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ノート:上泉信綱

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上泉秀綱の方が妥当では?記事名の付け方では原則として敬称・肩書はなしとされているので。 追記来 国俊 07:52 2004年1月5日 (UTC)

どなたか知りませんが、移転してくれた人、ありがとうございます。来 国俊 09:51 2004年1月5日 (UTC)

上泉の師匠

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松本備前守などの名が上がっていますが、誰から兵法を学んだかについて確たるソースが残っているのでしょうか?--220.221.249.29 2006年11月30日 (木) 00:15 (UTC)[返信]

すみません、勝手に松本備前守と載せてしまいましたが、正しくは「松本備前守尚勝」です。             松本備前守は鹿島氏の一族で、鹿島神宮の神官だったそうです。                                  備前守は〔一の太刀〕と呼ばれる兵法の極意を編み出し、後に愛弟子の塚原新右衛門(塚原卜伝)へ伝え渡したそうです。                                                             上泉信綱は松本備前守や塚原卜伝に兵法を学び、愛洲移香斎という放浪の老剣士と出会うことで「新陰流」を編み出したようです。--210.163.139.141 2007年1月28日 (日) 07:07 (UTC)[返信]

追録ですが、松本備前守の初名は守勝、のちに尚勝・政信とも名乗っているようです。--210.163.139.141 2007年2月3日 (土) 03:58 (UTC)[返信]

上泉の師は史料上は明確にはなっていません。誰かに陰流を学んだ、ということだけです。小説を元にした記事になっていませんか?219.101.141.131 2007年7月31日 (火) 23:31 (UTC)[返信]

それならば漫画と小説をもとに作成されたこの記事には信憑性がありません。 削除が妥当ではないですか?--210.163.139.141 2007年8月11日 (土) 13:06 (UTC)[返信]

記事全てが漫画と小説に依拠しているわけではありません。史料に即したものは残せばいいでしょう。60.33.228.36 2007年8月29日 (水) 05:22 (UTC)[返信]

ソースが無いようですので誰から学んだかについては一旦削除します。--60.33.228.36 2008年5月7日 (水) 08:20 (UTC)[返信]

年譜について

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年譜について、一つ一つが大事な事項にも関わらずその出典が曖昧であるため、下記6点についての明確な根拠を教えて頂けますでしょうか。その上で、正史に対し疑義の晴れないものについては記事の見直しを行い掲載を改めるべきではないでしょうか。

