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地方の主要都市としては、台北市の東北部に港湾都市である[[基隆市]]が、台湾島南西部に工業・港湾都市である[[高雄市]](台湾第二の都市)がそれぞれあり、両都市の間に[[新竹市]]、[[台中市]](台湾第三の都市)、[[嘉義市]]、[[台南市]](台湾の古都にして第四の都市)などの主要都市が集中している。これらの主要都市は全て台湾島西部に位置しており、台湾中・東部の主要都市としては[[花蓮市]]と[[台東市]]がある。 |
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2006年9月30日 (土) 11:46時点における版
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台湾(たいわん、正体字:台灣、但し正式な文章においては臺灣と表記。注音: ㄊㄞˊ ㄨㄢ、拼音: 、台湾語:Tâi-oân)は東アジア、太平洋の西岸に在る台湾島を中心とした地域の名称。1945年以降は一貫して中華民国の統治下にあり、1949年の中華人民共和国成立に伴う中華民国政府の台湾遷都以降は、中華民国の通称としても用いられる。ただし、中華人民共和国も統治権を主張しており、両政府間で問題となっている(詳細は台湾問題を参照)。
台湾 | ||
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ラテン文字表記 | Taiwan | |
正体字表記 | 台灣 | |
台湾における漢字表記 | 台灣、臺灣 | |
注音符号 | ㄊㄞˊ ㄨㄢ | |
中国語ピンイン | Táiwān | |
台湾語 | Tâi-oân | |
片仮名転写 | タイワン | |
主要都市(直轄市) | 台北市、高雄市 | |
面積 | 35,980km² | |
統治国家 | 中華民国 | |
地域範囲
台湾という地域範囲の定義には、狭義の台湾と広義の台湾の2つがある。なお、ウィキペディア百科事典における台湾の地域範囲は、基本的に狭義の地域範囲を「台湾」、広義の地域範囲を「(中華民国政府が実効統治している)台湾地域」としてそれぞれ示している。
- 狭義の台湾:1885年に清朝が新設した台湾省に属していた地域を指しており、具体的には台湾島と澎湖島、蘭嶼島及びにその周辺諸島から範囲が構成されている。この範囲は、1895年から1945年までの間は日本の台湾総督府の統治下にあったが、1945年の第二次世界大戦終結後に中華民国の領土に編入され、1947年に再設置された台湾省政府(「行政院組織精簡條例」によって2002年に廃止)の統治下に置かれた。なお、今日の台湾では、この地域を台湾地区(台灣地區)と呼称することもある。
- 広義の台湾:中華民国の政府が実効統治している全地域を指しており、具体的には狭義の台湾に福建省沿岸の馬祖列島・烏坵島・金門島、及びに東沙諸島と南沙諸島の一部(太平島、中洲島)を加えた範囲から構成されている。この範囲は、国共内戦による中華民国・国民政府の領土喪失が1955年の浙江省・大陳列島喪失で停止することで誕生した。なお、今日の台湾では、福建省沿岸にある諸島を台湾地域と区別して金馬地区(金馬地區、金門島と馬祖列島の頭文字に由来)と呼称することもある。
台湾地域は、国共内戦を経て1949年に成立した中華人民共和国の建国後に生じた地域範囲である。本来、「中国を統治する唯一の合法(正統)な国家」は中華民国のみであったが、中華人民共和国が成立したことにより、中国は「中国を統治する唯一の合法(正統)な国家」としての権利を主張する二つの政府が並立する事態となった。
