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本間千代子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あたらしかずよから転送)
ほんま ちよこ
本間 千代子
本間 千代子
『映画情報』1965年1月号(国際情報社)より
別名義 あたらしかずよ
生年月日 (1945-01-29) 1945年1月29日(79歳)
出生地 日本の旗 日本長野県上伊那郡伊那町(現:伊那市
職業 歌手女優
ジャンル テレビドラマ映画レコード
配偶者 ひのきしんじ
主な作品

『若草の丘』
『愛しあうには早すぎて』
『白いボール』
映画
『君たちがいて僕がいた』
『十七才のこの胸に』
『あの雲に歌おう』
ドラマ
太閤記
受賞
第九回エランドール賞新人賞(1964年
日本作詩大賞入賞(1978年
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本間 千代子(ほんま ちよこ、1945年1月29日 - )は、日本歌手女優。本名同じ[1]長野県上伊那郡伊那町(現:伊那市)生まれ[2][3][4]、生後8ヵ月から[3]東京都杉並区高井戸育ち[3][4][5]。身長162cm、体重45kg、B83cm、W53cm、H84cm(1964年4月)[1]音楽プロデューサーひのきしんじ

来歴

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生い立ち

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父は日本銀行勤務で、二男二女の次女として[1][6]戦時疎開先の長野県上伊那郡伊那町(現:伊那市)で生まれる[4]。本間家は佐渡本間氏の出で、現在の新潟県柏崎市で先祖代々地主を務めた[7]。また、酒田本間氏とも同族の関係になる[7]。終戦後の同年10月に東京都杉並区西荻窪に移り、近くの「かしの実幼稚園」に入る。そのころから歌に興味を持ち、NHKうたのおばさん」として知られ、後に参議院議員を務めた安西愛子から童謡を習う。

杉並区立高井戸第四小学校に通うようになってからは「みすず児童合唱団」で歌の勉強を続ける。先生はやがて姉の夫となる当時高校3年生であった冨田勲(後にシンセサイザーアーティストとして著名)であった[8]。その後ポリドール児童合唱団に所属し、1951年(昭和26年)1月にはNHKから『けんけん小雉』『お菓子の汽車』が放送される(同合唱団には倍賞千恵子がいて、その後も交友が続く)。

歌手として

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小学校4年のとき杉並の杉並区立松庵小学校に転校。この頃から神奈川県横浜市鶴見区にあった「ひばり児童合唱団」に往復4時間かけて通うようになる(同合唱団には松島トモ子がいて,その後も友好を保つ)。合唱団団長の皆川和子に認められ、洗足池近くの氏の家で個人レッスンを受けるようになり(この頃に同学年の吉永小百合も個人レッスンを受けており、その後も友好を保つ)[1]、オペレッタ『みにくいあひるの子』に主演し松島トモ子主演『魔法の笛』にも出演する。小学校5年夏から[3]コロムビア専属の童謡歌手となる[3][4][6][9][10](コロムビアでは30数曲の童謡を吹き込む)。デビュー当時から、何かと吉永の対抗馬として扱われたが[6]、歌の世界では吉永より年期が入っている[6]

女優として

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1957年(昭和32年)、姉明子と同じ三鷹台にある立教女学院中等部に入学[4]東映の音楽を担当していた義兄の冨田勲の勧めで東映東京撮影所(以下、東映東京)に出入りするようになり、「かわいい子が来てるじゃないか」と所内で評判となり[3]、山崎真一郎東映東京所長の知遇を得て、1958年(昭和33年)8月東映児童研修所の第1期生となる[4][11]。研修所を卒業し東映児童劇団に進み、立教女学院高等学校卒業後[9]、東映入社[2][9]。本間は高倉健の熱烈なファンで[12]、「彼がいるから東映に入ったのかもしれない」と話している[12]。 