  • 1、1508年(永正5) 「要出典」
  • 2、1520年(永正17) 「要出典」 武将の子弟の教育を施す機関が鹿島の地にあったとするが日本の文化史上極めて大事な事柄であり明確な根拠を御提示願えますか。
  • 3、1529年(亨禄2) 「要出典」
  • 4、1531年(亨録4)愛洲小七郎から相伝されたのではなく愛洲移香斎から陰流を伝授されたと云う上泉伝承をお示し下さい。
  • 5、1555年(天文24)「要出典」 父の大胡武蔵守が病死してしまったので、秀綱は大胡姓を捨てて上泉を名乗ることにする、とありますが「関八洲古戦録巻之四上杉景虎東上野働之事」では天文廿四十一月改元有テ弘治ト号セラレ云々上泉ノ大胡武蔵守信綱寡ヲ以テ衆ニ敵シ難ク一旦ノ害ヲ遁レントヤ思ヒケン云々」と大胡姓を名乗っていますが?
  • 6、1563年(永禄6)箕輪城落城の時期は永禄九年九月が定説になっています。城主長野業盛が持仏堂で「春風に梅も桜も取り果てて名にそ残れる三輪の郷かな」と辞世の句と共に家臣達は後を追ったと云う(箕輪軍記)」に依って永禄九年以前の永禄六年は未だ武田信玄が断続的な攻撃を仕掛けている最中であり主君長野業盛の一大事の折、秀綱自身の長男秀胤と嫡孫泰綱を人質に取られた状況で「武者修行中」であったとはとても信じられません。正史とかけ離れた根拠をご教授願えませんか?--Dolby 2009年7月26日 (日) 04:07 (UTC)[返信]
多くの出典が既に「生涯」節などで明示されていますが? 1の出生年は『正伝新陰流』、2は年譜にあるとおり、諸田政治『上毛剣術史 中-剣聖上泉信綱詳伝』(煥乎堂、1984年)。なお「武将の子弟の教育を施す機関が鹿島の地にあった」とはどこにも書かれていません。単に剣術を習う上で師事しただけでしょう。同書では信綱祖父の時秀は鹿島流、父の義綱は鹿島神道流を修めており、その縁だなどと物語っていますが。4は2と同じで、出典は明示されています。ただ諸田は上泉家の文書を見て参考にしたとしていますが、原典は出していません。6の正史とかけ離れた根拠といっても、伝説で永禄6年の箕輪落城後に「武者修行中」だったと言われていたのが、歴史学の考証で落城年がずれただけです。「武者修行中」どころではない状況のはずですが、この矛盾を解決する通釈が出ていないだけです。5の「大胡姓」については文献などでバラバラな主張がされていたと思います。通説がないはずですので、{{要出典}}を貼って大胡をはじめて名乗ったとする出典を求めた上で、諸説あるということを書けばよいのではないでしょうか。なお、諸田の本は学術書ではなく、一小説のように信綱の事跡を語っており、研究書とはいえません。ただ上泉氏の末裔の協力で上泉文書を利用していますので、信頼できないとして排除はできないと思います。--KurmUmy 2009年7月26日 (日) 10:44 (UTC)[返信]
お返事頂きまして有難うございました。記事執筆者の筑波様からコメントが来るのかと推察致して居りましたがKurmUmy様からのコメントで幾分戸惑っております。さて、今回の「年譜」が諸田政治氏著の「上毛剣術史・中ー剣聖上泉信綱詳伝」(以下「上泉信綱詳伝」)に基づいて書かれたものである事が判りましたが、この「上泉信綱詳伝」は「小説のように信綱の事績を語っており研究書とは言えません。ただ、上泉氏の末裔の協力で上泉文書を利用していますので信頼出来ないとして排除出来ないと思います」との事ですが、KurmUmy様の論理ですと、ある小説家が「○○家文書」と呼ばれる史料を駆使して書き上げた小説は「信頼出来ないとして排除できない。」となります。ご自分の独自研究に就いて如何様に御自分で感想を述べられるのは結構ですが此処はwikipediaですので、「Wikipedia:信頼できる情報源」に依るべきではないでしょうか?即ち、「信頼できる出版元に依って、その情報が入手できる状態になっていない一次情報源は使ってはいけません。」とあり独自研究は載せない事となっています。この「年譜」は諸田政治氏の独自研究「上毛剣術史・中ー剣聖上泉信綱詳伝」に基づいて作成されている事が判明いたしましたのでwikipediaの編集の方針上削除するのが妥当ではないでしょうか?--Dolby 2009年8月2日 (日) 00:36 (UTC)[返信]
出典が既に明示されているのに「出典なし」との疑問点がノートに提示されたので答えたまでです。執筆者に聞きたいなら筑波様の会話ページに呼びかけたらどうでしょうか?
さて、諸田の本ですが、彼は小説家ではありません。現代の剣術家です。伝記を小説風にしてしまっている『上毛剣術史・中ー剣聖上泉信綱詳伝』ですが、一応最初の部分は彼の考証による解説です。また年表もあるのですが、これも小説風伝記部分とは別です。誤解を与えてしまったようなので訂正しますが、私の発言は、小説風の伝記部分は役に立たないが、彼の考察部分は一応出典になるとの意味です。
なおDolby様、独自研究の意味を取り違えています。wikipediaの「独自研究」とは「wikipedia執筆者による」評価や研究結果を書いたものです。諸田の本にあることを書くのは「諸田の意見」であって「独自研究」には当たりません。また、Wikipedia:信頼できる情報源には二次情報源を使うともありますよね。『上毛剣術史・中ー剣聖上泉信綱詳伝』はこの二次情報源です(質は良くないと思いますが)。また私は独自研究を行っていません。『上毛剣術史・中』にあることを指摘しているだけです(筑波様も同じでしょう)。個人的意見は、『上毛剣術史・中』が「情報源」として使えると思うということです。--KurmUmy 2009年8月2日 (日) 01:44 (UTC)[返信]
初めまして、剣太郎と申します。「上泉文書」についてご質問させて頂きます。諸田政治氏が重用されている「上泉文書」は、上泉氏が現在住まわれている山形県の教育委員会等に公開されているのでしょうか?江戸時代に庄屋、大庄屋を務めた家柄であればほとんど「○○家文書」は存在します。それらは、都合の良い事は残し、付け足し、都合の悪い事は削除されています。「上泉文書」が史料として学術論文に使えるかどうか、まず基本的な検討が必要ではありませんか?--剣太郎 2009年8月6日 (木) 02:13 (UTC)[返信]
剣太郎様、おそらく史料として活用できる状態ではないと推測します。諸田が利用した「上泉家の系図」は『前橋市史』が信綱以前を収録してますが、他は諸田が伝承などとしており細かく書いていないので(古文書冊子外観の写真は本にありますが)。
さて、Dolby様も、出典が無いので除去というのはおかしいことはご了解していただけたかと思います。が、まだ誤解があります。此の記事の「年譜」は『上毛剣術史・中』に完全に基づいてはいません。私の過去の発言あるように『上毛剣術史・中』は出典の一部です。
次に、『上毛剣術史・中』が出典に使えるかですが、「上泉氏の末裔の協力で上泉文書を利用しています」と私が発言したため、諸田の『上毛剣術史・中』がこれに基づく学術書or小説との誤解を与えたようです。先述の私の発言は、「諸田が想像で書いたのではなく彼が考察を行った」ことと、「上泉家の伝承では~~とされる(『上毛剣術史・中』)」と書ける内容があることを示すもので、『上毛剣術史・中』は上泉家の伝承に基づいた本ではありません。むしろ上泉家伝承を参考に「諸田が」他の資料類(県史・町史・辞書など)も駆使して考察した結果を示したものです。諸田の一意見を提示する点で排除できないのではと感じて、反論を述べさせていただきました。ただ「査読されていない」として学問的理由で除去の可能性はあります(信頼できる情報源、ただこれ草案で拘束力がないのですが…)。また諸田の本を出典とする部分を「伝承」と改めておけば面倒ではない気がします。伊勢守に関する学術論文が無いので、伝承部分はあるべきです。なお、生涯節との重複との理由で除去するなら反対しません。出典を2度書かなくてはならず、年表形式だと論争を示しにくいので不都合です。また年譜を残すとしても修正には賛成です。伝承と歴史的事象が平等に扱われているためです。--KurmUmy 2009年8月6日 (木) 09:14 (UTC)[返信]

「山形の上泉伝承」に疑義を感じるのは皆さんも同じようですね。現在の定説(下川潮説・今村嘉雄説)は、新陰流が伝わっていない「山形の上泉伝承」や、「永禄年間の香取・飯篠氏」とは別系統であり、現在宗家を名乗る「飯篠氏の伝承」は採用致しておりません。KurmUmy様も「生涯節との重複との理由で除去するなら反対しません」との事ですので重複部分を削除、整理させて頂きました。--剣太郎 2009年8月8日 (土) 02:07 (UTC)[返信]