その為に、世界各国は「正統な中国政府」の選択に迫られることとなったのだが、米ソを中心とした冷戦下における微妙な軍事・政治バランスの中、1960年代後半に入り文化大革命やダマンスキー島事件などをめぐり顕在化した中ソ対立を元にアメリカと中華人民共和国が急接近し、その後1971年に国際連合で中華人民共和国が「中国」の代表権を取得してからは多くの国が中華人民共和国を「正統な中国政府」として承認し、中華民国は西側諸国を含む多くの国から「正統な中国政府」として承認されなくなった。
だが、中華人民共和国を「正統な中国政府」として承認した後も、中華民国との非公式な関係維持を望む多くの国では中華民国の統治地域を中華人民共和国の統治地域とは別個の「地域」と判断して、「台湾」という地域名称で中華民国の政府を呼称し始めた。
その為に、広義の「台湾」の地域範囲は主に中華人民共和国を「正統な中国政府」として扱っている国々で使用されており、日本も同様である。ただし、それらの国々では、政府の「台湾という地域」としての扱いと、中華民国政府が事実上独立している現実との錯綜から、「台湾」を国名とした独立国家であると誤解することがしばしば生じている。
なお、1990年代以降の台湾では広義の台湾を「台湾」として捉える人が多くなり、現在では李登輝元総統(任期:1988年~2000年)を始めとする泛緑連盟の構成員・支持者達が、台湾正名運動を興している。(詳細は中華民国の国名を参照のこと)
歴史
詳細は台湾の歴史を参照
台湾地域の歴史は、史前時代、オランダ植民統治時代、鄭氏政権時代、清朝統治時代、日本統治時代、南京国民政府統治時代、台湾国民政府統治時代、そして現在の台湾総統選挙時代に区分される。
台湾地域の名称の変遷
台湾島は、東シナ海上にある島として古くから中国人にその存在を認識されていた。『漢書地理志』の中に「会稽海外有東鯷人,分為二十余国,以歳時来献見...」との記載があり、一部の学者は東鯷とは台湾を指す名称であると主張している。しかし漢代の中心地は中原と称される、長安及び洛陽を中心とする地域であり、漢朝の実質的な勢力は長江下流域に限られていたと考えられる[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。従って福建省や広東省の沿岸地帯に至ることは非常に稀であり、その東岸にある島嶼を正確に記録したとは考えにくく、東鯷とは海上の島嶼群を漠然と示した名称であると考えられ、台湾の呼称と即断することは困難である。東鯷の中に台湾も包括されていたと考えるべきであろう。
時代は下り三国時代の『臨海水土志』の中に「夷州在浙江臨海郡的東南,離郡二千里,土地無霜雪,草木不枯,四面皆山,衆山夷所居。山頂有越王射的正白,乃是石也。...部落間互不相属,各号為王,分割土地...」という記載があり、この場合の夷州は台湾を指すものと考えられる。しかし孫権伝説の中に、「夷州亶州在海中,長老伝言,秦始皇遣方士徐福将男童女数千人入海,求蓬萊及仙薬...」という記載もあり、地名としての夷州が台湾を指す言葉として確定してはいなかったとも思われる。しかし、『臨海水土志』には別に、
夷洲在臨海東南、去郡二千里。土地無霜雪、草木不死。四面是山谿。人皆髡髮穿耳、女人不穿耳。土地饒沃、既生五穀。又多魚肉。有犬、尾短如麕尾状。此夷舅姑子婦臥息共一大牀、略不相避。地有銅鐵、唯用鹿格爲矛以戰闘、摩礪青石以作(弓)矢鏃。取生魚肉雜貯大瓦器中、以鹽鹵之、歴月所日、乃啖食之、以爲上肴
という記述もあり、このような土地はあらゆる意味で台湾島の特徴に合致し、またそれ以外でこのような地域を中国南部の沿岸の当初に見出すことは困難であり、台湾が少なくともこの時代には中国文明の認識する範囲に含まれていたことは明らかであると言える。
