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江戸しぐさ

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江戸しぐさ(えどしぐさ)とは、芝三光(本名:小林和雄、別名:うらしまたろう、1928年 - 1999年[1]が提唱し、NPO法人江戸しぐさが「江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立つ者の行動哲学」[2]と称して普及、振興を促進しているものである[3]。同法人が「紙類、文房具類、印刷物」「セミナーの企画・運営または開催、書籍の制作、電子出版物の提供、教育・文化・娯楽・スポーツ用ビデオの制作(映画・放送番組・広告用のものを除く)」に関し、商標権を有している[4][5]

今のところ江戸しぐさが江戸時代に実在していたという事実は史料によって確認がされておらず、NPO法人江戸しぐさの理事長である越川禮子は江戸しぐさは口伝で受け継がれてきたものであるため、資料としては残っていないと述べている[6]。また、明治政府が江戸しぐさの摘発を行い、さらに多数の江戸っ子を虐殺した[7]、江戸しぐさを広めるための秘密結社が存在した[8]といった歴史観を前提としている。そのため歴史的根拠のない「発明」であるとする歴史作家による批判や「空想」であるとする江戸文化研究家による指摘等、複数の批判や指摘がなされている(後述)。

江戸しぐさの登場

文献で確認できる限りで「江戸しぐさ」という語の初出は、1981年読売新聞の「編集手帳」で紹介されたものであり[9]2004年[10]、また翌2005年にも公共広告機構(現・ACジャパン)で江戸しぐさが取り上げられた[11][12]電通広告ジャーナリストの岡田芳郎が越川禮子の聞き書き記事を書いている[13]企業研修学校などにおける教育でも使用され、小学校の道徳の題材にも使われている[14][15][16][17]。また、2012年(平成24年)度から、育鵬社公民教科書に取り入れた[18][19]

江戸しぐさを推進する人々は、江戸しぐさを以下のように説明している。

江戸講と「江戸っ子狩り」

江戸しぐさは商売繁盛の秘伝であり、あまり公にされたものではなく、江戸商人の組織していた「江戸講」で口授されるものだった[20]

しかし、江戸開城の時、「江戸講」のネットワークを恐れた新政府軍が江戸しぐさの伝承を失わせ、江戸しぐさの伝承者である江戸っ子たちを大虐殺した[注 1]。その虐殺たるや凄まじいもので、ソンミ村虐殺ウンデット・ニーの虐殺に匹敵するほどの血が流れたと越川禮子は述べている。また、この時に江戸商人は江戸しぐさについて書かれた古文書も全て焼却し、江戸の空を焦がしたという。勝海舟は生き残った江戸っ子数万を両国から武蔵、上総などに逃がし、彼らは「隠れ江戸っ子」として潜伏した[20]池田整治は、江戸しぐさ伝承者は、老若男女にかかわらず、わかった時点で新政府軍の武士たちに斬り殺され、維新以降もこの大殺戮は続いたと述べている[23]

江戸しぐさを伝えていた種々の江戸講は国家総動員法で解散させられた[24]秘密結社として存続していた江戸講はGHQに認められ、江戸しぐさはニューヨーク五番街でも一世を風靡し、スターズ・アンド・ストライプス紙に掲載された(ただし、掲載年月日への言及がなく詳細不明)[25]

芝三光 (小林和雄)

江戸しぐさの教育組織である「江戸講」の長である江戸講元の子孫だったという小林和雄は、昭和に入ってから江戸しぐさを復興した[26]。小林の父は外交官、母は米国企業の英文タイピストであった。彼は母がカナダのバンクーバーから帰国する途中の船中で生まれたが、愛人の子であったために世間をはばかり、母方の祖父に預けられた。そこで江戸しぐさによる教育を受けた[27]

小林和雄は戦後の風俗の退廃を憂い、芝三光・うらしまたろうと称し[注 2]、社会教育団体「江戸の良さを見なおす会」として江戸講を復活させた。戦後、柳田國男から取材の申し込みを受けたが断ったという。扇谷正造とは意気投合したが先方の急逝で取材は実現しなかった[29]

