「利用者‐会話:石川民雄」の版間の差分
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:会話がかみ合っていません。十字屋版全集に関するあなたの編集については異論はないと何度も申し上げています。私がうかがいたいのは、「{{Infobox 人物」ではじまる部分を除去されたこと、「== 外部リンク == *内城弘隆[http://www.geocities.jp/hatakeyama206/dokko/katouji.html かとうじ物語] - どっこ舎」を除去されたこと、本文中の「藤原は~」といった箇所をすべて「嘉藤治は~」といった表記に変更された理由です。これらについて答える意思がないのであれば、この個所での回答もメールもこれ以上不要です。--[[利用者:Unamu|Unamu]]([[利用者‐会話:Unamu|会話]]) 2018年8月15日 (水) 06:10 (UTC) |
:会話がかみ合っていません。十字屋版全集に関するあなたの編集については異論はないと何度も申し上げています。私がうかがいたいのは、「{{Infobox 人物」ではじまる部分を除去されたこと、「== 外部リンク == *内城弘隆[http://www.geocities.jp/hatakeyama206/dokko/katouji.html かとうじ物語] - どっこ舎」を除去されたこと、本文中の「藤原は~」といった箇所をすべて「嘉藤治は~」といった表記に変更された理由です。これらについて答える意思がないのであれば、この個所での回答もメールもこれ以上不要です。--[[利用者:Unamu|Unamu]]([[利用者‐会話:Unamu|会話]]) 2018年8月15日 (水) 06:10 (UTC) |
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大変不慣れで申し訳ありません。貴殿の指摘の3点は画面が左右対称に移るのは確認できますのでわかります。ただ私は①「沢」→「澤」への文字と②「12」→「2」に訂正しただけの積もりでした。 Wikiの操作の不慣れで何か間違いをしたかも知れません。それではその点はお詫びをします。大変な画面の変動を来したのであれば申し訳ありませんでした。 2018年8月15日 (水) Dirou ~ |
2018年8月15日 (水) 06:43時点における版
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こんにちは、石川民雄さん、はじめまして! ウィキペディアの参加者の一人、Tomo_suzukiと申します。ウィキペディアへようこそ!
- ウィキペディアで活動する際にはガイドブックを是非ご一読ください。きっとご参考になるものと思います。
- よろしければ自己紹介してみてください。
- 発言される際には、末尾に~~~~(チルダ4つ)をつける事をお忘れ無く。ユーザー名と投稿日時が自動的に表示されます。
- お隣の利用者ページは、ご自身の自己紹介の他、作業用のスペースなどとして利用することができます。
- 執筆の際には中立的な観点および著作権にご留意ください。
- 何か疑問点がありましたらWikipedia:井戸端で質問することができます。
- もちろん私の会話ページで質問してくださることもできます。 :)
あなたが実り多き活動をされることを楽しみにしております。
Welcome to Japanese Wikipedia. Thank you for your contributions! If you don't prefer to use Japanese, and when looking for further information, feel free to visit Wikipedia:Chatsubo for Non-Japanese Speakers. Enjoy!
なお、このメッセージは主に利用者‐会話ページに何も記入されていない方に投稿しております。石川民雄さんが、すでに活動を開始されてから期間が経っていらっしゃるのでしたら、ご存知のことばかりをご案内したかもしれません。不明をお詫び申し上げます。--Tomo_suzuki 2007年2月17日 (土) 14:43 (UTC)
初めまして、Kk8998982と申します。ところで、石川民雄さんがCalveroさんのページを誤って編集されたようですが、"利用者"ページは基本的には本人のみが編集するページのようです。今回の内容は明らかに"善意"でされているようですが、"議論"等を誤って書いてしまうと、ブロックの対象にされる恐れがありますのでご注意ください。お手数ですが利用者‐会話:Calveroの方に改めてご記入頂けたらと思いますのでよろしくお願いいたします。--Kk8998982 2007年2月17日 (土) 17:55 (UTC)
大西民子 の件
頂いたメッセージを拝読いたしました。「大西民子」の件ですが、私単独で作業を進めるわけにもいかず、他の方のご意見を伺うべきところで、なかなかコメントがつかず進展がなくなってしまった体でありましたが、幸いにも先日意見表明を受けまして、作業が前進いたしました。既に問題箇所の削除自体は終わり、あとは他の管理者から削除作業が正しく行われたことを確認する作業を残すのみです。ご心配をおかけして申し訳ないのですが、いま少しだけお待ちいただけますでしょうか。--Calvero 2007年2月18日 (日) 11:03 (UTC)
失礼します
ノート:川島喜代詩をご覧いただければ幸いです。--アイザール 2008年8月22日 (金) 04:36 (UTC)
ファイル:Page001.jpg Page002.jpgには著作権上の問題があります
著作権の状態が不明です |
こんにちは。ファイル:Page001.jpg Page002.jpgをアップロードして頂き、ありがとうございます。しかし、この画像(ファイル)には著作権の状態またはライセンスが明記されていないため、著作権上の問題があります。出典とライセンスのないファイルは、1週間後に削除されますので御注意ください。
ウィキペディアにアップロードされるすべてのファイルは、画像利用の方針に従っており、かつ詳細な出典とライセンスが明記されている必要があります。ファイルの著作権表示タグを参照し、適切なライセンスを表すタグを貼付してください。どうぞよろしくお願いします。
出典とライセンスを明記する際はファイルページにアクセスし「編集」タブをクリックして記載してください。同ファイルを再アップロードしても記入した内容は反映されません。
重要: あなたがこのファイルの他にもファイルをアップロードされているならば、あなたのアップロード記録を見て、他のファイルにも同様に出典とライセンスが明記されているかどうか今すぐ確認してください。それらのファイルや、今後あなたがアップロードされたファイルに出典やライセンスが記載されていなければ、同様に削除されます。 Jkr2255 2011年10月18日 (火) 13:54 (UTC)
- 上記には出典情報もありません。また、この画像には削除依頼(議論先:Wikipedia:削除依頼/ファイル:Page001.jpg Page002.jpg)が提出されていることをお知らせいたします。--111.233.163.181 2011年10月20日 (木) 06:03 (UTC)
お尋ねとお願い
このブログの執筆者は石川民雄さんご本人でしょうか。もしご本人でしたら、Wikipedia:自著作物の持ち込みをお読みになり、そこに記載されている要領でブログ側に「ウィキペディアに投稿した」旨を記述していただきたく思います。ただし、この措置をとられたとしても、貴殿の独自の見解はWikipedia:独自研究は載せないに抵触し掲載できない可能性が高いことをご承知おきください。--Muyo 2011年10月30日 (日) 02:12 (UTC)
「もしこれが削除されてしまったら、また新たに上記項目をアップすることになる」とのことですが、これはお控えください。ウィキペディアは論考発表の場ではないです。--Calvero 2011年11月3日 (木) 12:48 (UTC)
大西民子について、その2
ごぶさたしております。えっと、本件は上記のCalveroさんからの御質問の件が済んでからで構いません。ただ、一応お早めにお知らせしておきます。大西民子について疑問点があります。ノート:大西民子の一番下をご覧頂ければ幸いです。--アイザール 2011年11月3日 (木) 16:13 (UTC)
- ノート:大西民子ですが、他者の原文をWikipediaに記載してはいけません。著作権侵害のおそれが起こります。Wikipedia:ガイドブック 著作権に注意を読んでください。削除せねばならないか検討しますので、よろしくお願いします。--アイザール 2011年11月5日 (土) 11:04 (UTC)
「春と修羅序」の投稿については取りやめにします。 ご迷惑をおかけしました。 署名の仕方が分からない。 石川民雄。
- ご賢察いただきまして、まことに恐縮です。署名につきましては、編集画面の「署名アイコン」(水色の箱の部分、2段のうち上の段にあります)をクリックすると、「--~~~~」が入力されますので、それで大丈夫です。詳しい情報は Wikipedia:署名 にございます。--Calvero 2011年11月10日 (木) 13:01 (UTC)
大西民子について、その3
こんにちは、ながながと失礼しております。ですが、「大西民子」のページがそのままになっているのは、残念ながらどなたからも有効なご意見が提示されないからです。これはこまりましたね。。。。。。石川さんも、以前におっしゃったことと全く同じことを繰り返しおっしゃるだけでは、どうにも進展を得ることはできません。いかがしましょうか。。。?
