「高市早苗」の版間の差分
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[[1989年]]に帰国し、元米国連邦議会[[立法調査官]]・[[議会スタッフ]]と自称し、また「[[立法政策研究センター]]専門研究員」という肩書を名乗り、講演や執筆活動を通じて、マスコミに注目され始めた。このころ1990年に[[亜細亜大学]]系列の日本経済短期大学(現、[[亜細亜大学短期大学部]])助手、[[1992年]]には関西[[ハイビジョン]]・コンソーシアムを設立し会長に就任するなど、精力的に活動。同年、[[第16回参議院議員通常選挙|参議院議員選挙]]に奈良選挙区から保守系無所属で立候補するが落選。この選挙では、当初、自由民主党奈良県連に候補者として名乗りを上げるが、公認から漏れる(自民党公認候補は[[服部三男雄]])。 |
[[1989年]]に帰国し、元米国連邦議会[[立法調査官]]・[[議会スタッフ]]と自称し、また「[[立法政策研究センター]]専門研究員」という肩書を名乗り、講演や執筆活動を通じて、マスコミに注目され始めた。このころ1990年に[[亜細亜大学]]系列の日本経済短期大学(現、[[亜細亜大学短期大学部]])助手、[[1992年]]には関西[[ハイビジョン]]・コンソーシアムを設立し会長に就任するなど、精力的に活動。同年、[[第16回参議院議員通常選挙|参議院議員選挙]]に奈良選挙区から保守系無所属で立候補するが落選。この選挙では、当初、自由民主党奈良県連に候補者として名乗りを上げるが、公認から漏れる(自民党公認候補は[[服部三男雄]])。 |
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[[1993年]]、[[第40回衆議院議員総選挙]]で旧奈良全県区から無所属で立候補し、トップで初当選を飾る(他方で[[新党さきがけ]]に公認申請していた)。[[1994年]]に |
[[1993年]]、[[第40回衆議院議員総選挙]]で旧奈良全県区から無所属で立候補し、トップで初当選を飾る(他方で[[新党さきがけ]]に公認申請していた)。生涯初の総理大臣指名選挙では無所属ながら自由民主党総裁[[河野洋平]]支持。[[1994年]]に政策集団「リベラルズ」に参加。リベラルズは、自民党を離党した[[柿沢弘治]]を党首とする[[自由党 (日本)|自由党]]となり、[[羽田孜]]が首班の非自民連立政権に与した後、同年7月27日[[海部俊樹]]を代表とする[[自由改革連合]]結成。同年12月10日の[[新進党]]結党大会に参加する。 |
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[[1996年]]10月、[[第41回衆議院議員総選挙]]では新進党公認で立候補し、2回目の当選。しかし、この選挙で新進党は敗北し、選挙後、自民党幹事長の[[加藤紘一]]からの引き抜きに応じ、[[11月5日]]に高市は新進党を離党し2日後の |
[[1996年]]10月、[[第41回衆議院議員総選挙]]では新進党公認で立候補し、2回目の当選。しかし、この選挙で新進党は敗北し、選挙後、自民党幹事長の[[加藤紘一]]からの引き抜きに応じ、[[11月5日]]に高市は新進党を離党し2日後の総理大臣指名選挙では自民党総裁[[橋本龍太郎]]を支持。[[12月27日]]、自民党に入党。新進党の公認候補として反自民票を集めての当選であっただけに、その直後に離党し自民党総裁たる橋龍を総理大臣指名選で支持した事は「有権者に対する裏切り」と非難を受けた。 |
