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=== プロ入り前 ===
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大崎町立大崎小学校3年から[[ソフトボール]]を始め、6年時には全国大会に出場。[[大崎町立大崎中学校|大崎中学校]]時代は[[ボーイズリーグ]]の「鹿屋ビッグベアーズ」に所属し、全国制覇。当時[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]の[[立浪和義]]に憧れており、[[中日ドラゴンズ]]のキャンプを見学した際に入団したばかりの立浪(入団は[[1988年]])からバットやサインをもらったこともある。その11年後にチームメイトとして再会する。
大崎町立大崎小学校3年から[[ソフトボール]]を始め、6年時には全国大会に出場。[[大崎町立大崎中学校|大崎中学校]]時代は[[ボーイズリーグ]]の「鹿屋ビッグベアーズ」に所属し、全国制覇。当時[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]の[[立浪和義]]に憧れており、[[中日ドラゴンズ]]のキャンプを見学した際に入団したばかりの立浪(入団は[[1988年]])からバットやサインをもらったこともある。


[[藤井秀悟]]とは高校2年の冬休みに[[第1回AAAアジア野球選手権大会日本代表]]選出され[[渡辺元智]]監督の期待に応え[[第1回AAAアジア野球選手権大会]]優勝に貢献して以来の親友。名門PL学園では1年の{{by|1993年}}秋から4番を打ち、3年の{{by|1995年}}夏の地方予選では7本塁打を放った。この年の高校No.1スラッガーとしてスカウト陣の注目を浴びた。
[[藤井秀悟]]とは高校2年の冬休みに[[第1回AAAアジア野球選手権大会日本代表]]選出され[[渡辺元智]]監督の期待に応え[[第1回AAAアジア野球選手権大会]]優勝に貢献して以来の親友。名門PL学園では1年の{{by|1993年}}秋から4番を打ち、3年の{{by|1995年}}夏の地方予選では7本塁打を放った。この年の高校No.1スラッガーとしてスカウト陣の注目を浴びた。

2017年12月12日 (火) 15:09時点における版

福留 孝介
阪神タイガース #8
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 鹿児島県曽於郡大崎町
生年月日 (1977-04-26) 1977年4月26日(47歳)
身長
体重
182 cm
93 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1998年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1999年4月2日
MLB / 2008年3月31日
年俸 2億2,000万円(2018年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 1996年2004年
WBC 2006年2009年
オリンピック
男子 野球
1996 野球
2004 野球
ワールド・ベースボール・クラシック
2006 野球
2009 野球

福留 孝介(ふくどめ こうすけ、1977年4月26日 - )は、阪神タイガースに所属する鹿児島県曽於郡大崎町出身のプロ野球選手外野手)。右投左打。

メジャーリーガーで、阪神では2017年からチームキャプテンを務める。

経歴

プロ入り前

大崎町立大崎小学校3年からソフトボールを始め、6年時には全国大会に出場。大崎中学校時代はボーイズリーグの「鹿屋ビッグベアーズ」に所属し、全国制覇。当時PL学園立浪和義に憧れており、中日ドラゴンズのキャンプを見学した際に入団したばかりの立浪(入団は1988年)からバットやサインをもらったこともある。

藤井秀悟とは高校2年の冬休みに第1回AAAアジア野球選手権大会日本代表選出され渡辺元智監督の期待に応え第1回AAAアジア野球選手権大会優勝に貢献して以来の親友。名門PL学園では1年の1993年秋から4番を打ち、3年の1995年夏の地方予選では7本塁打を放った。この年の高校No.1スラッガーとしてスカウト陣の注目を浴びた。

同年のドラフト会議では指名順位1位で7球団が競合する。高校生選手に対する7球団1位指名競合は1985年の清原和博の6球団1位指名競合を上回る歴代1位。当時近鉄バファローズの監督に就任したばかりの佐々木恭介が当たりクジを引き、交渉権を獲得(この際、佐々木は『ヨッシャー』と声をあげて喜んだ)。この時は指名を断り社会人へ進むが、佐々木は後に中日ドラゴンズの打撃コーチ・監督代行となり、時を経て福留を直接指導し、飛躍のきっかけとなった。

本人は「希望球団の中日・巨人以外なら社会人」と意思表示していたこともあって断りを入れ(親族や関係者からセ・リーグ向きだとアドバイスを受け、パ・リーグの球団が指名した場合は社会人へ行こうと決めていた事を後年「ベースボールマガジン」誌のインタビューで語った)、日本生命に進む。シーズンオフに外回りの営業もしていたという。日本生命に進んでからは、当時史上最年少でアトランタオリンピック野球日本代表に選ばれ銀メダル獲得に貢献した。