それに加えて、Wikipedia:削除依頼/ノート:大西民子のページはご覧いただけましたでしょうか? このWikipedia上に、他者の言葉(この場合は審査員の評言です)をそのまま貼り付けないでください。おそらく、もう一度同じように、石川さんの書き込みを削除せねばならないとおもいます。繰り返しますが、Wikipedia:ガイドブック 著作権に注意をご精読ください。
しかしながら、新しくご提示いただける資料は石川さんもお持ちでないようにお見受けしましたので、それを踏まえて記事の編集を検討いたします。とはいえ、まずはノートページの削除審議から始めたいと思います。--アイザール(会話) 2012年4月20日 (金) 02:32 (UTC)
ひとまず、Wikipedia:削除依頼/ノート:大西民子20120420を提出しました。いろいろとお苛立ちは解りますが、どうか今後、おなじように、《批評の言葉》をWikipedia内に転載することはお控ください。
この度の件は、私がもたもたしているせいでもあります。どうもすみません。気長にお付き合いいただければ幸いです。--アイザール(会話) 2012年4月20日 (金) 02:47 (UTC)
なにか勘違いをなさっておいでではありませんか? 私からのボールは既に貴方に対して投げられております。しかし貴方は沈黙のまま、たまに発現されるとすれば、あのような茶々入れです。厳しい言い方になり申し訳ありませんが、記事編集が進まない理由は、ご意見をお求めしているのに、貴方が何一つ仰らないからです。ご意見を提示される気がないと判断せざるをえません。そうなりますと、大変心苦しいですが、実際に編集を試みるより外ありません。--アイザール(会話) 2013年3月20日 (水) 03:57 (UTC)
他人の発言を改ざんする行為について
こんにちは、石川民雄さん。ノート:大西民子で他の方の発言を無断で編集しておられましたが、そのような編集はウィキペディアでは他人の発言の勝手な除去・改ざんと見なされることがあり、ウィキペディアでの荒らし行為と認識され、重大問題とされています。
こういった行為を繰り返されますと、最悪の場合投稿ブロックの対象とされる可能性がありますので、今後は十分注意して頂き、同様の行為はお控え下さいますようお願いいたします。
ウィキペディアには非常にたくさんのルールがあり、煩わしさを感じるかもしれませんが、全ての編集に関わるユーザーが不必要に紛糾を招くことなく編集行動が出来るように定められたルールですので、ご理解とご協力のほど、よろしくお願いします。
では用件のみですが失礼します。--Vigorous action (Talk/History) 2013年3月20日 (水) 09:28 (UTC)
他の利用者への攻撃はおやめください
こんにちは、Vigorous action (Talk/History)と申します。いくら他者の編集姿勢に不満がありましても、個人攻撃だけは絶対におやめください。ウィキペディアは戦いの場ではありません。くれぐれも穏便にお願いいたします。エスカレートしますと、あなたは即時投稿ブロックの対象になってしまいます。ご注意ください。--Vigorous action (Talk/History) 2013年3月20日 (水) 09:28 (UTC)
大西民子での白紙化
こんにちは。記事からテキストを除去するのはおやめください。こうした編集は荒らし投稿とみなされます。テキストを除去した記事に問題等が有りましたらWikipedia:連絡先/記事の問題をご覧ください。もしテスト投稿がしたければ、テスト専用ページWikipedia:サンドボックスの使用をおすすめします。このほか便利な機能をいろいろ紹介するガイドブックもご参照ください。あなたのウィキペディア・ライフが充実したものでありますように。--Vigorous action (Talk/History) 2013年3月20日 (水) 09:28 (UTC)
スタイルマニュアルのご案内
こんにちは。石川民雄さんの投稿内容はWikipedia:スタイルマニュアルで定められた書式になっておらず、修正を要するものになっています。
- 記事の冒頭にて定義と記事全体の要約とを記述する
- 見出しを付ける際は
- == セクション ==
- === サブセクション ===
- ==== サブサブセクション ====
- という書式で行う
- 新しい段落を始める際は<br />タグを使わず一行空行を入れる
- 英数文字は半角で記述する
- 年月日はyyyy年m月d日形式で記述する
など細かなルールが定められています。Wikipedia:スタイルマニュアルをお読みいただいたり他の記事を参考にするなど、規定に沿った書式で執筆していただくようお願いいたします。伝記記事についてはWikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)がございますので、そちらもお読みください。--Unamu(会話) 2017年3月27日 (月) 15:17 (UTC)
著作権保護期間中の短歌作品掲載について
まず、Wikipediaの編集に関する伝言はWikiメールではなく、私の会話ページ(利用者‐会話:Unamu)をご利用願います。さて、田江岑子で私が編集した際に要約欄に必要十分な記載をおこなっておりませんでしたことをお詫びいたします。と申しますのは、Wikipediaにおいて、著作権保護期間中の短歌や俳句を「代表歌(句)」として掲載することについては、コミュニティでの議論の結果、「引用として適切なスタイルを伴わない場合は、著作権侵害の虞があるものとして除去する」という方針になっているためです。詳しくはWikipedia:削除依頼/俳句の掲示(および、そのページからリンクされている「関連の議論」)をご覧いただきたいのですが、大まかに申し上げますと、適切な出典が記載され、かつ引用されている短歌や俳句が記事の本文に対して「主従」の「従」となっていることが必要です。前記の削除依頼をご覧いただくとおわかりのとおり、独立した節の中に「代表歌(句)」として作品を列挙しただけのものは、この要件を満たさないものとして削除されております。田江岑子の記事の中にあなたが記載された「代表歌」も節の中に歌を列挙しただけのものであるため、申し訳ございませんが該当の版については版指定の削除依頼を提出させていただきます。今後は、著作権保護期間中でその後の編集によって著作権侵害の虞のない形に修正されている記事(たとえば石田波郷や中村草田男)をご覧いただき、著作権侵害の虞のない形で記載をお願いします。ただ、その場合も「代表歌」を18首も記載することはおやめ下さい。何をもって「代表」とするかには様々な立場があろうかとは存じますが、先ほど挙げた石田波郷や中村草田男ではいずれも10以下となっておりますので合わせてご留意下さい。--Unamu(会話) 2017年3月28日 (火) 13:05 (UTC)
プレビュー機能のお知らせ
こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。
石川民雄さんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを表示」のボタンを押すと、編集結果を先に見ることができます。詳しくはHelp:プレビューを表示をお読みください。
これを使うことで
などをあらかじめチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については、同じ記事への連続投稿を減らすの項目に説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。なお、もしすでにご存じのことでしたら、悪しからずお願いいたします。--Unamu(会話) 2017年3月28日 (火) 13:14 (UTC)
田江岑子に関する件
「あっちの方はメールのコメントを書き込む欄が見あたりません」とは何を指すのでしょうか。会話ページには書き込みに対して普通に返信を書くことができますので、会話ページを使用しない理由がよくわかりません。さて、短歌の引用に関しては紹介した過去の削除依頼をご覧いただき、現在提出中のWikipedia:削除依頼/田江岑子での審議もお待ち下さい。『北上山地 夢見さす詩歌』の著者「あとがき」の紹介は、Wikipediaが百科事典であることも踏まえ、論述の中で主従関係で引用する形として下さい。エッセイや個人的評論ではないため、その引用だけを独立して書くことは推奨されません。そのような形にしていただければ問題は回避できると考えます。--Unamu(会話) 2017年3月30日 (木) 14:01 (UTC)
Unamu 様
「あっちの方はメールのコメントを書き込む欄が見あたりません」とはここのメール欄のことでした。
さてご教示頂いたこと下記のとおり「歌風」欄に書き加えましたのでよろしくお願いいたします。
更にその特異な詩情を持つ田江の短歌とその歌集の経緯についてもう少し川村杳平の論述を参照しておこう。(p.498)
「『鑿を研ぐ泉』は『真赤な夕陽を砕く』に次ぐ、田江の第3 歌集であり、第1歌集の3年後、昭和53年1月に短歌新聞社から出版された。前の2歌集は私家版(緑の笛豆本の会)限定刊行であるから、その内容、構成から見ても歌人田江峰子を歌壇や一般読者に強く印象づけたのは、この第3歌集であったろう。