すぐに堀内甲監督の児童向け映画『六人姉妹』に出演。この映画は翌年教育映画最優秀作品賞を受賞、同時に東映社長の大川博から顕彰される(教育映画は『くつした』『空をかける友情』など7本に出演)[4]1961年(昭和36年)11月にクランクインした高倉健主演のアクション映画でのちにシリーズ化される『恋と太陽とギャング』に千葉真一の妹役・留美子で本格デビュー[2][4]。その4か月後『歌う明星・青春がいっぱい』に渥美清の妹役・千代子として出演し、清純派としての映画スターの地位を確立する。1963年(昭和38年)9月タクシー乗車中に交通事故に合い額を切るなどで10日間入院するがその後復帰。

1963年頃から清楚な容姿を生かして青春映画に出演。また透き通る清純な声で多くの青春歌謡を歌った。愛称は「チョコ[注 1]」。ビデオが普及する少し前だったため残された映像は少なく、幻の青春スターでもある。代表曲は『若草の丘』『愛しあうには早すぎて』『白いボール』(王貞治とのデュエット[13])などで、LP3枚、EP20数枚のレコードを出した。代表主演青春映画は『君たちがいて僕がいた』『十七才のこの胸に』『あの雲に歌おう』など、一部はDVDで市販されている。

1964年(昭和39年)には、日本映画製作者協会選定による第9回エランドール賞新人賞市川染五郎松原智恵子などと共に受ける。これという実績も持たないうちに[14]、スターダムに入り込み[14]、東映のアイドルスターとして人気を博す[2]。爆破狂草加次郎を名乗るものから脅迫文が届き警察沙汰になって世間を驚かせた(草加次郎事件は未解決)。当時雑誌(『明星』、『近代映画』など)の人気投票で吉永小百合を抜いて1位になることもあり[9][注 2]ブロマイド売上げでも高位をキープしていた[注 3]

しかし、本間が在籍した当時の東映東京所長が岡田茂だったことが本間にとっては非常に不幸だった[15][16][17]。本間をスカウトした山崎真一郎は、高齢だったのか[18][19]、1962年1月11日付けで取締役嘱託になって京都に転勤になり[20]、関西地区傍系事業担当の後[20]、1962年10月の岡田茂と今田智憲の取締役選任と同時に東映を退社した[21]。大川博東映社長は早くから、最終的切札として岡田と今田の両輪で、東映の映画部門を担いたいと考えていた[22]。当時の東映は企画の最終決定権を坪井与(與)企画本部長と東西両撮影所長、つまり岡田東映東京所長と高橋勇東映京都撮影所(以下、東映京都)所長の三人が持っていた[23]。坪井与も「映画界が厳しい今の時代には、映画の企画や営業は若い人がやるべき。岡田君と今田君はまさに適役」などと岡田と今田を全面支援した[22]。岡田所長が"不良性感度"を標榜し[24]、これを体現する鶴田浩二高倉健梅宮辰夫緑魔子佐久間良子らを好んで使い[15][25][26]、本間を"善良性"の強く見られる女優と評したため[15]、役に恵まれなかった[15]。本間自身も「東映に入社したら"ギャング映画"ばかりなんです。私なんか親分の娘とか妹に使われるだけでしょ。このまま便利屋で終わってしまうんじゃないかと不安になって、それでテレビに出て役柄を広げたいと思ったんですが、テレビドラマには出させてくれない。テレビでも音楽番組ならいいというんで、小学校の頃やっていた歌をもう一度本格的に勉強しはじめたんです」[9]やくざ映画のお付き合いはイヤ!」[12]「エロ映画は嫌い!」[16]「生意気なようだけど、今の映画って『私、今日映画に行くわ』っていうのが恥ずかしいものばかり」[27]三流エロ雑誌みたいな映画にはこちらからお断り」[6]などと岡田の企画する映画を毛嫌いし[6][12][16]、ナマイキ女優といわれた[4][28]。いくら話を持って行っても断ってばかりのため[16]、人気はあっても本間の映画は企画されなくなった[16]。本間の人気はプロマイドだけで[16]、本間主演の映画は客が入らず[16]。そこで舟木一夫や、西郷輝彦梶光夫などの人気歌手と共演させると決まってゴシップを飛ばされるため、女性ファンから反感を買った[8][16][29]。岡田は佐久間良子がお気に入りだったから[15][26]、本間の当初のライバルだった佐久間と差が付いた[15]。岡田が1964年2月に東映京都所長に転任した後、後任の東映東京所長・辻野力弥は、本間に歌謡青春路線を企画してくれ[25]、映画出演22本目にして初主演作[1]『君たちがいて僕がいた』を皮切りに[9][14][30]、青春スターのトップに押し出したが[9][14]、半年で本社企画部製作本部次長に転任[25][31]。1964年9月30日付けで、後任所長は岡田の盟友・今田智憲に交代した[25]