芝 (小林)は読売新聞・東京新聞の読者投稿欄などで江戸しぐさの効用を説き、読売新聞編集委員村尾清一が自分のコラム「よみうり寸評」(1983年3月23日)で取り上げ、それを読んだ越川禮子が芝(小林)に弟子入りした。芝三光は弟子の越川禮子・和城伊勢に江戸しぐさを伝授した。1999年、芝の病没のあと、越川が門外不出の秘儀であった江戸しぐさをマスメディアに公開した[30]

江戸しぐさであるとされる例

傘かしげ
雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと[14]
肩引き
道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと[31]
時泥棒
断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪(十両の罪)にあたる[32]
うかつあやまり
たとえば相手に自分の足が踏まれたときに、「すみません、こちらがうかつでした」と自分が謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと[33]
七三の道
道の、真ん中を歩くのではなく、自分が歩くのは道の3割にして、残りの7割は緊急時などに備え他の人のためにあけておくこと[34]
こぶし腰浮かせ
乗合船などで後から来る人のためにこぶし一つ分腰を浮かせて席を作ること[35]
逆らいしぐさ
「しかし」「でも」と文句を並べ立てて逆らうことをしない。年長者からの配慮ある言葉に従うことが、人間の成長にもつながる。また、年長者への啓発的側面も感じられる[35]
喫煙しぐさ
野暮な「喫煙禁止」などと張り紙がなくとも、非喫煙者が同席する場では喫煙をしない[35]
ロク
江戸っ子の研ぎ澄まされた第六感。五感を超えたインスピレーション[36]。江戸っ子(江戸しぐさ伝承者)はこれで関東大震災を予知したという[37]

批判・疑問

作家の原田実は、江戸しぐさは1980年代に芝三光によって「発明」された全く歴史的根拠のないものであると批判している[38][39]

  • 明確な時間意識のない[注 3]江戸時代に「時間を奪う」という発想がなぜ存在するのか[40]
  • 「喫煙禁止」という張り紙が、江戸時代にあったのか[注 4](江戸時代の料理店等では煙草盆が客に出されるのが当然だった[42])。
  • 年始の挨拶は直接顔をあわせて行っていた時代に、なぜ「年賀状のマナー」があるのか[注 5]
  • 「火事と喧嘩は江戸の華」と呼ばれた江戸の人々が、本当にこれらのマナーを体系化していたのか[注 6]

戦争によって「隠れ江戸っ子」が絶えてしまったとか、当時の資料は焼き捨てられたので記録がないとか、という理由で証明ができないという[46]大村益次郎の東下前の新政府軍は江戸の治安を維持する力さえ無く、逆に彰義隊士に殺害される事例が度々起こった[注 7]、さらに、東叡山に赴き、彰義隊解散を説いた山岡鉄太郎の言葉を一蹴した覚王院義観は、彰義隊での強硬派であるにも拘わらず、「新政府軍による虐殺」について一言も触れていない[注 8]

  • 江戸しぐさの「復興者」である芝三光の生前には江戸しぐさの数は200前後とされていたのに、その没後には800 - 8000とされ、数が定まっていない[48]
  • 既述のように越川禮子は江戸しぐさが衰退した理由として「江戸っ子虐殺説」を主張しているが、芝三光は江戸しぐさを提唱し始めた当初は「新政府のもとで江戸っ子達は自らを語ろうとせず時代の変化の中で、いわば世の中からひきこもってしまった[49]」ために衰退したと述べており、江戸しぐさ推進者の間で主張が食い違っている。
  • NPO法人江戸しぐさの理事長の越川禮子は、江戸しぐさに関する資料は残っていないとし[6]、また江戸しぐさは、口頭によって伝承されてきたものであるため、史料が残されていないと述べている[50]が、1980年代には芝三光は江戸しぐさは文献によって確認できるものとしており[51]、この点でも食い違いがみられる。

などと原田は、江戸しぐさの実態について疑問を呈している。また、原田は2014年平成26年)に著書『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統』でも、江戸しぐさに含まれる個々のマナーに考察を加えているが、やはり多くの江戸しぐさが、実際の江戸時代では不可能あるいは不必要であるとの自論を展開し、「捏造である可能性が高い」とコメントしている[52]