剣太郎様の編集に同意します。上泉家(旧米沢藩士)の伝承の是非は学術的な研究が無く価値が不詳です。ただ地元の上泉町は諸田の説を主張しているようです[1]。諸田が著書に上泉の古文書を公開すれば一応異説扱いになる気もしますが、今のままでは上泉家の系譜以外は使えないと思います。なお一言述べますが、「定説」とされるものは新陰流の伝承に拠るものです。「上泉信綱は「大胡武蔵守」であり、長野氏に仕え、箕輪落城後に上洛し、『言継卿記』に記載される人物で、新陰流の開祖と伝わる人物」くらいが歴史学的に根拠ある部分のようです(「大胡武蔵守」『群馬新百科事典』(上毛新聞社、2008年)の記述内容より判断しました)。--KurmUmy 2009年8月8日 (土) 04:11 (UTC)[返信]

ここにあった筑波氏とDownstand氏のコメントは「系譜について(『上毛剣術史』関連)」節の冒頭に移動しました。--KurmUmy 2009年8月14日 (金) 11:56 (UTC)[返信]

編集方法について

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KurmUmy様の素晴らしい編集に賛同いたします。確実な資料に見える部分と、伝承や後代の記録に見える部分の分離は必要と考えます。私からの提案と致しましては、wikipediaは百科事典ですので「確実な資料による記述」を本文として記載し、未整理(査証途中)である「伝承や後代の記録に見える部分からの記述」はノートで議論、合意形成の上本文に記載した方が百科事典としての編集方針に合っていると考えます。--剣太郎 2009年8月9日 (日) 21:55 (UTC)[返信]

伝承・後代の記録について(本文より転載)

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出生年は『正伝新陰流』(柳生厳長著、1957年刊)に永正5年とあるが、生年を記した歴史的資料は残っていない。上泉城主であるとともに、兵法家として陰流新当流念流などの諸流派を学び、松本備前守らに師事したという説がある。信綱の子孫[1]にあたる上泉家の伝承では、曽祖父義秀は中条流、念流、京流の達人であり、祖父時秀は父よりの家芸に加えて飯篠長威斎に師事して香取神道流を、父義綱は松本備前守について鹿島神流(新当流)、愛洲久忠について陰流を学んでおり、信綱本人も松本備前守より鹿島神流(新当流)を、愛洲久忠より陰流を修めたとされている(諸田政治『上毛剣術史 中 剣聖上泉信綱詳伝』)。近時では鹿島神流(新当流)を松本備前守に、陰流愛洲久忠に師事したとするのが一般的である(前橋市 平成20年『剣聖 上泉伊勢守生誕五百年記念碑』)。なお、愛洲小七郎を師とする説は、愛洲小七郎は上泉信綱よりも十歳の年下であり年齢が合わないこと(諸田政治『上毛剣術史 中 剣聖上泉信綱詳伝』)、愛洲小七郎を師とする伝書は疋田新陰流の末流の伝書であり信憑性がないこと(柳生厳長『正伝新陰流』)などにより批判がある。

「愛洲小七郎を師とする伝書は疋田新陰流の末流の伝書であり」とありますが、疋田豊五郎が慶長年間に黒田長政宛に発行した伝書(福岡市博物館「疋田新陰流剣術組絵図」)でも、愛洲移香斎ー愛洲小七郎ー上泉武蔵守ー疋田栖雲斎となっています。(Lantis92会話2014年8月25日 (月) 08:17 (UTC))[返信]

  • 脚注
  • ^ 直系の米沢のかみいずみ家と上泉孫四郎正系の尾張のこういずみ家が残っている。かみいずみ家からは上泉徳弥が出ている。

  • Wikipedia:上泉信綱では、定説と大きくかけ離れた記述となっています。その原因は武道史学会では採用されない伝承や諸田政治氏著「上毛剣術史 中―剣聖上泉信綱詳伝」、更に学者でもない尾張柳生家二十世柳生厳長翁の「正伝新陰流」を無批判に検証もせずに取り込んで編集される方がいらっしゃるからだと思います。私も剣太郎様の意見に賛成です。現在、議論中の「伝承・後代の記録に見える部分」はノートに転載させて頂きました。筑波様、編集に就きましてはノートページにて問題提起を行って頂き議論を尽くした上の合意の下に行って頂けないでしょうか。--Dolby 2009年8月11日 (火) 00:29 (UTC)[返信]

    系譜について(『上毛剣術史』関連)

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    皆様 はじめまして。武道史の研究者の筑波といいます。

    Dolby氏が議論する前に削除された部分は戻しておきます。全く議論の余地も与えず、しかも短い時間で、勝手に移動(削除)されるのはどうかと思います。ウィキペディアで重要なことは、それが真実であるかではなくて、検証可能かどうかです(Wikipedia:検証可能性)。もし問題があるのであれば全部削除するのではなく、修正するのが望ましいと思います。

    • 諸田氏の「上毛剣術史(中) 剣聖上泉信綱詳伝」について

    上泉家、新陰流の柳生家、香取神道流の飯篠家の協力の下に古文書、古伝承をもとにしながら作られたもので記載として重要であるし、出典も明らかですから、十分に検証可能性をみたしています。
    実際に直系の上泉治氏が「送られて来た草稿を仔細に観て、その時代考証の的確、古文献の引用等、その精緻を極めている事に先ず一驚した次第です。加うるに遠祖以来の当家の伝承と、遠祖のふるさとの上州関係の口碑に、近代的、合理的照射を加えられ慎重に検討された結果、正確にこれら古文献に配合され、従来誤り伝えられて来た上泉信綱伝に、抜本的な訂正を加えられた点、誠に御見事の一語に尽きます。(中略)上泉一族は、本書を上泉信綱正伝として推奨する事に吝かではありません」と上泉家の正伝として推奨しているものであり、無視して削除するものではないと思います。
    「ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。」とWikipedia:中立的な観点には書いてあります。自分としては絶対のものとして書いたわけではありませんので、「上毛剣術史(中) 剣聖上泉信綱詳伝」の記載に問題があると考えるのであれば、削除するのではなく、それを記載していただきたいと思います。


