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2009年8月3日 (月) 08:49時点における版

鴻池 祥肇
こうのいけ よしただ
生年月日 (1940-11-28) 1940年11月28日(84歳)
出生地 兵庫県尼崎市
出身校 早稲田大学教育学部卒業
前職 日本青年会議所会頭
所属政党 自由民主党
称号 教育学士(早稲田大学・)
剣道六段
親族 鴻池勝治
公式サイト 鴻池祥肇

日本の旗 構造改革特区担当大臣
内閣 第1次小泉第1次改造内閣
在任期間 2003年4月1日 - 2003年9月22日

日本の旗 防災担当大臣
内閣 第1次小泉第1次改造内閣
在任期間 2002年9月30日 - 2003年9月22日

選挙区 兵庫県選挙区
当選回数 3回
在任期間 1995年7月23日 - 現職

選挙区 兵庫県第2区
当選回数 2回
在任期間 1986年 - 1993年
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鴻池 祥肇(こうのいけ よしただ、昭和15年(1940年11月28日 - )は、日本政治家参議院議員(3期)。

社団法人日本青年会議所会頭、衆議院議員(2期)、防災担当大臣第1次小泉第1次改造内閣)、構造改革特区担当大臣(第1次小泉第1次改造内閣)、内閣官房副長官麻生内閣)などを歴任した。

人物

兵庫県尼崎市出身。兵庫県立神戸高等学校早稲田大学教育学部卒業。日韓議員連盟常任幹事を務める。剣道六段。

戦国大名尼子氏の家臣山中鹿之助の子孫を自称している[1]大伯父は子分3000人を抱える関西の大侠客として知られた鴻池忠治郎。祥肇は、忠治郎の弟で、同じく侠客の鴻池藤太郎の孫にあたる。尼崎を中心とした関西一円において「二代目」鴻池忠治郎は単なる博徒としてくくれない存在である、という。本人にも誇りであるらしく、自身のホームページ中の「鴻池だより」においてしばしば触れている。父の鴻池勝治は家業の運送業の尼崎鴻池組や尼崎港運株式会社を経て、第二次大戦後、尼崎市議を1期、兵庫県議を5期つとめた[2]

政歴

日本青年会議所会頭を経て、1986年第38回衆議院議員総選挙兵庫県第2区より初当選し、沖縄開発政務次官等を務める。1993年第40回衆議院議員総選挙で落選後、1995年第17回参議院議員通常選挙にて参議院議員に転じた。1996年6月から1997年6月まで参議院建設委員長、1999年8月参議院国旗及び国歌に関する特別委員長、2000年12月から2002年9月まで自民党参議院国会対策委員長を務め、2002年9月30日発足の第1次小泉内閣第1次改造内閣で、防災担当大臣、構造改革特区担当大臣として初入閣(翌2003年6月、青少年育成推進本部副本部長(担当大臣)職追加、同年9月22日、内閣再改造により大臣退任)。2003年9月から2005年10月まで参議院決算委員長政治家の年金未納問題が注目された際に年金の未納が発覚している。

2007年9月、参議院予算委員長に就任。予算委員会は国会中継等の報道において最も露出の多い委員会であり、政権与党の議員がその委員長ポストを占めるのが通例であったが、同年の参議院選挙の結果同院では与党が過半数割れとなり、院内第一党となった民主党と第二党となった自民党との間で同委員長職がポスト争いとなったことで注目された。

与党議員ではあるが、政府が提出し与党も賛成の方向となっている人権擁護法案に対して、反対論を主張する論客の代表格として活動している(たかじんのそこまで言って委員会2008年4月20日の放送で発言)。

2008年9月、麻生内閣内閣官房副長官(政務担当)に就任。後述の女性関係のスキャンダルが原因で、2009年5月13日に更迭された。

郵政民営化反対

郵政国会において当初は「郵政民営化法案は議論が不十分であり、どちらかと言えば、消極的反対である。」と主張していたが、自民党執行部が造反者に除名を含めた厳しい処分をちらつかせ締め付けを強めると、これに反発。第1次小泉内閣第1次改造内閣成立当時からの盟友である青木幹雄片山虎之助らの説得を受けるが意見を覆さず、態度を硬化させ、讀賣テレビ放送たかじんのそこまで言って委員会」で、真っ先に郵政民営化法案反対を打ち出した。放送は中部地方から西日本の地域限定での放送(当時)だが、全国紙に発言が記事に載るなど物議を醸した。

