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利用者‐会話:原田実

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挨拶を兼ねて

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日野智貴です。『東日流六郡誌』を読みましたが、確かにご指摘の通り。しかし、冒頭部分では古田武彦の説(これについてはお分かりと思います)を使用すべきと思うのですが。改名については最低一週間の議論を必要としますので、しばらく待ってください。--日野智貴 2010年3月31日 (水) 04:55 (UTC)[返信]

日野智貴様。和田家文書(『東日流外三郡誌』)受容史からすれば、古田先生は活躍こそ華々しかったものの90年代以降に参入した新参者です。それ以前から竹内健氏、佐藤鉄章氏、佐藤有文氏、佐治芳彦氏、沢史生氏、近江雅和氏、そして吾郷清彦先生といった先人がさかんに紹介や研究を行っていた経緯があるわけです。したがって冒頭部分を古田先生の解釈にしたがって書いたなら、それは実際の需要史から遊離した空論になってしまいます。冒頭部分だからこそ古田先生の解釈に引きずられてはならないのです。 --原田実 2010年3月31日 (水)

追記  表題についてですが、日野様ご指摘の通り、ウィキペディアの利用者の誰もが古史古伝や和田家文書についてくわしいわけではありません(というより、よく知らない人の方が大多数だと思います)。しかし、だからこそ事情通しか用いないような用語ではなく雑誌の見出しや単行本のタイトルにもよく使われていた(一般の人にも目にする機会があった)呼称を優先させなければ、知識を得たい人がたどりつくことさえできない、という危険さえおこりうるわけです。事典の見出しになるような用語には普遍性が要求されます。正確さだけを求めても利用者にとって不便なら、それは独りよがりの害悪にしかならないのです。 --原田実 2010年3月31日 (水)

提案 1現行の内容は移動 2リダイクレトページだとご指摘された問題が起こる恐れがあるため、あらたに東日流外三郡誌のページを作る 3それは「総称」ではなく外三郡誌(全500巻)のみの項目とする。


原田氏のほうが論争史にはくわしいため口出しできませんが、「竹内健氏、佐藤鉄章氏、佐藤有文氏、佐治芳彦氏、沢史生氏、近江雅和氏、そして吾郷清彦先生といった先人」はみんな学者ではありません。また、それなら偽作論者も(原田氏を含めて)新参者となります。なので、その場合は古田説も原田説も(本人の前で言うのは失礼かもしれませんが)「冒頭部分」にのせないのが無難ではないのでしょうか。--日野智貴 2010年3月31日 (水) 05:41 (UTC)[返信]

それは評価と内容紹介を混同する暴論です。私は、内容紹介はテキストに即して行うべきだと言っているだけです。テキストに則して考えるなら古田先生の解釈は曲解といわざるをえないでしょう。評価については、そのときもっとも通用している説が採用されるべきでしょうし、当該項目については現にそうなっています。 --原田実 2010年3月31日 (水)

冒頭部分では内容紹介にとどまったほうがよい、というだけです。いきなり断定調で評価をするのは危険です。--日野智貴 2010年3月31日 (水) 07:10 (UTC)[返信]

90年代ならともかく、もはや他の評価ができる状況ではない、と思いますが。 --原田実 2010年3月31日 (水)

日野智貴様 何にしても3月30日に改名提案して、4月1日までに返答がなかったからといって大方の合意がなされたとみなし、 4月5日をもっての改名を宣言するというのはいかにいっても急ぎ過ぎだと思いますよ。 --原田実 2010年4月2日

もう原田氏には移動の権限があると思いますが、「移動の方針」によれば一週間のあいだ反対がなければ実行してよいことになっています。--日野智貴 2010年4月7日 (水) 01:39 (UTC)[返信]

原本

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原本の発見や2009年国記天皇記の発見もあるので。それについてはどう思っているのでしょう。(なぜ原本発見がこの時期か)--日野智貴 2010年3月31日 (水) 12:18 (UTC)[返信]

他の和田家文書「写本」と見分けがつかないものを「原本」認定したり、その中で「引用」されているものをとりだして新発見だと騒いだりすることに別に深い意味があるとはお前ません。単に古田先生がなりふり構わなくなった、というだけのことでしょう。結局、今の古田先生にとっては一年中がエイプリル・フールということなんでしょうね。--原田実2010年4月1日

[1]に載せたということは古田氏にも自信があったということになります。このことはウィキペディアに記載すべきだと思いますが、東日流外三郡誌とは関係ないのでい移動に載せるべきだと思います。(国記はまだ鑑定に出していないようなので私にはその真偽はわかりません。ただこれらの史料批判が始まればややこしい論争がはじまると思います)--日野智貴 2010年4月1日 (木) 00:48 (UTC)[返信]

和田家文書については、さまざまな意見が出されていますし、その主唱者はみな自分の意見に自信を持っていたことでしょう。主唱者が自信を持っているということはその意見を重視すべき根拠にはなりません。また、古田先生は別に「国記天皇記」を発見したとはいっていません。既存の和田家文書に「国記天皇記」からの引用として出ていた文が自分の説の裏付けになるといっているだけです。これは鑑定以前の問題ですし、古田先生の信奉者以外にとっては偽作の傍証が一つ増えただけにすぎません。すでに偽書であることは本文できちんと説明されているわけですから、新たに傍証に関する記述を増やす必要はないでしょう。--原田実2010年4月1日

