広橋伊光
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 延享2年6月16日(1745年7月15日) |
死没 | 文政6年4月4日(1823年5月14日)[1] |
別名 | 号:勁松院 |
官位 | 従一位、准大臣 |
主君 | 光格天皇 |
氏族 | 広橋家 |
父母 | 父:広橋勝胤、母:成瀬正幸の娘 |
兄弟 | 伊光、東坊城益良 |
妻 | 正室:代々姫(黒田継高の十女) |
子 |
胤定、竹屋光棣、交野時雍、七条信敬、竹屋俊康、南光度、五条為徳室、 光子[2]ら |
広橋 伊光(ひろはし これみつ)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿。広橋勝胤の子。官位は従一位。准大臣。広橋家23代当主。家禄は850石。
経歴
[編集]22代当主・広橋勝胤の子として誕生。母は成瀬正幸の娘。正室は黒田継高の娘・代々姫。
尊号事件では、議奏を務めていたため罪に問われ、寛政5年(1793年)に参内20日停止となった。享和3年(1803年)から文化10年(1813年)9月まで、武家伝奏を長く務めた。法号は勁松院。日記「勁槐記」を残した。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 中宮上臈号梅仙院