アトランタ (CL-104)
アトランタ | |
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基本情報 | |
建造所 | ニュージャージー州カムデン、ニューヨーク造船所 |
運用者 | アメリカ海軍 |
艦種 | 軽巡洋艦 |
級名 | クリーブランド級 |
艦歴 | |
起工 | 1943年1月25日 |
進水 | 1944年2月6日 |
就役 | 1944年12月3日 |
退役 | 1949年7月1日 |
除籍 | 1970年4月1日 |
その後 | 1970年10月1日、標的艦として海没処分 |
要目 | |
基準排水量 | 11,744 トン |
満載排水量 | 14,131 トン |
全長 | 610フィート1インチ (185.95 m) |
最大幅 | 66フィート4インチ (20.22 m) |
吃水 | 24フィート6インチ (7.47 m) |
主缶 | バブコック & ウィルコックス製水管ボイラー×4基 |
主機 | GE式ギヤード蒸気タービン×4基 |
出力 | 100,000馬力 (75,000 kW) |
推進器 | スクリュープロペラ×4軸 |
最大速力 | 32.5ノット (60.2 km/h) |
航続距離 | 11,000海里 (20,000 km) / 15ノット |
乗員 | 1,426名 |
兵装 |
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装甲 |
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搭載機 |
水上機×4機 (カタパルト×2基) |
アトランタ (USS Atlanta, CL-104) は、アメリカ海軍の巡洋艦。クリーブランド級軽巡洋艦の26番艦。艦名はジョージア州アトランタに因む。その名を持つ艦としては4隻目。
艦歴
[編集]「アトランタ」はニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で1943年1月25日に起工。1944年2月6日、アトランタが舞台のベストセラー小説『風と共に去りぬ』の作者でアトランタ出身・在住であったマーガレット・ミッチェルによって進水。1944年12月3日にB. H. コルイヤー艦長の指揮下就役する。
就役後、1945年1月5日に出航しチェサピーク湾およびカリブ海で整調訓練を行う。訓練完了後、2月14日にバージニア州ノーフォークに到着、続いてフィラデルフィア沖に移動する。フィラデルフィア海軍工廠での作業後、3月27日に太平洋へ向けて出航する。アトランタはキューバのグアンタナモ湾に立ち寄り、パナマ運河を通過後4月18日に真珠湾に到着した。4月19日から5月1日までハワイ水域で訓練演習を行い、5月12日にウルシー環礁に向けて出航、第58任務部隊に合流する。
5月22日から27日まで「アトランタ」は高速空母任務部隊と共に沖縄近海で作戦活動に従事し、空母艦載機部隊が沖縄および九州に攻撃を行うのを支援した。任務群は6月13日に解体され、翌日「アトランタ」はレイテ島のサンペドロ湾に入港した。2週間の維持活動後、7月1日に第38.1任務群と共に出航、再び日本本土を攻撃する空母部隊の護衛任務に従事した。これらの作戦中、「アトランタ」は何度かの本州および北海道に対する砲撃任務にも参加した。
1945年8月15日の日本の降伏時、「アトランタ」は本州沖合で作戦活動中であった。その後9月16日に東京湾に入港し、9月29日まで留まった。
「アトランタ」は500名以上の乗客を乗せ、9月30日に帰国の途に就く。途中グアムに立ち寄り、10月24日にワシントン州シアトルに到着した。「アトランタ」は広範囲オーバーホールのためカリフォルニア州のターミナル・アイランドの造船所に入渠した。その後1946年1月3日に九州の佐世保に向けて出航した。
1月から6月まで「アトランタ」はフィリピンのマニラ、中国の青島、上海、サイパン島、沖縄、長崎、鹿児島、横須賀といった各地の港を訪れた。6月にグアム経由で帰国し、27日にカリフォルニア州サンペドロに到着する。その2日後、オーバーホールのためサンフランシスコ海軍造船所入りした。10月8日、公試のためサンディエゴに向かった。
「アトランタ」は1947年2月23日まで南カリフォルニアに留まり、その後ハワイ水域での艦隊演習に向けて出航した。5月1日に第38任務部隊と共に真珠湾を出航しオーストラリアに向かう。「アトランタ」は5月27日までシドニーに留まり、その後珊瑚海、ガダルカナル島、ツラギ島、グアムを経由してサンペドロに向かった。サンペドロには7月28日に到着した。カリフォルニア沖での一連の艦隊演習後、9月28日に真珠湾に戻り、続いて横須賀に向かう。横須賀で2日間停泊した後青島に向けて出航した。この配備の間、香港、基隆、シンガポールを訪れている。1948年4月27日、出航しクェゼリン環礁、真珠湾を経由してサンディエゴに向かった。
5月19日に帰国すると、「アトランタ」はサンディエゴ沖で訓練を行う。6月29日から7月6日までアラスカ州のジュノーを訪れ、7月12日にシアトルに到着すると広範囲オーバーホールが行われた。その後11月20日にサンディエゴに帰還し、沿岸訓練を行う。
1949年2月初めに「アトランタ」は予備役兵を乗せサンディエゴとサンフランシスコ間で訓練巡航を行う。3月1日にメア・アイランド海軍工廠に入渠し不活性化が行われた。1949年7月1日に退役し、太平洋予備役艦隊で保管された。1962年10月1日に除籍され、処分が指定された。
しかしながら、その経歴は終了しなかった。「アトランタ」はサンフランシスコ海軍造船所で広範囲な改修が行われ、1964年5月15日に IX-304 (非分類雑役船)に艦種変更の上再就役した。高エネルギー空中爆発が船体に及ぼす影響を研究するための試験艦となり、兵装が撤去された上様々なレーダー、観測機器が装備された。こういった機器が爆風の影響に耐えられるかどうかを研究するための実験が1965年2月にハワイのカホオラウェ島で行われた。この実験は「セーラーハット作戦」として知られている。「アトランタ」は爆風の影響を受けたものの、沈没はしなかった。その後1965年の後半にカリフォルニア州ストックトンに係留され、1970年4月1日に再び除籍された。10月1日にサンクレメンテ島での爆発実験により海没処分された。
「アトランタ」は第二次世界大戦の戦功で2個の従軍星章を受章した。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- navsource.org
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。