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2021年1月8日 (金) 05:18時点における版
慶應義塾普通部 | |
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国公私立 | 私立学校 |
設置者 | 慶應義塾 |
校訓 | 独立自尊 |
設立年月日 | 1898年 |
共学・別学 | 男子校 |
中高一貫教育 | 併設型 |
学期 | 3学期制 |
所在地 | 〒223-0062 |
北緯35度33分6.8秒 東経139度38分32.7秒 / 北緯35.551889度 東経139.642417度座標: 北緯35度33分6.8秒 東経139度38分32.7秒 / 北緯35.551889度 東経139.642417度 | |
外部リンク | 慶應義塾普通部 |
プロジェクト:学校/中学校テンプレート |
慶應義塾普通部(けいおうぎじゅく ふつうぶ、英: Keio Futsubu School)は、神奈川県横浜市港北区日吉本町一丁目にある私立中学校。
慶應義塾が設置、運営する学校で唯一の男子中学校である。慶應義塾が設置、運営する学校と連携して小中高大一貫教育を行う。
例年、慶應義塾幼稚舎から60~70名[1]と、外部の小学校から約180名(内部進学者により変動)の入学者で構成されている。
概要
慶應義塾普通部は1890年(明治23年)、慶應義塾に大学部を設置する際に従来の課程を「普通部」と命名したことに由来しており、慶應義塾大学よりも古い[2]。
戦後の学制改革の際、普通部は新制の中学校と高等学校とに分かれたが、その際に普通部の名称はそのまま新制中学校へ受け継がれた。「『普通部』という名称は新制高等学校の普通科と紛らわしい」という理由で、当時の文部省からの認可が遅れたという逸話が残っている[要出典]。名前に「中」が含まれない唯一の中学校である。
現在の日吉へ移転したのは1951年(昭和26年)から翌年にかけてである。
慶應義塾大学日吉キャンパスや慶應義塾高等学校とは東急東横線日吉駅をはさんで反対側にある。日吉駅と同校を結ぶ道は「普通部通り」と名付けられている。
黒詰襟制服の着用義務がある。カリキュラムでレポートや自由研究を特徴としている。
データ
沿革
- 1858年(安政 5年) - 福澤諭吉が江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)に蘭学塾を開く。
- 1868年(慶應 4年) - 芝新銭座(現在の港区浜松町)に移転し、慶應義塾と命名する。
- 1871年(明治 4年) - 三田に移転。
- 1874年(明治 7年) - 私立外国語学校となる。
- 1877年(明治10年) - 私立中学校となる。
- 1880年(明治13年) - 各種学校となる。
- 1881年(明治14年) - 幼童演説会を開催[3]。
- 1890年(明治23年) - 慶應義塾に大学部(現在の慶應義塾大学)が新設され、従来の課程は普通部と称されるようになった。
- 1898年(明治31年) - 慶應義塾の一貫教育の制度が確立され、普通部は「普通学科」と改称される。
- 1899年(明治32年) - 再び「普通部」と改称する。
- 1900年(明治33年) - 制服・制帽の着用を義務化する[4]。
- 1906年(明治39年) - 専門学校入学資格の指定許可を受ける。
- 1916年(大正 5年) - 第2回全国中等学校優勝野球大会(夏)で優勝。
- 1917年(大正 6年) - 三田綱町(現在の中等部所在地)に移転。
- 1927年(昭和 2年) - 大学評議会、予科・普通部・商工学校・幼稚舎の郊外移転方針決定[5]。
- 1930年(昭和 5年) - 普通部の歌を制定する(佐藤春夫作詞、堀内敬三作曲)[6]。
- 1943年(昭和18年) - 修業年限を5年から4年に短縮。
- 1945年(昭和20年)5月24日 - 東京大空襲により校舎を失う。以後、新校舎が建造されるまでの間天現寺の慶應義塾幼稚舎の校舎を一部間借りすることとなる。
- 1947年(昭和22年) - 新制中学校となる。
- 1948年(昭和23年) - 旧制の普通部最後の卒業式。4・5年生は旧制の慶應義塾大学予科へ、3年生は新制の慶應義塾第一高等学校(後の慶應義塾高等学校)に進学。
- 1951年(昭和26年) - 日吉校舎への移転が始まる[7]。