2005年8月8日の郵政民営化法案の参議院本会議では反対票を投じた。その際、メディアのインタビューにて、「(執行部の締め付けに屈して法案を可決させた)衆院は、フライパンの上でバタバタしているヒヨコのようだ。」「郵政法案は、船全体が沈もうとしているときに、船長室のペンキを塗りなおしているようなものだ。」と痛烈に法案を批判した。だが、小泉総理が衆議院解散させ、メディアが一斉に自民党圧勝の予想を伝え始めると、選挙投票日3日前の9月9日に、それまでの意見を一転させ、2005年衆院選で与党が過半数を維持した場合、選挙後の特別国会に提出される郵政民営化法案に「民意」を尊重して賛成すると意思を表明した。

この後、同様に、法案に反対票を投じた中曽根弘文も賛成の意思を表明し、続々と反対していた他の参議院議員たちも「民意」という言葉を口に出し態度を変えていった。本人は、選挙の結果が出る前に与党が勝てば民意を重く受け止め賛成すると意思を表明したのだから、選挙結果が出た後に賛成に転じた他の造反議員とは同一視して欲しくないと考えているようだが、賛成意思を表明させたのは大方自民党圧勝が予想されていた投票のわずか3日前であり、他の意見を変えた造反議員たちと一括りにされ、「信念で反対しておきながら、民意を口実に転向するのは保身のためではないか」と批判される[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

安倍政権との関係

安倍政権下には為公会会長麻生太郎外務大臣自民党幹事長など要職に就任したが、鴻池自身は是々非々の立場をとっていた。

会期延長への批判

2007年6月安倍内閣第166回国会での国家公務員法改正案成立を指示したため、自由民主党国会会期延長の検討を始めた。しかし、会期延長を行うと第21回参議院議員通常選挙の日程が変更(1週間繰り延べ)される見通しとなったため、鴻池は「日程的には100%不可能な法案を無理に参院へ送って成立をさせよ、その為には『参院選挙』の日程も変更してでもとは…。」[3]と嘆き、総理大臣官邸スタッフに対し「苦労知らずの『仲良し官邸団』の諸君よ。参院は官邸の下請けと違うんやで」[3]と苦言を呈した。また、第21回参議院議員通常選挙の見通しとして「参院選挙の会期延長した時は、2回とも大敗してる」[3]とも指摘した。

政治資金に関する不祥事への批判

第21回参議院議員通常選挙での与党敗北の一因として、相次いで発生した安倍内閣閣僚の不祥事を指摘している。「自民惨敗の大要因である『政治と金』の風邪発熱が安倍内閣の閣僚に次々と感染し」[4]ていると批判し、事務所職員が党の政治資金を私的流用していた内閣官房長官塩崎恭久に対し「だらし内閣感冒長官」[4]と揶揄している。

予算委員長時代の活動

民主党などの野党が参議院で多数を占める中、2007年9月に予算委員長に就任。少数与党の委員長として厳しい委員会運営を余儀なくされている。

2008年3月には、野党側が当初衆議院での与党側の単独採決に抗議し審議拒否したのに対抗して、委員長職権で3日間にわたり委員会の開催を決定、全閣僚及び与党委員を出席させ、野党側の出席を促したが、日本共産党を除く野党が欠席したため定足数に満たず委員会は流会となっている。

2008年3月14日、参議院予算委員津田弥太郎の質問に対する国土交通副大臣松島みどりの答弁が長いため、鴻池が簡潔に答えるよう要請したが、松島は答弁を継続し自己の選挙区(東京都第14区)の宣伝演説を長時間行うなど委員会を軽視する醜態を演じた[5]。結局、「答弁を中止しなさい!!」と鴻池が何度も怒鳴ったのにも関わらずさらに答弁を続ける松島は「予算委員会を冒涜した」として、異例の委員会出入り禁止(出禁)処分を受けた。委員会審議終了後に松島は謝罪に訪れたが鴻池には会えず、鴻池は「私が委員長の間は委員会室に入れない」[6]としている。