隋時代の603年に書かれた文献には、台湾への探検の記録が記載されている。だが、当時の中国の文献において、台湾は琉球、留仇、流虬、琉求、瑠球と称されていた。その後隋末から宋までの600年間、中国の文献の中で台湾の記事が出現しない空白期間を迎える。元代になると再び記録に台湾が出現するようになる。明代の記録である『東西洋考』、『閩書』、『世法録』では台湾を東蕃,と呼んでいる。周嬰在が表した『東蕃記』では台員、何喬遠が表した[『閩書島夷誌』では大員、張燮の『東西洋考』では大円、何喬遠の『鏡山全集』では台湾、沈鉄的奏折の中では大湾のように様々な呼称が与えられている。また福建沿岸の民衆は台湾南部を毗舍耶、中原の漢族は台湾北部を小琉球と称している。
明の太祖の時代になると琉球という呼称は沖縄・台湾双方を指す言葉として使われ続けた為両者の区別に混乱が生じ、沖縄を大琉球、台湾を小琉球と呼ばれるようになるが、その後名称に混乱が生じ、小東島、小琉球、雞籠、北港、東番のような名称が与えられていた。明末に鄭成功が台湾に建てた鄭氏政権時代になると、鄭氏政権は台湾を「東都」、「東寧」などと呼ぶようになった。
このような名称の変遷を経て、台湾が台湾と呼称されるようになったのは清朝が台湾を統治し始めてからのことである。ただし、台湾の語源は不明確で、原住民の言語の「Tayouan(タイユアン)」(来訪者の意)という言葉の音訳とも、また、「海に近い土地」という意味の「Tai-Vaong」や「牛皮の土地」という意味の「Tai-oan」などの言葉に由来するとも言われる。大員(現、台南)がタイオワンと呼ばれており、そこにオランダ人が最初に入植したためとも見られている。いずれにしても原住民の言葉が起源と見られ、漢語に由来していない点は注目に値する。
台湾の別称の由来
台湾島には、フォルモサ(Formosa)という別称が存在し、欧米諸国を中心に今日も使用される場合がある。これは、「美しい」という意味のポルトガル語が原義であり、16世紀半ばに初めて台湾沖を通航したポルトガル船のオランダ人航海士が、その美しさに感動して「Ilha Formosa(美しい島)」と呼んだことに由来するといわれている。なお、台湾を始めとして漢字が使用される地域では、フォルモサの中国語訳に当たる美麗(之)島を台湾の別称として用いる事もある。
政治
台湾における政治の詳細は中華民国の政治を参照
今日の台湾地域における重要な政治的問題としては、台湾問題が挙げられる。
台湾問題とは、台湾地域の最終的な政治的地位およびに主権帰属をめぐる中華民国と中華人民共和国との問題である。1945年の第二次世界大戦終結後、中華民国・南京国民政府は、連合国軍の委託を受けて駐台湾日本軍の武装解除を行う為に台湾へ軍を進駐させ、1943年のカイロ会談における取り決めに従い、同年10月に台湾を正式な中華民国の領土に編入した。しかし、その後に国共内戦によって中華人民共和国が成立し、かつ中華民国政府が一旦崩壊した上で台湾国民政府として再始動してからは、両国間で「中国を代表する正統な国家」としての権利を巡る対立が生じるようになり(中華民国の歴史参照)、それと同時に台湾地域の政治的地位と主権帰属も対立の一要因となっていった。
今日では、国際政治上の駆け引きの結果から「中国を代表する正統な国家」として中華人民共和国を承認する国が大勢を占めている(しかし、中華人民共和国を「承認」しながら、中華民国と事実上の「国交」を持つ国が殆どである)中、中華民国は今尚「中国を代表する正統な国家」としての立場を放棄しておらず、両国の「中国再統一」の主導権を巡る駆け引きも相まって、台湾問題の具体的な解決の道筋はたたずにいる。更には、近年では、台湾と中国大陸を統治する事を前提とした現在の中華民国の国家体制から脱却し、台湾地域のみの統治を前提とした国家を創出する台湾独立運動(台独運動、または台独)も活発化しており、そのことが問題をより複雑化している。もっとも、台湾地域においては、この問題に関する様々な意見が存在しているものの、少なくとも台湾地域の主権帰属が中華人民共和国に属するものではないという点では世論の大勢が一致している。その為、中華民国の立法府たる立法院の議員は、主に「台湾の主権帰属は中華民国に属する」とする泛藍連盟派と、「台湾の主権帰属は中国の国家・政府には属さない」とする泛緑連盟派(台独派)のいずれかに大別される。
