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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/第二次内乱 (イスラーム史) 20210301

選考終了日時:2021年3月15日 (月) 23:56 (UTC)

  • (推薦)アラブのウマイヤ朝時代の反乱の記事となります。ベースは英語版の秀逸な記事からの翻訳で、一部原文ベースから加筆と修正をしていますが、この主題について一通りのことは説明できているものと思いますので推薦します。なお、この記事は加筆記事ですが、自分の方で全面的に作り直していますので、扱いは自薦とします。--Los viajeros 77会話2021年3月1日 (月) 23:56 (UTC)[返信]
  • 賛成 :推薦者票。--Los viajeros 77会話2021年3月1日 (月) 23:56 (UTC)[返信]
    • コメント 1点目。インフォボックスでは、「第二次内乱」の始期を680年としていますが、これの典拠は何ですか?2点目。「イスラームの宗派と終末論の発展」節の第4パラグラフ、4文目「しかし、ムフタールは・・・」のところですが、出典とされている Madelung 1986, p. 1231. に書いてある内容と少し違うと思います。一度、ご確認ください。ここの記載が少し変なために、メシア論が発展したという後段の記述と、ムフタールがメシアとしての意味でこの言葉を使ったという記述との間で、矛盾が生じています。--ねをなふみそね会話2021年3月2日 (火) 08:45 (UTC)[返信]
  • ねおなふみそね様、査読およびコメントありがとうございます。1点目のご指摘ですが、確かに導入部&infoboxのこの部分は出典がなく、明確に680年としている資料は確認できませんでしたので削除しました。
  • 2点目(ここは第4段落ではなく第3段落かと思います)についてはお恥ずかしい話ではありますが、現在PayPalのアカウントに問題を抱えていて(現地管轄の先方曰く、カードの停止解除用エビデンスのレシートが日本語で読めないので停止解除できないetc.)ご指摘の出典(Madelung 1986, p. 1231.)の閲覧ができません。もう一方の出典の Sachedina 1981, p. 9. の方は、Early Shi'ite Sect and the Concept of the Mahdi の節名で、All groups with Shi'i sympathies had entertained chiliastic hopes and had asserted the Mahadiism of their Imams. Although the title Mahdi was used for the first time for 'Ali and al-Husayn among the Shi'i Imams merely as designation for the righteous Islamic ruler, its usage in the messianic context seems to have been applied by al-Mukhtar b. Abi 'Ubayd al-Thaqafi to Muhammad b. al-Hanafiyya, a son of 'Ali by a woman other than Fatima, in 66/685-86, in his rebellion against 'Abd Allah b. al-Zubayr. と記載されており、"its usage in the messianic context" と明記しているので、こちらの出典は英語版原文の "a divinely guided ruler, who would redeem Islam"(ここが問題かもしれませんが)とムハンマドの言及がないことを除けば文脈として現在の文面と矛盾はないように思います。
  • あと、私の理解不足なのかもしれませんが、「ここの記載が少し変なために、メシア論が発展したという後段の記述と、ムフタールがメシアとしての意味でこの言葉を使ったという記述との間で、矛盾が生じています。」とおっしゃられていることの意味がよく解りませんでした。私の理解では、第3段落は初のメシアとしてのマフディーの言及の説明(紹介)の話で、第4段落はその用語の概念がどのような認識のもとで受容されて発展するきっかけになったのかの話なので、基本的に順を追った説明でそこになんらかの矛盾とする要素は見いだせませんでした(用語がどのように物理的に伝播した結果認識されるようになったかの説明はないので、説明不足という意味では理解できますが、この用語が主題の記事ではないので、そこまでの説明は不要に思います)。全ての出典が確認できているわけではない中でのコメントで一部認識に不足があり大変恐縮ですが、私の見解と比較して問題点があれば、ご指摘いただけますと幸いです。--Los viajeros 77会話2021年3月3日 (水) 04:56 (UTC)[返信]