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自民党では[[清和政策研究会]](三塚派 - 森派 - 町村派)に所属し、[[小渕恵三]]内閣の通産政務次官や、衆議院文部科学委員長などを歴任する。[[2000年]]の[[第42回衆議院議員総選挙]]では、自民党の比例近畿ブロック単独上位に登載され、3選を果たす。当選後、[[下村博文]]、[[世耕弘成]]、[[山本一太]]らと共に[[森喜朗]]首相の「勝手補佐官」を自称し、[[テレビ]]にも積極的に出演。[[2002年]]には[[小泉改造内閣]]で[[経済産業省|経済産業]][[副大臣]]に就任する(政経塾同期で93年衆院初当選同期の伊藤達也と共に初の松下政経塾出身副大臣)。しかし、[[2003年]]の[[第43回衆議院議員総選挙]]では、比例復活も果たせずに落選(ちなみに、この選挙では森派所属の前職議員で、落選したのは高市一人だけであった)。 |
自民党では[[清和政策研究会]](三塚派 - 森派 - 町村派)に所属し、[[小渕恵三]]内閣の通産政務次官や、衆議院文部科学委員長などを歴任する。[[2000年]]の[[第42回衆議院議員総選挙]]では、自民党の比例近畿ブロック単独上位に登載され、3選を果たす。当選後、[[下村博文]]、[[世耕弘成]]、[[山本一太]]らと共に[[森喜朗]]首相の「勝手補佐官」を自称し、[[テレビ]]にも積極的に出演。[[2002年]]には[[小泉改造内閣]]で[[経済産業省|経済産業]][[副大臣]]に就任する(政経塾同期で93年衆院初当選同期の伊藤達也と共に初の松下政経塾出身副大臣)。しかし、[[2003年]]の[[第43回衆議院議員総選挙]]では、比例復活も果たせずに落選(ちなみに、この選挙では森派所属の前職議員で、落選したのは高市一人だけであった)。 |
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[[2007年]]5月、[[青少年]]保護を目的とする[[有害情報]]対策を協議する会議を政府に設置する方針を表明。記者会見の場において[[青少年保護育成条例]]を制定していない[[長野県]]の対応を批判した。 |
[[2007年]]5月、[[青少年]]保護を目的とする[[有害情報]]対策を協議する会議を政府に設置する方針を表明。記者会見の場において[[青少年保護育成条例]]を制定していない[[長野県]]の対応を批判した。 |
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== 主な著書 == |
== 主な著書 == |
2007年5月30日 (水) 22:20時点における版
衆議院議員 高市 早苗 | |
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生年月日 | 昭和36年(1961年)3月7日 |
出身地 | 奈良市 |
出身校 | 神戸大学経営学部 卒業 |
学位・資格 | 経営学士 |
前職 |
評論家 日本経済短期大学専任教員 近畿大学教授 |
所属委員会 |
内閣府特命担当大臣(沖縄北方・ 科学技術・イノベーション・少子化・ 男女共同参画・食品安全) |
世襲 | 世襲ではない |
選出選挙区 | 奈良2区 |
当選回数 | 4回 |
所属党派 |
(無所属→) (自由党→) (新進党→) 自由民主党(町村派) |
党役職 | - |
会館部屋番号 | 衆・第一議員会館628号室 |
ウェブサイト | 高市早苗 公式ホームページ |
高市 早苗(たかいち さなえ、本名・山本 早苗=やまもと さなえ、1961年3月7日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員。元近畿大学教授。夫は、同じく自民党衆議院議員の山本拓。反フェミニズムの立場を取り、権威主義・国家主義的な発言を盛んに行うタカ派の新保守主義者。
概要
奈良県奈良市出身。奈良県立畝傍高等学校を経て、1984年に神戸大学経営学部経営学科を卒業。大学時代はヘヴィメタルバンドでドラムスを担当していた。大学卒業後、松下政経塾(第5期)に入塾。同期に伊藤達也や民主党の武正公一がいる。1987年アメリカに渡り、左派リベラルでフェミニスト運動の急先鋒だった民主党のパット・シュローダー下院議員の個人事務所でインターン同様のフェロー(無給、雇用関係なし)として勤務する。