ただし、世論調査では、早急な統一も台独も望んでおらず、実質的に、共産主義政党による一党独裁国家であり、言論の自由すら許されていない中華人民共和国と分離している現在の状態を維持することを望む声が多い。その為、中華民国の世論は基本的には現状での安定志向にあると言え、各党も世論を配慮しながら政治活動を行なっている。
行政区分
詳細は台湾の行政区分を参照
かつての中華民国による行政区分は、台湾地域を2省(台湾省、福建省)、2直轄市(台北市、高雄市)に区分し、更に省内を5省轄市(基隆市、新竹市、台中市、嘉義市、台南市)、18縣に区分していた。だが、1996年に福建省が、1998年に台湾省がそれぞれ行政機能を「凍結」(事実上の廃止)させられた為、今日では省轄市と縣が直轄市に準ずる地位に格上げされて地方行政を担っている。
地理
詳細は台湾の地理を参照
台湾地域は、台湾島とその周辺諸島(澎湖諸島・蘭嶼島など)、及びに金馬地区と東沙諸島・南沙諸島から構成されており、面積は約3万6,000km²と九州程度(日本の約10分の1)の大きさである。
台湾地域北東部は日本の琉球諸島の西方海上に位置しており、最も近い与那国島との距離は110km以下である。また、台湾地域西端の金馬地区は台湾海峡を隔てて中国大陸と接しており、最南端の岬である鵞鑾鼻(がらんび、オーロァンピ)は、バシー海峡を隔ててフィリピンと接している。
台湾地域最大の島である台湾島は、南北の最長距離が約394km、東西の最長距離が約144kmでサツマイモのような形をしている。島の西部は平野、中央と東部は山地に大別されるが、島をほぼ南北に縦走する5つの山脈(中央山脈、玉山山脈、雪山山脈、阿里山山脈、海岸山脈)が島の総面積の半分近くを占めており、耕作可能地は島の約30%にすぎない。台湾最高峰の山は玉山山脈の玉山(旧日本名:新高山、海抜3,952m)であり、富士山よりも高く、同様に標高3,000mを超える高山が多数連なっている。また、このほかの重要な地勢としては丘陵、台地、高台、盆地などが挙げられる。
なお、台湾はフィリピン海プレートとユーラシアプレートの交差部に位置するため、日本と同様に地震活動が活発な地域である。また日本と同じ火山帯に属し、温泉も豊富にある。
主要都市
台湾地域最大の都市は北部盆地に位置する台北市であり、1949年以降は中華民国の首都機能を果たしている。なお、台湾省の省都も当初は台北市であったが、1957年に台北市から台湾島中部にある南投県南投市中興新村に移された。後に台湾省が事実上廃止され現在では省都はない。
地方の主要都市としては、台北市の東北部に港湾都市である基隆市が、台湾島南西部に工業・港湾都市である高雄市(台湾第二の都市)がそれぞれあり、両都市の間に新竹市、台中市(台湾第三の都市)、嘉義市、台南市(台湾の古都にして第四の都市)などの主要都市が集中している。これらの主要都市は全て台湾島西部に位置しており、台湾中・東部の主要都市としては花蓮市と台東市がある。
気候
台湾島はほぼ中央部(嘉義市付近)を北回帰線が通っており、北部が亜熱帯、南部が熱帯に属している。そのため、北部は夏季を除けば比較的気温が低いのに対し、南部は冬季を除けば気温が30度(摂氏)を超えることが多くなっている。台湾の夏はおおよそ5月から9月までで、通常は蒸し暑く、日中の気温は27度から35度まで上り、7月の平均気温は28度である。冬は12月から2月までと期間が短く、気温は総じて温暖であり、1月の平均気温は14度である。ただし、山岳部の高標高地帯では積雪が観測されることもある。