    •  剣聖 上泉信綱生誕五百年記念碑(2008年)

    前橋市の「剣聖 上泉信綱生誕五百年記念碑(2008年)」は、上泉家の直系当主の上泉一治氏、尾張柳生の柳生耕一現宗家の協力の下、ご両人が出席の上、開示されたものです。上泉家、新陰流の柳生家の両家が直接、関わっているという点で、もっとも定説に近いものといえます。
    2008年に刊行された新陰流の名古屋春風館の赤羽根先生(神奈川歯科大学教授)の「上泉信綱伝 新陰流軍学『訓閲集』も、松本備前守に新当流を、愛洲移香斎に陰流を学んだものとしています。
    以上より、「松本備前守に新当流を、愛洲移香斎に陰流を学んだ」とするのが近時の一般であると考えられます。 別途、下記に「愛洲小七郎が上泉信綱の師ではないこと」については新陰流研究の2大家の意見を載せておきました。柳生厳長を学者ではないから不正確とする見解は普通取らないと思いますが。今村嘉雄氏も尊敬していたようですし。
    なお、剣太郎さんが明らかな間違い(「飯篠家が長威斎を継いでいるとされていること」「愛洲小七郎が上泉信綱の師ではないこと」)を展開していたこともあって、論点ごとに別項目に資料をまとめておきました。間違いについてはそちらでご確認ください(今村嘉雄が下川説を採っていないことは明らかです)。

    --筑波 2009年8月12日 (水) 11:45 (UTC)[返信]


    Downstandといいます。趣味で歴史散策をしているだけ、通りがかっただけですが、意見を言わせてください。 筑波さんが投稿した部分は非常に面白いと思います。上泉家や柳生家、飯篠家といった関係する旧家でどのように言われていて、現在彼らがどのように評価しているのかは、それが確実な史実であるかどうかは別として非常に興味深いものです。自分はこれまでそのような伝承があることは知りませんでした。既存のものを残すことを前提として、修正したり、反対説があるのであれば記載すればよいのではないでしょうか。その意味では筑波さんに賛成です。よろしくお願いいたします。 --Downstand 2009年8月13日 (木) 01:21 (UTC)[返信]

    「系譜」関連のコメントではありますが、時系列でみると、別節コメントの剣太郎様とDolby様の意見を受けたコメントと考えますので、筑波様とDownstand様のコメントを時系列順にするため移動しました。また筑波様の「飯篠家が…」「愛洲小七郎が…」という節もDolby様のコメントを寸断していたので下へ移動しました。以後、この節の続きでは諸田氏の『上毛剣術史(中)剣聖上泉信綱詳伝』の内容を記事にどう記述するかしないのかについて議論していただきたいと思います。「飯篠家が…」「愛洲小七郎が…」という節は、記事内容ですので、別の話題とすべきです。ただまずは『上毛剣術史(中)』を出典とする記述の記載方法について論議してからでしょうが。--KurmUmy 2009年8月14日 (金) 11:56 (UTC)[返信]
    さて、以前に系譜節からの除去に私は同意しましたが、『上毛剣術史(中)』は諸田氏の説と上泉家の伝承が記載され、一応異説として残しておいても良いのではないかと思います。ただし、現在のように通説であるかのように記述はできず、一意見・主張として書き換える必要があると思います(なお『上毛剣術史(中)』に依拠しない他の部分も出典明記が必要でしょう)。--KurmUmy 2009年8月14日 (金) 11:56 (UTC)[返信]
    皆様、はじめまして。
    私は常々「上泉文書」に疑念を抱いておりましたDENNSUKEと申します。筑波様がウィキペディア上泉信綱で柳生厳長著「正伝新陰流」の取り残しをされた箇所を補足させて頂き、「編集の中立性」を保ちたいと存じます。
    柳生厳長翁のこの指摘に更に付け加えますと、松本備前守か杉本備前守かいまだ決着の付かない「直心影流の流祖」は鹿島神宮の祝部と云われていますが、中世上野国は鹿島神宮よりも愛洲移香斎の出身地伊勢国に御鎮座の伊勢神宮との係りが深かったのではないでしょうか?
    剣術史・武術史ばかり追われていますと正史とかけ離れ過ぎの傾向があります。上泉信綱生誕500年の石碑建立の際、群馬大学の地方史の先生や群馬県史編纂の方々のアドバイスを得られたのでしょうか?上野国には、高山・青柳・細井・玉村・薗田・広沢・須永・寮米・邑楽等数多くの伊勢神宮の御厨(みくりや)があり、御師(おし)久保倉の活躍もあって伊勢信仰が盛んであった事が記録されていますが。
    諸田政治氏や筑波様が重用される上泉文書や上泉伝承とやらは、一体どうして山形県教育委員会の文化財指定を受けないのですか?おっしゃっている程重要な古文書であれば、必ず文化財指定になるはずですが?しかし、「何時の時代に誰が記録したのか?」を一切明らかにせず、学者や有識者にも公開しない現在の「山形の上泉伝承」はウィキペディアでの「適当な情報源」とみなされないのでは?
    上泉文書に基づく諸田政治氏関連の記述の削除に、賛成致します。--Dennsuke 2009年8月15日 (土) 03:53 (UTC)[返信]