1998年のドラフト会議で中日を逆指名。ドラフト1位で入団。入団当初のポジションは遊撃手だった。

中日時代

1999年は、当時の星野仙一監督が積極的にスタメンに起用し、また福留も2割8分4厘、16本塁打とこれによく応え、新人としては上々の成績を収めリーグ優勝に貢献した。しかし三振数リーグ1位を記録するなど粗さも目立ち、加えて守備には難があった。9月4日の広島市民球場での対広島戦、0-0で迎えた9回裏二死一・二塁の場面には左翼手の守備に就いていたがフライ性の打球を落球。ランナーを返しサヨナラ試合にした。この試合を始め、ペナントレースや日本シリーズでも敗因に繋がるミスが続出。試合終盤は交代させられた。この年のプロ野球珍プレー好プレーにはエラーを連発する彼(及びそれに怒る星野監督及び高代延博内野守備コーチ)の姿が放送された。ちなみに応援歌は1997年に立浪の応援歌として使用されていたものを転用したものであり、2006年の歌詞変更を経て福留が退団した2007年まで使用された。

2000年後半から守備の負担が少ない三塁手へコンバートされるものの失策続きは相変わらずで、打撃においても前年より成績を落とし、97試合の出場に終わった。

2001年には守備の不安から打撃にも悪影響を及ぼし不振に陥った。6月26日の札幌ドームで初めて行われたプロ野球の試合となった巨人戦1回表、ダレル・メイ投手が投じた第1球をライトスタンドに放り込み、記念すべき同球場の第1球を、第1号ホームランボールとした。この本塁打は、「背番号1の福留が1回表に1番打者として1球目を第1号本塁打」と、「1」尽くめの歴史的本塁打となった札幌ドームでは、その歴史的初本塁打のボールの落下点となった右中間スタンドの座席(111通路20列147番)の床に本人の名前を記した記念プレートが設置されている。

2002年には、山田久志監督の下、二宮至外野コーチの進言により本格的に外野にコンバートされる。当初もやはり守備に難があったものの、辛抱強く起用され続けると、やがて練習の甲斐もあって右翼手に定着する。すると本来の俊足や強肩が生きるようになり、強肩の指標とも言われるライトゴロも記録。また、打撃面ではかつて福留の交渉権を近鉄の監督として引き当て、先述の「ヨッシャー」と歓喜の声を上げた佐々木恭介打撃コーチの下、大幅な打撃改造を行った。更に守備の上達と共に打撃も見違えるほどに成長し、3番に定着。松井秀喜(当時巨人)の三冠王を阻む首位打者のタイトルを獲得、シーズン安打数では球団記録を更新し、一気に素質開花となった。

2003年も3割を達成し、更に初の30本塁打(中日の本拠地がナゴヤドーム移転した1997年以後、中日の日本人選手では初。後の2010年和田一浩が37本塁打を記録し、ナゴヤドーム移転後では中日の日本人選手の球団年間記録となっている)。加えてリーグ最多の三塁打を記録し、最終的には打率.314、34本塁打、96打点を記録して中軸を担うスラッガーとしての評価を不動のものにした。この頃からバックスイング・フォロースルーとも大きく取るフォームを身につけた。

2004年には強打者不在のチーム事情により開幕から4番に座る。またアテネオリンピック野球日本代表の一員として選ばれ、銅メダルを獲得した。オリンピックから帰国しチームに戻るものの、復帰2戦目に阪神下柳剛による死球で骨折。チームは福留を欠いたままリーグ優勝こそ果たすが、西武との日本シリーズでは3勝4敗と惜敗。不在は大きな痛手となった。4番の重圧もあったとはいえ、同年はシーズン途中離脱まで打率.277と低迷した。

2005年は前横浜で、前年まで2年連続本塁打王のタイロン・ウッズが加入したことにより4番の重圧から解放され、開幕から5番打者として活躍し、打率.328、本塁打28本、打点103(100打点以上を上げたのは初めて)という成績を挙げ、最高出塁率、通算3度目のゴールデングラブ賞を受賞。しかし本人はリーグ優勝を逃したからかこの成績にも満足できず、「打率ならあと2厘、ホームランならあと2本を何故打てなかったのか」と、同年の秋キャンプから試行錯誤を重ね、グリップの位置を後ろに引き気味に構えてテークバックを小さくする打撃フォームに変更した。