平均降雨量は年間およそ2,515mmであるが、降雨量は季節、位置、標高によって大きく異なっている。台湾は台風の襲来が多く、毎年平均3~4個の台風に襲われている。台湾は台風で給水の大きな部分を賄っているが、同時に損壊、洪水、土砂流などの災害も発生している。また、台風以外にも、夏季には台湾語「サイパッホー(sāi-bak-hō)」(普通は西北雨と表記、正しいのは夕暴雨)と呼ばれる猛烈な夕立が多い。
交通
台湾地域は鉄道・道路・航路ともに発達しており、日帰りで台湾島を一周することも可能である。
鉄道
台湾の鉄道は、中華民国国営の台灣鐵路管理局(略称は台鐵)の路線が台湾島を一周しており、自强號(日本の特急に相当)、莒光號(日本では、急行)、復興号(日本では快速列車)そして平快、普通(日本では普通車)が各都市を繋いでいる。以上は機関車(電気・ディーゼル)に客車を連結した編成であるが、別に通勤電車と呼ばれる電車が大都市近郊を走っている。なお、台湾では中国本土と同じく列車のことを「汽車」ではなく「火車」と呼ぶ。
台鐵の他にも、台北市には捷運(MRT)と呼ばれる鉄道交通ネットワークが形成されつつあり、現在では高雄市でも建設中である。
なお、台北と高雄を結ぶ路線(縦貫線)では、日本の新幹線システムを導入した高速鉄道が新たに建設中であり、2006年10月の完成後には台北から高雄までの所要時間は、現在の自強号の最速列車が3時間59分かかるところを、87分に短縮される見通しである(この高速鉄道は、日本が海外へ輸出する初の新幹線システムである)。
また、新幹線の導入予定が無い東部幹線の速達化をはかるため、2004年に中華民国台湾鉄路管理局は丸紅を通して日立製作所に885系をベースにした車両を6編成48両発注した。名称は公募の結果、太魯閣号(タロコこう、zh:太魯閣號)となった。
道路
高速道路には基隆・台北と高雄を結ぶ中山高速公路と、フォルモサ高速公路の二本があり、更には主要国道・省道が中華民国全土に張り巡らされている。そのことから、数多くのバス会社が高速バスを走らせており、大都市間を結んでいる。直接都市間を結ぶこともあり、渋滞が厳しい台北周辺を除けば、所要時間は特急列車と大差ない。中華民国では航空路と高速バスの整備により、特に西部幹線(基隆 - 高雄・屏東)では鉄道輸送は苦戦している。
かつては中華民国国営の「台湾汽車客運」(中国語の汽車は自動車の意味)が高速バス事業を担っていたが、2001年の民営化に伴い「国光汽車客運」に再編された。また、それと相まって、近年では高速バス事業の自由化が進み、複数の会社による競合の結果、二列シート・軽食・飲物のサービス付き・カーテン・トイレ完備などの豪華なバスが大都市間で24時間運行されるようになっている。この為に、民営バス会社は台湾の人々にとって大切な足になっているが、連休などでは慢性的な渋滞にしばしば巻き込まれている。
他にも、都市部では市内バスが発達しているが、車両が古かったり、バス停が危険だったりするので利用者は必ずしも多くはない。また、タクシーや自家用車の利用率が高いが、運転マナーが悪いので事故が多い。ちなみに日本人がレンタカーを借りることは可能であるが、日本政府発行の国際免許証は外交関係で中華民国では無効であり、中華民国での免許再取得が必要である。実際には国際免許証の提示により借りることはできなくはないが、非合法行為であるので事故の際の保険等の問題がある。
航空
航空機は台湾島と金門島などの各離島を結んでいる他、主要都市を結んだ高頻度運行サービスを提供しており、料金も割引チケットを使えば鉄道やバスと遜色ないので人気は高い。
中華民国の航空会社としては、日本では成田空港や中部国際空港、福岡空港などに乗り入れているチャイナエアライン(中華航空、China Airlines)が有名であるが、最近では成田空港や関西国際空港、新千歳空港などに乗り入れているエバー航空(長栄航空、Eva Airways)も日本に浸透してきている。これらの航空会社以外にも、中華民国には遠東航空、復興航空、立栄航空や華信航空などがある。なお、これらの航空会社のいくつかはチャイナエアラインやエバー航空の子会社である。
