「黒田重政」の版間の差分
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初名は'''長賢'''(ながかた)。[[寛延]]元年([[1748年]])11月28日元服<ref>十三歳。額髪を落としたのは[[宝暦]]2年十六歳の時であった。</ref>、将軍[[徳川家重]]に拝謁、[[偏諱]]を受けて'''重政'''と改名。同時に従四位下、修理大夫に叙任する。この時家重並びに大御所[[徳川吉宗|吉宗]]、世子[[徳川家治|家治]]との献上、下賜の贈答があった。この時はじめ登城の際には多く[[黒田長邦]]が伴われ、また名代を務めている。翌年には定府馬廻高木太左衛門が使者として上洛し、正式に従四位下、修理大夫に叙任された。幼少時より「実に父君の風あり」「英明の器量ましまし」(『黒田新続家譜巻之二十七』)と将来を嘱望されていた。 |
初名は'''長賢'''(ながかた)。[[寛延]]元年([[1748年]])11月28日元服<ref>十三歳。額髪を落としたのは[[宝暦]]2年十六歳の時であった。</ref>、将軍[[徳川家重]]に拝謁、[[偏諱]]を受けて'''重政'''と改名。同時に従四位下、修理大夫に叙任する。この時家重並びに大御所[[徳川吉宗|吉宗]]、世子[[徳川家治|家治]]との献上、下賜の贈答があった。この時はじめ登城の際には多く[[黒田長邦]]が伴われ、また名代を務めている。翌年には定府馬廻高木太左衛門が使者として上洛し、正式に従四位下、修理大夫に叙任された。幼少時より「実に父君の風あり」「英明の器量ましまし」(『黒田新続家譜巻之二十七』)と将来を嘱望されていた。 |
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[[宝暦]]5年([[1755年]])[[島津継豊]]の娘・[[眞含院|菊姫]]と結婚。同7年([[1757年]])帰国を許され、翌8年([[1758年]])1月25日初のお国入りを果たす。この時弟[[黒田長経|長経]]と兵法の間で対面している。同年5月には家中諸士の礼を受け、10月江戸に初参勤、将軍家重に拝謁する。これ以降継高の名代を果たす機会が増え、[[宝暦]]10年([[1760年]])の帰国時には単独で二の丸にて家臣の武術を見、8月には継高に伴われて長崎へ赴き実地を見聞した。このように着々と次期藩主としての地歩を固めていた |
[[宝暦]]5年([[1755年]])[[島津継豊]]の娘・[[眞含院|菊姫]]と結婚。同7年([[1757年]])帰国を許され、翌8年([[1758年]])1月25日初のお国入りを果たす。この時弟[[黒田長経|長経]]と兵法の間で対面している。同年5月には家中諸士の礼を受け、10月江戸に初参勤、将軍家重に拝謁する。これ以降継高の名代を果たす機会が増え、[[宝暦]]10年([[1760年]])の帰国時には単独で二の丸にて家臣の武術を見、8月には継高に伴われて長崎へ赴き実地を見聞した。このように着々と次期藩主としての地歩を固めていた。<!--西日本一帯に深刻な打撃を与えた[[享保の大飢饉]]などに起因する藩の困難な財政状況を乗り切るのに力を使い果たしたか、それとも精力的な父の元で神経をすり減らしたか、←推測の域を出ないのでコメントアウト。--> |
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宝暦12年(1762年)6月浮腫を発し重篤となり、7月14日に父に先立ち26歳で早世した。瑛光院瑞嶽紹鳳と追謚された。弟の[[黒田長経|長経]]も翌年に早世し、これによって初代藩主・[[黒田長政|長政]]以来の黒田本家の血統は途絶えることとなった。 |
宝暦12年(1762年)6月浮腫を発し重篤となり、7月14日に父に先立ち26歳で早世した。 |
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瑛光院瑞嶽紹鳳と追謚された。弟の[[黒田長経|長経]]も翌年に早世し、これによって初代藩主・[[黒田長政|長政]]以来の黒田本家の血統は途絶えることとなった。 |
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墓所は福岡市博多区千代、宗福寺。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2016年6月6日 (月) 15:24時点における版
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 元文2年9月10日(1737年10月3日) |
死没 | 宝暦12年7月14日(1762年9月2日) |
改名 | 左京→長賢→重政 |
別名 | 左京 |
官位 | 従四位下修理大夫 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 筑前福岡藩世子 |
氏族 | 黒田氏 |
父母 | 父:黒田継高 母:智海院 |
兄弟 | 重政、長経(三男)、藤子(池田宗政正室)、為姫(酒井忠温正室)、娘(久松松平定邦正室)、正姫(黒田長邦正室)、清子(立花鑑通正室)、麻姫(南部利謹正室)、代々姫(広橋伊光室)、厚姫(醍醐冬香婚約者) |
妻 | 正室:菊姫(眞含院、薩摩藩主・島津継豊の娘) |
子 | 男子某、屋世姫 |
黒田 重政(くろだ しげまさ、元文2年9月10日(1737年10月3日)[1] - 宝暦12年7月14日(1762年9月2日))は、筑前国福岡藩の世嗣。第6代藩主黒田継高の長男。生母は智海院。正室は薩摩藩主島津継豊の娘・菊姫。子は1男1女で、男子某と黒田治之と婚約した娘、屋世姫の2人。通称は左京。官位は従四位下、修理大夫。
略歴
初名は長賢(ながかた)。寛延元年(1748年)11月28日元服[2]、将軍徳川家重に拝謁、偏諱を受けて重政と改名。同時に従四位下、修理大夫に叙任する。この時家重並びに大御所吉宗、世子家治との献上、下賜の贈答があった。この時はじめ登城の際には多く黒田長邦が伴われ、また名代を務めている。翌年には定府馬廻高木太左衛門が使者として上洛し、正式に従四位下、修理大夫に叙任された。幼少時より「実に父君の風あり」「英明の器量ましまし」(『黒田新続家譜巻之二十七』)と将来を嘱望されていた。
宝暦5年(1755年)島津継豊の娘・菊姫と結婚。同7年(1757年)帰国を許され、翌8年(1758年)1月25日初のお国入りを果たす。この時弟長経と兵法の間で対面している。同年5月には家中諸士の礼を受け、10月江戸に初参勤、将軍家重に拝謁する。これ以降継高の名代を果たす機会が増え、宝暦10年(1760年)の帰国時には単独で二の丸にて家臣の武術を見、8月には継高に伴われて長崎へ赴き実地を見聞した。このように着々と次期藩主としての地歩を固めていた。
宝暦12年(1762年)6月浮腫を発し重篤となり、7月14日に父に先立ち26歳で早世した。 瑛光院瑞嶽紹鳳と追謚された。弟の長経も翌年に早世し、これによって初代藩主・長政以来の黒田本家の血統は途絶えることとなった。
墓所は福岡市博多区千代、宗福寺。