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尖閣諸島問題

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魚釣島 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

尖閣諸島問題(せんかくしょとうもんだい)とは、日本が領有権問題は存在しないとする尖閣諸島に対して、1971年より台湾(中華民国)と中国(中華人民共和国)が尖閣諸島の領有権を主張している問題である[1]

概要

左から尖閣諸島の魚釣島北小島南小島を空撮
大日本帝国陸地測量部作成「吐噶喇及尖閣群島地図」(1930年測図・1933年発行)

以下では原則として「尖閣諸島」の呼称に統一して表記する。


第二次世界大戦以前の概要

日本領に編入されたのは日清戦争中であった1895年1月14日である。尖閣諸島は現在、沖縄県石垣市に属している。日本政府は、「いずれの国にも属していないことを確認したうえで尖閣諸島を沖縄県に編入した」との見解を2008年6月に出している。これ以後、アメリカ合衆国に占領されていた時期があるものの、これは日本の施政権が及ばなかっただけであり、主権を保持しており一貫して「領有」していたといえる。

日本政府は尖閣諸島の領有状況を1885年から1895年まで調査し、世界情勢を考慮したうえで隣国の清国など、いずれの国にも属していないことを慎重に確認したうえで閣議で決定し沖縄県に編入した。その後日本人が入植し、アホウドリの羽毛の採取や海鳥の剥製の製作、そして鰹節の製造などが行われた。特に鰹節の製造は島の基幹産業となり、最盛期、同島には99戸、248人もの日本人が暮らしていた。 しかし南洋諸島からの安価な製品が出回るようになると経営が苦しくなり、鰹節工場は閉鎖され1940年に無人島となった。無人島になってからも日本の実効支配は継続していた。

なお中国側は、の時代、琉球への冊封使の報告書である古文書に釣魚台を目印に航行したとの記述があることや、江戸時代の日本の学者が書いた書物にある地図の彩色などを主張の根拠に挙げているほか、密やかに「領有」を実現し国際社会に宣言しなかった等の歴史的な経緯から見ると、日本のいわゆる「領有」は国際法上の意味を持たないと主張している。

アメリカ合衆国による沖縄統治時代

人民日報の沖縄に関する記事。冒頭で尖閣諸島は琉球群島に含まれるとの主旨が記述されている(1953年1月8日紙面)
台湾の中華郵政が発行した中華民国政府が実効支配している版図を描いた記念切手金門島馬祖列島について記述はあるが、尖閣諸島については記述されていない(1959年9月3日発行)

第二次世界大戦後は一時連合国(実質的にはアメリカ合衆国)の管理下に置かれた。連合国の一員であった中華民国は1945年10月25日[2]に、台湾総督府が統治していた台湾と澎湖諸島を接収[3]し、日本もサンフランシスコ平和条約で最終的に放棄した。台湾は1945年以降に中華民国台湾省となったが、尖閣諸島は含まれていなかった。尖閣諸島を行政的に管轄していた八重山支庁が機能不全に陥り八重山自治会による自治が行われていたが、12月になって11月26日に告示された「米国海軍軍政府布告第1-A号」によってアメリカ軍による軍政下に入り、その後琉球列島米国民政府および琉球政府が管轄する地域に編入された。またアメリカ空軍が設定していた防空識別圏も尖閣諸島上空に設定されていた。この時期の中華人民共和国および中華民国で編纂された地図では尖閣諸島を日本領として明記している(後述)。

日本は1952年に台湾に逃れた蒋介石中国国民党政権との間で、その支配下にある台湾を適用範囲とする日華平和条約(1972年失効)を締結しており、2条で台湾における日本の領土権の放棄を規定しているが、ここでは「日本国は、1951年9月8日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第二条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南群島[4]及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される」としているものの尖閣諸島は台湾に属するとは解釈されていなかった。

また、1953年1月8日付けの中国共産党中央委員会の機関紙人民日報は「琉球群島人民による反米闘争」と題する記事で、琉球群島(当時の米軍占領地域)の範囲を記事冒頭で「琉球群島は我国(中国)の台湾東北(北東)と日本の九州島西南の海上に位置する。そこには尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、トカラ諸島、大隈諸島など7つの島嶼からなっており(後略)」と紹介しており、琉球群島に尖閣諸島が含まれていると紹介している。

尖閣諸島近海は好漁場であるため、台湾漁民による不法操業が行われており日本側漁民との摩擦が生じていた。1955年には第三清徳丸襲撃事件が起き、中華民国国旗を掲げた海賊船による襲撃で死者行方不明者6名を出す事件が発生している。

1960年代に入っても尖閣諸島に大量の台湾人漁民が「不法入域」し、島に生息する海鳥とその卵を乱獲したほか、付近海域で密漁する事態は続発していた。日本の気象庁離島課は絶滅危惧種のアホウドリが尖閣諸島に生息している可能性があるとして、関係部署に依頼し琉球大学の高良鉄夫教授らを1963年春に調査団として派遣した。この調査団は100万羽以上の海鳥が生息する事を確認したが、アホウドリではなく不法に居座っている台湾漁船を発見した。この漁船は夜の漁のために停泊していたが、その合間に海鳥を収奪していた。そのため調査団は不法行為だと注意したが無視されたという。そのため高良教授は「このまま放置しておいたら現在生息している海鳥も衰亡の一途をたどる。何か保護する方法を考えなければいけない」と語った[5]が、実行力のある対処は行われなかった。

これは尖閣諸島を管轄する琉球政府には外交交渉権がなく、また本来主権を持つ日本政府も当時の沖縄の施政権は返還されていなかったため、当時国家承認していた中華民国(台湾)に対して尖閣諸島における台湾漁民の傍若無人ぶりを抗議できなかったという。そのうえ琉球政府の上部にある琉球米民政府およびアメリカ合衆国政府は、在台北のアメリカ大使館を通じて「抗議」したものの、台湾当局が積極的な取締りをしなくても、台湾の蒋介石政権との「米華関係」を重視したため不問にしたとみられている[6]

1968年に行われた調査では台湾漁民による資源の収奪による激減ぶりが明らかになった。5年前の調査と比較して南小島のカツオドリが20万羽から1万羽、北小島のセグロアジサシは50万羽から10万羽に激減していた。これは島から漁民が台湾に海鳥の卵を菓子の原料として大量に運び去ったうえに、無人島ゆえに人間を警戒しない海鳥を捕獲していたためであった。調査団は台湾人に食べられた大量の海鳥の屍骸や漁船だけでなく、南小島において台湾人60人が難破船を不法占拠しているのも確認している(詳細は南小島不法占拠事件を参照)。

前述のようなアメリカ政府の無策もあり、このような台湾人による領土不法占拠の既成事実が積み重なることで、当時から地元西南群島の住民から第二の竹島になる危惧を指摘する声もあった[6]が、この当時は日本国内では尖閣諸島における台湾人の不法入域は殆ど重要視されることはなかった。なお南小島の不法占拠者であるが、退去勧告を発し再度の入域を希望する場合には許可証を得るように指導した。彼らは解体作業を片付けるために翌年にかけて入域したが、この時は琉球列島高等弁務官の入域許可を得た合法的な行為であり、この措置に対し台湾の中華民国政府からの異議はなかった。

その後も台湾漁民による不法入域は続き、朝日新聞1969年7月11日付け夕刊には「沖縄の島に招かざる客」との題で、北小島に不法停泊している台湾漁船と漁の合間に海鳥の卵を取っている漁民の写真が掲載されている。この記事を執筆した筑紫哲也は、「(沖縄への)日本人の出入域にはきわめてきびしい統治者の米国もこの"お客様"には寛大」と揶揄するともに、「地元の声」として台湾との間で第二の竹島になる可能性があることを警告していた。

当時の琉球政府も、尖閣諸島が石垣市に属することを前提に警察本部救難艇による警備を実施し[7]、接近した台湾漁船に退去を命令する等の活動を実施していた。1970年7月には領域表示板の建立を行っている。

問題の勃発

1968年の海底調査の結果、東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘され、1971年に中国、台湾が領有権を主張しはじめた。1969年および1970年に国連が行った海洋調査では、推定1,095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告された。結果、周辺海域に豊富な天然資源があることがほぼ確実であると判明すると、ただちに台湾がアメリカ合衆国のガルフ社に周辺海域の石油採掘権を与えた。

1970年9月2日には、台湾の水産試験所の船が魚釣島に上陸、台湾の国旗である青天白日旗を掲揚した。この際周辺海域で操業中の台湾漁船からは拍手と万歳の声が挙がったという[8]。台湾当局はこの時の「青天白日旗」を掲揚した写真を撮らせ世界中の通信社に配信したため、日本政府が抗議した。なおこの「青天白日旗」はその後間もない9月中旬に琉球政府によって撤去され、米国民政府に保管されている[9]

1971年2月にはアメリカ合衆国在住の中国人留学生らによる尖閣諸島は中国固有の領土だと主張する反日デモが発生し、6月に台湾、12月に中国が相次いで領有権を主張した。1972年(昭和47年)5月15日に沖縄は日本へ返還されており、沖縄返還の直前に主張し始めた。その根拠は、尖閣諸島が中国側の大陸棚に接続しているとの主張にくわえ、古文書に尖閣諸島を目印として航海に役立てていたという記述が見られることで、最も古くから同諸島の存在を認識していたという解釈による。中国人が先に発見したから領有権を主張できるというものである[10]

ただし、1970年以前に用いていた地図や公文書などによれば両国とも日本領であると認識していたようで、米国の施政時代にも米国統治へ抗議したことはないため、日本国内では中国と台湾が尖閣諸島の領有権を主張し始めた動機として 海底油田の可能性が高い と唱えられている。そのため、国際判例上、以前に黙認によって許容した関係に反する主張は、後になって許されないとする禁反言が成立する可能性も指摘[11]されている。

中国の領土拡張戦略

中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっている。中国とインドの事例(中印国境紛争)では、1954年の周恩来とネール平和五原則の合意および中国国内のさらなる安定を待って、インドが油断している機会を捉えて、1962年11月、大規模な侵攻により領土を拡張した[12]。当時、キューバ危機が起きており、世界がそちらに注目している中での中国による計算し尽くされた行動であった[13]

軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定するという中国の戦略の事例は、中ソ国境紛争などにも見られ、その前段階としての軍事的威圧は、東シナ海および南シナ海で現在も進行中である。日中国交正常化時の中国側の領土棚上げ論は、中国に軍事的優位を確立するまでの猶予を得るための方便ともいえる。2011年現在、中国人民解放軍の空軍力は、日本、韓国、在日在韓米軍を合計したものに匹敵し、インドを含むアジアで最強であり、その急激な近代化がアジアの軍拡を誘発している。このように尖閣問題の顕在化は、中国の軍事的優位がもたらしたものといえる[14][15]