2006年WBC代表に選出され、スタメン3番として起用されたが、予選リーグでの中国戦の本塁打以外はなかなか結果が出なかった。しかしスタメンから外された準決勝の対韓国戦において、7回に代打で出場し、金炳賢(キム・ビョンヒョン)から先制2点本塁打を放ち、日本の決勝進出に大きく貢献。それまで日本は韓国相手に2敗しており3連敗はできない状況だったためか、この本塁打はマスコミにも大きく取り上げられた。決勝戦でも代打で2点適時打を放つなど、持ち前の勝負強さを発揮した。シーズンに入ってからは開幕は5番で起用されるものの、前を打つ2番藤井淳志、3番井端弘和の不調もあり、3番に昇格する。同年6月14日、インボイスSEIBUドームにおける西武戦で、クリストファー・ギッセルから左中間に二塁打を放ち、通算1000本安打を達成。6月末に太ももを痛め14試合を欠場するものの、復帰後は首位打者争いを独走。同年10月10日、マジックナンバーを1として迎えた対巨人戦で、12回表に決勝点となる勝ち越しタイムリーを放ち優勝を決めると共に、シーズン打率3割5分1厘・長打率6割5分9厘・本塁打30本(最終的には31本塁打)・100打点(最終的には自己最多となる104打点)・100得点を達成。この内、3割・30本・100打点・100得点は中日の選手として1950年西沢道夫以来56年ぶりの達成であった。10月は打率.275、OPS.831とやや調子を落としたが、3月から9月まで月間打率3割、同OPS10割を切ることのない安定した打撃をシーズンを通して続け、2002年以来4年ぶりの首位打者と2年連続の最高出塁率を獲得(4番を担ったウッズも同年47本塁打・144打点と、本塁打のでにくいナゴヤドーム移転により不滅の記録となったかと思われていた西沢の年間球団記録、46本塁打・135打点をともに塗り替えた上で本塁打王・打点王の二冠王に輝き、打撃三部門タイトルは中日所属のこの2人により独占された)。二塁打もセ・リーグのシーズン記録を塗り替える47本を記録した。しかし、日本シリーズではまたしても活躍できず、チームは日本一を逃した。11月14日にはセ・リーグのシーズンMVPを受賞した。ポジションも開幕はライト、その後は元々予定されていたセンターへコンバートされたが、シーズン終盤からはライトに固定となった。オフには12月2日の『スーパーサタデー』に出演した際、司会の峰竜太から「メジャーに興味はありますか?」と聞かれ、「興味がないと言ったら嘘になるので、あります。WBCに出場してメジャーへの憧れがより一層強くなった」と答え、この頃からFA権取得以降のメジャー移籍に含みを持たせる発言をしていた。

2007年はナゴヤドームでの入場曲にレッド・ホット・チリ・ペッパーズの『アラウンド・ザ・ワールド』を使用した(2006年シーズンはホワイト・ストライプスの『ブルー・オーキッド』を使用していた)。開幕から不動の3番(タイロン・ウッズの欠場時には数試合4番で起用された)として活躍するが、7月中旬から右肘に見つかった遊離軟骨の状態が思わしくなく試合出場を見合わせることが多くなり、ファン選出で初めて選ばれたオールスターゲームはウッズの代走から次の打席に指名打者として打席に立った(結果は遊ゴロ)。その後も様子を見つつ症状の改善を図っていたが、8月に渡米して内視鏡による除去手術を行う事を決意。これにより、シーズン中の復帰は不可能に。続くクライマックスシリーズ日本シリーズも出場することはできなかった(日本シリーズ出場選手40人枠には入っていた)。2007年は規定不足ながら、200打席以上の選手では、リーグ内でOPSが2位、NOIが1位と非常に優秀な成績であった。

シーズン終了後にはこの年から適用された故障者特例措置によりFA権を取得し、10月12日に行使。11月12日に、5歳年上の女性と入籍したことも明らかにした。12月16日に第1子(長男)が誕生。

カブス時代

2007年12月12日にはジョー・アーボンを代理人とし、シカゴ・カブスと4年総額4800万ドル(約53億円)の契約に合意。身体検査を経て19日に本拠地で正式契約を交わし、背番号は1になることが発表された。なお報告記者会見は帰国後の22日に行った。カブス入団決定後、地元シカゴのメディアは福留のローマ字表記、「FUKUDOME」が放送禁止用語の「FUCK」を連想させるとして、懸念する記事を掲載した[1]

カブス時代(2008年)