1963年後半から1964年にかけて、エロを売りものにした『五番町夕霧楼』(東映)や『にっぽん昆虫記』(日活)、『砂の女』(勅使河原プロ製作、東宝配給)などの大ヒットの影響で[32][33]、この反動から、同じ1964年に『愛と死をみつめて』の原作やテレビドラマ・映画の大ヒットで、"純愛ブーム"が興ったことから[34]、本間にとっては追い風が吹き[34]、今田東京撮影所長も最初は"清純路線""青春路線"を敷くと明言し[25][29]、本間主演で『野菊の如き君なりき』(『野菊の墓」』の再映画化)の企画を上げたが[34]、実現しなかった[34]ハワイロケまでやった『夢のハワイで盆踊り』は興行的に惨敗[14]。当時の東映は東西の撮影所とも成人向け映画が多く[31]、本間が西郷輝彦と共演した『十七才のこの胸に』は、適当な併映作がなく、公開が決まらず[31]。あれこれ思案の結果、佐久間良子主演で1961年に評判を呼んだ純愛映画『故郷は緑なりき』のリバイバルと併映した[31]。清純な乙女を演じた佐久間はその翌週に『肉体の盛装』でまたたくまに熟しきった女体に豹変して登場し[31]、併映作を決めずに『十七才のこの胸に』を製作した東映の混迷ぶりは映画関係者の物笑いのタネになった[31]。今田が岡田路線に呼応して[22]東映東京でも「夜の青春」をシリーズ化したり[22]、「昭和残侠伝シリーズ」を始めるなど[22]、本間にとっての状況が悪化した[15][16][25]。1964年以降、東映は岡田茂の指揮下で[35]エロ暴力を前面に押し出した荒々しい企画路線に傾斜し[6][8][35][36]、東映で唯一の青春路線の担い手だった本間は出番なしとなった[2][6][8][12][37]。青春路線は後退し[17]、1965年5月公開の『おゝい・雲!』以降は干された状況になった[12][27]。同年5月22日、急性盲腸炎により入院、手術、月末には退院するが再度入院し翌6月11日に退院の上、翌日には活動再開した。1965年6月には東宝に貸し出して日劇でワンマンショーを開いたり[8][14][注 4]、東映が当時、大川橋蔵をメインに明治座で興行を打っていた東映歌舞伎で橋蔵の相手役をさせたが、どちらも評判が芳しくなかった[8][14][27]

1965年2月から放送された『チコといっしょに』(日本テレビ)や、同年のNHK大河ドラマ太閤記』で豊臣五奉行の一人浅野長政の妻ややとして出演し、お茶の間の人気を得る[9]。この頃を中心に多くのレコードを吹き込み、青春映画に出演する(「主な出演」節を参照)。以降は民音労音主催の歌の仕事をこなす[8][12]。東映は小川知子城野ゆき大原麗子ら、次の世代の売り出しにシフトした[17][38]。本間の 1966年(昭和41年)の東映主要スター起用方針で本間は[39]、興行不振の続く大川橋蔵[39]、会社と揉めていた三田佳子らと同じ[40]、当分の間起用を静観というDグループに入れられた[39][41][42]。今田所長は1965年に本間を売り出すと公言していたが[25][42]、年末にDグループに入れるという冷遇ぶりであった[42]

1966年(昭和41年)6月5日、バスを連ねてファンと一緒に千葉県稲毛海岸汐干狩りを行う[43]。同年7月公開『大忍術映画 ワタリ』で一年半ぶりに映画出演[44]。出演後東映を退社してフリーとなる[45]