また1971年に地下資源が発見されてから、中国と台湾は領有権を主張しはじめたともいわれる。例えば、地下資源が確認される以前の1970年に刊行された中華人民共和国の社会科地図において南西諸島の部には、"尖閣諸島"と記載され、国境線も尖閣諸島と中国との間に引いてあった[16]。しかし、地下資源が確認された以後の1971年の版では、尖閣諸島は"釣魚台"と記載され、国境線も日本側に曲げられた。

現状

中国および台湾は尖閣諸島を「固有の領土」であるとの主張を繰り返している。政府レベルでは中国・台湾ともに話し合いでの問題解決を主張しているが、実際には相互に事前通報する取り決めが日中政府間で結ばれている排他的経済水域(EEZ)内はおろか、尖閣諸島周辺の日本の領海内で中国人民解放軍海軍の艦船による海洋調査が繰り返されていたり、台湾および香港の中国人活動家の領海侵犯を伴った接近が繰り返されている。

このような実力行使に対して日本政府はことあるごとに抗議しているが、台湾側は民間抗議船の出航を禁止するなどの措置をとっているが活動家が漁船で出航するなど取り締まれない場合もある、中国側はそれを無視している。なお、日本は実力行使に訴えたことはないが、偶発的事故によって台湾の民間抗議船を沈没させる事故(後述。日本側が過失を認め賠償金を支払っている)が発生している。

また地元八重山諸島の漁民によれば、日本の排他的経済水域(EEZ)内の尖閣諸島近海で操業していると、中国の海洋調査船にはえ縄を切断されたり、台湾の巡視船から退去命令を受けたりと中台双方から妨害されているうえ、台湾漁船が多く操業しているうえ、自分達が中国の漁業取締船に逆に拿捕される危惧があることを訴えている[17]

日本は憲法で国際紛争の解決の手段として話し合いで解決したいと望んでいる。なお、国連による国連憲章は第6章で紛争の平和的解決を定めており、軍事的手段による解決を否定している。また安全保障理事会は、武力による紛争解決を図った国に対する軍事制裁などを定めた国連憲章第7章に基づく行動を決めることが出来る。なお当事者のひとつである中華人民共和国は常任理事国であるため拒否権をもっているが、第27条3項は『その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3[18]に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄権しなければならない。』としており、仮に中国が武力による尖閣諸島問題の解決を図った場合、賛否すら表明することが出来なくなる。

日本の国内には民間レベルで灯台の建設を進めたり、定住しようとする計画もあるが、日本政府はそれを押し留めている。外務省が中国に対して弱腰であるという意見も存在する。

国際法の観点

また国際法判例では、紛争発生以降のこれらの実効的支配が、必ずしも有利な条件と認められないとの指摘もある。国際法では決定的期日(Critical date)といい、国際裁判で領土をめぐる紛争を審理する場合、どのような事実に対し国際法の原則と規則を適用するかが重要になるが、紛争国は互いに自国にとって有利になる行動や措置を実行しているので、時間的範囲を決定する必要がある。この場合中国側が領有権を主張し始めた以降の日本の実効的支配や中国と台湾による主権行使行動については認められないことになる。国際司法裁判所の判例(1953年マンキエ・エクレオ事件)も、紛争が発生した日以後の紛争当事国の行動を重視しないとしている。そのため、決定的期日以前の紛争国の行動が審議されることになる。裁判例としてクリッパートン島事件がある。

ともあれ、尖閣諸島が日台・日中間(および台中間)での微妙な問題であるとともに、それぞれの国内においても微妙な問題となっていることは間違いない。そのため、事実上日台・日中間で「棚上げ」の状態にあるが、なにかしらの外交的相克や民族主義的対立が発生するたびに台湾・中国側からくりかえしこの問題が蒸し返されてきている[19]

また、近年、中国は沖縄の領有権を主張する動きを見せており(中国人による沖縄県への認識参照[20])、例えば政府系研究機関が「沖縄県は終戦によって日本の支配から脱しているが、いまだ帰属先の策定が行われていない」と沖縄未定論を主張しはじめている。これに対して日本側で尖閣諸島問題は将来的な沖縄侵攻の布石と見ることも出来るとの指摘もある[21]

このように日本で中国脅威論がある一方、中国でも日本は尖閣諸島を足がかりに台湾、アメリカなどと同盟を組んで中国を再侵略しようとしているという、日本の軍国主義化を恐れる日本脅威論の調も見られ、双方ともに不信感と、それを政治的に利用しようとする民族主義的、国家主義的な意図が絡み合っており解決が困難となっている。

2010年10月には中国が尖閣諸島のある東シナ海を、国家領土保全上「核心的利益」に属する地域とする方針を新たに定めた[22]。従来「核心的利益」の語は、台湾チベット自治区新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)に限って用いられていたもの。南シナ海に関しては、同年3月すでに戴秉国国務委員が「核心的利益」に属すると、米政府高官へ伝えていたとされる[22]

台湾の現状

ファイル:Taiwanese protesters gathered in front of the Japanese Interchange Association.jpg
保釣運動家による台北市にある財団法人交流協会に対する抗議デモ(2010年9月14日

台湾の場合、尖閣諸島は台湾島に付随する諸島の一つであったが、1895年の併合地化以来、日本に領有権を奪われており、抗弁の機会すら与えられなかったとする考えが強く、日本の併合地責任論や尖閣諸島沖の漁業権問題も絡んでいる。中華民国台湾)の台湾独立派の政党で李登輝率いる台湾団結連盟(台連)は、尖閣諸島は日本固有の領土であると主張しているが、台湾では少数派にとどまっている。

当時台北市長であった馬英九は、「台湾は日本と交戦することを躊躇してならず、台湾は東京に対し漁業域の確定を要求すべき」と発言していたが、総統就任後、2008年秋に尖閣諸島の主権問題の棚上げ・周辺海域の共同資源開発を提案し、漁業権交渉を優先させる方針を明らかにしている。中国の海洋調査活動については「問題を複雑化する」として否定的であり、日台間にトラブルに対処する緊急連絡窓口を設けることで合意するなど、「主権問題棚上げ論」に傾きつつある。また、台湾当局は尖閣諸島問題で中国側との連携、協力は一切しないと再三にわたり言明している。

2008年6月に発生した聯合号事件では、台湾側が中華民国行政院海岸巡防署の巡視船を派遣するなど緊張が高まったが、日本の海上保安庁が謝罪と賠償を表明して収束した。

中国漁船衝突事件直後の2010年9月13日には、日本側EEZ内に侵入した台湾の抗議船を保護する名目で、海岸巡防署巡防船12隻を派遣している。

アメリカの立場

1972年5月に、アメリカニクソン政権でキッシンジャー大統領補佐官の指導の下、ホワイトハウス国家安全保障会議において「尖閣諸島に関しては(日中などの)大衆の注目が集まらないようにすることが最も賢明」とする機密文書をまとめた。同年2月に訪中に踏み切ったニクソン政権にとって歴史的和解を進める中国と、同盟国日本のどちらにつくのかと踏み絵を迫られないようにするための知恵だった。この機密文書には、日本政府から尖閣諸島が日米安保条約が適用されるかどうか問われた際の返答として「安保条約の適用対象」と断定的に答えるのではなく「適用対象と解釈され得る」と第三者的に説明するように政府高官に指示している。 2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約は日本の施政下にある領域に適用される」とする見解を日本政府に伝えた。同時に、アメリカ政府は尖閣諸島の領有権(主権)については当事者間の平和的な解決を期待するとして、領土権の主張の争いには関与しないという立場を強調している[23]。すなわち、アメリカ政府は、尖閣諸島に対する日本の「施政権」を認めているが「主権」については不明にしている。

米国政府は1996年以降、尖閣諸島は「領土権係争地」と認定(「領土権の主張において争いがある。」という日中間の関係での事実認定であって、米国としての主権に関する認定ではない。)した。その一方では、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は、日米安保条約5条の適用の対象にはなる、と言明している。この見解は、クリントン政権時の1996年米政府高官が示した見解と変わらないとされる。ブッシュ政権時の2004年3月には、エアリー国務省副報道官がこれに加え「従って安保条約は尖閣諸島に適用される」と発言し、それが今でも米政府関係者から繰り返されている。ただし「安保条約5条の適用」は米国政府においても「憲法に従って」の条件付であって米軍出動は無制限ではない(条約により米国に共同対処をする義務が発生するが「戦争」の認定をした場合の米軍出動は議会の承認が必要である)ことから、「尖閣諸島でもし武力衝突が起きたなら初動対応として米軍が戦線に必ず共同対処する」とは記述されていない(これは尖閣諸島のみならず日本の領土全般に対する可能性が含まれる)。むろん「出動しない」とも記述されていない。第5条については条約締改時の情勢を鑑み本質的に「軍事大国日本」を再現することで地域の安定をそこなわないための米国のプレゼンスに重点がおかれているものと一般には解釈されている[24]。なお、米国の対日防衛義務を果たす約束が揺るぎないものであることは、累次の機会に確認されていると日本の外務省は主張している[25]

尖閣諸島の主権に限らず、領土主権の認定は、主権認定に関する条約が締結されていた場合には、国際法上、行政権限ではなく国会の権限が優先するというのが通説である。つまり、サンフランシスコ平和条約に米国政府が調印して米国議会が批准(国会で承認)している以上、オバマ政権の行政府としての政治的判断や政治的発言がどのようなものであっても、それは条約の更改や廃止や破棄として国会の承認(批准)を経たものでないから、条約更改や廃止、破棄としての法的効果は生じていない。国際法上、米国の国家責任としての尖閣諸島の主権に関する認定は、議会によって条約の更改や廃止、破棄などの決議がされない限り、あくまでもサンフランシスコ平和条約2条に帰結する。

なお、米国政府(行政府)が尖閣諸島の主権が日本にあることを明言しないことは、尖閣諸島の主権が日本にないことを主張したものとはいえない。 つまりブッシュ政権もオバマ政権も、米国政府として「領土権の主張の争いには関与しない。」と言っているのであって「尖閣諸島の主権は日本にはない」と主張したことはない。もっとも、もしそのような明言を米国議会の承認なしにすれば、米国議会が批准した条約、条文を行政府が国会承認の手続を経ず恣意的に変更するわけで、それは明白な越権行為であり米国憲法違反になる。