- 1952年(昭和27年) - 日吉校舎への移転を完了する。
- 1998年(平成10年) - 創立100周年。
- 2001年(平成13年) - 本館竣工。これに伴い、1年生のみ20人(現在24人)の少人数学級となる。
- 2015年(平成27年)2月 - 新本校舎竣工。
周辺
横浜市港北区日吉本町の下末吉台地の上に立地する。なお、付近の避難所は、横浜市立日吉台小学校がある。広域避難場所は、慶應義塾大学日吉キャンパス。海抜は、34.28m(事務室前)。
制服・校則
黒の詰襟制服が指定されており、加えて着用自由な制帽がある。制帽を着用する生徒はごくわずかである。夏季はワイシャツとズボン(黒とグレーの2色を選択可)。オプションにセーターやベストがある。2019年の略装は5月8日より開始。
旧制時代、中学校では珍しく半ズボンを制服として定めていた(1・2年生だけが対象)時期があった。現在は全学年とも長ズボンである。
原則スマホは持ち込み禁止だが一年生は10%、二年生は60%、三年生は80%の人が持ってきている。
教育
慶應義塾が設置・運営する学校と連携して小中高大一貫教育を行っている。慶應義塾幼稚舎からの内部進学者と入試を経て外部の小学校からの入学者で構成される。幼稚舎から普通部に入学するか慶應義塾中等部に入学するかは児童・保護者が選択するが、例年、内部と外部の比は約1:3である[1]。単独で立地する私立男子中学校という特色をもつ。なお、幼稚舎からは普通部への進学が多く、中等部との進学比は例年約3:1である[1]。
クラス編成は1年生のみ24人学級×10クラス、2・3年はクラス替えなしの40人×6クラスとなっている。
普通部では毎年「労作展」と呼ばれる自由研究のような課題が存在する。
選択授業(3年のみ)や理科に独自のカリキュラム(ほぼ毎週出る理科実験レポートやフィールドノート等)が組まれているのが特徴。特に、ほぼ毎週提出が義務付けられているI(物理・化学)・II(生物・地学)という2つの実験レポート作成は、日本の一般的な理科教育に比べ、早期から参考資料を基に実験結果を考察するという本格的な書類作成を行わせている。
全国の中学では珍しく原級留置(再修、いわゆる留年)制度が採用されている。再修は1回までで、評定平均がC未満になると留年候補生となる。
施設
新校舎(本館)と仮設校舎を中心に、特別教室棟や、体育館、小体育館、中庭、グラウンド、第二グラウンド、テニスコート(人工芝4面)、弓道場などの施設を持つ。また、プールについては慶應義塾大学にあるプールを使用する(授業は1年生のみ)。
入試
学力・面接・体育実技からなる。学力試験は、国語・算数・社会・理科がそれぞれ100点の均等配点である。
進路
卒業生の90%が慶應義塾高等学校に進学するものの、慶應義塾志木高等学校、慶應義塾湘南藤沢高等部および慶應義塾ニューヨーク学院への進学もできる[8]。ちなみに、2008年度の慶應義塾高等学校の第1学年の生徒は、慶應義塾普通部または慶應義塾中等部を卒業した者が375人、国立大学教育学部附属中学校(高等学校を併設するものを除く)、公立中学校または他の私立中学校(高等学校を併設しないものに限る)を卒業した者が343人であり、慶應義塾が設置する中学校を卒業した内部進学の生徒の数と、公立中学校などを卒業した外部進学の生徒の数が拮抗している。
主な出身者
- 草野心平 - 詩人
- 熊谷守一 - 画家
- 森芳雄 - 洋画家
- 古河虎之助 - 古河財閥当主
- 岩崎久弥 - 三菱財閥総帥
- 駒井哲郎 - 版画家
- 千家元麿 - 詩人
- 横田郁 - 日本勧業銀行頭取、第一勧業銀行初代頭取
- 大倉喜七郎 - 大倉財閥総帥
- 田中精一 - 中部電力社長
- 本居長世 - 作曲家 / 本居宣長の子孫
- 勝精 - 徳川慶喜家10男 / 勝小鹿の養子
- 徳川斉正 - 水戸徳川家15代当主
- 伊沢多喜男 - 元東京市長、元警視総監
- 奥井復太郎 - 元慶應義塾塾長 / 大正2年卒業
- 安西祐一郎 - 元慶應義塾塾長 / 昭和37年卒業
- 御子柴克彦 - 医師、医学者、東京大学医科学研究所教授、元大阪大学教授
- 阿川尚之 - 慶應義塾大学総合政策学部長、東京大学先端科学技術研究センター特任教授 / 父は弘之、佐和子は妹
- 朝吹三吉 - フランス文学者
- 石坂浩二 - 俳優、画家 / 昭和32年卒業
- 石原伸晃 - 元行政改革担当大臣兼規制改革担当大臣、元国土交通大臣兼観光立国担当大臣、元環境大臣、元経済再生担当大臣 / 昭和48年卒業 (C組)
