Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯) 20220227
表示
選考終了日時:2022年3月13日 (日) 01:37 (UTC)→2022年3月27日 (日) 01:37 (UTC)
- (推薦)英語版からの翻訳を元に立項した、セルビア史上で重要な君主の記事です。月間強化記事賞に漏れたものですが、本人の生涯だけでなく後世への影響なども出典付きで詳しく説明されており、質量ともに良質な記事の基準に足るものと考え推薦いたします。--McYata(会話) 2022年2月27日 (日) 01:37 (UTC)
- 賛成 :推薦者票。--McYata(会話) 2022年2月27日 (日) 01:37 (UTC)
- 賛成 :しっかりした記事になっているものと思います。--Tam0031(会話) 2022年3月3日 (木) 14:47 (UTC)
- 報告 十分に査読できていないため、誠に勝手ながら選考期限を二週間(14日)延長させて頂きました。読了次第コメントを投稿致します。--Sethemhat(会話) 2022年3月11日 (金) 04:40 (UTC)
条件付賛成私はセルビア史には無知ですが、内容の網羅性は十分と思います。後世への影響も記述があってよいですね。以下の点にMcYataさんからだいたいの何かしらの対処(無理との返信も可)があれば賛成させていただきます。
- 赤リンクがやたら多いです。例えば、大・西・南モラヴァ川、ラヴァニツァ修道院、プロチニク など。重要な用語なのかもしれませんが、そもそも歴史分野の執筆者がそんなに多くないjawpでは、赤リンクが多くてもどれを執筆してよいのか迷うでしょう。ラヴァニツァ修道院(en)のようにすればよいのではないでしょうか? できるだけ絞った方がよいと思います。例えば、「ネマネッチ朝」、「ラザレヴィチ朝」は王朝区分のため必要そうです。
- もう少し細かく段落を分けてもよいかもしれません。「セルビアの大領主」節は特にかなり長くなってしまっているようです(長文書きがちの私が言えたことではありませんが)。
以下はそれぞれの文章に。
- 「日本語文献ではラザル侯と呼ばれることも多い。」には出典を付けたほうが良いでしょう。
- 「~と言っている研究者もいる」に「誰?」を付けました。出典があったら補遺を。
- ラザルの死については詳しく当該記事には書かれていなかったので、「コソボの戦い」をwikipediaで検索してみると、「ラザルは捕虜となっており、その時味方が敵のスルタンを刺殺したので殺された」とありました。ここに情報があるので、英語版から抄訳して合成するのもよいかと思います。ラザルが死んだ経緯は知りたいですね。
- 「『ヴィドヴダン』が彼の祭日」でいきなり出てくるヴィドヴダンがわかりません。英語版リンクを踏むと、ラザルに起因した祭日とあるのでそれを説明するとよいと思います。
- いきなり唐沢氏が出てくるので、
{{Harvtxt|唐沢|2013}}
を用いれば引用だとわかってよいです。 - 「オスマン帝国時代」節の「金を鳴らす」は鐘のことでしょうか?
以上、どうでしょうか。--Sethemhat(会話) 2022年3月20日 (日) 10:00 (UTC)
- @Sethemhatさん 細かいところまで読んでいただきありがとうございます。それぞれお答えしていきます。
- 赤リンクを残すのは、「これは(少なくとも他言語版では)単独記事を立てる価値がある言葉だ」ということを示すために大事だと考えています。「ラヴァニツァ修道院(en)のようにすれば」というのはつまり「ラヴァニツァ修道院(en)」のように書けということでしょうか。この書き方だと今後日本語版に記事が出来てもその記事へのリンクに変わってくれないので、Template:仮リンクを意識的に使うようにしています。赤リンクと英語版へのリンクが同時に示されていた方が、読者は「日本語版記事は無いけど英語の情報はあるんだな、頑張って読んでみよう」となるし、執筆者にとっては翻訳執筆のネタが転がってるのが一目瞭然なので(少なくとも私は)新しい記事を立てるモチベーションにもつながると思うのです。いかがでしょう。
- 段落はたしかに細かく分けた方が良いですし、これでもできる範囲で分割した方です。ただ脚注から次の脚注までが一つの出典に拠っている範囲を示している以上、その文献すべてを精査しない限りうかつに途中でぶった切ったり再構成したりしづらいのが難点です。おそらく「1379年から1388年の間に出した特許状の中で~」と始まる段落を特に意図された質問かと思うのですが、確かに「ラザルの時代~」や「セルビア正教会は~」あたりで段落を分けたいところです。でも"Mihaljčić 2001, pp. 78–115."の中のどこからどこまでがそれぞれの部分に当てはまるのか確定できないので、割るわけにはいきません。私がセルビア語を読めて文献も全部入手し読む時間があれば済む話ではあるのですが・・・。