2010年9月に起こった尖閣諸島中国漁船衝突事件の際は、ヒラリー・クリントン国務長官は、日本前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示し[26][27]、同日行われた会見でロバート・ゲーツ国防長官は「日米同盟における責任を果たす」「同盟国としての責任を十分果たす[28]」とし、マイケル・マレン統合参謀本部議長は「同盟国である日本を強力に支援する」と表明している[29]

保釣運動

保釣運動のプラカード(香港で撮影)

保釣運動とは、「中国固有の領土である釣魚台列島(尖閣諸島)を守れ」と中国人社会で湧き起こっている運動。1971年、アメリカに留学中だった台湾人学生の間から発生したのが始まりといわれる[1]。1996年以降、頻繁に日本の領海を侵犯をするなど、活動は活発化している。

1996年以降の動きの中心になっているのは香港(中国)や台湾の活動家であり、1997年の香港中国返還を目前にして盛り上がった民族主義的な動きの反映との見方もある。最近は憤青やその代表格の童増のようにネットも活用している。

日本国内には、その強硬な姿勢や過激な活動に嫌悪感を示す者もおり、話し合いでの問題解決を口にする中国政府の別働隊なのではないかと疑う者もいる。一方で純粋な市民による運動と見ている者もいる。

なお、保釣運動に参加するのは中国人だけでなく香港や台湾の中国人活動家も含まれているほか、大陸の中国共産党政権に反対する立場の反共愛国連盟も含まれている。

海洋調査

排他的経済水域内での海洋調査は、一般には主権国の同意のもとでおこなわれる限りなんら問題のない科学探査であるが、同意を得ない場合は問題となる。海洋調査船が政府所属の船舶(公船)である場合、国連海洋法条約により公船に対し拿捕・臨検等の執行措置をとることはできないとされており、同意のない海洋調査について可能な対応に限界がある。この場合相手国政府に対して現場水域での、あるいは外交ルートを通じての中止要請をおこなうことや再発防止の要請をおこなうことになるが、中国の海洋調査行動については違反調査が繰り返されている状況にある[30]

尖閣諸島年表

鄭若曾の『琉球図説』(16世紀)。「琉球国図」の中に釣魚嶼が描かれている。
  • 1403年で著された『順風相送』という書物に釣魚台の文字がある。
  • 1534年:明の冊封使・陳侃(チン・カン)の報告書『使琉球録』に「(五月)十日、南風甚だ迅く、舟行飛ぶが如し。然れども流に順ひて下れば、(舟は)甚だしくは動かず、平嘉山を過ぎ、釣魚嶼を過ぎ、黄毛嶼を過ぎ、赤嶼を過ぐ。目接するに暇あらず。…(略)…十一日夕、古米山(今の久米島)を見る。乃ち琉球に属する者なり。夷人(冊封使の船で働いてゐる琉球人)舟に鼓舞し、家に達するを喜ぶ。」とある。
  • 1562年:明の冊封使・郭汝霖の報告書『重編使琉球録』に「閏五月初一日、釣嶼を過ぐ。初三日、赤嶼に至る。赤嶼は琉球地方を界する山なり。再一日の風あらば、即ち姑米山(今の久米島)を望む可し」とある。
  • 16世紀:明の鄭若曾[31]著『琉球図説』の「琉球国図」に「釣魚嶼」が描かれる。
  • 1686年:明の冊封使・汪楫の報告書『使琉球雑録』巻五に、「(康煕廿二年六月)二十四日(1683年7月18日)の天明に及び、山を見れば、則ち彭佳山なり…辰刻に彭佳山を過ぎ、酉刻に釣魚嶼を遂に過ぐ。…二十五日、山を見る、まさに先は黄尾後は赤尾なるべきに、何も無く赤嶼に遂至す、未だ黄尾嶼を見ざる也。薄暮、郊(今の沖縄トラフ/原註:或は溝に作る)を過ぐ。風涛大におこる。…之を久しうして始めてやむ。(汪楫は)問ふ、『郊の義は何に取れるや?』と。(相手は)曰く、『中・外の界なり』と。」とある。
  • 1708年:琉球士族、唐名程順則大和名 ・名護親方寵文、1663年 - 1734年)の著した『指南広義』(1708年)に「釣魚台」「赤尾嶼」「黄尾嶼」「姑巴甚麻」の表記がある。
  • 1743年乾隆帝の命で編纂された地理書『大清一統志』の第335巻と同本収録の「台湾府図」において、それぞれ「北至鶏籠城」「鶏籠城界」と書かれており、鶏籠城(現・基隆市)が台湾の北東端と記されている。この書において、尖閣諸島は台湾に含まれていない。[32][33]
  • 1785年:日本の学者・林子平(はやし しへい)によって書かれた『三国通覧図説』という書物に付属している『琉球三省并三十六嶋之圖』という地図で、尖閣諸島が中国と同じ桜色に塗られているが、台湾は中国とは異なる黄色で塗られている[34][35]
  • 明治維新
    • 1868年1月3日王政復古、中央政府が江戸幕府から朝廷へ移る。
    • 1869年7月25日版籍奉還、土地と人民は明治政府の所轄する所となるが各大名は知藩事として引き続き藩の統治に当たる。
    • 1871年8月29日:在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じ、藩は県となって知藩事は失職。旧知藩事へ東京への移住を命じる。
    • 1877年西南戦争
  • 1871年牡丹社事件発生。台湾南部に漂着した琉球国宮古島の住民66人の内54名が「牡丹社」という排湾族原住民に殺害された。
  • 琉球処分
    • 1872年9月14日琉球王国を廃止して琉球藩を設置。
    • 1879年3月11日琉球藩の廃止を布達し、鹿児島県に編入。同年4月4日に沖縄県を設置。国王(藩主)であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられる。
    • 琉球の領有権を主張した清国に対し、日本は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに旧琉球王国南部の先島諸島の清国への割譲を提案し仮調印したが、李鴻章の反対により琉球帰属問題が棚上げ状態になった。(日清戦争により撤回)
  • 1859年以降に大城永保が調査し、1885年に沖縄県庁の石澤兵吾に無人島であることを報告した。
  • 1885年
    • 福岡県出身の実業家・古賀辰四郎が尖閣諸島での事業展開のため沖縄県に借地契約を請求。古賀の請求を受けて沖縄県庁は内務省に相談。内務省は沖縄県庁にこの島の調査を内々に命令する。
    • 9月22日:沖縄県令・西村捨三は、「久場島、魚釣島は、古来より本県において称する島名ではあり、しかも本県所轄の久米・宮古・八重山等の群島に接近している無人の島であるので沖繩県下に属しているのであるが、『中山伝信録』(中国の古文書)に記載されている釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のものではないと言いきれないので、慎重に調査する必要がある」と、内務省に報告。 雲出丸による現地調査の結果を追って伝えると連絡。
    • 10月9日:内務卿・山縣有朋は「清国所属の証拠は少しも見えない」として、外務卿・井上馨と協議。
    • 10月21日:外務卿・井上馨は、「清の新聞が自国の領土である花瓶嶼や彭隹山を日本が占領するかもしれないなどという風説を流していて、清の政府や民衆が日本に対して猜疑心を抱いている。此んな時に、久場島、魚釣島などに国標を建てるのは徒に不安を煽るだけで好ましくない」として「国標を建て開拓等に着手するは、他日の機会に譲り候方然るべしと存じ候」と山縣に回答。
    • 11月5日:沖縄県令は、「出雲丸報告書で熟考すると、最初は何方に属するかは甚だ決断しないで上申したが、今回の復命及び報告書によれば、本県の所轄と決定した。」として本県所轄の標札建設を上申した。
    • 11月24日:沖縄県令は国標建設について、「清国との関係がないともいえず、万一不都合が生じては申し訳ないので、どうするべきか早く指揮してほしい」との上申書を内務卿へ提出。
    • ※時期は確定できないが、このころ、古賀辰四郎による開拓が本格化。船着場や鰹節工場を建設。
  • 1890年1月13日:沖縄県知事・丸岡莞爾が国標を建てる事を国に要請。
  • 1893年11月2日:沖縄県知事・奈良原繁が国標を建てる事を国に要請。
  • 1894年
    • 7月朝鮮を巡る対立から日清戦争が勃発。
    • 12月15日:標識建設について、「島は別に従来何れの領土とも決まっていない。地形上沖繩群島中の一部と認めるべきは当然の義」として、閣議提出が上伸された。
  • 1895年
    • 1月11日:外務大臣・陸奥宗光は、内務大臣・野村靖に国標を建てることに同意すると伝える。
    • 1月14日:日本政府が尖閣諸島の沖縄県への編入を非公開の閣議で決定し、正式に日本領とした。しかし、この決定は尖閣諸島を今まで領土と主張した国がないことから周辺国には特に伝えられなかった。
    • 1月21日:内務大臣から沖縄県知事に魚釣、久場両島に沖縄県所轄の標杭を建てるよう指令。
    • 4月17日日清講和条約(下関条約)が締結され終戦。清が台湾と澎湖諸島を日本に割譲。
    • 6月10日:古賀辰四郎が「官有地拝借願」を内務省に提出。
  • 1896年:日本政府が古賀辰四郎への30年の無償貸与を許可。
  • 1918年:古賀辰四郎、死去。 事業は息子の古賀善次が継承。
  • 1920年:中華民国駐長崎領事・馮冕より魚釣島に漂着した遭難者(福建省恵安の漁民)の救護に対し、当時の石垣村長・豊川善佐、石垣村衛生係雇・富田孫伴こと玉代勢孫伴(たまよせそんばん)、尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎の子息の古賀善次らに感謝状が贈られる。 それには尖閣諸島のことが「日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島」と明記されていた。 この感謝状は全部で4通あった。中国側からの通報によれば7通という説もあるようだが、確認はされていない。現在4通の内の1通は石垣市立八重山博物館に寄贈され現物が保管されている。またこれとは別に、手が加えられていない(八重山博物館のものは掛け軸にする際に周囲が切断されている)当時の石垣村長である豊川善佐宛の感謝状が現存していることが2010年11月28日に判明している[36][37]。これにより2通目の感謝状の現存が確認された。
中華民国駐長崎領事・馮冕から石垣島島民への感謝状
  • 1932年:魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島が古賀に対し有償で払い下げられる。
  • 1940年:古賀が事業継続を断念。尖閣諸島は無人島になる。
  • 1945年8月15日:日本、ポツダム宣言を受諾。