同書の出版に際し原田は、江戸しぐさは来歴そのものが「明確な虚偽」で、歴史的考証にまったく耐えられない、芝三光の愚痴を江戸時代に仮託したフィクションであり、これを「結果的によいマナーが浸透すればいいじゃないか」と推進することは、形だけのマナーの為に、道徳倫理の根幹を破壊することになると主張、歴史的に正しい江戸文化に関する知識を普及させることと、過去に対する過剰に「良い幻想を持たないこと」を推奨している[53]

日本近世史研究者で、江戸時代の町人文化に通じている立正大学非常勤講師の高尾善希は、江戸しぐさを「とんでもない話」とした上で、史実のごとく一般に広まってしまったことに対し、学術の立場からの反省の意を表している[52][54][55]

噺家柳家三之助は、2014年(平成26年)9月12日に、Twitterにおいて「江戸しぐさなんてものがもしホントにあったら噺に出てこねえわけねえだろって、少し思ってた」と指摘した[56]

三省堂国語辞典』編集委員の飯間浩明は、2015年(平成27年)4月17日にTwitterにおいて、2012年頃『三省堂国語辞典』においても「江戸しぐさ」を項目として立てようとしたが、その主張に信頼性は薄いと判断し、見送りになったと述べている。なお、その当時においては、ウィキペディアの当記事内容も、「江戸しぐさ」について肯定的であったという感想を述べている[57][58]

江戸文化研究家で、法政大学総長の田中優子は、過去には江戸しぐさを肯定するような発言を行っていたが[59]、2015年(平成27年)6月25日放送のTBSテレビNEWS23』において、江戸しぐさを「空想である」と否定した[60]

新潟青陵大学大学院教授の碓井真史は、江戸しぐさは専門家から見ればあまりにも馬鹿げており、反論しても研究論文にも学問的業績にもならないこともあり、また学問的常識がなく都市伝説を信じ込んでいる人を納得させるのは大変であるため、2015年時点で学者による否定は、インタビューで「そんなことありませんね」と答える程度にとどまっており、作家(文明史家)の原田実のようなプロの研究者ではない人物が、使命感から虚偽性を暴く解説本を書いているというような状況であると述べている[61]

江戸しぐさを掲載した教科書

2007年3月、東京都千代田区は「江戸しぐさを題材とした道徳教育資料集」を作成し、千代田区立全校で道徳教育を実施した[62]

道徳教材(副読本)に掲載された例として

  • 小学校
    • 東京書籍『小学校道徳 6 明日をめざして』(2008・平成21年度までに採用)[62]
    • 学校図書『小学校道徳 かがやけ みらい』(2008・平成21年度までに採用)[62]
    • 文部科学省道徳教材『私たちの道徳』小学校5・6年生用(2014・平成26年度から採用)[62]
  • 中学校
    • 日本標準『中学道徳副読本1年 みんなで生き方を考える道徳』(2008・平成21年度までに採用)[62]
    • 学研『中学生の道徳1年 かけがえのないきみだから』(2008・平成21年度までに採用)[62]
    • 日本文教出版『あすを生きる』(2008・平成21年度までに採用)[62]
    • 正進社『キラリ☆道徳』(2008・平成21年度までに採用)[62]

文部科学省検定済教科書に掲載された例として、

  • 小学校
    • 啓林館『わくわく算数 6年生』(2015・平成27年度から採用)[62]
  • 中学校
    • 育鵬社『中学社会 あたらしいみんなの公民』(2012・平成24年度から採用)[62]

その他。教材に掲載された例として

  • 中学校
    • 啓林館『アドバンス中学歴史資料』(2015・平成27年度から別の内容のコラムに差し替え)

文部科学省道徳教材において取り上げられていた江戸しぐさに関しては、担当した小学校高学年用チーム主査は「NPO法人江戸しぐさのホームページなどを参考にした」としていたが、後に同省教育課程課の課長補佐は「道徳教材はNPO法人の主張を参考にしていない。江戸しぐさが歴史的な事実だとは言っていない」と主張しており[52]、改訂も検討している。

育鵬社は、平成28年度からは掲載しないと表明した[62]

脚注

注釈

  1. ^ 実際の新政府軍には、大規模な虐殺を行えるような圧倒的な力があった訳ではない。勝海舟江戸開城において、
    「また必戦を期して進むときは、道路の軍費必ずその是を其(その)領主に取らん。是尤(これもっとも)人心を損破するの挙にして、彼が失策の一(いつ)なるべし、又戦闘には勇威を先にす、我は至柔(しじゅう)を示して報答条理を尽さば、其区画遠謀相表裏して、英気始て撓(た)ゆらむ歟(か)、不可知(しるべからず)……」

