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イヴリーの戦いにおけるアンリ4世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『イヴリーの戦いにおけるアンリ4世』
イタリア語: Enrico IV alla battaglia d'Ivry
英語: Henry IV at the Battle of Ivry
作者ピーテル・パウル・ルーベンス
製作年1627年
種類キャンバス上に油彩
寸法367 cm × 693 cm (144 in × 273 in)
所蔵ウフィツィ美術館フィレンツェ

イヴリーの戦いにおけるアンリ4世』(イヴリーのたたかいにおけるアンリよんせい、: Enrico IV alla battaglia d'Ivry: Henry IV at the Battle of Ivry)は、フランドルバロック期の巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスが1627年にキャンバス上に油彩で制作した絵画で、縦367センチ、横693センチのサイズである。メディチ家出身のマリー・ド・メディシスが夫のアンリ4世 (フランス王) の輝かしい業績を賛美するために委嘱した作品で[1]、『イヴリーの戦いの後にパリへ凱旋するアンリ4世』と対をなしている[2][3]。両作品とも、1686年にコジモ3世に購入された[2][3]。1773年以来、フィレンツェウフィツィ美術館に所蔵されている[1][2][3]

作品

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ルーベンス『イヴリーの戦いの後にパリへ凱旋するアンリ4世』 (ウフィツィ美術館、フィレンツェ)
ジュリオ・ロマーノ『ミルウィウス橋の戦い』 (1636-1639年)、ラファエロの間ヴァチカン宮殿

本作と『イヴリーの戦いの後にパリへ凱旋するアンリ4世』は、アントウェルペンの司教座聖堂参事会員フレデリク・ランスロット (Frédéric Lancelot) のコレクションに由来する[2][3]。1686年2月、コジモ3世の秘書官および相談役であったアッポローニオ・パッセッティは、これら2枚の絵画について鑑定するように指示されている。両作品は1687年1月にフィレンツェに到着後、フランドルからの輸送による損傷を補修するため修復が施された[2][3]。その後、コジモ3世はメディチ家の歴史を讃えたいと考え、両作品は1773年までピッティ宮殿に飾られた[2]

本作と『イヴリーの戦いの後にパリへ凱旋するアンリ4世』は、「マリー・ド・メディシスの生涯」 (ルーヴル美術館) の対作品となるべく制作された連作に属していたに違いない[2]。この連作は本来、「マリー・ド・メディシスの生涯」の連作と同様、パリリュクサンブール宮殿を装飾するべく意図されたものであった[3]。しかし、マリーと対立し、彼女をブロア城に幽閉した枢機卿リシュリューの反対にあい、連作は完成にいたらなかった[2][3][4]。ルーベンスは、デュピイ宛ての書簡に「これまでに費やした労力はすべて無に帰した」と記している[4]。その連作のために6点のみが実際に制作され、ウフィツィ美術館の両作品以外に、『パリ近郊をめぐる戦い』 (チューリヒビュールレ・コレクション旧蔵)、『アルクの戦いでのアンリ4世』 (ミュンヘンアルテ・ピナコテーク)、『カーンの包囲』 (ヨーテボリ美術館) が知られている[2][3]。もう1点は失われている[3]

これらの作品には、ルーベンスがイタリアでの数年間の滞在の間に得たあらゆる図像的源泉が活用されている[2]。本作については、ヴァチカン宮殿にある「ラファエロの間」の1つ「コンスタンティヌスの間」の壮大な『ミルウィウス橋の戦い』への、ルーベンスの敬意を認めなくてはならない[2]

脚注

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  1. ^ a b ルチアーノ・ベルティ、アンナ・マリーア・ペトリオーリ・トファニ、カテリーナ・カネヴァ 1994年、210頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア』、2013刊行、256-257頁
  3. ^ a b c d e f g h i Enrico IV alla battaglia di Ivry”. Catalogo generale dei Beni Culturaliサイト(イタリア語). 2024年8月10日閲覧。
  4. ^ a b 山崎正和・高橋裕子 1982年、87頁。

参考文献

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外部リンク

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