第二次世界大戦以後

  • 1946年1月29日:「連合国軍最高司令官総司令部覚書」677号[38]により、尖閣諸島を含む南西諸島の施政権が日本から連合国に移される。
  • 1951年9月8日日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)調印。
  • 1952年
    • 2月29日:この日に公布された琉球列島米国民政府の米国民政府布令第六十八号「琉球政府章典」の第一条において、「琉球政府の政治的及び地理的管轄区域は、左記境界内の諸島、小島、環礁、及び領海とする。北緯二八度東径[39]一二四度四〇分の点を起点として北緯二四度東径一二二度、北緯二四度東径一三三度、北緯二七度東径一三一度五〇分、北緯二七度東径一二八度一八分、北緯二八度東径一二八度一八分の点を経て起点に至る。(改正五)」としており、尖閣諸島はこの境界内にあるため地理的管轄区域に含まれる[40][41][42]
    • 4月28日:日本国との平和条約発効。 条約第3条により尖閣諸島を含む南西諸島がアメリカ施政下に置かれる。 アメリカ軍が大正島(1956年4月16日以降アメリカ海軍の艦砲と爆撃の射的して使用)および久場島(1955年10月以前はアメリカ空軍が、以降はアメリカ海軍が使用)を実弾演習地域として使用[43]。同日、日華平和条約調印。
  • 1953年
    • 1月8日中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』が資料欄において、「琉球群島人民のアメリカによる占領に反対する闘争」と題した記事を掲載。尖閣諸島を日本名で「尖閣諸島」と表記し、琉球群島(沖縄)を構成する一部だと紹介する。
    • 12月25日奄美諸島の日本返還に伴い、アメリカの信託統治下にある琉球列島の地理的境界を再指定するため、1953年12月19日に再指定され、同年11月24日に遡及施行された、同年12月25日付の琉球列島米国民政府の米国民政府布告第二十七号「琉球列島の地理的境界」の第一条において、「琉球列島米国民政府及び琉球政府の管轄区域を左記地理的境界内の諸島、小島、環礁及び岩礁並びに領海に再指定する。北緯二十八度・東経百二十四度四十分を起点とし、北緯二十四度・東経百二十二度、北緯二十四度・東経百三十三度、北緯二十七度・東経百三十一度五十分、北緯二十七度・東経百二十八度十八分、北緯二十八度・東経百二十八度十八分の点を経て起点に至る。」としており、尖閣諸島はこの地理的境界内にあるため管轄区域に含まれている[44][45][46][47]
  • 1955年
    • 3月2日:尖閣諸島魚釣島近海で中華民国旗を掲げたジャンク船2隻による第三清徳丸襲撃事件が起こる。第三清徳丸の船員9名中2名が射殺され4名が行方不明となる。
    • 3月16日:この日に公布された琉球列島米国民政府布令第百四十四号「刑法並びに訴訟手続法典」の第二部罪・第一章定義の九(すなわち二、一、九)において「本法にいう「全琉球列島領域」とは、左記境界内のすべての土地、岩石、岩礁、砂洲及び海をいう。北緯二十八度・東経百二十四度四十分の点を起点として北緯二十四度・東経百二十二度の点北緯二十四度・東経百三十三度の点北緯二十七度・東経百三十一度五十分の点北緯二十七度・東経百二十八度十八分の点及び北緯二十八度・東経百二十八度十八分の点を経て起点に至る。」としており、尖閣諸島はこの境界内にあるため全琉球列島領域に含まれている[48][49]
  • 1958年11月:北京の地図出版社、『世界地図集』発行。尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記。
  • 1963年5月:アホウドリの生息調査団が尖閣諸島を調査。アホウドリは居なかったが海鳥の楽園であるとともに、台湾漁民が多数不法停泊していることが明らかになる。
  • 1965年10月:中華民国国防研究院、『世界地図集第1冊東亜諸国』初版出版。尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記。[50]
  • 1968年
    • 6月:5年ぶりに環境調査が行われたが、台湾漁民による乱獲で海鳥が激減していたことが判明。
    • 8月12日:台湾のサルベージ業者が南小島で沈没船解体作業を琉球政府の入域許可を得ず行っていたことが発覚。退去させられたうえに、再度入域許可を得た上で残りを作業を続けたが、この措置に対し中国側および台湾側から抗議は無かった。
    • 10月6日:台湾最大紙『聯合報』が記事「琉球尖閣諸島 我国の漁船操業禁止[51]」を掲載。
    • 10月12日 - 11月29日:日本、中華民国、大韓民国の海洋専門家が国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の下に東シナ海一帯の海底を学術調査。海底調査の結果、「東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性がある」ことが指摘される(現在では尖閣諸島周辺にはイラクの原油の推定埋蔵量の1,125億バレルに匹敵する、1,000億バレル以上の埋蔵量があることがほぼ確実とされている)。
  • 1969年
    • 5月:中華民国当局は付近海域の石油採掘権をアメリカのガルフ社に与えると共に、「青天白日旗」を尖閣諸島に掲揚し、世界中の通信社に配信した。
    • 5月10日5月11日琉球政府が石垣市に命じて魚釣島、北小島、南小島、大正島、久場島の5つの島に標杭を建てる[52][53]
    • 中華人民共和国が、中国共産党が現在主張している「釣魚台」という呼称ではなく、日本が主張している通りの「尖閣諸島」と明記した地図を発行する[54]
    • 7月11日:朝日新聞那覇支局のカメラマンが撮影した尖閣諸島北小島に不法停泊している台湾漁船と漁民の写真が掲載[55]
  • 1970年
    • 1月:中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」[56]で、尖閣諸島は日本領として「尖閣群島」という日本名で表記。
    • 7月:台湾籍船をはじめとした外国人の不法上陸や密漁に悩まされていた琉球政府は、出入管理庁の人員ら22名を米軍の支援を受けて尖閣諸島へ送り、違反事件の調査を行った。また、以前から検討されていた不法侵入に対する警告版(領域表示板)を、琉球列島米国高等弁務官の命により琉球政府法務局出入管理庁警備課が7月8日から13日にかけて、魚釣島と北小島に2ヶ所ずつ、南小島と大正島と久場島に1ヶ所ずつ、計5島7ヶ所に建てる。警告版(領域表示板)には、それぞれ英語・中国語・日本語で「警告 此の島を含む琉球列島のいかなる島又はその領海に琉球列島住民以外の者が無害通行の場合を除き、入域すると告訴される。但し琉球列島米国高等弁務官により許可された場合はその限りでない。 琉球列島米国高等弁務官の命による 琉球政府建立す」と書かれている。[53][57][58][59][60][61]
    • 8月31日:琉球政府立法院が尖閣諸島の領有権を主張する中華民国に抗議したうえで、その主張を放棄させるようアメリカ政府と日本政府に対し「尖閣列島の領土権防衛に関する要請決議」、決議第十二号、決議第十三号を採択[45][46][62][63][64][65]
    • 9月:琉球政府は警察本部救難艇「ちとせ」を尖閣諸島に派遣し、魚釣島に掲揚されていた青天白日旗を撤去。米国民政府に保管[9]
    • 9月10日:アメリカのロバート・マクロスキー国務省報道官は「対日平和条約第3条によれば、米国は「南西諸島」に対し施政権を有している。当該条約中のこの言葉は、第二次世界大戦終了時に日本の統治下にあって、かつ、同条約中ほかに特別の言及がなされていない、北緯29度以南のすべての島を指すものである。平和条約中におけるこの言葉は、尖閣諸島を含むものであることが意図された。当該条約によって、米国政府は琉球列島の一部として尖閣諸島に対し施政権を有しているが、琉球列島に対する潜在主権は日本にあるものとみなしている。」としたうえで、「主権の対立がある場合には、右は関係当事者間で解決さるべき事柄であると考える。」と述べる[66]
    • 9月17日:琉球政府は、尖閣列島の領土権に関する声明(琉球政府声明)を発表する[46][63][67]
  • 1971年
    • 1月29日:アメリカ合衆国サンフランシスコで中国人留学生らが尖閣諸島は中国固有の領土であると主張するデモを決行。後に全米だけでなく世界中の中国人社会にも広がり、いわゆる保釣運動へと発展した。
    • 6月11日中華民国(台湾)が尖閣諸島の領有権を主張。
    • 6月17日沖縄返還協定に調印[68]。また、沖縄返還協定に付随している「合意された議事録」において、「第1条に関し,同条2に定義する領土は,日本国との平和条約第3条の規定に基づくアメリカ合衆国の施政の下にある領土であり,1953年12月25日付けの民政府布告第27号に指定されているとおり,次の座標の各点を順次に結ぶ直線によつて囲まれる区域内にあるすべての島,小島,環礁及び岩礁である。北緯28度東経124度40分北緯24度東経122度北緯24度東経133度北緯27度東経131度50分北緯27度東経128度18分北緯28度東経128度18分北緯28度東経124度40分」としており、尖閣諸島はこの区域内にあるため、沖縄返還協定の第1条の2に定義する領土に含まれている[68][69][70][71][72]。なお、この沖縄返還協定の返還領域に関する表現について、尖閣諸島での紛争に巻き込まれたくないアメリカ側は、日本側が主張する経緯度線で返還領域を示す方法に難色を示し、「奄美返還協定の対象地域を除く北緯29度以南の南西諸島」と表現する案を示していたが、最終的に、日本側が尖閣諸島の地名及び沖縄返還協定本文での返還領域掲載を譲ったうえで、沖縄返還協定付随の合意議事録に経緯度線で返還領域を示すことでアメリカ側と合意している[73][74][75]
    • 12月30日中華人民共和国が尖閣諸島の領有権を主張。
  • 1972年
    • 3月3日:琉球政府立法院において、「尖閣列島の領土権問題に関する琉球政府立法院決議」、決議第三号と決議第四号を採択[45][76]
    • 3月8日:日本国外務省は「尖閣諸島の領有権問題について」と題した見解を発表[77][78]
    • 5月15日:沖縄返還協定が発効。琉球が日本に返還され、再び沖縄県となる。
    • 7月28日日中国交正常化交渉の一環として北京で行われた竹入義勝衆議院議員と周恩来国務院総理との会談の中で、周恩来が「尖閣列島の問題に関心がなかった」としたうえで、「石油の問題で歴史学者が問題にした」と述べ、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、付近に眠る石油資源が目当てだったことを認めている[79][80]。この件は、2010年9月30日に行われた衆議院予算委員会の尖閣諸島中国漁船衝突事件に関する集中審議で取り上げられている(質問者は富田茂之衆議院議員。)[81][82]。この周恩来の発言は、日本政府の「中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです。」とする主張を証明するものである[83]。なお、この会談を記録した中国側の資料では、会談内容が省略されているため「石油の問題で歴史学者が問題にした」に関する部分が記載されていない[84][85]
    • 9月27日:日中国交正常化交渉のため中国を訪問した田中角栄内閣総理大臣と周恩来国務院総理との第三回首脳会談の中で、田中角栄が尖閣諸島について問うと、周恩来は「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。」と述べており、同年7月28日に続いて石油を問題視する発言をしている。[86][87][88][89]
    • 9月29日日中共同声明により日中国交正常化。日本と中国共産党率いる中華人民共和国とが国交を結び、日中共同声明に基づきそれまで国交のあった中華民国には断交を通告。
  • 1978年
    • 4月:約100隻の中国漁船が尖閣諸島に接近し、領海侵犯、領海内操業を行う。
    • 5月11日:日本の右翼団体大日本赤誠会」の「尖閣諸島領有決死隊」が海上保安庁の制止を振り切り、戦後初めて領有権を主張しての強行上陸。日章旗を掲揚。
    • 8月12日:日本の右翼団体「日本青年社」が魚釣島に灯台を建設。
    • 10月23日:日中平和友好条約の批准書交換のため訪日していた中国の鄧小平国務院常務副総理は、日本記者クラブで行われた会見の席上で、「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」と述べる。
  • 1979年5月17日海上保安庁は、魚釣島に仮設ヘリポートを設置するため、第一管区海上保安本部釧路海上保安署所属の巡視船そうや」を派遣。仮設ヘリポートについては後に中華人民共和国の抗議があり、日本国政府が独自に撤去した。
  • 1988年:日本青年社が魚釣島に新灯台を建設。 航路標識法に基づく正式な灯台として認可するよう海上保安庁第十一管区海上保安本部に申請書を提出し、受理される。
  • 1990年8月:台湾聖火リレー船領海侵犯事件 - 尖閣諸島の領有権を主張するために、「台湾地区スポーツ大会」の聖火リレーを行っていた台湾船2隻が、魚釣島周囲の領海を侵犯
  • 1992年2月25日:中華人民共和国領海法制定。 釣魚列島(尖閣諸島)が自国領であると記載。
  • 1996年
    • 日本青年社、再度灯台を建設。 日本政府に海図への記載を求める。 中国政府は日本政府に圧力をかけ、海図への記載を止めさせた。
    • 7月国連海洋法条約発効。 日本政府は排他的経済水域を設定。
    • 9月香港から出港した抗議船が領海侵犯し活動家数名が海に飛び込み、1人(陳毓祥)が溺死する。
    • 10月:台湾・香港の活動家等が乗船する小型船41隻が領海侵犯。 4人が魚釣島岩礁に上陸。
  • 1997年
    • 5月6日:新進党(当時)衆議院議員西村眞悟が国会議員で初めて上陸・視察。
    • 5月:30隻の台湾抗議船等が尖閣諸島に接近し、そのうち3隻の抗議船が警告を無視して領海侵犯
    • 7月:1隻の台湾抗議船が尖閣諸島の領海侵犯。 日本の海上保安庁により領海外へ退去させられる。
  • 1998年6月:香港と台湾の抗議船6隻が尖閣諸島領海付近に接近。 うち香港の抗議船「釣魚台号」と同船から降ろされたゴムボートが領海侵犯。 その後、領海外に退去させられた釣魚台号は、遭難信号を発信し、乗員は付近の台湾抗議船および日本の海上保安庁の巡視船に救助された。 釣魚台号には人為的原因によると思われる浸水が発生しており、海上保安官が応急的な漏水防止措置などを施したものの魚釣島付近海域で沈没。