問題となった発言

  • 2003年7月11日、鴻池青少年育成推進本部副本部長(担当大臣)は閣議後の記者会見で、長崎男児誘拐殺人事件について「嘆き悲しむ(被害者の)家族だけでなく、犯罪者の親も(テレビなどで)映すべきだ」「親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい」などと発言し、問題発言ということで物議を醸した。
  • 2007年9月22日ウェークアップ!ぷらす番組内で光市母子殺害事件の差し戻し審での被告人の言動についてコメントを求められた際に、「こんなやつは市中引き回・・・そういうこと言っちゃいかんな」と途中で発言を自重した。ちなみにその直後に司会の辛坊治郎が躊躇うことなく「市中引き回しの上、打ち首」というニュアンスの言葉を述べた。
なお、自身のHPには「鴻池語録」として、「勧善懲悪」「精神障害者は刑事責任を問われない。凶悪少年犯も少年法によって守られている。こんな法律は早急に改正しなければならない。安全な社会を作ることを政治は優先しなければならない。凶悪な事件を犯した加害者の人権は後に回せばよい。」という発言を掲載している。

醜聞

  • 2009年1月15日発売の週刊新潮に、鴻池官房副長官の「議員宿舎」に泊まる超一流企業の「美人妻」と題した写真付きの記事が報じられた。同日、河村建夫官房長官から首相官邸に呼び出され、「政府の中枢にある人が誤解されるのは不適切だ」と厳重注意を受けた。
  • 2009年1月22日発売の週刊新潮には、「議員宿舎鴻池官房副長官に今度は機密漏洩疑惑」との記事が掲載された。
  • 2009年5月13日発売の週刊新潮に、4月28日に女性と静岡県の熱海温泉へ旅行、30日まで同じ部屋で宿泊し、その際、国会議員に与えられるJR無料パスを使ったことを報じた記事が掲載された。同時期は新型インフルエンザの緊迫した時期でマスコミなどから批判された。
    こうした状況を受け、麻生太郎首相はあくまで健康問題が原因であるとの見解を示したものの、事実上、一連の醜聞の責任を取る形で官房副長官を更迭[1]された。[7]。20日、自民党県支部連合会(県連)は除籍を決める。県連によれば、所属国会議員の除籍は初めてとの事。

略歴

著書

  • 『いま、日本病を撃て 傍観者の時代への訣別』 (徳間書店、1980年)
  • 『お天道さんは見てござる』(幻冬舎ルネッサンス)

脚注

  1. ^ 鴻池祥肇は「さて私のご先祖様は山中鹿之助(尼子家臣で十勇士の筆頭)とか。近いご先祖様の祖父は関西の侠客鴻池藤太郎。父は実業家であって兵庫県議会議員鴻池勝治、母は大阪商人の娘三智子。今日の私はどの血なんだろう。」と書いている (こうのとりが運ぶ国会通信 第218号 2005年8月8日
  2. ^ 鴻池だより 2004年10月6日掲載
  3. ^ a b c 「鴻池だより第345号」『鴻池祥肇』鴻池事務所、2007年6月20日
  4. ^ a b 「鴻池だより第349号」『鴻池祥肇』鴻池事務所、2007年8月22日
  5. ^ sangiin予算委員会(開会~休憩1)House of Councillors2008年3月14日
  6. ^ 田中成之「参院予算委:松島副国交相、長広舌過ぎて出入り禁止!―制止聞かず鴻池委員長、激怒」『参院予算委:松島副国交相、長広舌過ぎて出入り禁止! 制止聞かず鴻池委員長、激怒 - 毎日jp(毎日新聞)毎日新聞社2008年3月15日
  7. ^ 鴻池官房副長官が辞任 産経新聞 2009年5月13日閲覧

外部リンク

先代
村井仁
防災担当大臣
2002 - 2003
次代
井上喜一
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