1966年8月、歌手の守屋浩と婚約を発表[46]。守屋との交際は4年越しだったが[46]、世間の関心を呼んだのは、守屋が創価学会員[46]、本間が熱心なクリスチャンだったため[46]、二人の結婚がなるのかということだった[46]。創価学会は当時はまだ世間にあまり知られていなかった[47]。「信仰の違いは問題にならない」と二人は話していたが[46]、結局、本間が改宗[46][48]1967年(昭和42年)1月[45]、守屋と結婚した[2][45][注 5]。後に離婚[2]

その後

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1976年(昭和51年)、ひばり児童合唱団時代からの幼なじみであったひのきしんじと再婚して歌手業と女優業から引退している。また「あたらしかずよ」の名義で作詞を手掛け、その作品『熱愛』(歌・五木ひろし)は、1978年(昭和53年)の日本作詩大賞に入賞している[49]

学生時代から石原裕次郎の熱烈なファンとしても知られ、子育てが一段落し48歳になった1993年平成5年)に裕次郎の母校に憧れ、慶應義塾大学文学部に入学。通信教育課程を経て、6年かけて1999年(平成11年)3月に卒業を果たして学士を取得。2008年(平成20年)には日本大学大学院総合社会情報研究科博士前期課程に入学、人間科学を専攻した。

1990年代前半に放送されたアール・エフ・ラジオ日本の「歌の目覚まし〜夫婦でおはよう〜」と全国の地域FM局(コミュニティFM)ネットで放送されている「おはようサタデー~思いのままに~ミュージックサンキュー~」(毎週土曜日7:00~9:00)のDJを、夫のひのきしんじとレギュラーで担当している。

2010年9月17日に日本コロムビアから、「青春スター ~ときめきのヒロイン~ 本間千代子・高石かつ枝・高田美和」 が発売された。本間千代子の作品は41曲[注 6]が収録されており、彼女初の本格CD-BOXといえる。

レコード

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(「発売年」「A面」「B面」「コメント」)

  1. 1957年以前、「おうま」(義兄冨田勲作曲)「お人形の病気」「じてんしゃ」「遊園地のうた」「ぽっぽの郵便やさん」「まつりばやし」「サリーとハンスのクリスマスケーキ」「黒ん坊さんのお洗濯」「ちょんちょん田植」「ほうずきちょうちん」「とんがらし畑のぼうしやさん」など36曲 ※SP盤
  2. 1963年1月、「男一匹生きるなら」「白い夜」 ※A面は千葉真一歌謡コダマソノシート、規格番号:KX1001[50]
  3. 1963年、「幸せになろうよ」※『歌う東映スター』の2曲目A面。ほかは1.「東京紳士」(千葉真一)、2のB面「女の心も知らないで」(小林裕子)、3.「下町野郎」(小川守)、4.「夜の口笛」(三田佳子)を収録。コダマプレス社、ソノシート[51]
  4. 1963年、「若草の丘」「この心ある限り」 ※明星募集歌、東映映画「若草の丘」主題歌(映画は製作されなかったようである)、復刻盤が有る
  5. 1963年、「純愛の白い砂」「私はついてない」 ※復刻盤が有る
  6. 1963年、「―」「蛍の光」 ※A面は舟木一夫、「蛍の光」は小学唱歌
  7. 1964年、「はじめて愛する」「愛しき雲よ」 ※B面は東映映画「あの雲に歌おう」主題歌
  8. 1964年、「―」「さあさ踊ろよ」 ※A面は他歌手、B面は舟木一夫等と一緒
  9. 1964年、「愛しあうには早すぎて」「海ほうずきの頃」 ※A面は東映映画「君たちがいて僕がいた」挿入歌、復刻盤が有る
  10. 1964年、「湖畔の乙女」[注 7]「小舟で逢ってくださいな」 ※A面の作詞は詩人佐藤春夫
  11. 1964年、「夢のハワイで盆踊り」「わかもの行進曲」 ※A面は舟木一夫などと一緒、B面は高橋元太郎と一緒
  12. 1964年、「からたちの町」「誰かのマンドリン」
  13. 1964年、「―」「ごきげんハイウェー」 ※A面は他歌手
  14. 1964年、「星のように花のように」「たださびしかっただけ」
  15. 1964年、「夕月の歌」「―」 ※コダマプレス社、ソノシート、昭和27年発表の伊藤久男のカバー曲,B面は他歌手
  16. 1964年、「白い夜」「―」 ※コダマプレス社、ソノシート、B面は他歌手
  17. 1965年、「しあわせな涙」「あなたといっしょに」
  18. 1965年、「チコと一緒に」「東京のためいき」 ※NTVドラマ「チコと一緒に」主題歌
  19. 1965年、「うそでもいいから」「娘たちの季節」 ※フジテレビドラマ「娘たちの季節」主題歌
  20. 1965年、「白いボール」「―」 ※A面は王貞治とデュエット[注 8]
  21. 1965年、「心のキャンパス十二号」「また逢えるわね」
  22. 1965年、「ガラスの靴で踊りたい」「哀愁のシャンデリア」
  23. 1966年、「また逢う日まで」「星につれていって」
  24. 1966年、「月の浜辺で逢ったひと」「悲しい記念日」
  25. 1966年、「山ゆり峠」「私に云わせてさよならは」
  26. 1966年、「若い海」「白いサキソフォン」
  27. 1969年、「三百六十五夜」[注 9]「恋の曼珠沙華」 ※原曲は新東宝映画「三百六十五夜」主題歌、競作曲
  28. 1964年、LP盤「本間千代子の花のステージ」 ※「私はついていない」を収録
  29. 1964年、10インチ盤「本間千代子のヒット・ショー」
  30. 1964年、LP盤「本間千代子の花のステージ」 ※「来る・こない・来る・こない」を収録
  31. 1964年、EPサイズ、「本間千代子愛唱集」 ※4曲入り
  32. 1964年、コロシートブック、「コロムビアスター特集 本間千代子」[注 10]、 「若草の丘」「純愛の白い砂」等8曲収録