    DENNSUKE様のご指摘はごもっともだと思います。私からも問題点について指摘させて頂きます。
    • 1、諸田政治著「上毛剣術史(中)剣聖上泉信綱詳伝」について
    諸田政治著「上毛剣術史(中)剣聖上泉信綱詳伝」の(上泉信綱及び上泉年表)には、『明応9年(1500)義綱十八歳・父時秀の添書を持ち松本備前守へ入門、鹿島神道流刀術修行』とあり、wikipedia:上泉信綱は『父義綱は松本備前守より鹿島神流(新当流)』となっています。松本備前守の流儀を一方では鹿島神道流とし、また一方では鹿島神流とされ、カッコして新当流の書き込みまで入っています。松本備前守の流儀をしてこの有様です。山形の上泉家には「新陰流」が伝わっておらず現在「柳生新陰流」を学んでいるとか?「上泉文書」が世に出始めてから十年以上になりますが山形県の教育委員会に上泉文書を公開された話しは未だ聞き及んでいません。柳生厳長翁の言葉を借りれば「古来その一流の紀綱の大事であると同時に日本剣道史上の重大な問題であると云わなければならない」重大事であり疑義を持たれるのは山形上泉家におかれましても不本意でありましょう。是非山形県教育委員会等に相談され然るべき手順で学術的に解明されるのが宜しいかと存じます。
    • 2、柳生厳長翁「正伝新陰流」について
    柳生厳長翁は「剣道八講」で「愛洲移香は鹿島大社の末社なる鵜戸権現の神人なりと断定する。」とされ「正伝新陰流」では「下総香取(千葉県)に行って飯篠長威斎の流伝になる新当流を納め若くして名をなしている同流の塚原卜伝とその頃は後輩として交わったともいわれ、その後、常州鹿島へ赴いて陰流の祖・愛洲日向守移香斎についていやが上の鍛錬工夫重ねた…云々」と誤った論考をされています。尾張柳生流以外の論考には多々誤った記述が目立ちます。
    • 3、香取の飯篠氏について
    今村嘉雄先生は「日本体育史」が御専門と聞き及んでいます。中世鹿島神宮・香取神宮の研究においては故渡辺世佑博士ではなかろうかと思います。応永年間香取神宮の大禰宜長房の功績により「香取の海」の「海夫」の支配で鹿島神宮より香取神宮が優位であったことが海夫注文等で明らかにされました。鹿島・香取の刀術はこの「海夫」の解明なくして語れません。何故なら飯篠修理亮吉定の新當流允許状にはこの海夫が描かれているからです。今の宗家と云われる飯篠氏には何等古文書は伝わっていません。永禄年間の飯篠氏はその後千葉氏麾下となり秀吉の小田原攻めの際、北条氏と運命を共にしその後各地へ離散しています。依って古文書が一切ない筈です。信綱の祖父、父が学んだと云う鹿島・香取の刀術に言及した江戸時代初期の一次史料は宮本武蔵の「五輪書」です。重要性を鑑み本文に掲載致します。--剣太郎 2009年8月17日 (月) 02:30 (UTC)[返信]


    KurmUmy様
    ご意見ありがとうございます。問題があるのであればKurmUmy様の方で記載を変更していただければと思います。「一般である」が問題であるのであれば、「ことが多い」という形でもよいかと思います。何卒よろしくお願いいたします。
    皆様
    問題点云々が問題なのではなく、私が申し上げていることはウィキペディアの編集方法にしっかりと従ってくださいということです。前回も書きましたが、出典が明らかな、十分に検証可能性を満たしている記載は勝手に消去しないのが原則です(Wikipedia:中立的な観点)。この点にはしっかりとご留意ください。
    • 1、諸田政治著「上毛剣術史(中)剣聖上泉信綱詳伝」について
    諸田先生以外にも近時では上泉文書や従来公開されていなかった柳生家、タイ捨流の上泉直筆文書、鹿島新当流、天真正伝神道流の重要文書がある程度明らかになりつつあります。このような観点で諸田氏とは別の文献の入手ルートで上泉文書ほかを手に入れて歴史家の加来耕三先生が諸田先生とほぼ同じ結論を出されています(新人物往来社「柳生一族」所収「日本剣道の源流 上泉伊勢守信綱」2003年)。上泉家は米沢藩の上級武士の家系ですから、米沢藩の資料にも上泉家の記述はでてきます。疑問があられるようであれば、出典は明記されていますから、ご自身でお調べになられたらいかがでしょうか。
    • 2、柳生厳長翁「正伝新陰流」について
    伝書による記述に関してはほとんど誤りがないはずです。伝書に関しては今村嘉雄先生が検証されています。現状、新陰流関連の古文献がもっとも豊富なのは柳生家でしょう。それこそ今村嘉雄先生のご専門です。
    • 3、香取の飯篠氏について
    今村嘉雄先生は「日本武道全集」「日本武道大系」の編集責任者です。武道史の専門家でないとおっしゃる方はいらっしゃらないと思いますが。かくいう剣太郎様も「定説(下川潮説・今村嘉雄)」とご自分でお書きになられていますよね(明らかな間違いですが)。よくご存知のことかと存じますが。
    「香取の海」の「海夫」の件については、おっしゃりたいことがわかりません。しっかりとした典拠をお示しの上、再度、ご説明ください。そもそも自分の記載とは直接関係のない部分なので、自分に説明するのではなく、独自見解でないのであれば飯篠家直の項目にでもご記載いただければと思います。
    --筑波 2009年8月18日 (火) 10:51 (UTC)[返信]

    飯篠家が長威斎を継いでいるとされていること

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    今村氏は飯篠家直を「天真正伝神道流の祖。日本兵法中興の祖ともいう。」と紹介した上で、飯篠家直から現当主飯篠快貞氏までの系譜を紹介しています(今村嘉雄「図説日本剣豪史」)。長威斎飯篠家直が実在し、飯篠快貞氏まで続いているとするのが定説です。以上のコメントは、筑波会話履歴)氏が[2009年8月12日 (水) 11:45 (UTC)]に投稿したものです(KurmUmyによる付記)。[返信]

    愛洲小七郎が上泉信綱の師ではないとする見解

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    • 柳生厳長氏ははっきりと柳生家にある疋田系の伝書を示した上で愛洲小七郎に師事したとするのは「疋田新陰之流の末流の伝系説」であり、「信憑するところを持たない」として否定した上で、下川氏の「剣道の発達」についても、下記のように上泉信綱への伝承に関する限り否定しています。