    返信 1点目に関して。平凡社『イスラム事典』(初版、平凡社、1982年)の「イブン・アッズバイル」の項では、執筆担当の花田宇秋先生が「(イブン・アッズバイルが)カリフを宣言してから敗死するまでの9年間をイスラム史家は第2次内乱 の時代と呼ぶ。」と書いていて、683年から692年までと定義しています。この概念定義はこの事典全体を通して一貫しています。カルバラー事件を第二次内乱に入れるか否かが問題ですが、かなり調べてみても、カルバラー事件を第二次内乱の始まりにしている enwp の歴史認識を裏付ける典拠が出て来ません。--ねをなふみそね会話2021年3月3日 (水) 06:38 (UTC)[返信]
  • コメント 参考までに、中公新書『物語 アラビアの歴史』p.251, 253、左同『イスラームの歴史』p.55、中公文庫『イスラーム世界の興隆』p.120では第二次内乱が683年に始まったとされており、ちくま学芸文庫『中東全史』p.157には「カルバラーの大虐殺は、シーア派を政治的党派から宗教的党派へと急速に変貌させ、第二次内乱をさらに過酷な、激しいものにした。」との記述があります。--Takenari Higuchi会話2021年3月3日 (水) 07:47 (UTC)[返信]
    返信 『中東全史』はバーナード・ルイスの翻訳なので、英語圏でもカルバラー事件は the second fitna に入れないのが通説かもしれません。自分で持ち出しておいてナンですが、平凡社の『イスラム事典』は記述が古いことで有名でして、いまいち信用できないので、ほかに典拠があれば心強いです。--ねをなふみそね会話2021年3月3日 (水) 11:14 (UTC)[返信]
  • 賛成 確認したところ、『岩波イスラーム辞典』でも683年に第二次内乱がはじまったと記されていました。それはそれとして、記事の品質は高く、確認に用いた資料との矛盾点もなかったので賛成とします。--Takenari Higuchi会話2021年3月4日 (木) 08:31 (UTC)[返信]
  • 返信 (ねおなふみそね様、Takenari Higuchi様宛) :各種文献による期間のご教示ありがとうございます(また、Takenari Higuchi様賛成票ありがとうございます)。手許の日本語文献の不足は個人的に頭の痛い問題でして、このように紹介いただけまして大変助かります。昨日はざっくりと確認して680年としているものは見当たらなかったのですが、改めて確認出来る英語の参考文献をキーワードで検索をかけて開始年について全て確認してみました。結果は次の通りです。680年…Arjomand 2007、683年…Blankinship 1994, Lewis 2002, Kennedy 2001、ヤズィードの治世中(年の明記なし)…Daftary 1990, Hawting 2000。サンプル数はあまり多くないですが、傾向的には680年とするものは1件だけで、ご提示いただいた日本語文献と同様に英語圏でも683年とするものが最も多いようです(特にBlankinship 1994は節のタイトルに明確に683年-692年と書いています)。以上の傾向を踏まえて、出典はBlankinship 1994で期間は683年-692年とする形で編集し直しました。また、2点目について、一旦Madelung 1986, p. 1231.を外してSachedina 1981, p. 9.の記述に合わせる形で若干リライトしました(個人的にこの箇所は初のメシアとしてのマフディーの言及について示せれば十分と考えています)。--Los viajeros 77会話2021年3月4日 (木) 10:26 (UTC)[返信]
  • 訂正と補足ですが、Daftary 1990もヤズィードの死の時期に絡めて内乱の勃発に触れているので、これも683年という見方で良いかもしれません。あと、Arjomand 2007は掲載媒体がEncyclopaedia Iranicaで、680年という記述はイランやシーア派の視点ではカルバラーの事件も含めている表れかもしれませんが、詳細は不明です。いずれにせよ今回確認した英語文献の記述の仕方を見る限り英語圏でも683年の方が一般的な説のように見受けられます。--Los viajeros 77会話) 2021年3月4日 (木) 21:11 (UTC