第4 歌集『われやみちのく』には50歳代前半の270余首が収められている。第3歌集までと異なり3年半という短い制作期間の作物だけに、田江の短歌作者としての特徴が凝縮され、濃厚な血液が一気に噴き出したような衝撃がある。昭和56(1981)年頃のもっとも脂のの乗り切った時期と見てよい。東京の雁書館、あの冨士田元彦のもとから出版された事情は詳らかではないが、先の『鑿を研ぐ泉』(昭和53年、短歌新聞社刊)によって歌壇に登場した田江は、冨士田の慫慂があって歌集をまとめる気になったのかもしれない」。
なお下記に田江の代表歌数首と歌集の「あとがき」を掲げておく。
父は逝き幼年われは泣かざりし美しと思う花いくつ覚えしか (『美しと思う花いくつ覚えしか』)
美しきかなしみあらばさみどりの葉かげに垂るる滂沱たる藤 〃
母の織る筬の音はもきこえきて糸繰車まわるかげろう (『真赤な夕陽を砕く』)
わがめぐりに鳴く鴉たち一斉に翔び立ち真赤な夕陽を砕く 〃
或る日わが産声高く生るるを杳き泉に鑿を研ぐ父 (『鑿を研ぐ泉』)
風ねむる午後と思えど待つこころ桔梗の花のいろほど冴えて 〃
言葉とうことば殺していちまいの白磁の皿に置く銀ナイフ (『われやみちのく』)
岩床をすべらかにゆく水に逅うあえばきわまるわが秋の川 〃
罪問わば罪を餌食に生きゆかんおみなの血をばやしなう夕日 (『紫陽花や杏あやめの雨の日日』)
ああ われの生きてあること陸奥に雪降りくれば雪をのむ水 〃
・あるものは象徴であり、或るものは観念のドラマかも知れない。しかし、まこと私の全霊である。
(第1歌集『美しと思う花いくつ覚えしか』の著者「あとがき」より)。
・今更ながら、詩歌でしかないものに改めて付け加える言葉は浮かんで参りません。
(第13歌集『北上山地 夢見さす詩歌』の著者「あとがき」より)。
Unamu 様
追加で川村杳平の諸説を補足しておきますのでよろしくご理解をお願いいたします。
なお上記の『われやみちのく』についての川村杳平の論述はなお2頁にわたって続き ①まず田江自身の「後記」を6行にわたって引用し、その文意の真意について物足りなさを述べている。②もう一点は巻末に付された長文の増谷龍三の「解説 田江岑子作品論」をなぜ併録したのかと疑点を呈している。
以上については田江自身の『螢観る人 小田観螢』の掲載記事と現代歌人文庫の『冨士田元彦短歌論集』によって若干の説明の補足をしておきたい。(川村杳平はご存じないのだ)。
増谷氏はこの第4歌集のみならず続く第5歌集の『紫陽花や杏あやめの雨の日日』にも「解説〈水〉と〈死〉と〈愛〉と」のこれまた長文の「田江岑子論」を書いている。田江氏と増谷氏は田江氏の別の著書『螢観る人 小田観螢』によると北海道で1960年以前からの歌友であったようだ。(田江氏のこういう経歴が全く不明なのだ)。同書に北海道歌壇で著名な『新墾』の「小田観螢との7人歌話会の写真」が載っていて若き田江氏と増谷氏が写っている。(経歴に1961年 新墾社に入社とある)。 この増谷龍三について前記の『冨士田元彦短歌論集』のなかの「七十年代の運動体ー再びシンポジウムの季節ー」(p.172)の「現代短歌・北の会」の発足のなかで再三にわたり言及されている。1975年8月23、24日冨士田氏はこの結成総会と記念シンポジウムに出席し主導的な役割を果たしている。この時おそらく北海道青年歌人会の幹部だった増谷氏とは親しく話しているはずだ。(簡単に書いたが冨士田氏特有の詳細な記事だ)。その縁がおそらく田江氏に及び『われやみちのく』の雁書館の編集発行人 冨士田元彦に繋がっていることは確かだろう。
Unamu 様
もう一点これは私の建言ですが一体ウィキペデアで歌人を検索したときにその人の代表歌が出てこない頁は歌人に対して失礼ですよ。歌人はその持ち歌(代表歌)がそのひとの顔ですよ。経歴と著書がズラズラと出るだけの画面では失望するだけ・・・、ここはもっと改善を要するべきと切に思います。
Unam 様 (4月4日20時45分) Wikiの「田江岑子」に”変な保留マーク”がついてそろそろ10日ですがご検討は進んでいますか。いつ頃解決するのかご連絡を願います。また投稿以来の疑問点、要望、提言を下記に取り纏めましたのでご賢察の上ご回答頂けば幸甚です。 ①当初の投稿時にまず所属が田江氏と同じ「未来」の「河野愛子」と②同じ岩手県出身の「板宮清治」を模造して経歴、代表歌などを書いたことは既にお伝えしましたが、今回の「田江岑子」がそれがなぜいけないのかの返答をまだ頂いておりません。アッチがいい理由はなんですか。 ②私の初稿が「作者あとがき」と「代表歌」が著作権に抵触するというご指摘でいきなり抹殺され「客観的資料」による立証が必要とのことで『鬼古里の賦-俳人歌人論集-』川村杳平を引用し説明を尽くしました。ご納得が行かないようなのでさらに追加の引用、説明をいたしました。その上さらに昨日ノート欄に冨士田元彦の『冨士田元彦短歌論集』(国文社歌人文庫)によって冨士田と増谷龍三(田江岑子歌集第4,第5歌集の解説者)との接触についても説明をしておきました。またご教示の「歌風」における代表歌、作者のあとがきとそれらのバランスをとる”主従関係”という記述方法もそれなりに適用したつもりです。拙ければ多少は書き直してください。 ③昨日も申し上げましたがWikiで「歌人」を開いたときに当人の代表歌が一首も見当たらないのは全く殺風景でなんともガッカリなものです。これは常識からいっても実に拙い。まして当の歌人は詠歌が生命なのです。あなた方、ただの管理者(創作者でない者)にはわからないかも知れない。これは日本の短詩形文学の表現としての特筆すべき検討事項でしょう。この点よくよく考えてほしいと思います。(以上)
署名のお願い
こんにちは。ノートページや会話ページ、井戸端、削除依頼・保護依頼などの依頼ページで発言される際には、コメントの最後に適切な署名をお願いいたします。半角チルダを4つ続けて投稿(~~~~)しますと、自動的に署名に変換されます。また、編集画面の上部に並んでいるボタンの中の署名アイコン()をクリックすると、簡単に「--~~~~」が追加できますのでご活用ください。詳しくは、Wikipedia:署名をご覧ください。--Challemoni(会話) 2017年4月7日 (金) 10:24 (UTC)
失礼します
Wikipediaにおいてはいかなる理由があろうとも、個人に対する侮辱、暴言はお控えくださいますようお願いします。審議が進まないのでいらだたれるのは解りますが、このような発言は石川様の編集が規制される理由となりかねません。審議は最低一週間、時にはそれ以上かかりますので、じっくりと審議の成り行きをお待ちください。--アイザール(会話) 2017年4月8日 (土) 11:40 (UTC)
上記にある石川様のご発言は取り消されるようお勧めします。--アイザール(会話) 2017年4月8日 (土) 11:41 (UTC)
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あなたはブロックされました。しばらくウィキペディアの編集を行うことはできません。ブロックは時間がたつと自動的に解除されます。解除後、基本的な決まりを守って参加するなら、あなたの投稿は歓迎されます。今後の対話ならびに異議申し立て、解除依頼はあなたの会話ページで受け付けます。会話ページも編集できないブロックの場合は、IRCの#wikipedia-ja-unblock、もしくはメーリングリストで、会話ページの編集許可を求めてください。(ヘルプ、投稿ブロックへの異議申し立て・投稿ブロック解除依頼作成の手引き参照)--アルトクール(会話) 2017年4月8日 (土) 12:13 (UTC)
Unamu様、管理者様 「Wikipedia:削除依頼/田江岑子」の中にあれこれ引用過多という指摘があるようですが、「検証可能な出典」の内容説明をして納得を得るための記述でした。知らない者に最適の引用文献の最適の箇所を必要最低限度書いて上げただけですよ。不要なら短歌の歌風の部分を残して削除しますよ。以下に今回の「田江岑子Wiki」の正確な経過を記しておきます。 田江氏は何しろ高齢の92歳、病身で重度の視力障害で、それでも便せん5行書きの毛筆で手紙が来るのですよ、ネットのWikiを楽しみにしていて・・・昨日の8日にも手紙が来て・・・。どうか早く完結しましょう。
歌風の項目に数歌集の田江の短歌(代表歌)を紹介したらその短歌だけいきなり削除になって「検証可能な出典」を求められたのでした。大事なところはここからだ。 ①「検証可能な出典」として私が立証したのは『鬼古里の賦 川村杳平俳人歌人論集』(2012年7月 株式会社 コールサック社)だった。 3月27日 (3月27日) 川村杳平は、『鬼古里の賦---川村杳平俳人歌人論集』(コールサック社、2012年7月) 第1歌集『美しと思う花いくつ覚えしか』から第7歌集『水色の衣装』を論究した上で、田江の短歌を次のように要約し結論している(p.497)