    「下川潮氏の遺著にかかる「剣道の発達」は「陰流や新陰流に関しては、江戸柳生家の記録や、疋田新陰之流の末流のものばかりによったことなどから、誤り伝えたものが多く、中にも西頓一なる者から、その門弟、山北三蔵に伝えた伝書(花押も判もない写)なるものが、全く見るにたえない妄書で、このなかに流祖伊勢守が、飯綱に参篭した旨を記しているのである(下川氏はそれを上泉流祖の自筆書であるとした。なお陰流の「起本」についても、あやしい奇譚を掲げている)。」(柳生厳長「正伝新陰流」)

    • 今村嘉雄氏も柳生厳長氏見解に賛同し、愛洲移香斎に学んだとした上で、「最も信頼できる「正伝新陰流」疋田家正系の道統図に小七郎の文字が見えないことでも明白であろう。」としてはっきりと愛洲小七郎が上泉信綱の師とする見解を否定しています(今村嘉雄「図説日本剣豪史」)。

    新陰流の2大研究者がはっきりと否定しているわけです。以上のコメントは、筑波会話履歴)氏が[2009年8月12日 (水) 11:45 (UTC)]に投稿したものです(KurmUmyによる付記)。[返信]

    愛洲小七郎が上泉信綱の師となっている伝書

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    • 上にも書きましたが、疋田豊五郎が慶長年間に黒田長政宛に発行した伝書(福岡市博物館「疋田新陰流剣術組絵図」)では、愛洲移香斎ー愛洲小七郎ー上泉武蔵守ー疋田栖雲斎となっています。(Lantis92会話2014年8月25日 (月) 08:26 (UTC))[返信]

    諸田政治氏著「上毛剣術史 中―剣聖上泉信綱詳伝」の取扱いに就いて

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    約一ヵ月間ご討議頂きまして有難うございます。当wikipediaの「上泉信綱」が正史とかけ離れ剣術史の定説とも異なった編集をされている原因はやはり、「山形の上泉伝承」とやらを重用して書かれた諸田政治氏著「上毛剣術史 中―剣聖上泉信綱詳伝」の引用にある事は間違いない事が解りました。上野国の剣術関連の資料で有名なのは「樋口家記録・樋口家文書」ですが「日本剣道史」の執筆者岩本米太郎氏が、「誇大に作為したもので信ずるに足らぬ」と看破され、著書に一切採用されていません。江戸時代弘化元年(1844年頃)原徳斎は「先哲像伝・武林伝」で「樋口家文書」の寛永御前試合の「御前試合立合人名」に就いて「此事予疑ところ多しと覚申候故、伊庭家に聞合せし処、果して虚作なりとの話也、左も可有之。是水軒、十一、二歳に時ならでは年代不合と思ひて聞合せし処、初而瞭然たり、可笑話の為(お笑いの話として)記し置く。」と断って、資料の引用をされています。これとは全く正反対に「山形の上泉家記録、又は上泉文書」とやらは今回「wikipadia:上泉信綱」の編集に重用されています。しかし「山形の上泉文書」とやらには肝心の「新陰流」が伝承されておらず、「起請文」「允許状」等の裏付けの古文書も一切ないのでは「信じろ」と云われても無理なのでは?原徳斎の‘お笑いの話’を通り越しているように思えます。


    上泉氏・大胡氏で後北条氏に仕えるのは大胡平五郎が上野国碓氷郡の情勢を北条氏綱に知らせ、感状を天文14年10月27日に貰って、更に天文24年1月6日大胡から「牛込」氏を名乗る許しが北条氏康判物で認められて以来、後北条氏の麾下になり遠山景綱の配下で数々の戦功を立てたことで知られる。牛込三郎氏所蔵系図では重行―勝行―勝重―勝正と続いて、先の三代が戦国期の人達となる。「下山治久、後北条氏家臣団人名辞典、東方出版(2009年、6月)」

    一方、上泉主水こと上泉憲元は信綱の弟と云うのが従来の定説である。止戈類簒・武和叢書や武功要名録、或いは武辺噺聞書・常山紀談等に書き立てられている。主水は武田信玄に仕え武名が高く浅黄しなえの指物で関東に勇名を轟かせていた云々、会津の上杉景勝の臣、直江兼続が主君に薦めて三千石で召し抱えられ、その後、上杉が最上氏を攻める長谷堂攻めの時、戦に利がなく主水は一歩も退かないで勇戦奮闘し数十人斃して遂に討死にを遂げた。武功要名秘録に48歳とあるが、近代勇士伝には34歳とある。(富永堅吾、剣道五百年史)

    太田亮氏著、姓氏家系大辞典、上泉氏 『上泉―カミイズミ。1、信濃金刺姓 上野国勢多郡上泉邑より起る。関八洲古戦録巻四に「上泉伊勢守金刺秀綱」と見ゆるにより金刺舎人の後裔、即ち信濃国造族なるを知るべし。この人は上州箕輪の永野衆にして、永禄六年、箕輪落去の後浪人となり、桐生に走り又次朗の家風衰ふるを察し、去りて甲州に走る。この人剣術の祖と云はる。始め飯篠長威(山城家直、総州香取の人にして鹿伏兎刑部の弟子也)の伝を松本備前尚勝(鹿島の人)より受け自ら巧夫して真影流を起す。實に柳生又右衛門宗厳の師たるなり。 また、上泉主水あり、下妻合戦に討死す、大窪篠参照。甲斐国志に「武州深谷の老臣上泉主水佐の事なり、北越の諸録に主水、後に上杉景勝に仕へ、慶長五年、羽洲長谷堂攻撃の時戦死、名は憲村、憲元、通治の異あり。續此家閑談には「主水は上州の人と記せり。疑ふらくは深谷の老臣は同名別人にして、且又伊勢守の子にあらじ、その男も主水と名く、大阪鴨野にて戦死」と見ゆ。』