2000年代

  • 2001年5月:日本の「日本人の会」のメンバーが尖閣に強行上陸、示威行動。同会は西村眞悟が顧問、また「建国義勇軍」を名乗る右翼団体でもあったことが後に確認される。
  • 2002年
    • 9月16日沖縄タイムスのインタビューで、李登輝元台湾総統は尖閣諸島について、「尖閣諸島の領土は、沖縄に所属しており、結局日本の領土である。中国が、いくら領土権を主張しても証拠がない。国際法的にみて、何に依拠するのかが明確でない。国際法的な根拠「中国の領土権」があって、第二に「兵隊が駐屯した事実」がないと、領土権をうんぬんする資格はない。」と述べる。これに対し台湾、中国、香港の報道機関などは猛反発した。[90][91]
    • 10月20日:李登輝元台湾総統は台湾での研討会において、「一九七〇年に、海底油田説が浮上してから、この島をめぐる争いが始まった。清朝は「台湾」を日本に譲渡した時、釣魚台はその範囲に含まれておらず、当時の地図を見てもこのことは明らかである。釣魚台はもともと琉球王国の中山王の土地であり、琉球王国は中国明朝の一部ではない。琉球は現在、日本の県であるから、どこに領土権があるかは明らかだ。」と述べたうえで、「台湾にあるのは漁業権のみ」と主張する。[92]
  • 2003年12月26日廈門市で開催された全世界華人保釣フォーラムにて「中国民間保釣連合会」結成を決定。
  • 2004年
    • 1月: 台湾当局が魚釣島を土地登記 (4月に判明)。
    • 1月15日:中国の民間団体「中国民間保釣聯合会」などの抗議船2隻が領海侵犯し、魚釣島から約3海里の地点(東経123度17分、北緯25度40分)で20個の石碑を海に沈める[93]
    • 3月24日:日本の海上保安庁の警備の隙を突いて中国人活動家7名が領海侵犯し魚釣島に不法上陸したが、沖縄県警察本部は全員を出入国管理法違反(不法入国)の疑いで現行犯逮捕。 上陸した活動家などが逮捕されたのはこれが初めてである。
    • 3月24日:アメリカのアダム・エレリ国務省副報道官が「尖閣諸島に日米安保条約が適用される」との見解を表明。
    • 3月26日:出入国管理法違反で逮捕されていた7名の中国人活動家が強制退去処分となる。
    • 3月30日:例年行われていた対中円借款の交換公文署名式を中国外務次官・王毅が当日になって突然欠席。 日本の外務省幹部は不快感を示しながらも「(中国人活動家の逮捕をきっかけに高まっている)国内の反日世論に配慮せざるを得ないのだろう」とコメントした(注:対中円借款の交換公文署名式は日本の援助に対して中国が公式に感謝を表明する唯一の場)。同日、衆議院安全保障委員会は、尖閣諸島への中国人の不法上陸事件を受けて、政府に警戒・警備で万全の対策を求める「我が国の領土保全に関する件」と題する決議を全会一致で可決。
    • 4月15日 :台湾当局がこの年1月、魚釣島を土地登記していたことが明らかになる。
  • 2005年2月9日:日本青年社が魚釣島に建設した灯台を、所有権放棄に伴い日本政府が国有化、海上保安庁が保守・管理すると発表。
  • 2007年10月28日:中国の「保釣(釣魚島防衛)行動委員会」の抗議船が領海侵犯、海上保安庁の警告で引き返す。
  • 2008年
    • 6月10日領海侵犯した台湾の遊漁船「聯合号」に海上保安庁の巡視船「こしき」が衝突し、聯合号が沈没する聯合号事件が発生。台湾の一部から反日世論が沸騰し、数日後に台湾の巡視船など4隻が尖閣諸島沖の領海を侵犯、海保巡視船とにらみ合い、駐日代表を召還させる措置をとった。劉兆玄行政院長立法院(議会)の答弁で、立法委員(議員)の追及に応える形で「最終手段としての軍艦派遣も排除できない」とした。日本側が海保巡視船の過失を認め謝罪を表明し、同年12月、3,000万円相当の賠償で和解が成立。
    • 9月24日:沖縄に訪問中の李登輝元台湾総統が「尖閣諸島は日本の領土」と発言。台湾政府はこれを個人的見解と一蹴。
    • 11月9日:台湾で尖閣諸島の領有権を主張する団体中華保釣協会が設立。中国や在外華僑の反日活動家と連携するとみられている。
    • 12月8日中国国家海洋局所属の海洋調査船2隻が尖閣諸島付近の領海を約9時間半にわたって侵犯。翌日、中国国家海洋局海監総隊の孫書賢副隊長が「中国も(主張するだけでなく)管轄海域内で存在感を示し、有効な管轄を実現しなければならない」と述べ、海洋調査活動を強化する方針を示した。翌年2月16日には、国家海洋局の孫志輝局長が「実際の行動で中国の立場を示した」と述べ、中国の主権を主張する目的で侵入したことを明らかにしている。
    • 12月9日:訪日中の呉伯雄国民党主席が尖閣諸島付近の共同資源開発を改めて提案。中国の海洋調査活動について「問題を複雑化する」と牽制。
    • 12月19日:12月8日の尖閣諸島沖の日本領海に中国の海洋調査船が侵入した問題で沖縄県議会が「尖閣諸島は沖縄・石垣市に属する、我が国固有の領土である」として中国政府に抗議する決議を全会一致で採択。[94]
  • 2009年
    • 2月1日:海上保安庁が尖閣諸島周辺の監視態勢強化のため、PLH型巡視船を常駐化。[95]報道から約1週間後、中国外交部当局者が北京の日本大使館に「日本が行動をエスカレートさせれば、中国は強硬な反応を示さざるを得ない」と抗議。
    • 4月3日:石垣市の大浜長照市長が地方税の調査を行う目的のために尖閣諸島への上陸を求める書簡を中曽根弘文外務大臣あてに申請[96]。同月8日、政府は上陸を認めない方針を示す[97]