追記、日野様はすでに「国記」の項目で古田氏が発見したと主張している旨、書き込んでおられますね。ならばそのことで新たに項目を建てる必要はないでしょう。--原田実2010年4月1日

報告

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原田氏が書名を無断で消した疑いですが、ノートページで述べたように無罪です。(ただ、編集ミスの指摘が一例ありましたが、その指摘も誤りでした)なお、東日流六郡誌に九州年号がのっています。--日野智貴 2010年3月31日 (水) 06:40 (UTC)[返信]

六郡誌は古田先生と和田氏が接触して以降に出たものですから、かなりサービスが入っていた、ということですね。 --原田実 2010年3月31日 (水)

二人が接触したのはいつか、わかる範囲で教えてくださらないでしょうか。(『真実の東方王朝』以前にもあったようなので)--日野智貴 2010年3月31日 (水) 07:13 (UTC)[返信]

2人の初対面の状況と時期については『真実の東北王朝』で語られた通りです。それ以前、私や斎藤さんも含めて市民の古代研究会会員で、古田先生の前で三郡誌の話題を持ち出す者もありましたが、あの時点までわざわざ見に行こうとはしていませんでした。--原田実 2010年3月31日 (水)

わかりました。--日野智貴 2010年3月31日 (水) 11:30 (UTC)[返信]

お詫び

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私の会話ページに記載された原田氏の書き込みを誤って切り取っていたことが判明したのでお詫びします。(今は元に戻しました)--日野智貴 2010年4月1日 (木) 01:03 (UTC)[返信]

質問

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半年ほど多元王朝説に関する文書を観覧していたのですが、一つだけ聞きたいことがあります。

なぜ改名の賛否にこだわるのでしょう。--俀国 2010年4月17日 (土) 06:27 (UTC)[返信]

現状の方が、すでに一回なされた改名(その後修正)、その後に出された改名案の双方どちらと比べても利用者にとって便利だからです。 むしろ、私としてはなぜ無意味な改名をしたがる人がいるのか、ということの法が不思議なのですが。-原田実 2010年4月17日 (土) 07:47 (UTC)[返信]

和田家文書の項目について

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和田家文書の項目に反対する理由をもう少し具体的に言ってください。--日野智貴 2010年5月5日 (水) 05:42 (UTC)[返信]

「日野様、署名を間違えていますよ。」とはどういう意味ですか?--日野智貴 2010年5月5日 (水) 05:48 (UTC)[返信]

私は日野氏とは別人です。というより、観覧車です。IPで編集することもありますが、このような場合を除いてアカウントで活動することはありません。(難しい字だから)--俀国 2010年5月5日 (水) 07:17 (UTC)[返信]

私の勘違いでしたか。俀国様、日野智貴様、失礼しました。--原田実 2010年5月5日 (水) 12:25 (UTC)[返信]

独断は禁止です。予告をしてから作成してください。すみませんがお願いします。--日野智貴 2010年5月14日 (金) 06:34 (UTC)[返信]

独断も何も「和田家文書(和田喜八郎)」の項目立ても「東日流外三郡誌」の分割も日野様が提案されたものですし、 その方針に大方の合意が得られたと判断していたのも日野様ですよ。別にご意見あるならどちらかのノートにてお願いします。--原田実 2010年5月15日 (土) 02:46 (UTC)[返信]

予告がないから問題にしている。--日野智貴 2010年5月15日 (土) 05:27 (UTC)[返信]

議論より撤退

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私は無期限ブロックとなりました。心当たりはないのですが、不正行為はしていたので匿名利用を含む編集および議論を撤退します。議論中のことなので連絡しました。--112.70.70.146 2010年6月24日 (木) 07:59 (UTC)(アカウントーー日野智貴。現在暫定無期限ブロックのため解除の可能性はまずない状態)[返信]

プレビュー機能のお知らせ

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投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。(詳細画像

こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。原田実さんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。

これを使うことで

などをあらかじめチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については、同じ記事への連続投稿を減らすの項目に説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。なお、もしすでにご存知のことでしたら、悪しからずお願いいたします。--三畔 2010年7月4日 (日) 02:22 (UTC)[返信]

三畔様、お手数かけました。プレビューを使って編集してはいたのですが、up後に加筆・修正すべきことに気付いたのでみっともないことになった次第です。--原田実 2010年7月4日 (日) 09:10 (UTC)[返信]

「擁護派の原本捜索」について

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なぜか、原田実氏や斉藤記者の本には載っていませんが、もしかしたらご存じないかもしれませんので言っておきます。『なかった』において、西村教授が「私たちは和田喜八郎の死後、寛政原本を探した。(偽書派が和田家を調査したというのが真実ならば)私たちが壊した壁なども見つかっているはずである」旨の発言をしています。

これは斉藤記者の『偽書「東日流外三郡誌」事件』における「和田家文書偽作現場」の描写と一致します。原田氏は確か「寛政原本のうわさを聞いた何者かが壊したのでしょう」という趣旨の発言をされていたと思いますが、実際に擁護派の大人物が壊していたのです。面白い話ですから、またHPなどにも載せておいてください。--異録文書研究家会話2012年4月5日 (木) 10:14 (UTC)[返信]