*本間千代子の曲は,オムニバス方式の懐かしのCDなどに収録されているが,彼女単独のCDは2010年9月に発売された上記がある。

CD

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  • 『ゴールデン☆ベスト』(COCP-36646、コロムビア) ※2011年2月23日発売、20曲収録

出演

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※太字は主演

映画

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テレビドラマ

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バラエティー番組

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脚注・出典

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注釈

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  1. ^ 「チコと一緒に」という主演ドラマは当初「チョコと一緒に」で企画されたが、番組のスポンサーだったヤクルトが反対したという。当時本間が不二家のチョコレートのCMに出演していたため、不二家を利すると考えられたのだろう。また、「“チョコっと一緒に”と聞えてイヤ」という本間自身の要望もあったという[要出典]
  2. ^ 雑誌『明星』、『近代映画』の「映画スター人気投票・女優部門」では、1964年(昭和39年)度・1965年(昭和40年度)と2年連続で吉永小百合に次いで2位にランクインしていた。中間発表の段階では、吉永を押さえて1位になるケースもあった。(当時の『明星』、『近代映画』の記事による)
  3. ^ 1964年(昭和39年)の女性タレントのプロマイド売上枚数は、月間ベースでは吉永小百合を抜いて1位になることもあったが、年間ベースでは、やはり吉永が1位、本間は2位であった。翌1965年(昭和40年)、1966年(昭和41年)にもベストテンに名を連ねていたが、1967年(昭和42年)以降は上位ランキングから姿を消している。(マルベル堂資料、雑誌「近代映画」の記事による)
  4. ^ 「チコとボーイフレンド」牟田悌三鈴木やすし等と共演(1965年6月20日付朝日新聞芸能面)。
  5. ^ 結婚式は1967年1月22日常泉寺週刊平凡、1967年2月2日号、32–33頁)、披露宴は、同日帝国ホテル週刊明星、1967年1月1日、1月8日号、46-47頁)。
  6. ^ 本間自身の言葉によれば、今回収録分が彼女のリリースした作品の全てではないという。(FMラジオ2010年10月16日放送分「おはようサタデー~」にて語る[出典無効]
  7. ^ 当初は高石かつ枝で吹込予定であったが、彼女が1964年2月にクラウンへ移籍した為、急遽本間千代子によってレコーディングされ同年5月に発売されている。尚、1942年(昭和17年)菊池章子の「湖畔の乙女」とは全くの別物である。
  8. ^ 録音は1959年[要出典]
  9. ^ この曲は古賀政男邸でレコーディングされたが、僅か1時間で完了したという。(FMラジオ2010年5月8日放送「おはようサタデー~」での本間千代子談[出典無効]
  10. ^ 同冊子には、彼女の住所、最寄り駅からの経路、家の特徴などが、写真入で詳細に記載されている。(現在は居住していない)