2010年代

  • 2010年
    • 5月27日石原慎太郎東京都知事の尖閣諸島に関する発言に対し、鳩山由紀夫首相は「日中の間で衝突があったとき、アメリカは安保条約の立場で行動する。しかし(尖閣諸島の)帰属問題は日中当事者同士で議論して結論を出す、と私は理解をしている」と述べる。[98]。翌28日、岡田克也外務大臣が「尖閣に日本の領土問題はない。議論の余地はない」と述べ、鳩山発言を修正した[99]
    • 8月16日:アメリカのフィリップ・クローリー国務次官補(広報担当)は「尖閣諸島は日本の施政下にある」「日米安保条約5条は、日本の施政下にある領域に適用される」としたうえで、「条約が尖閣諸島に適用されるかと問われれば、そうだ」と述べる[100]
    • 9月7日午前、中国漁船が日本の領海を侵犯して沖縄県尖閣諸島付近で操業中、日本の海上保安庁の巡視船が発見。停船を勧告するもそれを無視して漁船は逃走。逃走時に海上保安庁の巡視船に衝突を繰り返し、巡視船2隻を破損。同漁船の船長を公務執行妨害で逮捕するという事件が起きる[101]
    • 9月10日:未明に、中国の漁業監視船「漁政201」と「漁政202」の2隻が尖閣諸島付近の日本の接続水域に侵入しているのを海上保安庁の巡視船が確認。日本側は海上保安庁の航空機とヘリコプター、巡視船で監視・警告を行い、2隻は9月18日に接続水域から離れる。[102][103][104]
    • 9月13日中華民国行政院海岸巡防署は巡防船12隻を派遣、台湾の抗議船を保護。しかし海上保安庁の艦船と双方が対峙したうえ、海岸巡防署の官吏が日本側に対して領土声明を発表した。この時台湾の抗議船がEEZ内まで侵入したことに対して台湾政府は「民間の自発的行動」と表明した。[105]
    • 9月18日:中国国内4都市で数百人規模の反日デモ[106]
    • 9月23日:ニューヨークでのヒラリー・クリントン米国務長官と前原誠司外務大臣の会談の中で、クリントン国務長官は尖閣諸島中国漁船衝突事件に関する日本側の対応に理解を示したうえで、「尖閣諸島には、日米安保条約5条が適用される」と述べる[107]
    • 9月24日:公務執行妨害の疑いで逮捕した中国人船長を処分保留のまま釈放すると発表[108]。船長は25日未明に釈放された[109]。民主党、岡田克也(幹事長)は「政治的な介入はしておらず、検察がみずからの判断で行った。」と政治責任問題を回避する発言に終始する[110][111][112]。この間にも中国の漁船(工作船とおぼしき船を含む)は20隻以上、日本の領海である沖縄県尖閣諸島付近に入り込んでいるが、日本政府は特に対応を行っていない。また、同日午後6時頃、中国の漁業監視船「漁政201」と「漁政203」の2隻が尖閣諸島付近に現れ、その後日本の接続水域に侵入。海上保安庁の巡視船が監視・警告を行い、外務省も中国側に中止要請を行う。2隻は10月6日早朝に接続水域から離れる。[103][113]
    • 9月25日:中国政府が中国人船長逮捕に関して日本に謝罪と賠償を要求[114]菅直人首相は26日、「尖閣はわが国固有の領土だ。そういう観点から賠償は考えられず、全く応じられない」と拒否する考えを示した[115]
      「10.2中国の尖閣諸島侵略糾弾!全国国民統一行動」
    • 9月27日:中国側は、これまで不定期だった尖閣諸島付近での漁業監視船による巡視を日常的に行う方針を示す[116]
    • 9月28日:アメリカのウォレス・グレグソン国防次官補が尖閣諸島中国漁船衝突事件に関し「日本政府の立場を全面的に支持する」としたうえで、尖閣諸島について「1972年の沖縄返還の際、沖縄県とともに日本に返還したのが事実だ」と述べる[117]
    • 10月2日尖閣諸島中国漁船衝突事件を巡り、中国への抗議および日本政府の対応に対して日本で東京など7都市でデモが行われた。渋谷でのデモは頑張れ日本!全国行動委員会が主催し、参加者は2,700人。海外メディアでは「日本では珍しい大規模デモ」として大きく扱われた[118][119][120][121][122][123][124]。日本国内では、ジェイ・キャストSo-TVなどのインターネットメディアによって報じられた[125][126][127]が、大手の国内報道機関は一切報道を行わなかった[126][127]
    • 10月4日中山義隆石垣市長を始めとする石垣市議団と竹富町町長が尖閣防衛を訴えるために上京し複数の省庁を回ったが、総務大臣以外は応対しなかった[128]。石垣市議団は石破茂防衛大臣や沖縄選出の島尻議員らと東京で上陸許可と防衛を訴える街頭演説を行った[128]
    • 10月9日:超党派による「国家主権と国益を守るために行動する議員連盟」の座長原口一博と、藤田幸久河井克行柿沢未途の4人が民間チャーター機で尖閣諸島を上空から視察した[129]
    • 10月15日:アメリカ国務省で行われた安倍晋三元首相とジェイムズ・スタインバーグ国務副長官との会談の中で、同副長官は、紛争が尖閣諸島で発生した場合、「日米安全保障条約第5条が適用される」と述べる[130]
    • 10月16日:2週間前に行われた、「頑張れ日本!全国行動委員会」によるデモに反発した中国人による数万人規模の大規模な反日デモが成都鄭州西安杭州で発生。成都では日系デパートが襲撃された[131]
    • 10月18日:アメリカ国防総省で行われた安倍晋三元首相らと、ミシェル・フロノイ国防次官(政策担当)とウォレス・グレグソン国防次官補[132]との会談の中で、フロノイ国防次官は尖閣諸島が中国に占領された場合、「日米安全保障条約第5条により日本を助ける」と述べ、尖閣諸島が日本の施政下から離れても、日米安全保障条約の適用範囲との認識を示す。[133]
    • 10月21日前原誠司外務大臣が衆議院安全保障委員会の席上で、1978年10月23日に鄧小平副首相が表明した尖閣諸島領有権棚上げ論について、「鄧氏が一方的に言った言葉であり、日本側が合意したことではない」と述べる[134]
    • 10月24日:午後8時55分から午後9時15分にかけて、中国の漁業監視船「漁政202」と「漁政118」の2隻が尖閣諸島付近の日本の接続水域に侵入しているのを海上保安庁の巡視船が確認。巡視船は警告を行い、魚釣島に接近していた2隻は午後10時30分頃までに接続水域から相次いで離れる。[135][136]
    • 10月26日:日本政府は、1978年10月23日に鄧小平副首相が尖閣諸島の領有問題に触れないと両国が約束したなどと発言したことについて、「約束は存在しない」との答弁書を閣議決定する[87]
    • 10月28日:ヒラリー・クリントン米国務長官は、ホノルルで行われた前原誠司外務大臣との会談で「はっきりあらためて言いたい。尖閣諸島は日米安保条約第5条の(適用)範囲に入る。日本国民を守る義務を重視している。」と述べ、中国は反発[137]
    • 10月29日:ワシントンで行われた記者会見で、フィリップ・クローリー米国務次官補は、昨日のクリントン国務長官の発言に中国が反発している件について、「米国は尖閣は日米安保条約5条の範囲ととらえている」と再び述べ、同年8月16日に続いて日米安全保障条約が尖閣諸島に適用されるとの認識を示す[138]
    • 10月30日:ハノイで行われたアメリカのヒラリー・クリントン国務長官と中国の楊潔チ外交部長との会談の中で、同年10月28日にクリントン国務長官が尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用範囲だと発言したことに対し、楊外交部長は「誤った発言をすべきではない」としたうえで「高度に敏感な問題については言葉を慎み、慎重に行動するよう」と抗議した[139]
    • 11月4日:午後9時頃[140]、2010年9月7日に起きた尖閣諸島中国漁船衝突事件で、海上保安庁が撮影したとみられるビデオ映像がYouTubeに流出[141]、以後ネット上で流出した映像が拡散する[142]。これに対して、政府は国家公務員法の服務規程違反として捜査を開始し、同年11月10日、神戸市にある第五管区海上保安本部海上保安官が映像を流出させたことを上司に名乗り出ていることが判明[143]。これについて国家情報管理のずさんさ、国家公務員法服務規定の罰則の軽さなどの指摘がなされ、一方「なぜこれをもっと早く国民に見せなかったのか」と批判がなされた[144]。また、国家公務員法の禁止する「秘密漏洩」に該当するのかどうか疑念が提示され、この流出を支持する国民からは海上保安庁へ「流出をさせた犯人を探さないで」等の要望が寄せられた[144]
    • 11月20日:午前8時25分〜47分にかけて、中国の漁業監視船「漁政310」と「漁政201」の2隻が尖閣諸島付近の日本の接続水域に侵入しているのを海上保安庁の航空機が確認。2隻は領海に360mまで接近した後、尖閣諸島を反時計回りに航行しつつ、領海線に近づいたり離れたりと日本側を挑発。日本側は海上保安庁の航空機と巡視船で監視・警告を行い、20日午前9時に内閣危機管理センターに情報連絡室を設ける。2隻は11月21日午後4時20分頃までに接続水域から相次いで離れる。[145][146][147][148]
    • 11月28日:午前7時43分〜48分にかけて、中国の漁業監視船「漁政201」と「漁政310」の2隻が尖閣諸島付近の日本の接続水域に侵入しているのを、海上保安庁の巡視船が確認。2隻は領海内に入らず領海線に沿うように進み、日本側は海上保安庁の航空機と巡視船で監視、警告を行った。2隻は11月29日午後6時頃に接続水域から離れた。[149][150]
    • 12月10日:石垣市議の仲間均市議と箕底用一市議の2人が尖閣諸島の南小島に上陸。9日に漁船で石垣島を離れ、9日夜に南小島付近に近づき、10日午前8時50分頃に海に入り泳いで上陸し、40分ほど調査したという。今回の上陸にはフジテレビのヘリコプターも同行していた。帰港途中に海上で海上保安庁の事情聴取を受け、10日午後8時39分頃石垣島に戻る。[151][152]翌11日、中国外務省は日本に抗議する[153]
    • 12月17日:石垣市議会の12月定例会最終本会議において、尖閣諸島が1895年1月14日に閣議決定で日本領土に編入されたことに因み、1月14日を尖閣諸島開拓の日と定める「尖閣諸島開拓の日を定める条例」(提案者:仲間均市議)を可決、同日施行される[154]
  • 2011年
    • 1月2日:香港の民間団体「保釣行動委員会」が、世界各国の保釣運動6団体を結集した「世界華人保釣連盟」を設立[155]。会長には台湾の「中華保釣協会」秘書長の黄錫麟が就任[156]
    • 1月7日:アメリカ国務省で行われた前原誠司外務大臣とヒラリー・クリントン国務長官との会談の中で、尖閣諸島が日米安全保障条約の適用範囲だとの再確認がなされる[157][158]
    • 1月27日:中国の漁業監視船「漁政201」が尖閣諸島の北西約29km地点の接続水域内に侵入し、反時計回りに航行しているのを海上保安庁が確認。約3時間半後、魚釣島の西北西から接続水域を離れた。[159][160]
    • 3月2日中国海軍のY8情報収集機とY8哨戒機の2機が尖閣諸島の北50、60キロまで接近したため、領空侵犯の恐れがあるとして自衛隊の戦闘機緊急発進させた。領空侵犯は無かったが、防衛省は「中国軍機が日中中間線を超え尖閣諸島にここまで近づくのは初めて」としている。[161]
    • 3月5日:中国漁業監視船「漁政202」が尖閣諸島の北西約44キロの接続水域内に侵入しているのを海上保安庁が確認した。約1時間40分後に離れた。[162]
    • 3月7日:中国国家海洋局が東シナ海の監視活動を行っているとされるヘリコプターが、日中中間線付近で、警戒監視中の海上自衛隊護衛艦の約70メートルまで異常接近し、その周囲を1周した。また、国際慣例上、それ以上近づいてはいけないとされる距離を超えていた。[163]
    • 3月9日:午前7時頃、中国の漁業監視船「漁政202」が尖閣諸島の北西約90キロで航行しているのを、海上保安庁が確認した。その後、漁政202は日本の接続水域に入り領海線の外側まで近づいたが、午後0時半頃、接続水域外へ出た。[164]
    • 3月11日:午前8時38分頃、中国の漁業監視船「漁政202」が尖閣諸島の北約44キロの接続水域を航行しているのを海上保安庁の航空機が確認した。[165]
    • 3月26日:中国国家海洋局のヘリコプター「Z9」が日中中間線付近で海上自衛隊護衛艦「いそゆき」に異常接近し、周りを1周した[166]
    • 4月1日:中国の海洋警備機関の中国海監所属の「Y12」プロペラ機が日中中間線の西側で海上自衛隊護衛艦「いそゆき」に異常接近し、上空を2周した[167][168]
    • 6月29日:午前6時45分頃、台湾の中華保釣協会の活動家2人らが乗った漁船「大發268」が、尖閣諸島付近の日本の接続水域に侵入しているのを海上保安庁の巡視船が確認。漁船は巡視船に接触させようとしてきた他、航行と停船を繰り返した後、同日午前11時10分頃に接続水域を離れる[169][170]。この件に対し、日本の枝野幸男官房長官は6月29日午前に行われた記者会見の席上で、「尖閣諸島がわが国固有の領土であることは歴史的にも国際法上も疑いがない。台湾漁船が領海内に入らないように申し入れた」と述べる[171]。また同日、中国空軍のスホイ30戦闘機2機が台湾海峡の中間線を越えて、尖閣諸島から与那国島にかけて飛行したため、日本(F15戦闘機4機)と台湾が戦闘機を緊急発進させた、との報道が台湾の「蘋果日報」によって2011年8月22日になされた。台湾国防部はこれを否定、防衛省統合幕僚監部は非公表としている。[172]
    • 7月3日:午前6時35分頃、中国の漁業監視船「漁政201」が、尖閣諸島魚釣島付近の日本の接続水域内を航行しているのを海上保安庁の航空機が確認。海上保安庁の航空機は無線などで警告を行い、漁政201は同日午前10時35分頃に接続水域を離れる。また、同日朝、政治団体所有の1隻を含む石垣市八重山漁協所属の漁船9隻が、尖閣諸島付近での集団操業により「日本の領土・領海だと証明する」などとして石垣港を出港。同日昼頃、一部の船が尖閣諸島周辺海域に着き操業を行い、7月4日までに全ての船が尖閣諸島周辺海域から離れている。これに対し、7月4日に中国は日本に抗議した。[173][174][175]
    • 7月30日:午前7時25分頃、中国の漁業監視船「漁政204」が、尖閣諸島魚釣島北北西約28キロ地点の日本の接続水域内を航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認。海上保安庁の巡視船は無線などで警告を行い、漁政204は同日午前8時35分頃に接続水域を離れた。[176]
    • 7月31日:午前7時25分頃、中国の海洋調査船「北斗」が、尖閣諸島魚釣島北北西約61キロ地点の日本の排他的経済水域内で、ワイヤー状のもの4本を曳いた状態で航行しているのを海上保安庁の航空機が確認。無線で調査中止を呼びかけたが返答がなく、およそ9時間後に日本の排他的経済水域から離れた。[177]
    • 8月10日:参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会において、江口克彦参議院議員(みんなの党)による質問に対し、枝野幸男官房長官は「尖閣諸島については、我が国が今、有効に支配をいたしております。わが国が有効に支配をしてる尖閣諸島に対して、他国が侵略をしてきたら、これは、あらゆる犠牲を払ってでも、自衛権を行使してこれを排除いたします」と述べる[178][179]
    • 8月24日:午前6時15分頃、中国の漁業監視船「漁政201」と「漁政31001」が、尖閣諸島久場島北北東約30キロ地点の日本の排他的経済水域内を航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認。その後、午前6時36分頃に中国の漁業監視船2隻が領海侵犯し、約37分後に領海から出たが、午前7時41分頃に「漁政201」が再び領海内を約7分間侵犯した。このため同日、日本政府は情報連絡室を首相官邸危機管理センターに設置し、佐々江賢一郎外務事務次官は程永華駐日中国大使を外務省に呼び抗議した。[180][181]
    • 9月8日:昼頃、中国人民解放軍のY8情報収集機1機が、尖閣諸島の北100〜150キロまで近づいたため、航空自衛隊の戦闘機が緊急発進させた。日中中間線を越えたが、領空侵犯はなかった。[182]
    • 9月25日:午後5時55分頃、中国の海洋調査船「北斗」が、尖閣諸島久場島北北東121キロ地点の日本の排他的経済水域内で、ワイヤー状のもの3本を曳いた状態で航行しているのを海上保安庁の航空機が確認。事前通報で示された海域から西に約20キロ離れた海域で調査していたため、無線で警告、およそ4時間半後に事前通報で示された海域に向かった。[183][184]
    • 9月26日:午後4時50分頃、中国の海洋調査船「科学3号」が、尖閣諸島久場島北北東145キロ地点の日本の排他的経済水域内で、ワイヤー状のものを曳いた状態で航行しているのを海上保安庁の航空機が確認。事前通報で示された海域と異なる海域で調査していたため、無線で警告したが応答はなく、その後事前通報で示された海域に向かった。[185]
    • 9月29日:午前8時50分頃、中国の海洋調査船「科学3号」が、尖閣諸島久米島北西約246キロ地点の日本の排他的経済水域内で、ワイヤー状のものを曳いた状態で航行しているのを海上保安庁の航空機が確認。事前通報で示された海域と異なる海域で調査していたため、無線で警告したが応答はなかった。同船は同日午後8時35分頃にも、尖閣諸島久場島北約45キロ地点の日本の排他的経済水域内でワイヤー状のものを曳いた状態で航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認。事前通報で示された海域と異なる海域で調査していたため、無線で警告したところ、午後9時5分頃に事前通報で示された海域に向かった。[186][187]
    • 10月7日:午前9時5分頃、中国の海洋調査船「北斗」が、尖閣諸島大正島北約155キロ地点の日本の排他的経済水域内を航行しているのを海上保安庁の航空機が確認。事前通報で示された海域と異なる海域で調査していたため、無線で警告したが応答はなく、約2時間半後に事前通報で示された海域に向かった。[188]
    • 10月24日:午前5時15分頃、中国の漁業監視船「漁政201」と「漁政35001」が、尖閣諸島久場島北北東約30キロ地点の日本の接続水域内を航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認。警告したところ、約1時間後に接続水域から離れた。その後も2隻は接続水域への出入りを繰り返し、午後6時頃に魚釣島北西から接続水域を出た。[189][190]
  • 2012年