だが田江岑子の真の読者は、前述のようなリアリズム的な鑑賞に、関心は示すまい。重要なのは、歌そのものを差し出した一点にある。短歌作品に己の恋情を剥製化すること、田江岑子の希有な情熱は異性よりは詩性に注がれたと、私には思われる。その証拠に、田江作品には単なる自然詠や日常詠は極端に少ない。自己の内なる詩精神を想像力をもって美化定着せしめることに心血を注いできた歌人であることはまちがいない。誤解を恐れずに言えば、花鳥風月や衣食住、行事や遊楽の一瞬でさえ、田江にとっては歌材に過ぎなかったのではないか。こうした素材に焼きを入れ、詩語に鍛え直し、イメージをふくらませること、ーーーその結果、その詩情を一幅の絵画のように、もしくは一連の楽章のように詩句として成立させるために、田江岑子は命を削ってきたように思われてならない。
以上で田江岑子の特異な短歌について或る程度の証明をした積もりだったが削除マークが消えない。(Wikiメールで消すよう連絡したのに)。
4月3日になって削除依頼サブページに上記文献の『鬼古里の賦---川村杳平俳人歌人論集』と田江自身の11冊の歌集の両書について「自費出版で特筆性の担保にならない等・・・」の記述を見つけて相変わらず晒しマークが消えないので同じく『鬼古里の賦---川村杳平俳人歌人論集』によって「田江の歌集の出版経緯」を引用し歌集についての補足説明をした。ここには短歌の特質と初期の歌集の経緯について割合的確に記述されていると思ったからだ。それが以下だ。
更にその特異な詩情を持つ田江の短歌とその歌集の経緯についてもう少し川村杳平の論述を参照しておこう。(p.498) 「『鑿を研ぐ泉』は『真赤な夕陽を砕く』に次ぐ、田江の第3歌集であり、第1歌集の3年後、昭和53年1月に短歌新聞社から出版された。前の2歌集は私家版(緑の笛豆本の会)限定刊行であるから、その内容、構成から見ても歌人田江岑子を歌壇や一般読者に強く印象づけたのは、この第3歌集であったろう。 第4 歌集『われやみちのく』には50歳代前半の270余首が収められている。第3歌集までと異なり3年半という短い制作期間の作物だけに、田江の短歌作者としての特徴が凝縮され、濃厚な血液が一気に噴き出したような衝撃がある。昭和56(1981)年頃のもっとも脂のの乗り切った時期と見てよい。東京の雁書館、あの冨士田元彦のもとから出版された事情は詳らかではないが、先の『鑿を研ぐ泉』(昭和53・短歌新聞社刊)によって歌壇に登場した田江は、冨士田の慫慂があって歌集をまとめる気になったのかもしれない」。
私としては歌風欄は①上記2連の川村杳平の説明と②5歌集の代表歌10首と③第1歌集と第13歌集の短文の「あとがき」の2連で十分満足であったのでそれをWiki本文に挿入した。これが現在只今の「田江岑子」のWikiだ。(これを書いたのが3月28日)
なお上の川村の第4 歌集『われやみちのく』こそ私が初めて田江岑子を知った大変印象深い歌集だったのだ。この歌集のあとがきが増谷龍三氏の「解説 田江岑子作品論」であることも知っていた。そしてふと「冨士田元彦」に心当たりがあった。『冨士田元彦短歌論集』(1979年12月 国文社現代歌人文庫)の私の蔵書があった。開いて見ると終章(第10章)の「七〇年代の運動体-再びシンポジウムの季節-」の中に増谷氏が頻出している。そこで「利用者‐会話:石川民雄」で 4月3日Unamu様あてに送稿した。それが下記だ。
Unamu 様 追加で川村杳平の諸説を補足しておきますのでよろしくご理解をお願いいたします。
なお上記の『われやみちのく』についての川村杳平の論述はなお2頁にわたって続き ①まず田江自身の「後記」を6行にわたって引用し、その文意の真意について物足りなさを述べている。②もう一点は巻末に付された長文の増谷龍三の「解説 田江岑子作品論」をなぜ併録したのかと疑点を呈している。 以上については田江自身の『螢観る人 小田観螢』の掲載記事と現代歌人文庫の『冨士田元彦短歌論集』によって若干の説明の補足をしておきたい。(川村杳平はご存じないのだ)。 増谷氏はこの第4歌集のみならず続く第5歌集の『紫陽花や杏あやめの雨の日日』にも「解説〈水〉と〈死〉と〈愛〉と」のこれまた長文の「田江岑子論」を書いている。田江氏と増谷氏は田江氏の別の著書『螢観る人 小田観螢』によると北海道で1960年以前からの歌友であったようだ。(田江氏のこういう経歴が全く不明なのだ)。同書に北海道歌壇で著名な『新墾』の「小田観螢との7人歌話会の写真」が載っていて若き田江氏と増谷氏が写っている。(経歴に1961年 新墾社に入社とある)。 この増谷龍三について前記の『冨士田元彦短歌論集』のなかの「七十年代の運動体ー再びシンポジウムの季節ー」(p.172)の「現代短歌・北の会」の発足のなかで再三にわたり言及されている。1975年8月23、24日冨士田氏はこの結成総会と記念シンポジウムに出席し主導的な役割を果たしている。この時おそらく北海道青年歌人会の幹部だった増谷氏とは親しく話しているはずだ。(簡単に書いたが冨士田氏特有の詳細な記事だ)。その縁がおそらく田江氏に及び『われやみちのく』の雁書館の編集発行人 冨士田元彦に繋がっていることは確かだろう。
纏めてみると以下だ。 「検証可能な出典」としては『鬼古里の賦---川村杳平俳人歌人論集』しかないようだ。 川村杳平も地元の顔見知りの特異な女性歌人を「北の歌人列伝 田江岑子論」として書いた。川村自身も田江氏の出身、経歴が不明であって、冒頭で「謎の歌人」と言っている。第4歌集『われやみちのく』東京の雁書館、冨士田元彦出版の経緯は不明のままで、歌集巻末の増谷龍三の「田江岑子作品論」も川村にとっては不興であった。 以下は私の直観だ。川村の不明を結びつけるのは田江自身の著書『螢観る人 小田観螢』(平成4年2月 杜若庵)中の1枚の写真だ。「小田観蛍を囲む歌話会」(1960.10.1)にあの小田観蛍と若き増谷龍三と田江岑子など8人(子供が1人)が写っている。しかしこの写真の説明など一切ない。この増谷こそ第4歌集のみならず第5歌集の『紫陽花や杏あやめの雨の日日』にも「解説〈水〉と〈死〉と〈愛〉と」の長文の「田江岑子作品論」を書いている由縁なのだろう。その増谷と冨士田の接点は冨士田の『冨士田元彦短歌論集』の中にあった。これで川村杳平の2つの疑問も霧消する。川村-増谷-冨士田が田江岑子の第4歌集『われやみちのく』でトライアングルをなして繋がっているのだ。
それから約1週間経っても晒しマークが消えないので・・・怒りムラムラ・・・。4月4日20時45分(Wikipedia:削除依頼/田江岑子)の結着催促の要望からますますムラムラが募って・・・とまあそういう次第でした。--Dirou(会話) 2017年4月9日 (日) 10:39 (UTC)
Unamu殿、諸管理者殿 今日も更に「Wikipedia:削除依頼/田江岑子」に「ぱたごん」氏とやらの書き込みがあって①過剰な転載②特筆性の欠如③川村杳平の評論も田江岑子の歌集も自費出版で「検証可能な出典」として欠格のコメントが書かれている。しかしどうしてまたこれにも『冨士田元彦短歌論集』(国文社現代歌人文庫)への言及がないのだらう。また過剰な転載については上の前半にしっかり書いておいたので良く読むこと。良く気をつけて全部を読んでから正確な判断、所見を下すこと、これ肝要、でたらめはいけません。--Dirou(会話) 2017年4月9日 (日) 11:41 (UTC)
アルトクール 殿
上記のような者を人の弱みにつけ込んで人をを餌食にする「点取り虫」と言うのではないですか。私は後出しジャンケンの餌食にはなりません。いまはやり言葉の「忖度」ですよ。このWikiの短歌グループ組織は大丈夫ですか。
主点はわざわざ「検証可能な出典」で私が立証した3点の末尾に、念入りに下記を記しておいたので看過する事なきようにというご注意です。
以上私が主張した「検証可能な出典」は3点だ。これ以上は私は知らない。出典不十分ということであれば『冨士田元彦短歌論集』を含め、ただ貶め るだけの言い回しではない十分な理由を論理的に明快に明示して欲しい。
また『鬼古里の賦---川村杳平俳人歌人論集』はそれほど根拠のない説得力のない書籍ですか。盛岡のこのあたりではこれが通論になっているのですが。そちらの論者はこれを標的にすればすむというお考えではありませんか。段々自分でも疑心暗鬼になってきて・・・。--Dirou(会話) 2017年4月9日 (日) 22:54 (UTC)
アルトクール 殿
またまたご連絡します。例の田江岑子の第4歌集『われやみちのく』の書評が見つかりました。河北新報昭和56年8月4日付け「みちのくの本だな」の400字ほどの書評です。内容は「53年刊に次ぐ第4歌集」、「著者は初め潮音系の結社で学んだが、現在は近藤芳美の未来に所属(言い忘れていたが第1歌集『歌集 美しと思う花いくつ覚えしか』は近藤芳美の「序」である」、「新墾所属の増谷龍三さんが巻末に作品論を書いている」など、末尾に「(雁書館)住所 二〇〇〇円」。本書の発行が1981年(昭和56年)7月25日ですから1週間余で書評が出たことになります。--Dirou(会話) 2017年4月10日 (月) 01:06 (UTC)
アルトクール 殿
イヤー・・・、次々と醜態ですナー・・・。「Wikipedia:削除依頼/田江岑子」欄のSilverSpeechさんとやら、俳人、歌人の区別もおつきにならない。どこをどう読んだものやら・・・。一人前のことをぺらぺらと・・・。これが評価検討グループの方々ですか、楽しみに続きを待ちましょう。