2008年3月31日の開幕戦では5番・右翼手で先発出場しメジャーデビューを果たした。この試合では複数のカブスファンが福留に対し、カブスファンの常套句である「It's gonna happen」(「何かが起こるぞ」あるいは「ついにその時が来た」)の誤訳と思われる「偶然だぞ」と書かれたサインボードを掲げる珍事が起こった[2][3](当時はGoogle翻訳で「It's gonna happen」を訳すと「偶然だぞ」になっていたが、これが話題になったためか、後に修正されている。)。初打席ではベン・シーツから二塁打を放ち、9回無死の場面ではエリック・ガニエから同点3ラン本塁打を放ち、鮮烈な印象を与えるデビューとなった[4]。4月までは打率.327、出塁率.436、長打率.480、OPS.915の成績を残し、多くの地元紙がチーム四球数の増加を受けて「カブス打線を変えた福留」という記事を取り上げる活躍を見せた[5]。その後はオールスターにもファン投票で選出されたが、インコースの速球に弱いと見抜かれると徐々に調子を落とし[6]、以降は打率と出塁率が前月の数字を上回ることがなく、5月以降は打率.241、出塁率.340、長打率.355の成績に終わり、起用法も9月以降は守備要員としての出場が増えていった。チームはディビジョンシリーズに進出したものの、福留自身は第1戦と第2戦でスタメン出場して8打数無安打4三振に終わり、監督のルー・ピネラは「もう福留を使う意味がない」と公言[7]、3戦目の移動のために利用したシカゴのオヘア空港では「フクドメ・コウスケさん、シンシナティ・レッズへ向かってください。トレードが決まりました」[8]といたずらの館内放送を流されるなどファンからも見放され、チームもディビジョンシリーズ3連敗でシーズンを終えた。右翼手として守備は±システム1、DRS3、UZR6.0との数値を残した。

2009年も4月は打率338、出塁率.461、長打率.592、OPS1.052の好成績を残すも、5月以降は打率.245、出塁率.360、長打率.393と失速した。特に左投手に.164と振るわず、後半戦は左投手が先発のときはベンチスタートとなることが増えた。慣れない中堅の守備でも苦労し、中堅手として±システムは-8で両リーグワースト6位、DRS-5は両リーグワースト8位、UZR-7.6は両リーグワースト7位であったが(右翼の守備は依然高レベルであり、44試合の出場ながら±システム9・守備防御点8・UZR7.8を残した)、本人は「納得する形でできた」と自己評価した。

2010年も4月は打率.344、出塁率.443、長打率.525、OPS1.084の好成績を残すも、6月は自己ワーストの月間OPS.485を残すなどその後は失速し、8月2日には打率が.247まで降下したが、それ以降は復調し8月はメジャー3年目で最高となる月間打率.365、出塁率.467、OPS1.118をマークして9月1日には打率が.281まで上昇する。8月10日のAT&Tパークでのサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で、ティム・リンスカムからライトスタンドを越える場外ホームランを放ち、日本人初の「スプラッシュ・ヒット」を記録した(ただし、フェンス最後部にある旗に当たってから海に落下したため、障害物に触れた打球は公式には「スプラッシュ・ヒット」として認定されていない)[9]。しかし9月に再び失速し、最終的に打率や長打率、本塁打数などでカブス移籍後自己最高の成績を残したが、好不調の波が激しかったことが災いし、3年目で初めて規定打席に到達できなかった。守備では右翼手として起用されたが、±システム-3、DRS-3、UZR-4.4と振るわなかった。オフにはシカゴ市内にマンションを購入した他[10]グリーンカードを取得し、カブスとの契約終了後もメジャーでのプレーを希望していることを明らかにした[11][12]

2011年も4月は打率.383、出塁率.486、長打率.400、OPS.886の好成績を残す。しかしその後は例年と同じく調子を落とし、76試合の出場で打率.275、3本塁打、OPS.751の成績で前半戦を折り返したが、1打席あたりの平均球数は7月までリーグトップの4.34を記録。

インディアンス時代

2011年7月28日にアブナー・アブレイユカールトン・スミスとのトレードでクリーブランド・インディアンスへ移籍[13]。背番号は中日、カブス時代と同じ「1」となった[14]。この移籍により、この年の日本人野手は全員アメリカンリーグの球団に所属することになった。

7月29日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で移籍後初出場。8月は打率.293、1本塁打、OPS.744と復調し、27日には契約終了後もMLBでのプレーを希望していることをクリーブランドの地元紙に明かした[15]。9月は4本塁打を放ったものの、打率.216、OPS.623と再び調子を落とし、特に出塁率は移籍前には.374と高い数字を残していたが、移籍後は.300と低下した。最終的にシーズン通算で打率.262、8本塁打、35打点、OPS.712に終わったが、これは打率を除けばメジャー移籍後ワーストの成績であった。一方、安打数はメジャー自己最多139、守備では補殺7、アームレーティング7(いずれも中堅手と右翼手としての合計)と自己ベストの強肩ぶりを見せたが、右翼手として両リーグ最下位のUZR-10.5、同ワースト4位のDRS-1、同じく±システム-6と守備範囲に顕著な課題を残した。

ホワイトソックス時代

2012年2月14日シカゴ・ホワイトソックスと1年50万ドルで契約する(2年目は年俸350万ドルの球団オプション)[16]。主に代打や守備要員として起用されるも、24試合の出場で打率.171、本塁打なし、OPS.489を喫し、6月7日に右わき腹痛でDL入りする。22日にDFAとなり26日に解雇された。