    以上の理由により「山形の上泉家記録・上泉文書」を基に論考された諸田政治著「上毛剣術史 中―剣聖上泉信綱詳伝」を引用しての編集に反対します。--Dolby 2009年8月24日 (月) 03:15 (UTC)[返信]

    『上毛剣術史(中)』(諸田政治、1984年)や『別冊歴史読本 柳生一族』の「上泉伊勢守信綱」(加来耕三、2003年)は未刊行・未考証の「上泉文書」を利用しており、学説とは言い難いと感じます。しかし信頼できる情報源で「評判を得たことが明らかになった場合は、1つのPOVとして記すことができます。」とあり、「上泉伊勢守顕彰・生誕500年祭実行委員会」(会長が上泉町自治会長)が諸田説に拠った「上泉信綱生誕500年の石碑」を建立していることから、「評判」を得たと判断し、米沢上泉家の伝承というPOVとして、他の「伝承」と節を分けて言及できると考えます。当然、「上泉氏の古文書」の諸問題を指摘しておくべきですが。
    『上毛剣術史(中)』に基づく記述除去派の方は、学説としての問題点を指摘しますが、どなたも異説扱いとしても「上泉文書」の伝承を記載できないとする根拠が示されません。この点が解消されない限り、上泉氏伝承関連の記述の完全除去は明確に反対します(現状からの改変は希望。後述)。
    なおDolby様、ご提示の資料のうち、富永堅吾『剣道五百年史』は1972年で諸田の本(刊行1984年)、および『前橋市史 第2巻』(1973年)よりも前です。太田亮著の「姓氏大辞典」はありません。『姓氏家系大辞典』(太田亮)であれば1936年でこれも上泉伝承提示前のことです。また「山形の上泉文書」を否定する評価は現状断言されません。「樋口家記録・樋口家文書」とは、樋口家記録が信頼に値しないと岩本米太郎により評価されている点で異なります。同等には論じられませんし、また「樋口家記録」も記載できますよ。「作為したもの」との解説付きで、学説ではなく過去の伝承・原徳斎によるお笑いの話扱いとして記載可能です。--KurmUmy 2009年8月24日 (月) 09:29 (UTC)[返信]
    (追記)問題なのは「上泉文書」なる未検証の古文書類に基づく記述が他の武術史の通説と混じっていることだと思いますので、上泉家伝承を他の説と分離(他の伝承部分も整理)する編集を行おうと思っているのですが、皆様意見をお聞かせ下さい。反対無いようでしたら行いたいと思います。--KurmUmy 2009年8月24日 (月) 09:35 (UTC)[返信]
    (補足)現在Dolby氏への私のコメントにて『姓氏家系大辞典』が提示されているのに「太田亮著の「姓氏大辞典」はありません。」と異論を言っているように見えますが、これは、Dolby氏が2009年8月24日 (月) 03:15 (UTC)に「姓氏大辞典」とあったのを、2009年8月25日 (火) 12:54 (UTC)の版で『姓氏家系大辞典』に修正したためです。--KurmUmy 2009年8月25日 (火) 14:07 (UTC)[返信]
    Dolby様の御意見は的を得ていると思います。正史の常識から言って上野国から鹿島の地に赴くには戦国の真只中敵味方去就が解らぬ小国領主の地を通過せねばならいのです。「人質」にされるかも知れない危険を冒してまで戦国武将が「子息」を武者修行に旅立たせるなど正気の沙汰ではないのでは?。年譜に加筆訂正を致しました。--Dennsuke 2009年8月26日 (水) 05:37 (UTC)[返信]
    記述を残すべきという立場なのは私と筑波氏・Downstand氏ですが、Downstand氏は残すとしか発言になく、筑波氏も「絶対のものとして書いたわけではありません」とあり、諸田説=正史を求めていないようです(解釈違いならすみません)。私の上記提案:「上泉家の主張・意見」として書くことはどう思われるのでしょうか。諸田説が学問上矛盾・疑問点を多く抱えるのは間違いありません(盛大に箕輪落城永禄9年説を否定してますし)。しかし、学術研究上問題があっても、そう主張している人がいるのは事実です。個人的におかしいと思ったとしても、記述の除去には結びつかないことを指摘します。なおDennsuke様、「年譜に加筆訂正」の一部を除去しました。私が以前Dolby様への返答で”「武将の子弟の教育を施す機関が鹿島の地にあった」とはどこにも書かれていません”と指摘しており、今の記事には鹿島が教育機関であったとはかかれていません。「幼少時に信綱が鹿島流を学んだ」意味でしょう。「入門」を誤解の無いように修正し、それに伴い足利学校関連の記述は除去しました。また議論があるので告知を添付。--KurmUmy 2009年8月27日 (木) 10:14 (UTC)[返信]

    (インデント戻す)申し訳ありません。諸田は鹿島を「綜合武術大学」のようななものと『上毛剣術史・中』で表現していました。Dennsuke様の記述を復帰させました。なおDennsuke様にはご迷惑をかけますが、鹿島で教育機関が無かったとの指摘に出典がありませんでしたので、追加してもらいたいです。ただ、宗長の言及部と多胡辰敬家訓は事実ではありますが、それぞれ足利学校古武道(または武芸 (日本))の記事で書いたほうがよいと思い除去しました。諸田の説と関連は薄いです(むしろ私が除去してしまった鹿島で教育機関が無いとの指摘が重要です)。--KurmUmy 2009年8月28日 (金) 08:56 (UTC)[返信]