--Dirou(会話) 2017年4月10日 (月) 01:19 (UTC)
- そのように他者に対して侮辱的な発言を繰り返していますと、Wikipediaへのご参加を恒久的にご遠慮いただくということになりかねません。お控えください。--アイザール(会話) 2017年4月10日 (月) 05:30 (UTC)
- 『冨士田元彦短歌論集』については、田江岑子さんに関する直接の言及がないので、審議では資料として考慮されていません。--アイザール(会話) 2017年4月10日 (月) 05:35 (UTC)
アルトクール 殿
「Wikipedia:削除依頼/田江岑子」欄の伊佐坂安物さん、本当にありがとう。『短歌雑誌』が「検証可能な出典」に該当し特筆性が担保できるのですか、知りませんでした。私も早速国会図書館で「田江岑子」を検索してみました。貴殿の言う通り下記4冊がありました。3.の短歌現代 1992-06 新刊歌集 歌書 書評 田江岑子著『小田観蛍』 / 三木与志夫と4.短歌 29(9) 1982-09 第28回 角川短歌賞候補作家競詠には私の補注を書いておきました。
1.歌壇 7(7)(74) 1993-07
作品七首 花びらの寄りゆく渚 / 田江岑子/p145~145
2.短歌研究 43(11) 1986-11
作品II(九首) みちのくに住む歌人 岩手 / 村上圭吾 ; 及川亮賢 ; 太田多米治 ; 菊池映一 ; 佐藤昭孝 ; 菅原照子 ; 鈴木みち子 ; 田江岑子「澄みて舞いゆく 9首) ; 高橋緑花/p87~91
3.短歌現代 : 総合短歌雑誌 16(6)(182)
出版年月日等 1992-06 新刊歌集 歌書 書評 田江岑子著『小田観蛍』 / 三木与志夫/p148~148 出版年月日等 1988-12
(補注:この書評の著者望月善次氏(三木与志夫はペンネーム)で岩手大学教育学部教授、同学部長を歴任し、同大名誉教授 ・ 特認教授であるとともに、盛岡大学学長を勤めました。歌人で異色の著書『評伝 岡井隆 三木与志夫歌集』(1984年12月、 不識書院)があります)。
4.短歌 29(9)角川文化振興財団,Kadokawa,角川学芸出版,角川書店 角川文化振興財団 1982-09
第28回 角川短歌賞候補作家競詠 p.170~2003 / 青田嘉一 ; 伊藤玲子 ; 上田明 ; 岡しをり ; 北川眞 ; 紀野恵 ; 木村博子 ; 久我田鶴子 ; 久保田幸枝 ; 小池三郎 ; 古賀光惠 ; 小窪真理子 ; 小嶋三千年 ; 斉藤正明 ; 佐々木和彦 ; 佐崎喜代子 ; 佐野美恵 ; 住正代 ; 田江岑子 ; 都甲真紗子 ; 長淵基江 ; 西王燦 ; 野村正美 ; 原野彰子 ; 古谷智子 ; 真柄百合子 ; 松原秋子 ; 宮内常子 ; 宮本郊二 ; 村上青村 ; 山本栄子 ; 結城佑 ; 祐徳美恵子 ; 鷲尾陸子/p170~203
(補注:昭和57年9月号、第28回 角川短歌賞候補作家競詠 34人(35人ではない)応募総数は474人 9首/頁/人 作家ノート、略歴付き)--Dirou(会話) 2017年4月10日 (月) 10:18 (UTC)
アルトクール 殿 Unamu殿 2017.4.12 ブロックが既に5日間になりました。十分な反省をしました。「歌風(作風)」の原稿も既に昨日出来上がりました。下記です。
歌風 (2017.4.12 版) 田江岑子の「短歌」を読むことは「田江岑子の美のアウラ」と出逢うことである。初期の第1、第2歌集の美しい絹張りの装幀や木版刷りの歌集は比類がない。自筆全歌集(上・下)を読む者は、和紙に毛筆で書かれたうたの言語空間に深く引き込まれる。全巻を繙読する者は表紙の裏の繊細なペン書きの一首に出会うことがあるかもしれない。短歌の芸術的アウラとは「どんなに近くにあっても遠い遙けさを思わせる一回限りの現象」*1である。 近藤芳美が「縹緲」*2と言い、川村杳平が「①恋の絶対野②合わせ鏡の肖像」*3と言い、増谷龍三が「水と死と愛と・自然の吟遊詩人」*4と評したが、田江の短歌は、あくまでも自然を念頭に措きながら、計り知れない美を秘めた「一途な美のアウラ」と呼ぶことが最も相応しいのではないか。
- 1 『美と崇高の彼方へ-カント「判断力批判をめぐって-』甲田純生 1999年4月 晃 洋書房
- 2 第1歌集『美しと思う花いくつ覚えしか』近藤芳美の序文1975年 6月 緑の笛豆本 の会
- 3 『鬼古里の賦---川村杳平俳人歌人論集』川村杳平 2012年7月 コールサック社
- 4 第5歌集の『紫陽花や杏あやめの雨の日日』増谷龍三の巻末解説1988年 6月 緑の 笛豆本の会
代表歌 なお次に田江の代表歌数首と歌集の「あとがき」の短文を掲げておく。
父は逝き幼年われは泣かざりし美しと思う花いくつ覚えしか (『美しと思う花いくつ覚えしか』) 美しきかなしみあらばさみどりの葉かげに垂るる滂沱たる藤 〃 母の織る筬の音はもきこえきて糸繰車まわるかげろう (『真赤な夕陽を砕く』) わがめぐりに鳴く鴉たち一斉に翔び立ち真赤な夕陽を砕く 〃 或る日わが産声高く生るるを杳き泉に鑿を研ぐ父 (『鑿を研ぐ泉』) 風ねむる午後と思えど待つこころ桔梗の花のいろほど冴えて 〃 言葉とうことば殺していちまいの白磁の皿に置く銀ナイフ (『われやみちのく』) 岩床をすべらかにゆく水に逅うあえばきわまるわが秋の川 〃 罪問わば罪を餌食に生きゆかんおみなの血をばやしなう夕日(『紫陽花や杏あやめの雨の日日』) ああ われの生きてあること陸奥に雪降りくれば雪をのむ水 〃
・あるものは象徴であり、或るものは観念のドラマかも知れない。しかし、まこと私の全霊である。
(第1歌集『美しと思う花いくつ覚えしか』の著者「あとがき」より)。
・今更ながら、詩歌でしかないものに改めて付け加える言葉は浮かんで参りません。
(第13歌集『北上山地 夢見さす詩歌』の著者「あとがき」より)。 (以上ブロックのお知らせへ記載 2017.4.12)。--Dirou(会話) 2017年4月12日 (水) 09:31 (UTC)
コメント 原稿案、拝見いたしました。まだ、Wikipediaのルールをいまひとつ飲みこんでいただけていないようです。いろいろと難しいですし、把握するのが大変かとは思いますが。。。ひとまず、
- 「田江岑子の「短歌」を読むことは「田江岑子の美のアウラ」と出逢うことである。
- これは石川さま個人のご意見となりますので記述できません。もちろん、美術を鑑賞することがそのアウラと対面することというのは美学上はそうですが、それは記事内容と直接関連することではなく、Wikipediaには書けません。この記述を認めてしまうと、多くの美術芸術関係の記事にそう書かれてしまうという事態になります。ですから、「アウラ」を絡めた意見を記事中に書くことは現段階ではできません。従って、のちに出てくる甲田氏著作の引用も不可です。おそらく、石川さまは、田江作品の造本や装丁などの特徴から通常の印刷物を読むのとはちがった読書体験が得られるといった旨を「アウラ」の語で表現しようとしておいでなのでしょうが、それ自体が石川様の個人的な論評です。それができるのは、「アウラ」の概念を援用して田江作品の評論論考をおこなった第三者による資料を確保できた場合のみです。もしそういう論評があるならばその内容を噛み砕いて書くことはできます。
- 「初期の第1、第2歌集の美しい絹張りの装幀や木版刷りの歌集は比類がない。自筆全歌集(上・下)を読む者は、和紙に毛筆で書かれたうたの言語空間に深く引き込まれる。全巻を繙読する者は表紙の裏の繊細なペン書きの一首に出会うことがあるかもしれない。」
- これも石川さま個人の論評なのでやはり書けません。書けるとするならば「第1、第2歌集は絹張り装幀で木版刷りである」「自筆全歌集(上・下)は、和紙に毛筆で書かれている」「表紙の裏には一首がペン書きされている」くらいですが、これもトリヴィアにならないように書く必要があります。
- 近藤芳美が「縹緲」*2と言い、川村杳平が「①恋の絶対野②合わせ鏡の肖像」*3と言い、増谷龍三が「水と死と愛と・自然の吟遊詩人」*4と評した
- これは書けます。といいますか、この部分を膨らませてください。やり方については下でご案内したリンク先をご参照ください。
- 田江の短歌は、あくまでも自然を念頭に措きながら、計り知れない美を秘めた「一途な美のアウラ」と呼ぶことが最も相応しいのではないか。
- 上記で申しました通り、石川様の個人的論評ですので記述できません。
まずはですね、Wikipediaの記事がどのような作法によって記述されているか、他の記事をゆっくり読んでみてはいかがでしょうか? それとご自身が書こうとされている記述とのギャップをお考えになってみるのがいいかと思います。参考になりそうな記事といえば正田篠枝、アイザック・アシモフ、フランツ・カフカなどでしょうか。お読みいただければおわかりでしょうが、「最も相応しいのではないか」などという執筆者個人による論評的文章は認められないのです。--アイザール(会話) 2017年4月13日 (木) 02:28 (UTC)
アイザール殿
ご教示に従い大急ぎで「歌風・代表歌」を書き直したのでご検討願います。後半部分はもう少し推敲を要します。