    と、強行策を取って人心が離反すれば新政府軍の士気財政ともに圧迫され、重大な損失を招くであろうことをほのめかしながら新政府軍を威嚇している[21]

    また、新政府軍は財政的にもひどく困窮し、江戸の町人から御用金を取り立てることも出来ず、三井からの借金と京都からの送金によってかろうじて息をつく有様であった[22]

  2. ^ 本名・芝三光(しば・みつあきら)、芸名が浦島太郎であるという説もある。生前の芝と親交があったコンサルタントの牛場靖彦は、『浦島太郎とはもとより芸名で、本名は芝三光(しば・みつあきら)さんとのこと。それも愉快な話で、東京は芝の生まれ、芝で育ったそうで、芝は白金三光町(しろがね・さんこうちょう)が住まいだったことから、三光(みつあきら)と命名された由』と述べている[28]
  3. ^ 時計が一般町民に普及していないため、時鐘堂なる建物があった(→岡山の時鐘堂)。
  4. ^ 禁煙令自体がなかった訳ではない。ただ、それは火災対策による治安維持や倹約および米作から煙草栽培への転換を防ぐためであって、主に健康志向が主要な動機となっている現代の禁煙とは異なる[41]
  5. ^ ただし、江戸時代に年賀状が全くなかったとも言えない[43]し、書状の書き方の教育もなされていた。
  6. ^ 公式ウェブサイトの「銭湯づきあい」の情景として、式亭三馬の『浮世風呂』が挙げられている[44]。ただ、実際の『浮世風呂』の描写は大意こそ「熟(つらつら)監(かんが)みるに銭湯ほど捷径(ちかみち)の教諭(おしえ)なるはなし…」と綴り始めているが、「……後の観月(つきみ)の芋を食つて、屁の如き小冊成る」で終わっていることから判るように諧謔であり、本文には喧嘩の描写がかなり見受けられ、また寝転がって煙草を吸う姿の挿絵(36-37頁)が見受けられる。本文の喧嘩の描写の例は以下の通り(48-49頁)。
    ……いう折からうしろの人、立っていておか湯をあびる。途端の拍子に、又一人の男小桶へ水を汲んでさげ来りしが、辷(すべ)って転ぶと、生酔の頭からざっぷり

    酔(客)「オオひやッこいホイホイ、コレハコレハ、ヤイあちらの男、ナゼ立っていて、はねをかけた。まだあるある、ヤイこちらの男、ナゼころんで水を浴びせた」
    「ハイ御免なさい。どうも麁相(そそう)だ、仕方がねえ」
    酔(客)「ナニ麁相だ。コレ、そッちの転ぶは麁相でも済もうが、おれに水をかけて麁相で済むか、湯をくぐらせた上で、水をかけるとは野郎の素麪(そうめん)と思うか」
    「ハハハ」

    酔(客)「イヤ笑うな、可笑しくないぞ。人に水をかけて是がほんの水かけ論だ。二人ながら俺が対手(あいて)だぞ。コレ此の通り水瓶が鼠へ落(おっこ)ちたように十分濡(ずぶぬれ)だ。了簡(りょうけん)ならぬ。二人ながら待って居ろ。コレ番頭、先刻(さっき)から喧嘩の対手が欲かッたが、漸々(ようよう)の事(こっ)て二人一時(ふたりいちどき)に出来た。とてもの事に笊(ざる)を貸せ、湯の中を探して見たら、最(も)う二三人はあろう。サアサア皆覚悟しろ。今の二人迯(に)げるな。迯がしては番頭相手だぞ。今見おれ」

    [45]