国際空港としては、台湾桃園国際空港、高雄国際空港、台中清泉崗国際空港があり、最近では、花蓮空港を国際空港に昇格させる計画もある。
船舶
台湾島と澎湖諸島、金門島などの離島との間は船便によっても結ばれており、航空路線が発達した今日でも利便性がある。台湾島と澎湖諸島を結ぶ船便は高雄港(台華輪)・台南安平港(今日之星)・嘉義布袋港(満天星客輪)から毎日出ている。
尚、台湾島と緑島・蘭嶼を結ぶ船便は台東富岡港から、台湾島と金門島を結ぶ船便(金門快輪というフェリー)は高雄港から、台湾島と馬祖列島を結ぶ船便(台馬輪及び合富輪)は基隆から、それぞれ出航している。
経済
日本統治時代には、日本の食糧補給基地としての役割を与えられていた台湾地域では、その食料を保管・加工する軽工業が芽生えていた。第二次世界大戦後の中央政府の台湾移転後、中華民国政府は台湾を「大陸反攻」(武力による大陸部の奪還)の基地とした。これにともない軍事最優先の政策がとられ経済政策は後回しとされたが、そのような中で政府は、軽工業を発展させ、次第に重工業化する政策をとる。経済特区や政府主導による経済プロジェクトが全国に展開され、特に日本とのコネクションを利用した日本の下請け的な工業が発達する。
蒋経国の代になり、十大建設をはじめとする本格的な各種インフラ整備が始まり、また、ベトナム戦争の際、アメリカは戦略物資を中華民国から調達し、そのため中華民国経済は飛躍的に発展し、中華民国経済はこの頃より日本からアメリカ指向にシフトする。中華民国はそこで得たドルを電子工業に投資し、やがてIT景気に乗って、マザーボードのシェア世界一、外貨準備高世界上位というほどの発展を遂げ、その結果として中華民国はアジアNIESの一員に選ばれるほどの経済力を持つまでになった。しかし中華人民共和国やインドの台頭によって、空洞化が進行し、IT産業も失速する中、中華民国は次の投資先を求めて模索している段階である(2003年)。政府はバイオを重要視しているが、バイオがITほどの経済規模を見込めるのかどうか、疑う声も強い。
日本経済の下部組織として発達してきた中華民国経済は、日本経済と互換性のある面が強い。即ち技術力、工業生産力を利用し、世界市場で優位に立てる製品を開発提供することによって、外貨を獲得する加工貿易が基本である。しかし日本と異なる面も多い。 それは漢民族の伝統やアメリカの影響によるものと考えられるが、代表的なものは起業指向であろう。 中華民国では有能な人ほど起業を志し、それが経済に活力と柔軟性を与えている。 個人主義的なのであるが、反面、社会道徳の弱さという弱点も持つ。また、華僑ネットワークに支えられた、全世界ネットを駆使した世界戦略も中華民国独特の強みである。 アメリカや日本で注文を取り、中華人民共和国やベトナムに製造させる仲介的戦略も、この華僑ネットを利用している。
- 関連綱目:十大建設 (台湾)
日本経済との関係
中華民国は日本と歴史的に関係が深く、地理的にも日本に近い上に親日派も多いことから、貿易関係などの経済的交流は強い。その為に、台北の台北国際金融センタービルは日本の熊谷組を中心としたJV(共同事業体)が施行している他、日本の新幹線の信号・車両技術を導入した台湾高速鉄道(台湾新幹線、2006年10月に開業予定)も台北~高雄間に建設中である。
住民
台湾地域の住民は、漢民族と原住民に大別される。原住民は平地に住んで漢民族と同化が進んだ「平埔族」と高地や離れ島に住む「高山族」9民族(アミ族、タイヤル族、パイワン族、プヌン族、ピュマ族、ルカイ族、ツオウ族、サイセット族、ヤミ族。なお、「高砂族」は日本統治時代の呼び名。)に分かれる。台湾の漢民族は、戦前(主に明末、清初)から台湾に居住している本省人と、国共内戦で敗れた蒋介石率いる国民党軍と共に台湾に移住した外省人に分かれる。本省人が台湾で85%を占めており、本省人は福建(閩南)系と客家系に分かれる。外省人13%、先住民2%(タイヤル、サイセット、ツオー、ブヌン、アミなど主要11民族)。