争点

尖閣諸島を巡る日中間の争点は以下の通りである。

  1. 誰が最初に発見し、実効支配をしたか
  2. 1895年1月14日の日本による尖閣諸島編入の有効性
  3. 第二次世界大戦の戦後処理の妥当性

以下、各争点について日中両国の主張を整理する(ただし、各国政府の主張を一言一句正確に記述したものでない)。

誰が最初に発見し、実効支配をしたか

国際法上、発見は未成熟権原とされ、領域権原取得のための優先的権利の取得にすぎないとされている(パルマス島の判例)。また、東グリーンランドの裁判において「定住に向かない、無人の地では、他国が優越する主張をしない限り微かな実効支配でも有効」と判示され、近年の無人島の判例(ライタン・シパダン島等)でも支持されている。また、マンキエ・エクレオの判例において、中世の諸事情に基づく間接的推定は実効支配と認定されず、当該地の課税や裁判の記録等の司法、行政、立法の権限を行使した直接的証拠が必要とされた。

中国側の主張
  • 1403年(明代)に著された『順風相送』という書物に釣魚台の文字がある。 また1534年の冊封使・陳侃(チン・カン)の報告書である『使琉球録』にも「釣魚台を目印に航行した」との記述がある。 これらのことから、明の時代にすでに中国人が釣魚台(尖閣諸島)の存在を知っていたのは明らかである。
  • 1785年に日本の経世論家・林子平(はやし しへい)によって書かれた『三国通覧図説』という書物に付属している『琉球三省并三十六嶋之圖』[34][35]という地図で、釣魚台列島が中国大陸と同じ色で彩色されている。これは日本においても釣魚台列島が中国の領土と認識されていた証である。
  • これらを総合的に判断するなら、釣魚台は中国領であった。
日本側の主張
  • 陳侃などを乗せた冊封船は、朝貢に来た琉球人の先導と操船によって運用されており、琉球人が中国人より先に尖閣諸島の存在を知っていたのは明らかである。
  • 古文書では尖閣諸島は琉球に付随して記されており、どこに属するかは記されていない。 古文書に記されていても実効支配した国の痕跡が見られない以上、その島は無主地と判断するのが妥当。
  • 1743年に清の乾隆帝の命により編纂された地理書『大清一統志』の第335巻には、台湾府の北東端が「鶏籠城」(現基隆市)と記され、また同本に収録の「台湾府図」にも「鶏籠城界」と書かれており、尖閣群島を台湾付属島嶼に含めていない[32][33]
  • 江戸時代の経世家林子平が著した三国通覧図説(1786年、天明6年)の追図『琉球三省并三十六嶋之圖』[34][35]において、九州などが緑色、琉球王国領は薄茶色であるのに対して尖閣諸島は中国大陸と同じ桜色で彩色されている。しかしこの地図は台湾が正式に中国に編入されて以降に作成されたにもかかわらず台湾を中国とは異なる黄色に塗り、大きさを沖縄本島の1/3に描くなど不正確な点も多い。そもそも、著者の林子平は著作時には仙台藩伊達家の家臣であり当時独立国であった琉球王国の尚氏とは無関係で、林子平の認識が正しい保証もないし[192]、林子平が私人の立場で書いたものであり日本政府の意思を反映したものではない[193]。むろん琉球王国の国境を決める権限もない。したがって、この地図の彩色と領土とは全く関係しない。
  • 沖縄本島の住民は、尖閣列島を「ユクン・クバジマ」、八重山では「イーグン・クバジマ」と呼んでいた[194]。また、沖縄の先島諸島では、魚釣島をユクン、久場島をクバシマ、大正島を久米赤島と呼んでいた。他にも沖縄では、魚釣島をヨコンシマ・和平山、大正島をエクンシマ、久場島をチャウス島、北小島を鳥島やシマグワー、南小島を蛇島やシマグワーなどと呼んでいた。[46][195][196][197]
  • 1871年に発生した牡丹社事件の事後処理のために清朝政府を訪れた日本の外務卿・副島種臣に対して清朝政府は責任を負わないと言明している。尖閣諸島よりも大陸に近い台湾ですら実効支配している認識がなかったのであるから、清朝が尖閣諸島の領有を認識していないのは明白。
  • 以上のことから尖閣諸島は沖縄や中国では古来より沖縄の属島と見做されており中国に属したことは一度もない。