  7. ^ 1868年(慶応4年)5月9日付の三条実美から岩倉具視宛の書簡によると、
    「梅雨之節、先以聖上益御機嫌克被為渉(まずもってせいじょうますますごきげんよくわたらせなされ)、恭悦奉存候(きょうえつぞんじたてまつりそうろう)、当府格別相変候儀無御座(とうふもかくべつあいかわりござなくそうろうのぎ)、先無事(まずはことなし)、併(しかし)旗下(きか)之賊徒彰義隊ト唱候者抔(となえそうろうものなど)、頻(しきり)ニ暴動ヲ働キ、薩藩肥前藩士ヲ及殺害(さつがいにおよび)、官軍方ニモ大ニ憤怒ヲ生ジ、甚以(はなはだもって)鎮定ニ至兼候(いたりかねそうろう)、猶(なお)市中ニ於(おい)テ無辜之者ヲ殺害シ金策等ヲ致(いたし)、大ニ人民ヲ苦メ、凶暴之所業相止(あいや)ミ不申(もうさず)、今日ノ勢(いきおい)迚(とて)モ是儘(このまま)ニ平定不仕候間(へいていつかまつらずそうろうのあいだ)、大村西郷トモ相談(あいだん)ジ、近日弥(いよいよ)官軍ヲ以(もって)、討伐可致事(とうばついたすべきこと)ニ軍議内決仕候(ぐんぎのうちにきめつかまつりそうろう)、今一戦争(いまいっせんそう)ハ不得止(やむをえず)相(あ)ハシメ候間(そうろうのあいだ)此段内々申上置候(このだんうちうちにもうしあげおきそうろう)」

    とある[47]

  8. ^ 山岡鉄舟の手記によれば、覚王院義観の言葉は以下の通り。
    「今日の事、名は朝廷と雖(いえど)も実は薩長の所為なり。貴殿が参謀に応接するも、亦(また)薩州に誑惑(きょうわく)せられたるにて、朝廷にはあらず。貴殿は世々徳川家の恩沢に沐浴して、一朝(いっちょう)之を忘却するか、徳川家祖先も予(あらかじ)め後世に此事あるを知り、此の山を経営し、皇族を以て之に主たらしめしなり。且一幅(かついっぷく)の錦旗を日光山に蔵(おさ)めたるは、若(も)し朝廷残暴にして禍乱(からん)を作(な)す変あるときは、当宮を以て之に易(か)へ、万民を安んずるの意なり。貴殿の如き軟弱にして恩を知らざるものは、徳川の賊臣にして之を蜂腰士(ほうようし)と云はずや」

