アルトゥール・カウフマン (法学者)
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アルトゥール・カウフマン(Arthur Kaufmann、1923年5月10日 - 2001年4月11日)は、ドイツの刑法学者、法哲学者。ミュンヘン大学名誉教授。
第二次世界大戦からの復員後、グスタフ・ラートブルフと出会い、法学の道へと進んだ。ラートブルフの「最後の弟子」でもある[1]。数多くの学術論文を発表しており、外国語に翻訳されているものも多い。
生涯
[編集]カウフマンとラートブルフとの出会いは、カウフマン『グスタフ・ラートブルフ―生涯と作品』に詳しい。それによるとカウフマンは、兵役中、「器具的観察を不可能にしたような障害」を負って、物理学の道へと進むことは不可能となっていた。復員後、自分を受け入れてくれる大学を探して、大学町から大学町へとさまよっていた際に、ハイデルベルク大学でラートブルフに出会ったのである[2]。
経歴
[編集]- 1923年5月10日: 南ドイツのホーエントヴィールのジンゲンに生まれる。父は国民経済学者、政治家のエドムント・カウフマン。ジンゲンの小学校の課程を修了後、マインツのギムナジウムに通った。
- 1941年: 大学入学資格を獲得。フランクフルト・アム・マイン大学に入学登録。まもなく兵役へ。
- 1941年 - 1945年: 兵役。デンマーク上空で撃墜される[3]。
- 1945年 - 1949年: ハイデルベルク大学で法律学を研究。法哲学者グスタフ・ラートブルフと出会う。
- 1948年: 法曹のための第一次国家試験合格。
- 1949年: ラートブルフの下で法学博士が授与される(「刑法の責任論における不法の意識」)。
- 1951年: 法曹のための第二次国家試験合格。
- 1952年 - 1957年: カールスルーエ地方裁判所判事に就任。
- 1957年 - 1960年: ハイデルベルク大学で哲学の研究。
- 1960年: ハイデルベルク大学で刑法、刑事訴訟法及び法哲学のための教授資格取得(教授資格論文「責任原理」)
- 1960年 - 1969年: ザールブリュッケンのザールラント大学正教授。法および社会哲学研究所所長。
- 1969年 - : カール・エンギッシュの後任としてミュンヘン大学(ルートヴィッヒ・マクシミリアン)正教授になる[4]。法哲学および法情報学研究所所長。
- 1989年 - : ミュンヘン大学名誉教授(後任は、ローター・フィリップス教授、ベルント・シューネマン教授)
著書
[編集]- Das Schuldprinzip (Carl Winter Universität 1st1961, 2nd1976)、甲斐克則訳『責任原理』九州大学出版会、2000年。
- Rechtsphilosophie (C.H.Beck 1997)、上田健二訳『法哲学 第2版』ミネルヴァ書房、2006年。
など他多数。
参考文献
[編集]- シュテファン・グローテ(上田健二訳)「『第3の道』を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学」『同志社法学』第320号(59巻第1号)
- シュテファン・グローテ(上田健二訳)「『第3の道』を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学(2)」『同志社法学』第322号(59巻第3号)
- シュテファン・グローテ(上田健二訳)「『第3の道』を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学(3)」『同志社法学』第323号(59巻第4号)
- 宮澤浩一編『西ドイツ刑法学 学者編』成文堂、1978年。
脚注
[編集]- ^ 宮澤浩一編『西ドイツ刑法学 学者編』252頁。また、カウフマン著『法哲学 第2版』の訳者である上田健二は、カウフマンのことを、ラートブルフの「晩年の弟子」であり、ラートブルフ法哲学の「正統な発展的継承者」であるとしている(上田健二著『生命の刑法学』ミネルヴァ書房、2002年、2頁参照)。
- ^ アルトゥール・カウフマン(上田健二訳)『グスタフ・ラートブルフー生涯と作品』(同志社法学、第326号(60巻第一号)412頁。
- ^ 『法哲学 第2版』433頁。宮澤浩一編『西ドイツ刑法学 学者編』(成文堂、1978年)においては「ノールウェー空戦で負傷」と書かれている。
- ^ 『法哲学 第2版』436頁。
- ^ 『転換期の刑法哲学』や『法哲学 第2版』などに基づいて作成。