出典

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  1. ^ a b c d e 本間千代子「本間千代子さんの作ったページ」『月刊平凡』1964年4月号、平凡出版、75–83頁。 
  2. ^ a b c d e f g 『日本映画俳優全集・女優編』キネマ旬報社、1980年、595頁。 
  3. ^ a b c d e f 「特集 芸能界の地図をかえる?! '63年のホープ・ベスト9 新鮮なレモンの味 映画 本間千代子さん」『月刊明星』1963年2月号、集英社、92頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i 「今月のスタースケッチ 本間千代子」『月刊明星』1963年3月号、集英社、94頁。 
  5. ^ 『日本映画人名事典・女優編』キネマ旬報社
  6. ^ a b c d e f g h 「スクリーン 本間千代子の"ハタチの意欲"」『週刊サンケイ』1965年7月26日号、産業経済新聞社、44頁。 
  7. ^ a b 女学生の友』 1966年8月号(小学館)188-193ページ
  8. ^ a b c d e f g 「今秋婚約を発表するという情報を巡って… 《特別取材》岐路に立つ20歳の女優 本間千代子の婚約者」『週刊平凡』1965年7月22日号、平凡出版、30-34頁。 
  9. ^ a b c d e f g h 安倍寧「ばらえてぃ "二刀流"で茶の間の人気者 歌手としても売れっ子になった本間千代子」『週刊朝日』1965年4月2日号、朝日新聞社、102–103頁。 
  10. ^ プロフィール|本間千代子|コロムビアオフィシャルサイト
  11. ^ 俳優・小倉一郎、小学校1年生でひとり上京。相次ぐ身内の不幸を乗り越え“芸能生活60周年”
  12. ^ a b c d e f g 「表紙モデルインタビュー本間千代子撮影・秋山庄太郎」『週刊現代』1966年6月16日号、講談社、32頁。 
  13. ^ 野球ソングス-大定番と貴重盤 - Amazon(コロムビアの2010年リリースCD)
  14. ^ a b c d e f g 「格言も不況に弱い もてあまされたスター本間千代子」『週刊サンケイ』1965年9月20日号、産業経済新聞社、101頁。 
  15. ^ a b c d e f g 岡田茂(東映京都撮影所長)・今田智憲(東映東京撮影所長)、聞く人・北浦馨「東映路線の今后の課題 『企画は流行性、スターは不良性感度 岡田・今田東西両所長がさぐる要素』」『映画時報』1965年11月号、映画時報社、30頁。 
  16. ^ a b c d e f g h i 「女優失業時代というけれど岐路に立つ女優たち」『近代映画』1966年4月号、近代映画社、209頁。 
  17. ^ a b c 「来るか!女性映画時代!」『月刊平凡』1966年2月号、平凡出版、171頁。 
  18. ^ 南部僑一郎(映画評論家)・今村三四夫(映画評論家)、岡部竜、司会・北浦馨「座談会活動屋野郎の土性っ骨柄のいいのは映画人・柄の悪いのが活動屋」『映画時報』1962年2月号、映画時報社、19頁。 
  19. ^ “対談 『スターと企画への注文常設館とファンの声から』”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 3. (1962年7月14日) 
  20. ^ a b “東映の新人事”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 5. (1962年1月27日) 
  21. ^ 「映画界重要日誌1962・9―63・8/業界概観東映、目標を最盛期に」『映画年鑑 1964』1964年1月1日発行、時事通信社、12、158–160頁。 
  22. ^ a b c d e 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、326-334頁。ISBN 978-4-636-88519-4 
  23. ^ 「東映、製作方針を一変して下半期攻勢 成功するか!完全リバイバル」『映画時報』1962年7月号、映画時報社、31頁。 