    [47] ※「蜂腰」とは、蜂のようにくびれた女性の腰(ウエスト)のこと。ここでは、男性らしい気骨のない人士であるという意味。

出典

  1. ^ 続・江戸しぐさの正体
  2. ^ NPO法人 江戸しぐさ 「「江戸しぐさ」は、江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立つ者の行動哲学です」
  3. ^ NPO法人「江戸しぐさ」の概要「「江戸しぐさ」の普及、振興に関する事業」
  4. ^ 登録番号 第5274382号
  5. ^ かがやき 〜子どもたちと人権について学ぶために〜(平成25年度)” (PDF). 栃木県教育委員会事務局生涯学習課. 2014年12月18日閲覧。
  6. ^ a b 越川禮子 - NTTコムウェア
  7. ^ 原田実『江戸しぐさの終焉』星海社新書、2016年。ISBN 978-4061385825  27項、28項
  8. ^ 第3話「江戸しぐさへの旅」
  9. ^ 原田2014、p30。
  10. ^ 江戸しぐさ|広告作品アーカイブ|ACジャパン「当時の人々が、快適な社会生活を営んでいくための知恵としてまとめられたのが「江戸しぐさ」です。ルールや決まりごとなどという強制的なものではなく、「しぐさ」としたのが江戸っ子たちのイキなところ」
  11. ^ 続・江戸しぐさ - ACジャパン広告作品アーカイブ
  12. ^ 参考:日本のマナー 江戸しぐさ 東京都民の先輩、江戸っ子の「傘かしげ」や「腰うかし」といった“江戸しぐさ”になぞらえ、公共の場でのマナーを“イキ”な生活の知恵として紹介
  13. ^ 公益財団法人 吉田秀雄記念事業財団 | 事業内容 | 研究広報誌「アド・スタディーズ」発行連載〈いま読み直す“日本の”広告・コミュニケーションの名著〉 第19回 『江戸の繁盛しぐさ』 岡田 芳郎
  14. ^ a b 朝日マリオン 江戸しぐさ 今に通じる「都市」の知恵
  15. ^ 栃木県総合教育センター「最近、さまざまな場面で取り上げられている「江戸しぐさ」を紹介する教材」
  16. ^ 「傘かしげ」「時泥棒」…今に生きる思いやり 「江戸しぐさ」道徳教材に|最近の新聞記事 6年生・社会 2006年4月7日 読売新聞東京本社 朝刊
  17. ^ 文部科学省『私たちの道徳 小学校5・6年』平成26年度版
  18. ^ PR誌【虹】バックナンバー 平成21年|育鵬社ー「江戸しぐさ」講義報告ー 今に活かそう!「江戸しぐさ」
  19. ^ 平成24年度『中学社会 あたらしいみんなの公民』:育鵬社
  20. ^ a b 越川『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』、第七章『抹殺された江戸しぐさ』2001年
  21. ^ 明治維新財政経済思考』1943年(昭和18年)174頁
  22. ^ 同書:176-201頁
  23. ^ 池田整治、ガイアのつぶやき・・・その2、船井幸雄.com。
  24. ^ NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】 第1話「最後の江戸講元」
  25. ^ NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】 第3話「江戸しぐさへの旅」 ただしこのリンクでは『スターズ・アンド・ストライプス』に関して具体的な掲載年月日・号・ページへの言及がないので検証できない。
  26. ^ 母方の祖父が江戸講元であったという。NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】 第2話「祖父は江戸講の講元」
  27. ^ みやわき心太郎『江戸しぐさ 残すべし』『ビッグコミックONE』2008年4月3日号所収、単行本未収録。劇画という形式ではあるが刊行された唯一の小林の伝記である。
  28. ^ 日経BP 江戸っ子リスクマネージャーの車座清談 2005年7月1日
  29. ^ NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】 第4話「関心寄せた文化人」
  30. ^ 越川『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』のあとがきおよび、NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】 第3話「江戸しぐさへの旅」
  31. ^ 飯能教会 土橋誠
  32. ^ その31 「時泥棒」
  33. ^ 「江戸しぐさ」に学ぶマナー
  34. ^ その20 「七三の道」
  35. ^ a b c 江戸しぐさの授業
  36. ^ ロクを利かす
  37. ^ 江戸商人の第6感は研ぎ澄まされていた!? 取り戻したい「江戸しぐさ」
  38. ^ 続・江戸しぐさの正体
  39. ^ 「それホンモノ? 『良き伝統』の正体」毎日新聞、2016年1月25日 東京夕刊
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  41. ^ たばこの歴史 徳川幕府と「たばこ」の関係 たばこワールド JT
  42. ^ 原田2014、p71-75。
  43. ^ 年賀状前史 年賀状博物館、フタバ株式会社
  44. ^ その19 「銭湯づきあい」
  45. ^ 式亭三馬:『浮世風呂』1937年(昭和12年)版
  46. ^ 原田2014、p24-27。
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  48. ^ 原田2014、p6。
  49. ^ 原田2014、p32。
  50. ^ 越川禮子『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』第4章・第7章
  51. ^ 原田実 (作家) (10 February 2015). “続・江戸しぐさの正体 第2回:「江戸食事仕様」とは何だったのか”. ジセダイ. 28 March 2015閲覧。
    原田2014、p32。
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  53. ^ “偽物の歴史”を教育に用いるのは、倫理の根幹を破壊する行為~「江戸しぐさの正体」著者・原田実氏インタビュー (1/2)(2/2)
  54. ^ 高尾善希による、2014年8月26日19:38のツイート
  55. ^ 高尾善希による、2014年8月26日20:37 のツイート
  56. ^ 柳家 三之助による、2014年9月12日のツイート
  57. ^ 飯間浩明による、2015年4月17日のツイート
  58. ^ (参考)2012年5月11日 (金) 11:15におけるウィキペディア日本語版の「江戸しぐさ」の版
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  60. ^ 第13回:田中優子法政大学総長の方向転換 『NEWS23』における「江戸しぐさ」報道によせて”. ジセダイ/星海社. 2016年1月25日閲覧。
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  62. ^ a b c d e f g h i j k 原田実. “第14回:文部科学省と「江戸しぐさ」”. ジセダイ/星海社. 2016年4月7日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク

江戸しぐさ推進団体

江戸しぐさ批判

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