1895年の日本による尖閣諸島編入の有効性

国際法で言う先占の法理をどう認めていくかがこの問題の焦点である。古文書に名前のある島は自動的に領土としたことになるのか否かについて中国側は領土になると主張し、日本側は近代国際法に則り島の名前を記しただけでは何処の領土か不明であり実効支配していなければ無主地であるとしている。無主地であるならば先占の法理を適用し得るし、日本の1885年から1895年1月まで行われた編入の手続きはその手順に則っているのだから有効である、というのが日本側の主張である。ただし、その最終決定は日清戦争戦争中であった。
国際法判例においては、不明瞭な記録による間接的推定は認められず、課税や裁判記録といった行政、司法、立法の権限を行使した疑義のない実効支配の直接的かつ近代的な証拠が要求されている。[198][199]

中国側の主張
  • 多くの文献に明らかなようにの時代から中国では知られていたのだから無主地でなく日本の先占は無効。
  • 日本政府は沖縄県に対して内々の調査を命じている。これは中国領と認識していたことを示す。
  • 甲午中日戦争(日清戦争)に勝利した勢いで、その戦後処理を取り決めた馬関条約(下関条約1895年5月10日公布)になく、条約によらず不法に奪い取ったものである。したがって、釣魚台列島は中国に返されるべきである。
日本側の主張
  • 早くから中国も尖閣諸島の存在を知っていたことは間違いない。しかし永続的に実効支配し続けようという国家意思が見られない島については、無主地と判断するのが国際法上妥当である。
  • 日本政府が内々の調査を命じているのは、明治維新後の混乱が治まり内閣制度が始まったばかりの時期で、日本がまだ弱体な為に外国の干渉を受ける可能性があったからである。そもそも国内を調査するのに大々的に発表したり外国に報告する必要はない。正式な領有宣言まで10年間以上も調査を行い、この間に中国が尖閣諸島に全く関与していないことを確認している。
  • 下関条約には尖閣諸島の割譲は記されていない、従って条約締結以前から日本の領土であったと中国側も認めていたのであり、日清戦争で奪ったものではない(日本は下関条約の10年も前から尖閣諸島の調査、開拓を始めている)。また、東沙島を台湾(当時日本領)に編入しようとする日本の動きに対し、清国は1909年に抗議を行ったが[200]、日本が尖閣諸島を編入した際には抗議を行っていない。中国側が尖閣諸島を沖縄の属島と見做し、日本の領土であったと認識していたのは明白である。

第二次世界大戦の戦後処理の妥当性

第二次世界大戦の戦後処理についても対立している。現在事実上台湾を統治する中華民国政府中華人民共和国も、連合国と日本との戦争状態を終結させた日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の締結に加わっていない(中華民国とはその後、日華平和条約を締結)。中華人民共和国政府はこの点を捉えて、この条約の合法性と有効性を承認しないという立場を取っている。

一方、日本政府は第二次世界大戦の戦後処理は妥当なものであり、尖閣諸島は1895年1月14日の編入以来一貫して日本が統治し続けてきた固有の領土であって、このことは国際社会からも認められている、としている。

中国側の主張
  • 1943年カイロ宣言では、日本は中国東北部満州)や台湾、澎湖列島などを含める土地を返還すると規定している。 釣魚台(尖閣諸島)はそれらの地域に含まれているのだから、返還されるべきである。
  • 中華人民共和国政府は日本国とのサン・フランシスコ平和条約に参加していないのでこの条約に拘束されない(「非合法であり無効」の立場)。
  • 一般論として清国政府が締約した各種条約は帝国主義国家の不当な侵略の元で締約されたものであり、国家の継承の観点から承服できかねる点が多い。
日本側の主張
  • 1895年1月14日の編入以来、南西諸島の一部を構成するものであり、下関条約によって割譲された台湾および澎湖諸島には含まれていない。このことは尖閣がすでに日本の一部(沖縄県)を構成することを双方に了解していたことを示しており、中国が主張する「サン・フランシスコ平和条約は非合法であり無効」の立場あるいは平和条約に参加していないこととは無関係な事実であり日中共同声明の前提である。
  • 中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し何等異議を唱えなかったことからも明らか。
  • これより先に出されていた「連合国軍最高司令官総司令部覚書」667号(SCAPIN667 (Supreme Command for Allied Powers Instruction Note No.677, January 29,1946))「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」に同諸島が含まれている事実に対しても何等異議を唱えなかった事実がある。
  • 1969年に中国政府は釣魚台群島ではなく尖閣群島と明記した地図を発行している[54]
  • 中国政府と台湾当局は、東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化した1970年に入って以降、初めて尖閣諸島の領有権を主張し始めた。石油目的なのは明らかであり、これは1972年7月28日と9月27日の周恩来発言からも明らかである。[201]

尖閣諸島の領有が影響する問題

東シナ海ガス田掘削マップ

尖閣諸島の領有が影響を与える問題が存在する。

尖閣諸島が中国領
尖閣諸島が日本領

関連項目

参考文献

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  • 奥原敏雄「尖閣列島の領有権問題」『(季刊)沖縄』第56巻、1971年3月。 
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アジア歴史資料センターのサイト

  • アジア歴史資料センター:数字はレファレンスコード
    • 「沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在スル無人島ヘ国標建設ノ件」(公文別録・内務省・明治十五年〜明治十八年・第四巻・明治十八年) - A03022910000
    • 「1. 沖縄県久米赤島、久場島、魚釣島ヘ国標建設ノ件 明治十八年十月」(帝国版図関係雑件) - B03041152300
    • 「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ヘ標杭ヲ建設ス」(公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二巻・政綱一・帝国議会・行政区・地方自治一(府県会・市町村制一)) - A01200793600
    • 「新領土ノ発見及取得ニ関スル先例」(新領土ノ発見及取得ニ関スル先例) - B04120002200

脚注

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  2. ^ 日本統治時代 (台湾)#日本の敗戦と中華民国による接収を参照のこと
  3. ^ 中華民国および中華人民共和国にも返還されていないとする台湾地位未定論もあるが、広く認められたものではない。
  4. ^ 南シナ海南沙諸島を意味する
  5. ^ 朝日新聞1963年5月21日夕刊
  6. ^ a b 朝日新聞1968年7月18日夕刊
  7. ^ 1970年9月20日付琉球新報
  8. ^ 朝日新聞1970年9月4日朝刊
  9. ^ a b 『写真記録 沖縄戦後史』(沖縄タイムス社 1987年)p.132
  10. ^ 日本人が先に発見していなくても、沖大東島南鳥島のように日本領に編入された島も存在する。
  11. ^ タイ王国カンボジアが当事者のプレア・ビヘア寺院事件(1962年6月15日国際司法裁判所判決)で、1904年の条約で決定した国境線が不正確であることをもって、解釈を変更することは条約の安定性と確実性にそわないとして、1934年に地図の不正確であったと判ってから、相当年数が経過した1946年以降寺院を武力占領したタイの主張を退けた。
  12. ^ ネビル・マックスウェル、前田寿夫訳『中印国境紛争』時事通信社、1972 年
  13. ^ ネビル・マックスウェル、前田寿夫訳『中印国 境紛争 その背景と今後』時事通信社、1972 年
  14. ^ アジアの空軍軍拡競争を誘発する中国 - 「機は熟す」か(第1回) 防衛研究所. (2011年1月18日). 2011年2月1日閲覧。
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  16. ^ 尖閣諸島防衛協会発行の尖閣諸島写真集
  17. ^ 八重山の漁業者、尖閣の「海域守って」 超党派国会議員に切実な訴え 八重山毎日新聞2010年10月10日配信、2010年10月11日確認
  18. ^ 『安全保障理事会は、関係国の発意に基くものであるか安全保障理事会からの付託によるものであるかを問わず、前記の地域的取極又は地域的機関による地方的紛争の平和的解決の発達を奨励しなければならない。』
  19. ^ これは米台関係における台湾関係法や台中関係についての複雑な外交・相克関係が背後にあり、尖閣諸島問題が中国の「核心的利益」に含められていることと無関係ではない。尖閣諸島が台湾に含まれる場合、尖閣諸島は中国の核心的利益の主張の一部を構成する可能性がある
  20. ^ また台湾もかつて沖縄返還に抗議していた。中華民国#沖縄県への認識参照。
  21. ^ 産経新聞社正論」2006年8月号
  22. ^ a b 朝日新聞 (2010年10月2日). “中国、新たに東シナ海も「核心的利益」 香港紙報道”. 10月2日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
  23. ^ 共同通信2009年3月5日
  24. ^ それゆえ米国の再検討派は5条ではなく6条に重点を移動させるべきだとする「第1次クリントン政権下における日米防衛関係」[1]
  25. ^ 外務省・日米安全保障体制[2]
  26. ^ “尖閣は安保の対象、米国務長官 日米外相が初会談、漁船衝突で”. 47NEWS共同通信社. (2010年9月24日). http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092301000741.html 2010年9月24日閲覧。 
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  39. ^ 以下、径の下にママとルビ。原文のままという意。
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外部リンク

日本国公的機関のサイト

その他のサイト

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