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初名は'''長賢'''(ながかた)。[[寛延]]元年([[1748年]])11月28日元服<ref>十三歳。額髪を落としたのは[[宝暦]]2年十六歳の時であった。</ref>、将軍[[徳川家重]]に拝謁、[[偏諱]]を受けて'''重政'''と改名。同時に従四位下、修理大夫に叙任する。この時家重並びに大御所[[徳川吉宗|吉宗]]、世子[[徳川家治|家治]]との献上、下賜の贈答があった。この時はじめ登城の際には多く[[黒田長邦]]が伴われ、また名代を務めている。翌年には定府馬廻高木太左衛門が使者として上洛し、正式に従四位下、修理大夫に叙任された。幼少時より「実に父君の風あり」「英明の器量ましまし」(『黒田新続家譜巻之二十七』)と将来を嘱望されていた。
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宝暦12年(1762年)6月浮腫を発し重篤となり、7月14日に父に先立ち26歳で早世した。瑛光院瑞嶽紹鳳と追謚された。弟の[[黒田長経|長経]]も翌年に早世し、これによって初代藩主・[[黒田長政|長政]]以来の黒田本家の血統は途絶えることとなった。
宝暦12年(1762年)6月浮腫を発し重篤となり、7月14日に父に先立ち26歳で早世した。
瑛光院瑞嶽紹鳳と追謚された。弟の[[黒田長経|長経]]も翌年に早世し、これによって初代藩主・[[黒田長政|長政]]以来の黒田本家の血統は途絶えることとなった。

墓所は福岡市博多区千代、宗福寺。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2016年6月6日 (月) 15:24時点における版

 
黒田 重政
時代 江戸時代
生誕 元文2年9月10日1737年10月3日
死没 宝暦12年7月14日1762年9月2日
改名 左京→長賢→重政
別名 左京
官位 従四位下修理大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
筑前福岡藩世子
氏族 黒田氏
父母 父:黒田継高 母:智海院
兄弟 重政長経(三男)、藤子(池田宗政正室)、為姫(酒井忠温正室)、娘(久松松平定邦正室)、正姫(黒田長邦正室)、清子(立花鑑通正室)、麻姫(南部利謹正室)、代々姫(広橋伊光室)、厚姫(醍醐冬香婚約者)
正室:菊姫眞含院薩摩藩主・島津継豊の娘)
男子某、屋世姫
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黒田 重政(くろだ しげまさ、元文2年9月10日1737年10月3日[1] - 宝暦12年7月14日1762年9月2日))は、筑前国福岡藩の世嗣。第6代藩主黒田継高の長男。生母は智海院。正室は薩摩藩主島津継豊の娘・菊姫。子は1男1女で、男子某と黒田治之と婚約した娘、屋世姫の2人。通称は左京。官位は従四位下、修理大夫。

略歴

初名は長賢(ながかた)。寛延元年(1748年)11月28日元服[2]、将軍徳川家重に拝謁、偏諱を受けて重政と改名。同時に従四位下、修理大夫に叙任する。この時家重並びに大御所吉宗、世子家治との献上、下賜の贈答があった。この時はじめ登城の際には多く黒田長邦が伴われ、また名代を務めている。翌年には定府馬廻高木太左衛門が使者として上洛し、正式に従四位下、修理大夫に叙任された。幼少時より「実に父君の風あり」「英明の器量ましまし」(『黒田新続家譜巻之二十七』)と将来を嘱望されていた。

宝暦5年(1755年島津継豊の娘・菊姫と結婚。同7年(1757年)帰国を許され、翌8年(1758年)1月25日初のお国入りを果たす。この時弟長経と兵法の間で対面している。同年5月には家中諸士の礼を受け、10月江戸に初参勤、将軍家重に拝謁する。これ以降継高の名代を果たす機会が増え、宝暦10年(1760年)の帰国時には単独で二の丸にて家臣の武術を見、8月には継高に伴われて長崎へ赴き実地を見聞した。このように着々と次期藩主としての地歩を固めていた。

宝暦12年(1762年)6月浮腫を発し重篤となり、7月14日に父に先立ち26歳で早世した。 瑛光院瑞嶽紹鳳と追謚された。弟の長経も翌年に早世し、これによって初代藩主・長政以来の黒田本家の血統は途絶えることとなった。

墓所は福岡市博多区千代、宗福寺。

脚注

  1. ^ 「黒田家譜」による。「寛政重修諸家譜」などでは享保19年(1734年)生まれ。
  2. ^ 十三歳。額髪を落としたのは宝暦2年十六歳の時であった。
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