  24. ^ “手塚治新社長インタビュー「東映全社員が企画者」コロナ禍で映画業界大打撃も「映画とは何か、映画館に行くことの意味を再考するタイミングです」”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2020年7月11日). オリジナルの2020年7月11日時点におけるアーカイブ。. https://archive.vn/ZN7oW 2020年9月25日閲覧。 岡田茂「ドキュメント東映全史 多角化は進んでも東映の看板はやはり映画」『クロニクル東映 1947―1991』 2巻、東映、1992年、8頁。 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年、564-565頁。 北浦寛之『テレビ成長期の日本映画』名古屋大学出版会、2018年、134-153頁。ISBN 978-4-8158-0905-8 東映不良性感度路線の父 岡田茂逝去」『映画秘宝』2011年7月号、洋泉社、52頁。 大高宏雄の興行戦線異状なし Vol.29孤狼の血 : 映画評論・批評 - 映画.com楊紅雲「任侠映画路線における東映の成功 : テレビに対抗した映画製作 (1963-1972年) を中心に」『多元文化』第4号、名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻、2004年3月、191-202頁、doi:10.18999/muls.4.191ISSN 13463462NAID 120000974864 
  25. ^ a b c d e f g 「大川指導路線の全貌 東映独立体制の整備成る 東映事業団の成長促進の歩み 東急傘下を離れ独立独歩の姿勢」『映画時報』1964年11月号、映画時報社、28-34頁。 
  26. ^ a b “(私の履歴書)佐久間良子(14) 出演取りやめ、歯車狂う東映の路線とのズレ広がる”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 40. (2012年2月15日) 東映カレンダー on Twitter: "2012年2月15日の日本経済新聞
  27. ^ a b c 「特報『映画には出ません』本間千代子が初の地方巡業へ」『週刊明星』1966年7月28日号、集英社、36–39。 
  28. ^ 「夫婦そろってカムバック 守屋浩は歌 本間千代子はテレビで」『週刊平凡』1969年4月3日号、平凡出版、57頁。 
  29. ^ a b 「銀幕にぞくぞく登場する人気歌手―十代ファンを狙って青春路線復活―」『近代映画』1965年1月号、近代映画社、217頁。 
  30. ^ 「グラビア 君たちがいて僕がいた=東映」『芸能画報』1964年5月号、サン出版社、30頁。 
  31. ^ a b c d e f 「げいのう・ステージ・げいのう『純愛映画を作ってみたが…佐久間良子連続二週登場の裏」『週刊現代』1964年11月19日号、講談社、32頁。 
  32. ^ “売春婦もの二作 エロ映画一考の期来る 衝撃場面も度重なれば”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 1. (1964年8月22日) 
  33. ^ “官能場面のある映画とエロ映画玉石混合のブーム時流にどう抗するか”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 1. (1964年2月29日) 「シネ街 各社もっぱらセックス路線」『週刊読売』1964年5月24日号、読売新聞社、34頁。 「平凡トピックセンター 映画SCREEN ―スタッフもフラフラー スクリーンはお色気がいっぱい!」『月刊平凡』1964年4月号、平凡出版、215-216頁。 伊藤義(東映常務取締役)・雨宮恒之(東宝取締役)・波多野三郎(パラマウント営業部長)、聞く人・北浦馨「五社依存への大いなる戦略論日本映画界の新路線『エロ・残酷ブーム』もっと文学的映画を」『映画時報』1964年6月号、映画時報社、12-13頁。 “第二映倫(仮称)誕生の動き自主機関に暗雲か?”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 1. (1964年7月4日) 川上流二(東宝配給部長)・野末駿一(映倫事務局)・加藤厳(興連事務局長)、聞く人・北浦馨「暴力とセックスから生れた都条例映倫よ強くなれ!=座談会=健康と良識を失った映画界パンパン映画を責める前に責任の所在を明らかにすべきだ」『映画時報』1964年8月号、映画時報社、12-13頁。 
