ公(在位:1054年 - 1057年)、スモレンスク公(在位:1057年 - 1060年)。
誕生年と兄弟順
[編集]広く公認されているのは、タチーシチェフ(ru)による「1036年生まれの六男」という説である。一方、数人の歴史家は、史料を元に「1034年 - 1035年生まれの五男」と推測している。とりわけ『原初年代記』の、「スモレンスクでヴャチェスラフ(イーゴリの兄弟)が死去した際に、イーゴリはウラジーミルより移された」という記述[1]を重視している[2]。
生涯
[編集]1054年、父の遺産相続としてヴォルィーニ公国を得た。1057年にスモレンスク公ヴャチェスラフが死に、スモレンスク公となった[3]。しかしイーゴリは1060年[1]、兄弟のヴャチェスラフのように若すぎる死を迎えた。死はおそらく24歳ごろのことであり、後にはダヴィドとフセヴォロドという幼い子が残された。イーゴリの遺児は一族の年長者の決定により、父の公位を継げない(イズゴイ・クニャージとして扱われた)ことが決まった。
なお、信憑性には欠けるものの、ヤン・ドゥウゴシュの記述ではイーゴリは、ボレスワフ2世がイジャスラフ1世と共にルーシに来た際に、彼の元に屈したという。
妻子
[編集]妻については不明である。従来はオーラミュンデ伯オットー1世の娘クニグンデと思われてきたが、現在は否定されている(ヤロポルク・イジャスラヴィチの妻と考えられている)。子には以下の人物がいる。
出典
[編集]- ^ a b 國本哲男 『ロシア原初年代記』186頁
- ^ Пресняков А. Е. Княжое право в Древней Руси. Лекции по русской истории. Киевская Русь — М.: Наука, 1993
- ^ 國本哲男 『ロシア原初年代記』184頁
参考文献
[編集]- Игорь Ярославич (1036—1060+)
- Игорь Ярославич (Большая биографическая энциклопедия)
- События при жизни сыновей Ярослава I
- Плахонин А. Г. Потомство Владимира Ярославича и Волынь
- Тихомиров Л. А. Монархическая государственность
- Русско-Венгерские отношения второй трети XI века.
- 國本哲男他訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。
|
|
|
|