言語
公用語は標準中国語(普通話)であり、世間一般で広く使われている。他にも閩南語や場所によっては客家語、原住民の諸言語が使用される。ビジネスや文化的な影響により英語、日本語の普及率も低くなく、日本統治時代の日本語教育の結果日本語を話す高齢者も多い。標準中国語(国語)の発音は北京語をベースにしたもので、基本的には中国本土で使われる標準中国語(普通話)と同じであるが、発音や語彙・言い回しなど細かい部分で相違があるほか、文字は簡体字ではなく伝統的な正体字が使われる。
かつての中華民国は、マスコミなどの公共の場では標準中国語のみが使用されていたが、1990年代に入ると政治の民主化を反映して、閩南語がマスコミなどで使用される機会が増してきた。今日では鉄道や空港の案内は標準中国語、閩南語、客家語、英語の4つで行われ、テレビ番組でもこれらの諸言語が花盛りである。なお、空港や大きなデパートでは日本語の案内もなされている。
注:台湾に固有な言語という意味から、台湾語は客家語、原住民諸語をも意味するのではないか、という指摘があり、最近では福建系住民の言語を台湾語と呼ばず、代わりにホーロー語(福佬語、河洛語)と呼称するケースが増えてきている。福佬とは福建系住民の出身地である福建南部をさす言葉、河洛とは黄河と洛水、即ち中原地方のことで、福建系住民はそこから南下したとの伝承を持つ。
なお閩は虫・蛇の意味で侮蔑的であることから、閩南語の表記は廃れつつある。ポリティカル・コレクトネス、多文化主義を参照。
音声言語の他、日本手話と比較的近い台湾手話を母語とする人たちがいる。
文字
基本は、表意文字である漢字の繁体字を使用する。中華人民共和国で使用されている簡体字とは異なる。中華民国では、正体字を繁体字、簡体字を略体字と賤体字を呼称することも稀にある。この他に、ローマ字系や注音符号など、何種類かの表音文字が使用される。古い世代には日本統治時代に教育された日本語のひらがな、カタカナ等を使用し続けてきた人々もいる。街の看板には日本語風の表記が散見され、「の」文字がよく見かけられる。最近では若い世代にも一種のおしゃれとして仮名文字が取り入れられる場合がある。
電子機器の文字入力
パソコン等の文字入力方法は、マイナーなものもふくめれば十数種類の入力方法が存在しているが、習得が容易なことから日本のかな漢字変換に似た注音輸入法がもっとも一般的である。注音輸入法はパソコンだけでなく携帯電話での文字入力にも利用されている。また、習得が困難だが入力速度の速い倉頡輸入法、嘸蝦米などもプロ向けの入力方法として人気がある。
言語教育
最近になって、北京語以外の言語、即ち閩南語、客家語、原住民語の教育が義務付けられたが、中国国民党による戒厳令時代はすべて標準中国語(北京語)のみで教育する事とされていた。このため、高齢者は閩南語(または客家語)のみで北京語が話せない者がおり、その下の世代では両方を解するが、現在の中年の世代以下では北京語のみで閩南語を解しない者が少なくない(特に北部の都市部)。従って、同じ「台湾人」であるはずなのに高齢者と若者との間でコミュニケーションが成り立たないということも珍しくない。また、日本統治時代においては日本語での教育が義務付けられたため日本語を話すことのできる高齢者も多い。
この他、英語の教育熱が高く、幼稚園時代から英語のみ使用する施設などに子供を預ける者も多い。アメリカへの留学者も多い。また、若者の間では日本ブームに乗り日本語の学習者も増えている。
文化
中華民国国民の大部分が中国大陸から移住して来た漢民族である為、台湾の文化基盤は漢文化である。ただし、河洛系住民は河洛文化に、客家系は客家文化に、外省人は出身省それぞれの文化に属し、それぞれが別々に存在している為に混交は少ない。また、原住民はマレー・インドネシア文化に属している。