    剣太郎様、Dolby様、Dennsuke様
    2chでも話題ですが、どうやらウィキペディアで複数アカウントを使って荒らし活動をしている无手塾(無手塾)の方のようですね。ウィキペディアではノートにおいて自作自演、ソックパペットを使用して多数派工作をすることは禁止されています(Wikipedia:多重アカウント)。剣術直心影流陰流愛洲久忠等のの項目でも複数アカウントを使っていますよね。議論の前に、よくご理解の上、アカウントを整理してください。議論をするのはその上でです。まず反則をやめてください。
    --筑波 2009年8月28日 (金) 23:38 (UTC)[返信]
    筑波様、あなたは察するに、自分で2ちゃんねるで自作自演行為を行って誹謗中傷の世界に私を引きずり込もうとしているのですか?狂言じみた書き込みはご自身のホームページでなさって下さい。武道史研究家とは聞いて呆れます。裏サイトと呼ばれる2ちゃんねるにリンクとは貴殿の品格品性が問われますよ。貴殿の思い込みで「反則をしている」との事ですが、私は編集・執筆について、ノートページにコメント入れた上で行っています。ノートページを読めば分かりますが、私は、貴殿が提示・編集した「諸田政治氏著 上毛剣術史」に使われている「上泉文書と云う一次史料がそもそも検証不可能」な為その引用に反対しているのです。ただし、削除するのではなく分離して編集し直すと云うKurmUmy様のコメントに賛成し削除は行わず、参考となる解説を追加しています。ルールに則り意見交換の流れに沿って編集活動しているのに反則、荒らし行為と云われても困ります。私は、貴殿の「削除に反対」のコメントも読んだ上で削除せず対応していると思いますが。あくまで私個人の意見は、百科事典としては無理に多様な観点を羅列するのではなく、複数の査証を得ている「事典」等に沿った編集が適当と考えますが、KurmUmy様より、定説とかけ離れている意見も「多様な観点」として残し、「史料に見える部分」と「多様な観点の部分を分離する」と云う分離編集の方針がコメントで示されたため、上泉文書とやらの内容が「正史」の時代考証からかけ離れていると云う資料の紹介も中立性を保つために必要とコメントした上で編集に参加しています。私と筑波様は確かに意見が違います。だからといって、ルールに則り編集に参加している私に対し貴殿の思い込みで「私個人への誹謗中傷」を行うのはそれこそ「荒らし行為」であり「反則」です。ウィキペディアにはウィキケットというマナーのガイドラインがあります。熟読の上、2ちゃんねるとの違いを理解して下さい。--Dolby 2009年8月30日 (日) 01:11 (UTC)[返信]
    多重アカウントの根拠がよく分からない上に外部サイトのことは無関係ですので話題にしません。さて、Dolby様も私の分離編集に反対ではないようなので、明確な反対意見が出ないなら近日中に分離編集を行います。その内容としては生涯節などを大幅に改変しようと考えています。現状各説が入り乱れているので、信綱の師などで節に分け、様々な意見を併記しようと考えています。ただし上泉家の伝承はそれとは別節で記述します。筑波様の編集のとおり上泉町がこの伝承に基づいて活動しているのは事実ですが、尾張柳生伝承・今村説・富永説・下村説などの他説とは異なり、諸田説は古文書の真偽などの考証がされず上泉氏の主観と受け取れ、他との両論併記は無理でしょう。また年譜は各節に記載して全て除去しようと思います。通説の年譜を書ければ良いのですが、Dolby様が最初に指摘したとおり、問題が多すぎます。諸田説以外にも諸説が一緒くたで統一見解がなく、根拠不明の情報(永禄3年の「上野国箕輪城軍評着到帖」は史料に存在しないなど)もあります。--KurmUmy 2009年8月30日 (日) 10:56 (UTC)[返信]

    筑波さん、一体全体何を勝手な思い込みでこの様な書込みをしているのか、青天の霹靂です。一応御指摘の各項目を確認しましたが、当事者でないと解らない事も多く、筑波さん自身が「荒らし行為」に一枚絡まれいるのでは?それでないと突然この様な発言はでて来ないのでは?武道史研究家と御自分で名乗りながら、お粗末様です。ちなみに私に関していえば、武芸物語に興味をもっている一オタクです。議論を放棄するのでれば、勝手に去って下さい。他の方々と話を進めた方が良さそうですし。私はKurmUmyさんの御意見に賛成いたします。--Dennsuke 2009年8月30日 (日) 22:58 (UTC)[返信]

    とりあえず反対意見がなさそうだったので分離編集(および内容の整理)を行いました。一応既存の各説を全部載せたはずです。あと今村の著作など私の加筆も混じっていますが。加筆修正は大歓迎です。--KurmUmy 2009年9月2日 (水) 12:30 (UTC)[返信]
    KurmUmy様、節を分けての編集ご苦労様です。内容に関しては精査させて頂きますので宜しくお願い致します。--剣太郎 2009年9月3日 (木) 03:14 (UTC)[返信]
    剣太郎様、申し訳ありません。出典とされた古事類苑を除去しました。これは要出典範囲の付いていない「鹿島が当時戦乱が続き」の出典ではありませんか? 「(鹿島に)武芸を教える機関は存在していない」という主張は古事類苑の該当箇所にはみえないのですが…。武道の教育機関として名高いという意味の記述もありませんが。ただ記述が無いから存在を否定するのは独自研究です。なおこちらの見落としでしたら、『古事類苑』は文献を引用したものですので、古事類苑記載の引用元名も提示していただけませんでしょうか。--KurmUmy 2009年9月3日 (木) 09:10 (UTC)[返信]
    KurmUmy様
    編集見させていただきました。他の方々が勝手に削除したり、意味不明の見解を展開(飯篠家についての出典不明の見解や新陰流宗家の柳生厳長をもって素人としたり、今村説を愛洲小七郎説とする等)をする中、上手に編集していただき感謝しています。これで十分かと思います。ありがとうございました。--筑波 2009年9月4日 (金) 23:21 (UTC)[返信]