[歌風・代表歌] 第一歌集は「縹緲としてとらえどこらがない。何をして生きている人なのか、どのような境涯の人なのか」*1と評されながら、それでも思いがけない鋭い感性といのちの実存に迫る実相の作品の故にという近藤芳美(未来)の配慮の慫慂によって幸運な出版にこぎ着けた。著者50歳のことであった。出生、経歴の不詳がこれほどうたの理解を困難にするものなのか。
・蛍泣くときのあらんか水色の泪を闇にふりこぼしつつ(『美しと思う花いくつ覚えしか』)
・ふたたびを行くことのなき街に佇つポストに入れて冬の絶筆 ( 〃 )
第一、第二歌集は限定出版であり和紙袋綴じの背絹張り、特に第2歌集は毛筆自筆木版2色刷り装幀で美麗である。
・わがめぐりに鳴く鴉たち一斉に翔び立ち真赤な夕日を砕く 『真赤な夕陽を砕く』
第3歌集『鑿を研ぐ泉』短歌新聞社刊で田江岑子はいよいよ歌壇に登場した。
・或る日わが産声高く生るるを杳き泉に鑿を研ぐ父 (『鑿を研ぐ泉』)
・風ねむる午後と思えど待つこころ桔梗の花のいろほど冴えて ( 〃 )
第4、5歌集の巻末には増谷龍三氏の長文の「田江岑子作品論」*2が収められていて、それぞれ「自然の吟遊詩人」、「水と死と愛」の副題がある。
・言葉とうことば殺していちまいの白磁の皿に置く銀ナイフ (『われやみちのく』)
・岩床をすべらかにゆく水に逅うあえばきわまるわが秋の川 ( 〃 )
・罪問わば罪を餌食に生きゆかんおみなの血をばやしなう夕日
(『紫陽花や杏あやめの雨の日日』)
・ああ われの生きてあること陸奥に雪降りくれば雪をのむ水
( 〃 )
なおこの第4歌集『われやみちのく』刊行の翌年(昭和57年)に田江は第28回角川短歌賞に応募し474人中の34人の候補に残っている。
第6、7歌集は川村杳平の『鬼古里の賦 川村杳平俳人歌人論集』の「北の歌人列伝 田江峰子論①、②」から引用しておこう。川村は連載形式(隔月刊の『北宴』であろう)でここまで八章にわたって、田江の第1歌集から順を追って詳細に論究してきた。副題は「恋の絶対野」、「合わせ鏡の肖像」である。ここへきて果たして当初の近藤が提起した「縹緲としてとらえどこらがない」としたうたは明晰な解釈を得たのであろうか。
・とうめいな秋かなしきはたれなりや胸のたかはらにりんどうの咲く
(『落下の意味を問う秋』)
・山ふかくゆきて落下の意味を問うわれに日暮れのはやき滝壺
( 〃 )
・窓にみる瑠璃いろの空 一生は逃亡にありと雲はおしえる (『水色の衣装』)
・永遠なりき岩手久慈市にそはありき観螢の歌碑・揮毫の龍三 ( 〃 )
結果は否でありそれは「異性よりは詩性」*3という川村自身の論述に明らかのである。就中川村は第7歌集『水色の衣装』に至って田江の短歌を退化という。近藤にも川村にも明らかにならない「田江の短歌」はまさに下記の田江自身の言葉に暗合することになる。
・今更ながら、詩歌でしかないものに改めて付け加える言葉は浮かんで参りません。
(第13歌集『北上山地 夢見さす詩歌』の著者「あとがき」より)。
・あるものは象徴であり、或るものは観念のドラマかも知れない。しかし、まこと私の全霊である。 (第1歌集『美しと思う花いくつ覚えしか』の著者「あとがき」より)。
現在田江岑子は92歳、最新刊の隔月刊の所属歌誌『北宴』の巻頭に14首が掲載されている。
・はじめなく終わりのあらぬ独り言硝子戸の向こう雪降り止まず*4
- 1 第1歌集『美しと思う花いくつ覚えしか』近藤芳美の序文1975年 6月 緑の笛豆本 の会
- 2 第4歌集の『われやみちのく』雁書館、1981年、第5歌集『紫陽花や杏あやめの雨の日日』1988年 6月 緑の笛豆本の会 の増谷龍三の巻末解説
- 3 『鬼古里の賦---川村杳平俳人歌人論集』川村杳平 2012年7月 コールサック社
- 4 『北宴』460号 2017(3.4月号)
--Dirou(会話) 2017年4月15日 (土) 02:07 (UTC)
アイザール様
今朝早朝再度「田江岑子」を再度書き込みをいたしました。しかしまもなく短歌の14首全部が削除されました。
私としては第4,5歌集までの9首と最後の1首、全部で10首を載せて頂きたく思います。どうすればいいのか困っております。
どうかよろしくお願いいたします。 --Dirou(会話) 2017年4月16日 (日) 14:07 (UTC)
- 「田江岑子」で取り急ぎ短歌の全文引用を編集除去したXx kyousuke xxと言います。先日の削除依頼等で再三皆さんがお伝えしていますし、下の節ではアイザールさんも詳しく説明されていますが、申し訳ないことに、石川民雄さんは著作権法に関する理解が十分ではないように思います。著作権法は第32条第1項で引用を認めていますが、そのためには一定の要件を満たす必要があります。要件はここをご確認ください。逆に言えば一定の要件を満たせば、ある程度の引用は認められますし、また短歌や俳句の場合は全文引用も可能です。個人ブログですが、ここは参考になります。要件の中でポイントになるのは「引用を行う必然性」になると思いますが、そのためには例えば短歌の批評・評論が必要です。適切な出典に基づく評論を記載して、そのために短歌を引用するという形式であれば短歌全文の掲載が可能です。ご一考ください。--Xx kyousuke xx(会話) 2017年4月16日 (日) 14:43 (UTC)
Xx kyousuke xx様
早速ご案内のブログ資料をダウンロードし精読しました。大変良く解りまして霧が晴れた重いです。2~3日お待ち下さい。必ず書きます。
本当にありがとうございました。--Dirou(会話) 2017年4月17日 (月) 09:08 (UTC)
Xx kyousuke xx様
先刻「歌風補註」として本文の方へ書き加えました。私の理解、能力ではこの程度です。よろしくご判読願います。
出典のある文献によって頭の中でそれをかみ砕いて自分の言葉で書き込む・・・、なかなか至難です。
なんとか「田江岑子」のWikiを開いたときいくらかの短歌が読める画面にしたいのですが。
歌風補註 1.第一歌集(『美しと思う花いくつ覚えしか』1975年 6月)の近藤の序は20字×43行、860文字で、見開き2頁一杯にきっちりに書かれている。出版の慫慂については逡巡がなかった。後半部で「彼女の作品を私以外のもっと広い歌壇の評価に委ねてみたいひそかな気持があった」とし再度「縹緲とし、一種妖艶な世界を影のようにさまようかに見えながら、うたい告げているものは、それとはちがったものなのであろう。」としている。田江の短歌の抄出引用は一首もない。 2.川村杳平の『鬼古里の賦 川村杳平俳人歌人論集』の「北の歌人列伝 田江峰子論」①、②は副題が①「恋の絶対野」であり、②「合わせ鏡の肖像」である。①は400字詰原稿用紙で60枚、②は8枚である。①は全8章で構成されており各章には(一)、(二)、(三)の漢数字がふってあるが章題はない。(一)から(四)までの過半を第一歌集に費やしていて、(一)から(四)のみでの引用歌は30首、①の全引用歌69首の約半数を費やしている。②は5首のみ、川村の本論考の第1歌集から第7歌集までの全引用歌はで74首である。 (一)の第一歌集(『美しと思う花いくつ覚えしか』1975年 6月)の評釈は「人を愛することは一つの才能である。」と始まる。「だが敗れざる愛を追い続ける精神の営みは異様に美しい歌の華を咲かせる」として、自身の「恋の絶対野」の主題を持ち出してくる点に、上記の近藤と同様な視点があるようだ。次いで「田江岑子は謎の歌人である。5冊の歌集と3冊の著書のどの奧付にも経歴はない。」と続く。これも近藤と共に経歴の不詳がいかに作者のうたが評者を戸惑わせ、不明にするものであるかが伺われる。 (二)には妖艶な歌5首をあげ「抒情がしたたる」という一方 第一歌集『美しと思う花いくつ覚えしか』の歌集名となった「父は逝き幼年われは泣かざりし美しと思う花いくつ覚えしか」のうたの歌意を問うている。 (三)にいたり第一歌集の掉尾のうた「ふたたびを行くことのなき街に佇つポストに入れて冬の絶筆」を論じ、ようやく『’95短歌年鑑』によって「田江の生年月日」を突き止めたこと、この第一歌集のあとがきの「歌はまこと私の全霊である」などを総合して田江の歌の本質の認識にいたったと述べる。 「著者は現実の一部を切り取って、歌を作るのではない。自然諷詠や日常生活の感慨を歌に託す姿勢は、嫌悪している。これら伝統的作歌方法とは、最初から最も遠い地点に佇ち、歌を創作することによって、歌の中に己の分身を創造しようと試みた。難解な歌なのではなく、当初から困難きわまりない登攀道の選択を強いられていた。」という。 (四)冒頭で「田江岑子にとって、第一歌集の中の愛の対象は、いったい誰なのであろうか。どんな愛の形だったのか」と再び問い直す。対象は父とも断定できず、やがて次の結末に至る。 「重要なのは、歌そのものを差し出した一点にある。短歌作品に己の恋情を剥製化すること、田江岑子の希有な情熱は異性よりは詩性に注がれたと、私には思われる。自己の内なる詩精神を想像力をもって美化定着せしめることに心血を注いできた歌人であることはまちがいない。素材に焼きを入れ、詩語に鍛え直し、イメージをふくらませること、ーその結果、その詩情を一幅の絵画のように、もしくは一連の楽章のように詩句として成立させるために、田江岑子は命を削ってきたように思われてならない。」 