1989年に帰国し、元米国連邦議会立法調査官・議会スタッフと自称し、また「立法政策研究センター専門研究員」という肩書を名乗り、講演や執筆活動を通じて、マスコミに注目され始めた。このころ1990年に亜細亜大学系列の日本経済短期大学(現、亜細亜大学短期大学部)助手、1992年には関西ハイビジョン・コンソーシアムを設立し会長に就任するなど、精力的に活動。同年、参議院議員選挙に奈良選挙区から保守系無所属で立候補するが落選。この選挙では、当初、自由民主党奈良県連に候補者として名乗りを上げるが、公認から漏れる(自民党公認候補は服部三男雄)。
1993年、第40回衆議院議員総選挙で旧奈良全県区から無所属で立候補し、トップで初当選を飾る(他方で新党さきがけに公認申請していた)。生涯初の総理大臣指名選挙では無所属ながら自由民主党総裁河野洋平支持。1994年に政策集団「リベラルズ」に参加。リベラルズは、自民党を離党した柿沢弘治を党首とする自由党となり、羽田孜が首班の非自民連立政権に与した後、同年7月27日海部俊樹を代表とする自由改革連合結成。同年12月10日の新進党結党大会に参加する。
1996年10月、第41回衆議院議員総選挙では新進党公認で立候補し、2回目の当選。しかし、この選挙で新進党は敗北し、選挙後、自民党幹事長の加藤紘一からの引き抜きに応じ、11月5日に高市は新進党を離党し2日後の総理大臣指名選挙では自民党総裁橋本龍太郎を支持。12月27日、自民党に入党。新進党の公認候補として反自民票を集めての当選であっただけに、その直後に離党し自民党総裁たる橋龍を総理大臣指名選で支持した事は「有権者に対する裏切り」と非難を受けた。
自民党では清和政策研究会(三塚派 - 森派 - 町村派)に所属し、小渕恵三内閣の通産政務次官や、衆議院文部科学委員長などを歴任する。2000年の第42回衆議院議員総選挙では、自民党の比例近畿ブロック単独上位に登載され、3選を果たす。当選後、下村博文、世耕弘成、山本一太らと共に森喜朗首相の「勝手補佐官」を自称し、テレビにも積極的に出演。2002年には小泉改造内閣で経済産業副大臣に就任する(政経塾同期で93年衆院初当選同期の伊藤達也と共に初の松下政経塾出身副大臣)。しかし、2003年の第43回衆議院議員総選挙では、比例復活も果たせずに落選(ちなみに、この選挙では森派所属の前職議員で、落選したのは高市一人だけであった)。
2004年、自民党衆議院議員の山本拓と結婚。近畿大学教授に就任。
2005年9月、第44回衆議院議員総選挙で郵政民営化法案に反対した滝実に対する対抗馬として、それまでの選挙区であった奈良1区から奈良2区に国替えして立候補し、当選。国政に返り咲きを果たす。(但し、滝実も比例近畿ブロックで復活当選を果たし、当時の民主党現職候補が落選した)
安倍晋三の「再チャレンジ推進委員会」を支援する「再チャレンジ推進議員連盟」会員。「新聞の特殊指定に関する議員立法検討チーム」座長で新聞の特殊指定見直しに反対している。業界団体である日販協政治連盟から政治献金を受けている。
2006年9月、安倍晋三内閣で内閣府特命担当大臣として入閣。沖縄及び北方対策、科学技術政策、イノベーション、少子化・男女共同参画、食品安全を担当。
2007年5月、青少年保護を目的とする有害情報対策を協議する会議を政府に設置する方針を表明。記者会見の場において青少年保護育成条例を制定していない長野県の対応を批判した。
主な著書
- アズ・ア・タックスペイヤー ―政治家よ、こちらに顔を向けなさい―
- アメリカ大統領の権力のすべて
- アメリカの代議士たち
- サッチャーからの提言・新しい日本
- 高市早苗のぶっとび永田町日記
- 21世紀日本の繁栄譜
関連項目
外部リンク
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