胤栄
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(宝蔵院胤栄から転送)
胤栄(いんえい、大永元年〈1521年〉 - 慶長12年8月26日〈1607年10月16日〉[1][2])は、安土桃山時代の興福寺の僧、武術家。覚禅坊。奈良興福寺の子院・宝蔵院の院主。宝蔵院流槍術の祖。
生涯
[編集]興福寺衆徒・中御門胤永の次男として生まれ、宝蔵院へと入った[3][4][注釈 1]。
若い頃より刀槍の術を好み[6]、柳生宗厳とともに上泉信綱から剣(新陰流兵法[6])を、大膳大夫盛忠から槍を学び[1][2][3]、大西木春見から香取神道流を学んだという[3][6]。胤栄は柳生宗厳や穴沢浄見らとともに表15か条の形を作り[6]、これを宝蔵院流槍術の基本とした[2]。宝蔵院流は十文字鎌槍の利点を生かして多様な攻防を可能としており、当時としては画期的だったみられる[3]。門弟に中村尚政、高田又兵衛、可児才蔵らがおり[2][6]、中村尚政は後に将軍・徳川家光の前で三度にわたり技を披露した[2][6]。
晩年は僧侶が武事を扱うことを本意ではないとして、後住と決めた胤舜に院中で武芸を習うことを禁じ、全ての武具を高弟である中村尚政に与えたという[6][注釈 2]。慶長12年(1607年)8月26日、死去[2]。享年87[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 総合仏教大辞典編集委員会編『総合仏教大辞典』 上巻、法藏館、1988年1月、65頁。
- ^ a b c d e f g 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、687頁。ISBN 4-404-01752-9。
- ^ a b c d 「宝蔵院胤栄」『朝日日本歴史人物事典』 。コトバンクより2022年3月18日閲覧。
- ^ a b c “興福寺元衆徒中御門系図”. SHIPS Image Viewer. 東京大学史料編纂所. 2022年3月18日閲覧。
- ^ 馬部隆弘『椿井文書―日本最大級の偽文書』中央公論新社〈中公新書〉、2020年、21頁。ISBN 978-4-12-102584-5。
- ^ a b c d e f g 「宝蔵院流」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 。コトバンクより2022年3月18日閲覧。
- ^ 「宝蔵院胤舜」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2022年3月18日閲覧。
関連項目
[編集]漫画
[編集]外部リンク
[編集]- 宝蔵院流槍術
- 寳藏院胤栄法師大格之傳 - ウェイバックマシン(2008年3月22日アーカイブ分)