ここにいたって漸く第一歌集の検討は終了する。ここまで四章を要し、量的に論考の過半を費やした。 (五)で漸く田江の歌壇デビュー作である第三歌集(『鑿を研ぐ泉 田江岑子歌集』1978年 1月 短歌新聞社)に入り、「定型の調べもなめらかな、品格をそなえた歌である。」とし、第二歌集(『真赤な夕陽を砕く』1977年 6月 緑の笛豆本の会)にも若干のコメントをしていると共に、女流短歌集団のなかの幻想・象徴派に属すると田江の短歌を位置付けている。 3.第四歌集『われやみちのく』(1981年 7月 雁書館)、第五歌集(『紫陽花や杏あやめの雨の日日』1988年 6月 緑の笛豆本の会)の両歌集の巻末には増谷龍三の長文の「解説 田江岑子作品論」が併録されている。第四歌集(『われやみちのく』の解説の副題は「自然の吟遊詩人」で400字詰め原稿用紙で23枚、40首の引用歌がある。同様第5歌集『紫陽花や杏あやめの雨の日日』は「解説〈水〉と〈死〉と〈愛〉と」、同27枚、引用歌は60首である。2歌集併せて60枚でほぼ川村の論集に相当する。 増谷龍三の作品解説は川村杳平に比べると冷静、平明である。両書とも素材ごとに分節した3~6首を一纏めに書き出した抄出歌を評釈する一般的な形式の論述に終始している。目立った強調や特色をあげていないし難解な田江短歌を周到に読み解いていて力作である。 4.田江と増谷の関係の手がかりは田江自身が後の『水色の衣装』(1999年 5月 近代文芸社)で自らが書いた経歴「1961年新墾社に入社」の数語の1行と、田江の別の著書『蛍観る人 小田観蛍』(1992年 2月 杜若庵)にある。その『螢観る人 小田観螢』の口絵写真のなかにある「小田観蛍を囲む歌話会」(1960.10.1)の1枚の写真だけであり、そこへあの小田観蛍と若き増谷龍三と田江岑子が写っている。二人は北海道で1960年以前からの歌誌『岬』の歌友であったようだ。(田江氏のこういう経歴が全く不明なのだ)。 またこの増谷龍三については『冨士田元彦短歌論集』(1979年12月 国文社現代歌人文庫)『冨士田元彦短歌論集』のなかの「七十年代の運動体ー再びシンポジウムの季節ー」の「現代短歌・北の会」の発足のなかで再三にわたり言及されている。増谷龍三の名前が3回、短歌1首が出ていて、冨士田氏は、1975年8月23、24日冨士田氏はこの結成総会と記念シンポジウムに出席し主導的な役割を果たしている。この時おそらく北海道青年歌人会の幹部だった増谷氏とは親しく話しているはずだ。その縁がおそらく田江氏に及び『われやみちのく』の雁書館の編集発行人 冨士田元彦に繋がっていることは確かだろう。 なお増谷氏には『北の創世記』、『荒神のこゑ』の2冊の歌集とその他著書があり、特に『北の創世記』は雁書館 1988年刊である。 (六)川村杳平の「田江岑子論」を続けよう。 第4歌集『われやみちのく』(雁書館、1981年)に入って、「第3歌集までと異なり3年半という短い制作期間の作物だけに、田江の短歌作者としての特徴が凝縮され、濃厚な血液が一気に噴き出したような衝撃がある。昭和56(1981)年頃のもっとも脂の乗り切った時期と見てよい。東京の雁書館、あの冨士田元彦のもとから出版された事情は詳らかではないが、先の『鑿を研ぐ泉』によって歌壇に登場した田江は、冨士田の慫慂があって歌集をまとめる気になったのかもしれない」。という。 なおこの『われやみちのく』についての川村杳平の論述はなお2頁にわたって続き、まず田江自身の「後記」を6行にわたって引用し、その文意の真意について物足りなさ、不満を述べている。もう一点は巻末に付された長文の増谷龍三の「解説 田江岑子作品論」をなぜ併録したのか、そして評釈にも種々疑問を呈していて、増谷龍三も冨士田元彦との関わりも知らないままで終わっている。 (七)第五歌集(『紫陽花や杏あやめの雨の日日』1988年 6月 緑の笛豆本の会)の論考である。この歌集には「田江の身辺の闇に、日常の時空の光が射し込んでくる。」といい、ここでも文末に恋の歌5首が添えられている。 (八)ここからは第六歌集(『落下の意味を問う秋』(1993年 9月 近代文藝社)に入り後半は第七歌集(『水色の衣装』(1999年 5月 近代文芸社)を簡潔に論述している。
なお「北の歌人列伝 田江峰子論」②は短編であり省略する。--Dirou(会話) 2017年4月19日 (水) 11:51 (UTC)
- Dirouさん、編集を拝見しましたが、すぐに差し戻されたようですね。申し訳ないのですが、やはりいろいろとご理解いただかなければいけないことが多すぎて、どこから話せばいいのかわからないくらいです。まず、wikipediaの参加者はみなさん善意のボランティアで、一般利用者も管理者もほぼ同じ立場で、自分の好きな時間に好きな分野に好きな形で参加しているだけです。私は明らかな著作権侵害が目についたためそれを差し戻しただけで、それが解消されればそれ以上関与する気はありません。お力になれずに申し訳ないです。ただ一つアドバイスさせていただくと、たぶん今からwikipediaのルールや作法を学んで記事を書くよりも、ご自分のブログか何かで好きなように書いた方が、手っ取り早いし、なにより随分ストレスなく楽しめるのではないかと思料します。ご一考ください。--Xx kyousuke xx(会話) 2017年4月19日 (水) 12:21 (UTC)
Xx kyousuke xx 様
ご指摘ありがとうございます。それではこのままにしておけば年譜、著書の画面で登録されますか。そうすればゆっくり勉強してその後で書き足すことが出来ますが。--Dirou(会話) 2017年4月19日 (水) 12:31 (UTC)
- こんにちは。Xx kyousuke xxさんは著作権侵害の問題を指摘されているに過ぎず、石川民雄さんの編集にはWikipediaのスタイルに沿わない文章や独自研究などの問題が山積しております。また、Wikipedia:記事の所有権にあるように、不適切な場合は手直しや削除を他の利用者が行う可能性があります。ゆっくり勉強されるのは石川民雄さんのご自由ですが、その間他の利用者の手が入らないという保証はございませんのでよくご理解されるようお願いします。--Aiwokusai(会話) 2017年4月19日 (水) 12:38 (UTC)
Aiwokusai様 独自研究というご指摘は貴殿ですか。歌意補註の冒頭の1.近藤のところはそのために書きました。お読み下さい。--Dirou(会話) 2017年4月19日 (水) 12:51 (UTC)
まずはゆっくり考えてください
石川様へ。
何につけてもそうだと思うのですが、「郷に入っては郷に従え」ということわざがあります。なにかの場に参加したいのならば、その場のルールや方法、やり方というものを尊重していただかないと、私たちとしても対応に困ります。特に、石川さんは、もうこれまでにずいぶんと編集を重ねておいでです。大西民子、川島喜代志とご投稿を重ねてこられました。しかし、そのたびにこうしてもめ事を起こしておいでです。そろそろ、Wikipediaでの編集の作法というもの、ルールといったものを、ある程度は把握していただけないでしょうか。
この会話ページの一番上に紹介されている、各種ルールや方針のご案内はお読みいただいておりますか? もしかして、それらに目を通していておいでではないか、読んだとしてもななめ読みでご理解が浅いのではないかと思います。その状態で参加されては、いくら石川さんが詩歌に造詣が深いといっても、Wikipediaとしてはそのご投稿をそのままうけいれることはできません。
ひとまず、このページの一番上に、目立つ形で、初心者用のご案内のまとめを張らせていただきました(青い四角のところです)。本当はそれを一通り見ていただきたいのですが、ひとまず、以下に解説します。
Wikipedia:五本の柱という5この方針が、Wikipediaにおける最大のルールです。これに違反する場合は、活動を受け入れることはできません。ざっとお読みください。特にWikipedia:ウィキペディアは何ではないかとWikipedia:中立的な観点をおよみください。
そこでですね、今回の「Wikipedia:削除依頼/田江岑子」で今は何が問題になっているかというと、「石川さんではない人の文章作品、川村さんが書いた文章や田江さんの短歌作品の転載が多すぎる」という点です。たしかに、依頼を提出したUnamuさんは、短歌作品の転載が多い、という理由で削除依頼を提案されていますが、審議を進める中で、この記事中に川村さんの文章も多数転載されていることがわかり、さらに石川さんも審議中に追加で記事に転載したので、そちらの方がメインの問題になった、ということです。他の事、例えば田江さんは有名なのか、とか、資料はあるのか、とかいった話は今回の審議ではあまり関係ありません。話のついでにそういった話題も出てはしますが、この記事を削除するかしないか、の判断は、他人の文章作品(田江さんの短歌と川村さんの論評)の転載が多いか少ないか、によります。石川さんは「「検証可能な出典」の内容説明をして納得を得るための記述でした。知らない者に最適の引用文献の最適の箇所を必要最低限度書いて上げただけですよ。不要なら短歌の歌風の部分を残して削除しますよ」と仰せですが、その「歌風」の部分が川村さんの文章の転載で構成されており問題だと、審議の参加者はみなしているのです。ですから、まずはWikipedia:ガイドブック 著作権に注意をしっかりと読んでください。