ヤンキース傘下時代

2012年7月13日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。AAA級スクラントンでは39試合の出場で打率.276、2本塁打、OPS.818を残し、外野手の他22試合で一塁手としても起用されるがメジャー昇格はならず、シーズン最終戦の9月3日に解雇された。

阪神時代

阪神タイガース横浜DeNAベイスターズなど複数球団の争奪戦の中、12月25日に阪神タイガースとの入団合意が発表された。翌2013年1月5日に正式契約を交わした後入団会見が行われ、背番号は8に決まった。福留は入団にあたって「長らく待って頂き、正式に入団となりましたが、今はスッキリとした気持ちと大丈夫かなという不安と半々です」とコメントし、入団の決め手について「僕自身が(アマチュア時代に)関西でプレーしたことがありますし、一度プレーしたことのある場所はすんなり入って行けるのではと思いましたので。それと凄く熱心に誘って頂き、最後まで我慢強く待って頂いたという所も僕の中では凄く有り難く、嬉しい気持ちでしたので、そういうところが大きな決め手となりました」とコメントした[17]

2013年、一軍公式戦の開幕から「5番(または6番)・右翼手」として連日スタメンに起用。春先には打点でチームトップを記録していた。4月19日ヤクルト戦(甲子園)では、7回裏に同球場で6年振り(阪神移籍後では初めて)の本塁打を放ったことを皮切りに、2本塁打・6打点と活躍。同点で迎えた延長12回裏には、2死満塁からこの試合2本目となる本塁打を放つことで、チームにサヨナラ勝利をもたらした[18]。しかし、5月3日のヤクルト戦(甲子園)第1打席で一塁へ走った際に左膝を痛めて交代すると、以降の4試合に続けて欠場。同月8日付で出場選手登録を抹消された[19]。同月28日に患部のクリーニング手術を受けてからは[20]、リハビリと二軍での再調整を経て、夏季長期ロード中の8月13日に一軍へ復帰した。同月26日の中日戦(ナゴヤドーム)からは、故障で戦線を離脱したレギュラー中堅手大和の穴を埋めるべく、中日時代の2006年以来6年振りに中堅手としてスタメン出場[21]同月28日の巨人戦(東京ドーム)では、4回表の第2打席で、中日時代の2005年以来7年振りに同カードで本塁打を放った。ところが、6回表の第3打席で安打を放って出塁した際に、左ふくらはぎを痛めて途中交代[22]。その影響で9月1日に出場選手登録を再び抹消された[23]同月11日に一軍へ復帰したが、阪神のシーズン最終戦になった広島とのクライマックスシリーズ・ファーストステージ第2戦10月14日・甲子園)でも、1回裏の第1打席で右足のふくらはぎを痛めて2回表の守備から交代[24]。移籍後最初のシーズンは63試合の出場に留まり、打率は2割、出塁率も3割を下回るなど、「打率3割、出塁率4割」というシーズン前の公約[25]を大きく裏切る結果に終わった。

2014年には、右翼手として公式戦開幕3戦目の巨人戦(3月30日・東京ドーム)2回裏の守備で、大竹寛が放った浅い飛球を追って二塁手西岡剛と激突(記録は右越2点三塁打)。その勢いで宙を舞った西岡は、後頭部からグラウンドに落下したため、大事を取って救急車で病院に搬送された[26](搬送先の病院での診断は鼻骨の骨折・胸部の打撲・軽度の左肩鎖関節の脱臼)[27]。福留もしばらく昏倒していたが、西岡の搬送後から守備に復帰。4回表の第2打席(失策による出塁)で代走を送られるまで出場を続けた[28]後に、病院での診察で胸部打撲との診断を受けた[29]。4月29日の広島戦(甲子園)でブライアン・バリントンから決勝のソロ本塁打を放ってNPB一軍通算200本塁打を記録した[30]が、以降の公式戦では1ヶ月以上長打が出なかった。また、開幕直後から打率が1割台にとどまったことに加えて、緒方凌介の台頭などの影響で次第に出場機会が減少。6月10日から同月26日までは、阪神への入団後初めて、不調を理由に出場選手登録を抹消されていた[31][32]。一軍復帰後は、コンパクトなスイングへの改造によって打撃が復調した[33]ことから、再び右翼のレギュラーを確保。7月10日の中日戦(ナゴヤドーム)では自身10年振りの犠打を成功させるなど、攻守にわたってチームプレーをたびたび披露している[34]。同月22日の巨人戦(甲子園)では、引き分け寸前の延長12回裏2死無走者で迎えた打席で、スコット・マシソンからライトポール直撃のサヨナラ本塁打を放った[35]。福留はこの本塁打で、NPBの一軍公式戦における延長12回以降のサヨナラ本塁打の通算最多記録(3本)を樹立。巨人戦における延長12回以降のサヨナラ本塁打は、阪神球団史上初の快挙であった[33]。さらに、8月1日の対DeNA戦(甲子園)でも、同点で迎えた延長10回裏1死1・3塁から中前にサヨナラ安打。代打で登場した関本賢太郎敬遠四球で出塁した直後の打席で、この日が開場90周年の節目に当たる甲子園球場に花を添えた[36]クライマックスシリーズファーストステージ(対広島、甲子園)では、第1戦で前田健太からソロホームランを放って決勝点を挙げた[37]

