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'''葛城 文子'''(かつらぎふみこ、[[1878年]][[7月29日]] - [[1945年]][[8月19日]]<ref name="日外">『芸能人物事典 明治大正昭和』、[[日外アソシエーツ]]、1998年、「葛城文子」の項。</ref>)は、日本の[[俳優|女優]]である。本名は'''増田 ゆき'''(ますだ ゆき)である<ref name="日外" />。[[井上正夫]]の[[サイレント映画]]に、1917年(大正16年)に出演し、「日本の映画女優第一号」と呼ばれた[[花柳はるみ]]よりも2年早く映画女優となった人物である<ref name="日外" />。


== 人物・来歴 ==
== 人物・来歴 ==
[[1878年]](明治11年)[[7月29日]]、[[東京府]][[東京市]][[芝区]](現在の[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]芝)に「増田ユキ」として生まれる<ref name="日外" />。
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旧制・[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](現在の[[東京藝術大学]][[音楽学部]])を卒業する<ref name="日外" />。満27歳を迎える1905年(明治38年)から、[[文士劇]]の舞台に上がる<ref name="日外" />。井上正夫の主宰する東京・[[有楽町]]の[[有楽座 (旧)|有楽座]]での女優劇や、井上が製作した[[連鎖劇]]等に出演する<ref name="日外" />。
旧制・[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](現在の[[東京藝術大学]][[音楽学部]])を卒業する<ref name="日外" />。満27歳を迎える1905年(明治38年)から、[[文士劇]]の舞台に上がる<ref name="日外" />。井上正夫の主宰する東京・[[有楽町]]の[[有楽座]]での女優劇や、井上が製作した[[連鎖劇]]等に出演する<ref name="日外" />。


1917年(大正6年)、[[小林喜三郎]]の[[小林商会]]で、井上が主演・監督する映画『[[毒草 (小説)#1917年 小林商会版|毒草]]』に出演し、映画界にデビューする<ref name="日外" />。同作は、[[天活]]、[[日活向島撮影所]]との3社競作で、葛城の演じた「お仙」の役は、天活版では[[東猛夫]]、日活向島版では[[二島竹松]]が演じていた<ref>『日本映画発達史 1 活動写真時代』、[[田中純一郎]]、[[中央公論社]]、1968年、p.273.</ref>。当時の映画は、[[歌舞伎]](旧劇)の影響下にあった[[時代劇]]も、[[新派]]の影響下にあった[[現代劇]]も、いずれも男性俳優が務める[[女形]]しか出演しておらず、井上の映画も女形を排してはいなかった。[[新劇]]運動の流れから、1919年(大正8年)、[[帰山教正]]が監督し、花柳はるみが主演した『[[深山の乙女 (1919年の映画)|深山の乙女]]』まで、女形が混在しない、女優の登場する映画は存在しなかった。
1917年(大正6年)、[[小林喜三郎]]の[[小林商会]]で、井上が主演・監督する映画『[[毒草 (小説)#1917年 小林商会版|毒草]]』に出演し、映画界にデビューする<ref name="日外" />。同作は、[[天活]]、[[日活向島撮影所]]との3社競作で、葛城の演じた「お仙」の役は、天活版では[[東猛夫]]、日活向島版では[[二島竹松]]が演じていた<ref>『日本映画発達史 1 活動写真時代』、[[田中純一郎]]、[[中央公論社]]、1968年、p.273.</ref>。当時の映画は、[[歌舞伎]](旧劇)の影響下にあった[[時代劇]]も、[[新派]]の影響下にあった[[現代劇]]も、いずれも男性俳優が務める[[女形]]しか出演しておらず、井上の映画も女形を排してはいなかった。[[新劇]]運動の流れから、1919年(大正8年)、[[帰山教正]]が監督し、花柳はるみが主演した『[[深山の乙女 (1919年の映画)|深山の乙女]]』まで、女形が混在しない、女優の登場する映画は存在しなかった。


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1929年(昭和4年)、[[松竹蒲田撮影所]]に入社する<ref name="日外" />。翌[[1930年]](昭和5年)[[2月22日]]、[[浅草公園六区]]の[[帝国館]]で公開された、[[清水宏 (映画監督)|清水宏]]監督、[[龍田静枝]]主演のサイレント映画『[[紅唇罪あり]]』に出演した。すでに満51歳となっていた葛城は、同作では、主演の龍田の母親役であった。1936年(昭和11年)の大船への移転まで、蒲田で多くの淑女・母親役を務めた。大船移転後も同様であるが、1941年(昭和16年)には[[松竹大船撮影所]]が[[中華電影]]と共同製作した、[[渋谷実]]監督の『[[国 (映画)|桜の国]]』にも出演した。


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[[第二次世界大戦]]末期の[[1945年]](昭和20年)にも、[[佐々木康]]監督の『[[乙女のゐる基地]]』、[[東宝]]に移籍していた[[成瀬巳喜男]]監督の『[[三十三間堂通し矢物語]]』に出演したが、同年8月15日の終戦日の4日後、同年[[8月19日]]に逝去<ref name="日外" />。満67歳没。
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* 『[[隣の八重ちゃん]]』 : 監督島津保次郎 - 配役・母・杉子
* 『[[隣の八重ちゃん]]』 : 監督島津保次郎 - 配役・母・杉子
* 『[[お小夜恋姿]]』 : 監督島津保次郎 - 配役・その母歌子
* 『[[お小夜恋姿]]』 : 監督島津保次郎 - 配役・その母歌子
* 『[[金環蝕 (久米正雄)#映画|金環蝕]]』 : 監督清水宏 - 配役・神田の叔母
* 『[[金環蝕 (1934年の映画)|金環蝕]]』 : 監督清水宏 - 配役・神田の叔母