例えば、石川さんが何か文章を書いてどこかに発表する時、その分量の八割で他人の文章をずらずら転載して、最後に自分の一言をちょっとつけたような文章、まともに発表できますか。しかし、件の記事では、そのような状態になっています。さらにいえば、Wikipediaでは特に著作権に厳しいんです。それは「CC-BY-SA(クリエイティブ・コモンズ・ライセンス)及びGFDL」という特殊なルールを採用しているからなんですが、そのあたりもなんとなくご理解いただければ幸いです。
上の「著作権に注意」の文章にあったと思いますが、他人の文章を利用する時に「本文が主、引用部分は従という関係でないといけません」「引用する著作物と、引用される著作物とが明瞭に区別できなくてはいけません」といったことを注意せねばなりません。今回は、「本文が主、引用部分は従」とはなっていないのではないか(石川さん個人の文章が微小で、川村杳平さんの文章などの転載部分が多すぎる)、転載が「必要最低限」ではないのではないか(いわゆる「必然性」です。短歌の転載が多すぎるし、なぜその歌を転載したのかと理由が示されていない)という懸念が呈されています。
石川さんのお考えとしては、自分の文章で記事を書いたら「検証可能な出典」を出せと言われた、だから、他人の書いた資料を転載した、ということだとおもうのですが、そこが大きな勘違いというか認識の間違いなんです。つまりですね、Wikipediaでは、「第三者による資料を収集し、そこに書いてあることをしっかり理解し、その内容を自分の文章で表現する」ということが必要になります。下の文章をおよみください。
- Wikipedia:原典のコピーはしない
- Wikipedia:著作権で保護されている文章等の引用に関する方針
- 利用者:Law soma/自分の言葉で執筆してください
- 利用者:Toki-ho/事実と表現 (著作権侵害を避けるために)
今回の審議で特殊なのは、短歌作品の転載をどう考えるか、ということなんですが、Wikipediaではけっこう厳しいです。私個人としては、歌人俳人の記事中にその代表作として短歌俳句を5、6首or句掲載するのはオッケーだと思いますが、そのあたりまだ統一見解はありません。先にも言いましたCC-BY-SAなどの問題がありまして、石川さんが日頃親しんでおられる詩歌専門の書籍や雑誌などで許容されている書き方に比べると、かなり厳しく感じられると思います。私個人も詩歌に関心が深い参加者ですので、このあたりなんとかならないかなーといろいろやってますが、現状は少々厳しいです。河野愛子、板宮清治は、私個人はぎりぎりセーフかなと思いますが、ぎりぎりアウトと考える編集者もいるだろうな、といった感じで褒められた記事体裁ではありません(時間があれば河野、板宮の記事は私がなんとかしておこうかと思います)。土屋文明なら大丈夫でしょう。記事の質としてはともかく、削除の可能性がない書き方としては、宮崎信義などがあります。
他にも特筆性のこと、出典の信頼性のこと、などいろいろお話したいのですが、一度にお話ししても伝わりにくいので、この辺で一休みします。各文書をよくお読みいただければ幸いです。--アイザール(会話) 2017年4月10日 (月) 07:02 (UTC)
コメント依頼提出のお知らせ
Wikipedia:コメント依頼/石川民雄を提出いたしました。--Aiwokusai(会話) 2017年4月19日 (水) 12:34 (UTC)
藤原嘉藤治での編集について
藤原嘉藤治において、画像情報を含むinfoboxの除去、有益な情報を含む外部リンクの除去、本人を示す呼称を姓から名に変更する編集をされていますが、要約欄に説明もなく、必然性も不明です。どのような意図でなされたものか、明確にしていただけませんでしょうか。--Unamu(会話) 2018年8月14日 (火) 11:15 (UTC)
- 上記質問への回答と思われる内容を個人メールにていただきました。ウィキペディアは参加者の対話による協同作業でもございますので、回答は会話ページにてお願いいたします。十字屋版全集の巻数表記については了解しました。ただ、上記でお聞きしたのは、1.「藤原」を「嘉藤治」に改めた理由 2.infoboxを除去した理由 3.外部リンクを除去した理由 です。これらについてはお答えをいただいていません。ただし、その後の編集では改変をなされていないので、再度これを改める意思がないのであれば、回答はいただかなくても結構です。--Unamu(会話) 2018年8月14日 (火) 23:22 (UTC)
- 普通の記事を編集するように、ここに加筆して投稿ボタンを押してください。全集のタイトルと刊行年月の件は訂正を了とします。一方あなたが身に覚えがないとメールにお書きの内容については、リンクをもって示します。下記の1と2のリンク先をご覧ください。
- あなたのアカウント名で行われた編集で、上記の変更が含まれていることをご確認ください。--Unamu(会話) 2018年8月15日 (水) 00:29 (UTC)
会話ページのご教示ありがとうございます。私が指摘した文面を再掲します。 1.「宮沢賢治全集」→「宮澤」の訂正については字句通り。実際の全集版も高村光太郎の函も どこにも宮沢はない。この場合は十字屋版を指すので宮澤の文字以外にないのです。文中で何故 ここだけ「宮沢」なのかご説明ください。理由があれば注でも打った方がいいでしょう。 2.つい先日8月10日に十字屋版の初版本1,2,5,6,別巻の5冊を購入し手許にあります。別巻の日付は 昭和十九年 二月二十四日印刷 昭和十九年 二月二十八日発行 です。この「二」の上に「十」の痕跡がありますが明らかにあるよりはないように、あっても消したように見えます。 私は岩手県立図書館、盛岡市立図書館と前述の購入したばかりのもの3冊を見ましたが ここは議論のあるところのようでむしろ「二月」にして「十二月」は注書きにでもしたらいかがでしょうか。 3.余計なことですが内城氏の「嘉藤治物語」は素晴らしいと思いました。 4.私の研究結果は一部は https://twitter.com/isiwahahaにあります。 5.今度宮沢賢治賞を受賞した佐藤泰平氏は有数の嘉藤治研究家ですから漸く「藤原嘉藤治」にも 注目が集まるといいなと思っています。 以上 もう一件追加ですが、後半の 「1944年12月、十字屋版全7巻・別巻1の全集は完成。」の部分ですが 『宮澤賢治全集』十字屋版は1,2,3,4,5,6巻と別巻の全7冊で すから上記の表現はおかしですよ。 盛岡市 石川 朗。
さてここからが本題の本論です。 ご返事の頂けない上記1.2.についてですが 1.まず十字屋版の「宮澤賢治全集」には「宮沢賢治全集」はないと主張しているのです。従って「宮沢」は「宮澤」で なければなりません。おわかりですか。 2.については先学がありなす。 インタネットのロゴス文書の「宮澤賢治全集「十字屋版 別卷」についてでアドレスは https://blog.goo.ne.jp/rogosu123/e/03da904c4e0674023b43e242bbe2fecb 2008年11月18日 | 随想・日記です。 よく吟味してお読み下さい。ロゴス文書が指摘する 『修羅はよみがえった』の文中の杉浦氏の文の中に3カ所十字屋版が出てきます。 p.58、 p.157は19年2月、p.178だけが昭和19年12月です。 (ロゴス文書さんはp.178だけしか見えてなかったのではないか)。 また私が所蔵しているもう一冊の校訂版の別巻は 昭和十九年 二月二十八日 第一版発行 昭和二十七年 七月三十日第二版発行 となっています。よって貴殿が19年12月を主張するのであれば 『修羅はよみがえった』(2007年9月21日)のたったp.178、昭和19年12月 だけが論拠となるに過ぎません。他の堀尾氏を初めすべて2月なのに貴殿の12月の根拠は何ですか。 私の1.2.についての「宮澤」、「昭和19年2月」の主張は以上です。 よろしくご検討されここにご返事をおねがいたします。 2018年 8月15日 盛岡市 石川 朗。 ~
- 会話がかみ合っていません。十字屋版全集に関するあなたの編集については異論はないと何度も申し上げています。私がうかがいたいのは、「{{Infobox 人物」ではじまる部分を除去されたこと、「== 外部リンク == *内城弘隆かとうじ物語 - どっこ舎」を除去されたこと、本文中の「藤原は~」といった箇所をすべて「嘉藤治は~」といった表記に変更された理由です。これらについて答える意思がないのであれば、この個所での回答もメールもこれ以上不要です。--Unamu(会話) 2018年8月15日 (水) 06:10 (UTC)
大変不慣れで申し訳ありません。貴殿の指摘の3点は画面が左右対称に移るのは確認できますのでわかります。ただ私は①「沢」→「澤」への文字と②「12」→「2」に訂正しただけの積もりでした。 Wikiの操作の不慣れで何か間違いをしたかも知れません。それではその点はお詫びをします。大変な画面の変動を来したのであれば申し訳ありませんでした。 2018年8月15日 (水) Dirou ~