2015年3月29日の中日戦(京セラドーム大阪)にて、NPB/MLB通算250本塁打を記録した[38]。5月27日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では、延長11回裏、2死1塁から自身4本目となるサヨナラ本塁打(2ラン)を放ち[39]、さらに翌5月28日にも、延長11回、2死満塁というチャンスで、フルカウントから際どい投球を見送り、押し出し四球を選び、阪神タイガースの球団通算5000勝をサヨナラで飾り[40]、2日連続でサヨナラ劇を演じる。また6月27日の対横浜DeNAベイスターズ戦(甲子園)で、2010年のカブス時代以来5年ぶり、日本球界では2007年の中日時代以来8年ぶりに、年間10号本塁打に達する[41]。9月25日の広島戦では2006年以来となるシーズン20本塁打を記録した[42]。最終的に打率.281は鳥谷敬と並んでチーム最高、20本塁打・76打点と、打撃三部門でいずれもチーム最高の数字を残した[43]。広島とのクライマックスシリーズ(CS)ファーストステージでは、第3戦の7回にソロ本塁打を放ったが[44]、チームは1勝2敗で敗れた[45]

2016年6月20日オリックス戦(甲子園)で、プロ野球史上121人目となるNPB通算1500安打を達成[46]。第1打席に右中間方向への2塁打を放ち王手とすると、続く第2打席にライト前安打を放ち大台に到達した[47]。 その2試合後となる6月25日の広島戦(マツダスタジアム)で、NPB/MLB通算2000本安打を達成した。第2打席にライトへの2塁打を放ち王手とすると、続く第3打席に2塁方向への内野安打を放ち達成した[48]。7月30日の中日戦(甲子園)で、中日に所属していた2003年6月8日の広島戦(ナゴヤドーム)で達成して以来、13年ぶり自身2度目となるサイクル安打を達成した。これはNPBでは通算69度目の達成となる[49]。サイクル安打を複数回達成した選手としては、藤村富美男松永浩美ロバート・ローズに次ぐ4人目となる。また、2016年は7月20日に大島洋平が達成しており、2004年以来となる2人以上のサイクル安打達成者が誕生した年となった[50]。なお、このサイクル安打は39歳3か月での達成であり、1983年4月30日に達成した山本浩二の36歳6か月を更新し、最年長記録を塗り替えた[51]。 最終的に打率.311、11本塁打を記録した。

2017年、球団史上最年長の40歳でチームキャプテンに就任。前年まで5シーズン務めてきた鳥谷の後任で、他球団からの移籍によって阪神へ入団した選手からの起用は球団史上初めてであった[52]。レギュラーシーズン中は、左投手の先発が予告された試合を中心に、首脳陣の方針で「積極的休養」(週に1~2試合ペースでの欠場)をはさみながら一軍公式戦93試合で4番打者に起用[53]。6月6日の対オリックス戦(京セラドーム)からは、守備位置を右翼から14年振りに左翼へ変更した[54]。レギュラーシーズン全体では、127試合の出場でチーム2位の18本塁打、前年を上回る79打点、打率.263をマーク。開幕から本塁打を放った試合でチームを12連勝に導いたり[55]、8月に休養明けの5試合で全て本塁打を放ったり[56]するなど、前述した首脳陣の配慮にも応え続けた。レギュラーシーズン終盤の9月には、甲子園球場で3日に催された古巣の中日戦で、NPB一軍公式戦通算350二塁打を達成[57]。29日の対DeNA戦(横浜)では、全4打席の出塁でシーズン初の4打点を挙げたことによって、チームの大勝と2年振りCS進出確定に貢献した[58]。DeNAとのCSファーストステージ(甲子園)では、40歳5ヶ月で迎えた10月14日の第1戦で決勝本塁打を放ったことによって、NPBのポストシーズンにおける決勝本塁打の最年長記録を更新[59]。しかし、日本シリーズへの進出には至らず、12月11日には推定年俸2億2,000万円(前年から1,000万円減)という条件で契約を更改した[60]