台湾におけるいずれの文化においても顕著な現象として、伝統文化が色濃く残っている点が挙げられる。社会主義化に伴う文化表現の規制、弾圧により中華人民共和国では廃れていった漢民族の伝統民俗が今日まで数多く残存している他、ヤミ(タオ)族を始めとする各原住民でも民族独自の文化が保持・継承され続けており、離れ島としての台湾の文化的位置づけを現しているものといえる。
漢民族の間では、共通して家族が社会組織の重要な社会単位となっており、先祖崇拝などの伝統的な家族行事が今なお重要な役割を担っている。また、伝統的な二十四節気を基とした旧正月や、清明節、中秋節などの季節行事も毎年盛大におこなわれている。この他にも、漢民族には移民出身地ごとの伝統文化が存在しており、例えば福建系の伝統文化としては布袋劇(人形劇)や歌仔戯(台湾オペラ、グァーヒ)が挙げられる。また、外省系が台湾に持ち込んだ文化としては、中華民国政府のイデオロギー的影響が挙げられる。
外来文化としては日本とアメリカの影響が大きい。日本から受けた文化的影響は、古くは温泉、演歌、日本酒、おでんから新しくはカラオケ、Jポップ、漫画、アニメ、テレビゲーム、ファッションまであり、これらの日本文化が好きな若年台湾人は哈日族と呼ばれている。他にも古くから日本からのテレビ番組を多数放送しているため、日本人の俳優やコメディアンが広く知られている。また、欧米の影響としては独自に英語のファーストネームを用いる慣習が挙げられ、ファーストネームと姓にて個人を表す人は俳優や歌手などを中心に珍しくはなく、一般の会社員でも欧米や日本との取引に従事する者の間でも行われる。このような具体例としては、テレサ・テン(Teresa + 鄧、中国語の芸名は鄧麗君)が挙げられる。
また、中華民国の政治体制は、中国共産党による一党独裁であり報道や表現の自由が極端に制限されている中華人民共和国と違い、表現の自由が保障され、自由にメディアが報道出来、インターネットの規制もない高度な民主主義である。更に欧米化の背景か、同性愛については市民権をも獲得しつつある。
宗教
台湾地域における宗教は、特に仏教・道教・儒教の三大宗教が漢民族の間で盛んであり、人々は今日でも宗教と深くむすびついている。仏教は仏光山と慈済と法鼓山の3宗派が優勢であり、道教系は疫病の神・王爺や海の女神・媽祖に対する信仰が多い。また、儒教の創始者である孔子も「学問の神」として崇められており、台湾各地に孔子を祭る孔子廟が設置されている。
ただし、仏教・道教・儒教の区分は大変あいまいで、相互に強く影響を受け合っていることから、各地にある廟では各宗教の神々が合祀されていることが珍しくない。その為に、漢民族の宗教生活は各宗教が混合されており、人々はそれぞれの状況に応じて参拝する神々を変えている。なお、台湾にも少数ながらキリスト教やイスラーム教の信者も存在している他、原住民の間では今なお伝統的なアニミズム信仰が行なわれている。
宗教も文化と同様に、中華人民共和国では廃れてしまった宗教儀式が今なお数多く残存している。 特に道教系の祭礼は大掛かりなものが多く、旧暦の3月23日に行なわれる媽祖の誕生祭(媽祖誕辰)や、1週間に渡って街を練り歩き、数千万円相当の木造船を焼却する5月10日の王船祭(焼王船、王爺を鎮める祭り)、旧暦7月15日の中元節や旧暦10月22日の青山王の誕生祭(青山王誕辰)などが毎年華やかに催される。また、占いや祈祷を行う「尪姨」(アンイー、巫女)や「童乩」(タンキー、シャーマンの一種)も健在であり、媽祖の誕生祭を始めとする各種宗教儀礼に参加している。
葬儀や婚礼も大掛かりであり、特に葬儀のパレードは楽隊まで繰出して華やかである。
関連項目
外部リンク
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