  34. ^ a b c d 「げいのう・ステージ・げいのう『純愛路線』に乗るか…本間千代子」『週刊現代』1964年10月22日号、講談社、31頁。 
  35. ^ a b 大塚英志『二階の住人とその時代-転形期のサブカルチャー私史』星海社、2016年、80-83頁。ISBN 9784061385849 
  36. ^ 長部日出雄(映画評論家)・佐藤重臣(映画評論家)・品田雄吉(映画評論家)・虫明亜呂無(映画評論家)、聞く人・北浦馨「日本映画の危機突破作戦 『映画は滅びない、経営理念の変革こそ必要である―』」『映画時報』1965年12月号、映画時報社、12頁。 
  37. ^ 「いま何してる?本間千代子」『週刊読売』1966年2月11日号、読売新聞社、49頁。「映画の青春ものが下火でしょ。私の出る幕がずっとないんです。でもテレビや歌、雑誌の仕事が多くて、遊びに出る暇がないくらい(中略)そのうち出番がくるでしょうからね」 「いま何してる?本間千代子」『週刊読売』1966年7月8日号、読売新聞社、50頁。「昨年五月の『おゝい・雲!』から一年ぶりで『大忍術映画 ワタリ』に出演しています。いままで東映は、やくざやエロものが中心で、私の出る幕がなかったんですが、一年間よその空気を吸って、芸能界が、けっして甘くないことを知り、よい勉強になりました…」 
  38. ^ 「スクリーン不況克服に新人スター開発各社"救世主女優"を待望」『週刊朝日』1966年6月3日号、朝日新聞社、114頁。 
  39. ^ a b c 「ニュースコーナー製作 『東映、俳優行政など基本方針きまる 来年は創立十五周年の記念映画製作』」『映画時報』1965年12月号、映画時報社、23頁。 
  40. ^ “女やくざと全裸のベッド・シーン 東宝初出演フリー宣言どこへやら 三田佳子”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 6. (1969年11月3日) 
  41. ^ 「『どうなる大川橋蔵の新路線 舞台復帰か? テレビに進出か? 歴史的決断でD級転落?』」『週刊明星』1965年11月14日号、集英社、34-37頁。 
  42. ^ a b c 「この人と一週間 ヤクザ映画で育った義経の妻」『週刊文春』1965年12月13日号、文藝春秋、96頁。 
  43. ^ 「スタジオ速報 本間 千代子とともに汐干狩りを楽しむ会」『近代映画』1966年6月号、近代映画社、213頁。 
  44. ^ 「ポスト日本映画 女優を賭ける佐久間良子 本間千代子」『週刊明星』1966年6月5日号、集英社、94頁。 
  45. ^ a b c “"主婦と女優の両立"を 本間千代子がカムバック”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1969年5月25日) 
  46. ^ a b c d e f g 「芸能ジャーナル どうする本間・守屋の宗教問題」『週刊サンケイ』1966年8月22日号、産業経済新聞社、102頁。 
  47. ^ 「特報 花嫁が学会の式場にはいれないといううわさはほんとうか 本間千代子が創価学会に入信しないまま挙式!」『週刊平凡』1967年2月2日号、平凡出版、32–34頁。 
  48. ^ 「おしゃべりジャーナル ゲスト 守屋浩・千代子 ききて・芥川隆行 『旦那さまはいばってる』」『週刊平凡』1967年3月16日号、平凡出版、60–63頁。 
  49. ^ 第11回 日本作詩大賞
  50. ^ 歌謡コダマ”. ソノシート発売状況 / コダマプレス. なつかしのメディア / ソノシート. 2014年11月26日閲覧。
  51. ^ 千葉真一; 本間千代子・小林裕子小川守三田佳子. “歌う東映スター”. 別冊歌謡コダマ ; KY-1001. コダマプレス社. 2014年11月26日閲覧。

関連書籍

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  • 藤井淑禎 『御三家歌謡映画の黄金時代 - 橋・舟木・西郷の「青春」- 』 平凡社、2001年11月

外部リンク

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