- 石原良純 - 俳優、気象予報士 / 昭和52年卒業
- 伊藤信太郎 - 衆議院議員
- 伊藤雄之助 - 俳優(中退)
- 上田昭夫 - 慶應義塾ラグビー部総監督、ラグビー日本代表選手
- 岡本太郎 - 芸術家 / 昭和4年卒業
- 桂誠一郎 - 工学者、慶應義塾大学理工学部教授 / 平成6年卒業(B組)
- 岸井成格 - 毎日新聞東京本社編集委員、日本ニュース時事能力検定協会理事長 / 昭和35年卒業
- 小泉信三 - 元慶應義塾塾長 / 明治38年卒業
- 腰本寿 - 野球殿堂入り、東京六大学野球・慶應義塾大学野球部監督
- 小林亜星 - 作曲家 / 昭和23年卒業(A組)
- 小林陽太郎 - 富士ゼロックス会長 / 昭和24年卒業
- 椎名武雄 - 日本アイ・ビー・エム最高顧問 (元日本アイ・ビー・エム会長) / 昭和21年修了
- 櫻井翔 - 歌手、アイドル、嵐(E組)
- Zeebra(横井英之) - ヒップホップMC / 自主退学
- 関時男 - 俳優 / 大正12年修了
- 千住明 - 作曲家 / 昭和51年卒業(D組)
- 千住博 - 現代日本画家 / 昭和48年卒業(B組)
- 高木文雄 - 大蔵事務次官 / 卒業後は旧制浦和高校へ
- 武見太郎 - 日本医師会会長、世界医師会会長
- 武見敬三 - 参議院議員、武見太郎の子
- 玉塚元一 - ローソン等の元社長
- 冨田勝 - 慶應義塾大学環境情報学部長・教授 / 昭和48年卒業 (E組)
- 中鉢正美 - 慶應義塾大学通信教育部長
- 服部禮次郎 - 和光取締役会長、セイコー名誉会長 / 昭和12年(E組)
- 林屋辰三郎 - 歴史学者 / 入学翌年京都一中へ
- ヒサクニヒコ - 漫画家(恐竜画) / 昭和34年(C組)
- フォーリンデブはっしー - タレント、 グルメブロガー(E組)
- 福澤武 - 三菱地所会長
- 福澤克雄 - TBSテレビ演出家、テレビディレクター
- 福原義春 - 資生堂会長、みずほフィナンシャルグループ取締役 / 昭和23年卒業
- 藤﨑一郎 - 駐アメリカ特命全権大使、元外務審議官
- 藤城清治 - 画家、影絵
- 藤山愛一郎 - 元外務大臣、藤山コンツェルン総帥、日本航空会長、日商会頭、経済同友会代表幹事
- 藤山一郎 - 歌手、国民栄誉賞
- 槇文彦 - 建築家
- 牧野直隆 - 野球殿堂入り、高野連会長
- 松任谷正隆 - 音楽プロデューサー、歌手松任谷由実の夫 / 昭和42年卒業(C組)
- 松林久吉 - 防衛医科大学校初代校長
- 松本信廣 - 東洋学者、慶應義塾大学名誉教授
- 三宅大輔 - 慶應義塾大学野球部初代監督
- 新田恭一 - 元プロ野球監督
- 山本愛一郎 - 元プロ野球選手
- 武藤絲治 - カネボウ社長、武藤山治の子 / 大正12年中退
- 柳満珠雄 - 三井銀行頭取
- 桜内義雄 - 衆議院議長
- 梁瀬次郎 - ヤナセ2代目社長、梁瀬長太郎の子
- 武田長兵衛 - 武田薬品工業2代目社長
- 小菅丹治 - 伊勢丹社長
- 岡崎真一 - 同和火災2代目社長
- 正力亨 - 前読売ジャイアンツ代表
- 山下太郎 - アラビア石油創立者
- 山下太郎 - 山下汽船社長
- 久保田万太郎 - 作家 / 府立三中から転校
- 坪田一男 - 慶應義塾大学医学部教授、眼科医
- 中山貴雄 - テレビ朝日元アナウンサー
- 中村光宏 - フジテレビアナウンサー
- 青井実 - NHKアナウンサー、丸井創業者の孫
- 藤井貢 - 俳優、ラグビー日本代表選手
- 岩田剛典 - 三代目J Soul Brothers(パフォーマー)
- 都倉賢 - サッカー選手、セレッソ大阪・FW
- 二村ヒトシ - AV監督
- 梅田晴夫 - 劇作家、小説家、随筆家
- 梅田望夫 - 経営コンサルタント
- 原武史 - 政治思想史学者、明治学院大学教授
- 竹田恒泰 - 作家、憲法学者、慶應義塾大学非常勤講師、明治天皇の玄孫
- 濱徳太郎 - 美学者 / 旧制松本高校へ
- 観世寿夫 - 能楽師
- 森研 - ファッションサイトWWD編集長
- 森勉 - ファッションデザイナー
交通アクセス
- 東急東横線、東急目黒線、横浜市営地下鉄グリーンライン「日吉駅」から徒歩約5分(詳細は[1]を参照されたい)
- 生徒は、自動車、自転車は利用不可。なお、自宅から最寄駅の間は家庭の判断に任せられる。
- 登校は基本8時から9時の間。