アグネス・フォン・エスターライヒ
アグネス・フォン・エスターライヒ Agnes von Österreich | |
---|---|
ハンガリー王妃 | |
| |
在位 | 1168年 - 1172年 |
別称号 | ケルンテン公妃(1173年 - 1181年) |
出生 |
1151年頃 オーストリア辺境伯領 |
死去 |
1182年1月13日 オーストリア公国 |
埋葬 | オーストリア公国、ウィーン、ショッテン修道院 |
結婚 |
1168年 1173年 |
配偶者 | ハンガリー王イシュトヴァーン3世 |
ケルンテン公ヘルマン | |
子女 |
ウルリヒ2世 ベルンハルト |
家名 | バーベンベルク家 |
父親 | ハインリヒ2世 |
母親 | テオドラ・コムネナ |
アグネス・フォン・エスターライヒ(Agnes von Österreich, 1151年? - 1182年1月13日)はバーベンベルク家の人物。1168年から1172年まで、ハンガリーのイシュトヴァーン3世の妻としてハンガリー王妃となり、夫の死後、ケルンテン公ヘルマン2世と再婚した。
生涯
[編集]アグネスは、バーベンベルク家出身のオーストリア公ハインリヒ2世と東ローマ帝国のマヌエル1世の姪テオドラ・コムネナの長女として誕生した。
1166年、マヌエル1世とハンガリー王国のイシュトヴァーン3世の和平を仲介していたハインリヒ2世は、アグネスとイシュトヴァーン3世との結婚を提案した。が、すでにイシュトヴァーン3世はハリチのヤロスラフ・オシュミスルの娘と結婚が決まっていた。しかしこの結婚はすぐに終わり、婚姻無効となって彼女は1168年に父親に送り返された。オーストリアとの交渉が再開され、アグネスは同じ年にイシュトヴァーン3世と結婚した[1][2][3] 。
アグネスは同年長男のベーラを産んだが夭折した。夫は、1172年3月4日にハインリヒ2世と会った後に突然急死した。アグネスは夫の死の直前に二番目の男児を産んだが、出生直後に死亡した。
夫の葬儀の直後、アグネスは父に連れられてハンガリーを去った。1年後の1173年、シュポンハイム家のケルンテン公ヘルマン2世と結婚した。アグネスとヘルマン2世はウルリヒ2世とベルンハルトの2人の息子を儲けた。
ヘルマン2世は1181年に亡くなり、アグネスも1年後に亡くなった。アグネスは両親と共にウィーンに埋葬された。
子女
[編集]最初の夫ハンガリー王イシュトヴァーン3世との間に2子を儲けたがどちらも夭折した。
2人目の夫ケルンテン公ヘルマンとの間に2子を儲けた。
脚注
[編集]- ^ https://books.google.hu/books?q=agnes+of+austria+stephen+III&lr=&sa=N&start=0
- ^ “Stephen III - king of Hungary”. 2017年12月28日閲覧。
- ^ Comyn, Sir Robert Buckley (1 January 1851). “The history of the Western empire: from its restoration by Charlemagne to the accession of Charles V.”. W. H. Allen. 2017年12月28日閲覧。