選手としての特徴

打撃

高校時代より節目ごとにフォーム改造に取り組んでおり、打球を広角に放つことができる[61]。中日時代に30本塁打以上を2度記録しているが、カブス移籍後は1、2番での起用が多くなり、出塁を優先するスタイルとなった[62]。中日時代に3度の最高出塁率を記録し、現役のメジャーリーガー中7位の通算四球率.134を記録した打席での辛抱強さと出塁能力の高さはメジャーでも高い評価を得た[62]。2009年には日本人選手MLBシーズン最多記録となる93個の四球を選んでいる。しかし、中日時代から左投手に対しての好不調の波が年によって激しく[63]、2009年には左投手に対し打率.164と不振に陥り、カブス時代はそれ以降左投手と対戦する場合の先発を外れることが多くなった他[62]、メジャー時代は例年4月は通算打率.345、OPS.979と好成績を残したが、5月以降は通算打率.244、OPS.718と結果を残せずにいた。

守備・走塁

守備では主に右翼手に就き、メジャーの右翼手としての平均を上回る強肩を備える[64]。右翼守備ではフライの読みに優れ[64]、カブス時代の2008年と2009年は外野の守備が難しい球場として知られているリグレー・フィールドを本拠地としながらも[65][66]2009年までは右翼手でのDRSUZR共に高い数値を記録したが、2010年以降は振るわず、通算DRS2、通算UZR-2.2を記録した。中堅手としても起用されたが、中堅手では通算DRS-10、通算UZR-9.7と平均を大きく下回る数値を喫した。

走塁では盗塁の試行数は多くないものの、一塁到達まで4.05秒を記録する俊足を誇る[65]

人物

愛称は「ドメさん」「ドメ」。

野球を始めた当初は右打ちで、右手の力が強すぎるため打球がことごとくレフト方向に切れファウルになっていた[67]。小学4年生時に周囲の勧めもあり左打ちに転向した[67]

中日在籍当時は孝介あんかけや孝介カレーなどの食品をプロデュースするなどの活動を行っていた[68]

マネジメントはよしもとクリエイティブ・エージェンシーが担当している[69]

阪神移籍後の2013年4月23日に古巣・ナゴヤドームで開かれた中日戦では、5回裏にチームメートの久保田智之が同年初の一軍登板(救援)で8失点を喫すると、イニング終了後に阪神ベンチの上から久保田に向けて野次を飛ばした観客へグラウンド上から応戦するという一幕があった[70]

同郷の後輩にあたる大和(前田大和)や榎田大樹金田和之を食事に誘って「鹿児島県人会」を開催している[71]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1999 中日 132 526 461 76 131 25 2 16 208 52 4 7 8 2 50 1 5 121 3 .284 .359 .451 .810
2000 97 368 316 50 80 18 2 13 141 42 8 5 2 2 45 3 4 79 5 .253 .350 .446 .796
2001 120 442 375 51 94 22 2 15 165 56 8 4 4 3 56 4 4 90 4 .251 .352 .440 .792
2002 140 608 542 85 186 42 3 19 291 65 4 2 0 5 56 2 5 96 4 .343 .406 .537 .943
2003 140 617 528 107 165 30 11 34 319 96 10 5 1 6 78 1 4 118 5 .313 .401* .604 1.005*
2004 92 404 350 61 97 19 7 23 199 81 8 3 1 2 48 0 3 93 3 .277 .367 .569 .936
2005 142 612 515 102 169 39 6 28 304 103 13 5 0 3 93 3 1 128 8 .328 .430 .590 1.020
2006 130 578 496 117 174 47 5 31 324 104 11 2 0 3 76 4 3 94 4 .351 .438 .653 1.091
2007 81 348 269 64 79 22 0 13 140 48 5 2 0 4 69 3 6 66 5 .294 .443 .520 .963
2008 CHC 150 590 501 79 129 25 3 10 190 58 12 4 2 5 81 9 1 104 7 .257 .359 .379 .738
2009 146 595 499 79 129 38 5 11 210 54 6 10 3 5 93 3 3 112 15 .259 .375 .421 .796
2010 130 429 358 45 94 20 2 13 157 44 7 8 3 4 64 1 0 67 5 .263 .371 .439 .809
2011 87 345 293 33 80 15 2 3 108 13 2 2 5 0 46 1 1 57 2 .273 .374 .369 .742
CLE 59 258 237 26 59 12 1 5 88 22 2 4 1 2 15 3 3 53 6 .249 .300 .371 .671
'11計 146 603 530 59 139 27 3 8 196 35 4 6 6 2 61 4 4 110 8 .262 .342 .370 .712
2012 CWS 24 51 41 2 7 1 0 0 8 4 0 1 0 2 8 0 0 9 0 .171 .294 .195 .489
2013 阪神 63 241 212 18 42 11 0 6 71 31 0 1 0 0 28 3 1 43 1 .198 .295 .335 .630
2014 104 367 312 20 79 8 0 9 114 34 1 1 3 4 47 0 1 48 11 .253 .349 .365 .714
2015 140 569 495 53 139 24 3 20 229 76 1 2 1 7 65 1 1 75 15 .281 .361 .463 .824
2016 131 523 453 52 141 25 3 11 205 59 0 1 0 6 61 5 3 78 6 .311 .392 .453 .845
2017 127 526 441 68 116 20 3 18 196 79 1 2 1 4 77 1 3 92 17 .263 .373 .444 .818
NPB:14年 1639 6729 5765 924 1692 352 47 256 2906 926 74 42 21 51 849 43 43 1221 91 .293 .385 .504 .889
MLB:5年 596 2276 1929 264 498 111 13 42 761 195 29 29 14 18 307 17 8 402 35 .258 .359 .395 .754
  • 2003年は規定打席到達者の中でリーグ1位。同年は、ロベルト・ペタジーニが規定打席に20打席不足していたが、20打席分を凡打と仮定しても、出塁率.436、OPS1.079でいずれも福留を上回る。なお、この場合、現在の公認野球規則10.22(a)では最高出塁率はペタジーニとなるが、当時は出塁率は対象外だった。
  • 2017年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