;1935年
;1935年
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* 『[[碑 (映画)|碑]]』 : 監督[[原研吉]]、松竹下加茂撮影所
* 『[[碑 (映画)|碑]]』 : 監督[[原研吉]]、松竹下加茂撮影所
* 『[[北極光]]』 : 監督田中重雄、新興キネマ東京撮影所 - 配役・松岡由乃(あき子の母)
* 『[[北極光]]』 : 監督田中重雄、新興キネマ東京撮影所 - 配役・松岡由乃(あき子の母)
* 『[[]]』 : 監督渋谷実、[[華北電影]]提携製作 - 配役・新子の母
* 『[[国 (映画)|桜の国]]』 : 監督渋谷実、[[華北電影]]提携製作 - 配役・新子の母
* 『[[太陽先生]]』 : 監督[[深田修造]]、新興キネマ東京撮影所 - 配役・万寿子の母松枝
* 『[[太陽先生]]』 : 監督[[深田修造]]、新興キネマ東京撮影所 - 配役・万寿子の母松枝


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;1944年
;1944年
* 『[[激流 (1944年の映画)|激流]]』 : 監督[[家城巳代治]] - 配役・牧千代
* 『[[激流 (1944年の映画)|激流]]』 : 監督[[家城巳代治]] - 配役・牧千代
* 『[[君こそ次の荒鷲だ]]』 : 監督穂積利昌 - 配役・間宮生徒の母


;1945年
;1945年

2016年3月18日 (金) 14:28時点における版

かつらぎ ふみこ
葛城 文子
本名 増田 ゆき ますだ ゆき
生年月日 (1878-07-29) 1878年7月29日
没年月日 (1945-08-19) 1945年8月19日(67歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市芝区
(現在の東京都港区芝)
死没地 日本の旗 日本
職業 女優
ジャンル 演劇映画
活動期間 1905年 - 1945年
活動内容 1905年 文士劇連鎖劇
1917年 小林商会で映画デビュー
1930年 松竹蒲田撮影所
1936年 松竹大船撮影所
主な作品
毒草
淑女と髭
愛染かつら
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葛城 文子(かつらぎふみこ、1878年7月29日 - 1945年8月19日[1])は、日本の女優である。本名は増田 ゆき(ますだ ゆき)である[1]井上正夫サイレント映画に、1917年(大正16年)に出演し、「日本の映画女優第一号」と呼ばれた花柳はるみよりも2年早く映画女優となった人物である[1]

人物・来歴

1878年(明治11年)7月29日東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に「増田ゆき」として生まれる[1]

旧制・東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)を卒業する[1]。満27歳を迎える1905年(明治38年)から、文士劇の舞台に上がる[1]。井上正夫の主宰する東京・有楽町有楽座での女優劇や、井上が製作した連鎖劇等に出演する[1]

1917年(大正6年)、小林喜三郎小林商会で、井上が主演・監督する映画『毒草』に出演し、映画界にデビューする[1]。同作は、天活日活向島撮影所との3社競作で、葛城の演じた「お仙」の役は、天活版では東猛夫、日活向島版では二島竹松が演じていた[2]。当時の映画は、歌舞伎(旧劇)の影響下にあった時代劇も、新派の影響下にあった現代劇も、いずれも男性俳優が務める女形しか出演しておらず、井上の映画も女形を排してはいなかった。新劇運動の流れから、1919年(大正8年)、帰山教正が監督し、花柳はるみが主演した『深山の乙女』まで、女形が混在しない、女優の登場する映画は存在しなかった。

1929年(昭和4年)、松竹蒲田撮影所に入社する[1]。翌1930年(昭和5年)2月22日浅草公園六区帝国館で公開された、清水宏監督、龍田静枝主演のサイレント映画『紅唇罪あり』に出演した。すでに満51歳となっていた葛城は、同作では、主演の龍田の母親役であった。1936年(昭和11年)の大船への移転まで、蒲田で多くの淑女・母親役を務めた。大船移転後も同様であるが、1941年(昭和16年)には松竹大船撮影所中華電影と共同製作した、渋谷実監督の『桜の国』にも出演した。

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)にも、佐々木康監督の『乙女のゐる基地』、東宝に移籍していた成瀬巳喜男監督の『三十三間堂通し矢物語』に出演したが、同年8月15日の終戦日の4日後、同年8月19日に逝去[1]。満67歳没。

フィルモグラフィ

小林商会

1917

松竹蒲田撮影所

1930年
1931年
1932年
1933年
1934年
1935年

松竹大船撮影所

1937年
1938年
1939年
1940年
1941年
  • 戸田家の兄妹』 : 監督小津安二郎 - 配役・母
  • 』 : 監督原研吉、松竹下加茂撮影所
  • 北極光』 : 監督田中重雄、新興キネマ東京撮影所 - 配役・松岡由乃(あき子の母)
  • 桜の国』 : 監督渋谷実、華北電影提携製作 - 配役・新子の母
  • 太陽先生』 : 監督深田修造、新興キネマ東京撮影所 - 配役・万寿子の母松枝
1942年
1943年
1944年
1945年

  1. ^ a b c d e f g h i j 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年、「葛城文子」の項。
  2. ^ 『日本映画発達史 1 活動写真時代』、田中純一郎中央公論社、1968年、p.273.

外部リンク

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