  • コメント 記事の方をまだきちんと読んでいないので年代設定についての和書の状況についてのみコメントです。確認した範囲だと日本語の概説書レベルでは683年-692年とするのが一般的という理解で問題無く、カルバラーの戦いは大抵はその前史という扱いで触れられています。『世界各国史 西アジア1』(山川出版社 2002)、『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』(中央公論新社 1997)、『イスラーム全史』(勁草書房 1991)、『世界の歴史―ビジュアル版6 イスラム世界の発展』(講談社 1985)がこの年代設定で第二次内乱を説明しています。
  • 日本語書籍で明確に680-692年としてカルバラーの戦いを第二次内乱に含めているものには『イスラームの誕生 信仰者からムスリムへ』(慶應義塾大学出版会 2014)がありました。また、『イスラームの形成』(慶応義塾大学出版会 2013)および『アラブの歴史 (上)』(講談社 1982)は「第二次内乱」という用語を使用していませんが、680年から693年の一連の政治情勢を連続的に描いており、特に683年で記述を切ってはいないです。この3冊はいずれも訳本です。
  • どうして(680/683年)に開始期を置くのか、を説明しているものは見つかりませんでしたが、Wikipediaの記述的には概説書一般に従って683年からとし、「カルバラーの戦いを内乱の開始とする叙述の仕方もある」ということを注釈に置いておくといった形が適当なのではないかと想像します。--TEN会話2021年3月5日 (金) 00:30 (UTC)[返信]
返信 (TEN様宛) :日本語文献における内乱期間についての詳細な調査、誠にありがとうございます。内乱の始期は683年とするものが一般的であることはかなり明確になったと思いますので、infobox内での記述は683年とし、注釈内では「683年の他、680年とする説もある」という形式で記述してみました(出典は現在掲げられている参考文献から付けています)。--Los viajeros 77会話2021年3月6日 (土) 04:00 (UTC)[返信]
返信 (TENさん宛) なぜ683年から始まるとするのか、それは、始まるものが「第二次フィトナ」だからだと思います。EI2 al-Fitna の項によると、アズラク派の分派活動よりもムルジア派の方がより深刻な試練だ、みたいなことを言っている当時の資料があるらしく、「フィトナ」概念においては、行動や教義のヤバさよりも意見を異ならせるムスリム同胞の頭数の多さのほうが問題になるようです。事件の、のちの時代における影響は別として、70人ほどの人数の蜂起には「フィトナ」概念はそぐわないと、ムスリムの歴史家は、考えてきたのではないかと、私は理解しました。あと、アブー・ダーウード・スィジスターニーの『スナン集』に収録されているハディースで、預言者ムハンマドが妻のウンム・サラマに語った予言というのがあって、預言者は「カリフが死んだ後、メッカに一人の男が逃げてくる、メッカの人々はその男の意に反し蜂起する、シリアから兵隊が差し向けられるが沙漠にのみ込まれる、男は富を分け与え、預言者のスンナに従って行動するだろう。ここに至りイスラームの地歩は固められる。男は7年メッカにとどまり死ぬだろう」というようなことを言ったらしいです。アブー・ダーウードは「7年」は「9年」という説もあるとしており、つまりは、メッカで対抗カリフ制を9年維持したイブン・ズバイルのことを言っている伝承です(ちなみに捏造ハディースです)。第二次フィトナはこの9年間のウンマの分裂の謂であろうと。しかし、fitna という言葉から少し離れて、"the second civil war" や「内乱」と言えば、それが指し示す範囲はもっとボヤっとなり、カルバラー事件も含むという雑な歴史認識になるのだと思います。--ねをなふみそね会話2021年3月6日 (土) 10:03 (UTC)[返信]
  • 返信 (ねをなふみそねさん宛) ありがとうございます。フィトナという語の理解は私には無理ですが訳語で原語の持つ意味合いが失われたというのは納得感はあります(en:Fitna_(word)の記事も28か国語版にあるようで、これ自体が特筆性を持つ用語、と言うことですね)。もう何冊か本をあさってみましたが、上記の点について何か具体的な言及をしている日本語の書籍は見出せませんでした。ただ「西アジア史」「アラブ史」のような単位で叙述されるような概説書だと、第二次内乱自体よりもムアーウィヤの死亡やヤズィードの動向、シーア派関係の話題の方に焦点が当たっていて、そのために680年以前から連続的に叙述されることもある、という印象でした。--TEN会話2021年3月9日 (火) 17:00 (UTC)[返信]

選考終了時点で賛成3票のため、通過となります。--Tam0031会話2021年3月16日 (火) 15:00 (UTC)[返信]