WBCでの打撃成績

















































2006 日本 8 25 22 4 4 0 0 2 10 6 0 0 0 1 2 0 0 2 0 .182 .240 .455
2009 7 27 20 4 4 0 0 0 4 0 0 0 0 0 7 0 0 7 0 .200 .200 .407

五輪での打撃成績

















































1996 日本 9 34 32 8 9 0 0 2 15 8 1 0 0 0 1 0 1 7 0 .281 .324 .469
2004 9 44 38 11 12 2 0 3 23 10 0 0 0 1 5 0 0 9 0 .316 .605 1.026

年度別守備成績

MLB

左翼手(LF) 中堅手(CF) 右翼手(RF) 外野手(OF)
















































2008 - 12 10 0 0 0 1.000 137 245 6 5 0 .980 143 255 6 5 0 .981
2009 - 113 226 4 2 1 .991 44 79 1 0 1 1.000 140 305 5 2 2 .994
2010 - - 110 190 4 1 1 .995 110 190 4 1 1 .995
2011 - 13 29 1 1 0 .968 131 265 6 3 2 .989 141 294 7 4 2 .987
2012 10 17 0 0 0 1.000 1 2 0 0 0 1.000 4 3 0 0 0 1.000 15 22 0 0 0 1.000
通算 10 17 0 0 0 1.000 139 267 5 3 1 .989 426 782 17 9 4 .989 549 1066 22 12 5 .989
  • 2012年度シーズン終了時
NPB(内野守備)


一塁 二塁 三塁 遊撃
















































1999 中日 - 1 0 1 1 0 .500 44 15 35 4 2 .926 109 138 254 13 49 .968
2000 - - 30 10 36 4 4 .920 77 111 186 10 33 .967
2001 1 0 0 0 0 ---- - 51 30 79 3 8 .973 11 14 26 1 6 .976
通算 1 0 0 0 0 .--- 1 0 1 1 0 .500 125 55 150 11 14 .949 197 263 466 24 88 .968
NPB(外野守備)


外野手












1999 中日 12 9 0 1 0 .900
2001 61 90 1 2 0 .978
2002 139 241 14 4 3 .985
2003 136 244 14 4 2 .985
2004 92 147 10 1 1 .994
2005 141 256 12 0 2 1.000
2006 129 251 7 1 1 .996
2007 79 171 6 3 1 .983
2013 阪神 58 105 6 1 2 .991
2014 99 180 4 0 2 1.000
2015 133 226 5 0 0 1.000
2016 122 177 5 1 1 .995
2017 118 184 1 4 0 .971
通算 1329 2110 85 22 15 .990
  • 2017年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

NPB

表彰

NPB

記録

NPB初記録
NPB節目の記録
NPBその他の記録
  • サイクルヒット:2回 ※史上55人目(複数回は史上4人目)
    • 1回目:2003年6月8日、対広島東洋カープ14回戦(ナゴヤドーム) ※史上59度目
    • 2回目:2016年7月30日、対中日ドラゴンズ17回戦(阪神甲子園球場) ※史上69度目 、最年長記録(39歳3カ月)
  • 5試合連続本塁打:2003年9月9日 - 9月13日
  • シーズン47二塁打:2006年 ※セ・リーグ記録
  • シーズン186安打:2002年 ※中日球団記録
  • オールスターゲーム出場:4回 (1999年、2002年 - 2004年) ※2006年も選出されるも出場辞退[72]
MLB
NPB/MLB通算節目の記録

背番号

登場曲

代表歴

関連情報

出演

CM
漫画
参考文献

脚注

  1. ^ 福留悩ます“F問題”英語で発音するとアノ禁止用語に でもインパクトは十分!!夕刊フジ、2008年2月13日
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  9. ^ 決勝T舞台は日本人快挙連発 イチに新庄、福留も スポーツニッポン(2013年3月13日)
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関連項目

外部リンク

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