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上泉信綱

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上泉 信綱(かみいずみ のぶつな、永正5年(1508年)? - 天正5年1月16日1577年2月3日)?)は、戦国時代兵法家。生年は推測。没年は天正10(1582)年など諸説あり。

名前

名字は大胡。通称の姓は上泉、読みはこういずみとも。(居城のあった前橋市上泉町の読みはかみいずみ

伝承によると、平将門の乱を平定した藤原秀郷の流れを汲むと言われ、大胡太郎重俊という武将が赤城山の南の麓にある大胡の庄に居を構えた大胡氏が起源とされる。そして大胡重俊の末流にあたる大胡勝俊が、大胡城の西南2里の所にある桂萱郷・上泉の地に砦を築き、そこで住み暮らすようになり、この時姓を上泉に改めたとも言われる。その後、信綱の父の代に本家の大胡氏は武蔵国に移住したため、大胡城も支配するようになった。通称は伊勢守、のち武蔵守。ゆえに上泉伊勢守、または上泉武蔵守となる。本姓藤原氏は秀綱、のちに信綱(『武芸流派大事典』 (綿谷雪著、1969年刊)に自弁当流(神影正兵法備具兵神宜武士道居合)の伝書に秀長とあり(綿谷によれば初名)、次に秀綱、永禄8~9年から信綱とある)。『関八州古戦録』では金刺秀綱。『言継卿記』では大胡武蔵守信綱または上泉武蔵守信綱。

生涯

上野国赤城山麓(前橋市上泉町)の上泉城で生まれた。出生年は『正伝新陰流』(柳生厳長著、1957年刊)に永正5年とあるが、生年を記した歴史的資料は残っていない。上泉城主であるとともに、兵法家として陰流新当流念流などの諸流派を学び(愛洲移香斎(その子愛洲小七郎という説[1]もある)、松本備前守らに師事したという説がある)、その奥源を究め、特に陰流から「奇妙を抽出して[2]新陰流を大成した。 信綱は戦国武将としても名を残し、長野業正、その子長野業盛に仕え、武田信玄北条氏康の大軍を相手に奮戦し、長野の16人の槍と称えられ、上野国一本槍の感謝状を長野業盛からもらった(『撃剣叢談』)。長野家滅亡時、武田信玄の仕官要請を断り、それを惜しんだ信玄(諱は晴信)の偏諱授与により、諱を信綱と改めたという逸話がある。(年次が前後することから後世の創作という説もある。)

後世の文書によると、落城後、新陰流を普及させるため神後伊豆守疋田景兼らの高弟と共に諸国流浪の旅に出る(『箕輪軍記』、『関八州古戦録』、『甲陽軍鑑』)とされるが、近年の研究成果によると、長野氏の本拠箕輪城落城は永禄9年(1566年)(当時の歴史的資料である『長年寺古文書』(高崎市榛名町)による)であるため、信綱は落城以前から兵法伝播の為、諸国を往来していたとされる。なお、後述の説で諸国流浪していたとされる永禄7年、永禄8年は武田氏侵攻により、長野氏側の諸城(倉賀野城松井田城安中城など)が防衛戦、落城していった年であり、時期的に不自然である。

諸国流浪の年代は、『武芸小伝』によると永禄6年(1563年)。永禄7年に(1564年)上洛し、13代将軍足利義輝に兵法を伝授したほか、永禄8年(1565年)に柳生宗厳に相伝を伝授。北畠具教宝蔵院胤栄丸目蔵人佐など、数々の高弟に新陰流を伝えた。 確かな歴史的資料である山科言継日記言継卿記』には、永禄12年1月15日 - 元亀2年7月21日まで32の上洛の記録が残っている。

言継卿記』に、元亀2年7月21日 本国へと京を立つとある。帰郷その後の足跡について記した確かな歴史的資料は残っておらず、その最期は諸説ある。『関八州古戦録』、『上野国志』によれば天正5年に大和の柳生谷で亡くなり墓があるとし(柳生の芳徳寺に供養碑がある)、『西林寺過去帳』(前橋市上泉町)などには天正5年1月16日(1577年)[3](天正5年[4]の開基墓があり、信綱の墓碑という説による。なお嫡男である上泉秀胤[5]の供養碑という説(天正5年1月22日(1577年または天正4年(1576年))に信綱が西林寺を開基し信綱の十三回忌法要を行なったという口伝[6]がある。)とは矛盾する。)、気楽流伝書には天正5年4月18日、上泉家の口伝書には天正10年小田原にて没すとある。

嫡男は秀胤。その子泰綱の子孫は米沢藩士として存続した。

年譜

※ 生没年等年号は推測のもの。

エピソード

『本朝武芸小伝』(日夏繁高、享保元年(1716年))によれば、永禄6年(1563年)に上洛したとき、強盗が幼児を拉致しての屋籠もりに遭遇した信綱は、近くの僧侶に袈裟を借り、頭を剃って出家を装った。信綱は興奮している屋籠もりに近づき、握り飯を差し出してなだめつつ、屋籠もりが握り飯に気を取られた隙に取り押さえ、幼児を無事救出した。黒澤明時代劇映画『七人の侍』中では、この逸話を元にしたシーンがある。

地元神社の上泉獅子舞は、上泉信綱の寄進によるものという伝承がある。

門下

関連項目

上泉信綱が登場する作品

脚注

  1. ^ 『武芸流派大事典』綿谷雪に新陰流伝書に記述されるとする
  2. ^ 影目録
  3. ^ 『武芸流派大事典』(綿谷雪)に記述される今村嘉雄による
  4. ^ 『橋林寺古文書』及び『西林寺過去帳』による
  5. ^ 永禄6年(1563年)または永禄7年(1564年)1月の国府台合戦で北条軍に参戦していた嫡子秀胤が国府台 (市川市)で重傷を負い1月23日に死去。
  6. ^ 『武芸流派大事典』(綿谷雪)に記述される掘正平による
  7. ^ 「秀継」と伝えるのは『武芸流派大事典』や『国史大辞典』。しかし文献上に確認できないとする批判がある。他に「義綱」(諸田政治『上毛剣術史』、子孫たる上泉氏の古記録に基づく)、「憲綱」(『撃剣叢談』)と書かれる。

外部リンク

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