- 各文について。
- ノートで事前に人物名の表記について色々まとめていたのですが、肝心の記事本文への反映を忘れておりました。とりあえず日本語文献の脚注を二つ付け、「多い」という主観的な記述を削ってみました。
- 該当部にはFine (1994)The Late Medieval Balkans: A Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest, Ann Arbor, Michigan: University of Michigan Press.と脚注がついているので原本に実際に記載があるか確かめようと思ったのですが、オンラインデータベースも含めすぐ手が届く範囲には無さそうです。大事な文献なので入手できればしたいと思っていますが、選考期間中に読んで記事を改善するのは難しいです。
- ラザルの死について。実はSethemhatさんが取り上げて下さったエピソードは、日本では史実としてしれっと語られていることが多く、私も最近まで信じていました。しかしラザルの記事を実際に訳してみて初めて知ったのですが、実はこれは後世広まった伝説に拠るところが大きいようなのです(関連して、スルタンを暗殺した「とされる」人物ミロシュ・オビリッチの記事も最近立項しました)。同時代の史料から明らかなのは「ラザルとムラト1世が共にコソヴォの戦いで死亡したこと」「おそらくムラト1世は暗殺されていたこと」くらいです。それ以外の要素はラザルの「生涯」として書くのは適当ではないと思い、翻訳元にあえて加筆するようなことはしていません。英語版のen:Battle of Kosovoにはラザルが捕虜になったという話がちらっとだけ書かれていますが、該当部分は無出典で、死に様も特に書かれていません。
- ヴィドヴダンは「聖ヴィトゥスの日」という意味で、もともと6月28日がそう呼ばれていたところ、たまたまその日にコソヴォの戦いが起きたのでその関連の祭日として祝われることになった、という経緯があります。節の時代から少しはみ出るものの、そのあたりも説明を加えた方がよさそうですね。段落の最後に付記する形で書いてみたのですが、いかがでしょう。
- なるほど、言われてみれば確かに唐突ですね。アイデアいただきました。
- 仰る通り「鐘」の誤字です。すみません。修正しました。
- 私の手に負えない部分もありますが、ひとまずはできる範囲で修正してみました。ご確認ください。--McYata(会話) 2022年3月20日 (日) 15:13 (UTC)
- 以下はそれぞれに対して思ったことを。
- 仮リンクについてのMaYataさんの考え方理解致しました。ここは個人差と思われるため、この状態でよいと思います。なお私は自分で判断して リンク化しない/enリンク/仮リンクを使い分けてはいます。
- 段落問題は、確かに、翻訳なので出典のかかっている範囲がわからなく、分割困難というのはもっともと思いましたので問題ありません。
- ラザルの死について、英語版から引っ張ってくればよいと申しましたが、私が確認もしていないのにそう言ってしまいまして申し訳ありません。確固たる情報がない以上書くのは難しいですが、「詳しい死の経緯については不明」 程度は書いてはどうでしょうか?
- ヴィドヴダンについて加筆を確認しましたが、まだ若干曖昧と思います。もっとわかりやすくコソヴォの戦いと同日であった、などと書くとよいと思いますが、上では、1389年6月15日に戦いが起きたと書いてあります。これは、なぜ違うのでしょうか。--Sethemhat(会話) 2022年3月21日 (月) 07:05 (UTC)
- 返信 (Sethemhatさん宛) :余計なお世話ですが、上の「条件付賛成」が消されていないので、処置の程、お願い申し上げます。--Falcated(会話) 2022年3月21日 (月) 09:58 (UTC)
- さらに余計なお世話ですが、出典なしで「詳しい死の経緯については不明」と記すことは、WP:NORですので、何も言及しないのがjawpの流儀です。McYataさんがおっしゃるような、史実とは言い難く、出典も怪しい伝承は、ノートに書いておき、第三者による記事への追記を防ぐ、という手があります。--Falcated(会話) 2022年3月21日 (月) 10:10 (UTC)
- 返信 (Falcatedさん宛) おっしゃる通り票が混在しておりましたので、打ち消し処理を行いました。ご連絡ありがとうございます。
- 2点目の件に関しては、いろいろな文献をあたった結果何も書いていなかったのであれば、それは「詳しい経緯が不明」というところに立派に根拠が付与されると考えてよろしいのでしょうか? もし、私が述べた方法が許容されないのであれば、それはおかしいでしょう。人物の伝記において、死の経緯は極力記載すべきものであり、もし何らかの理由があってかけないのであればその旨を記載すべきです。「死の経緯不明」と書くことは独自研究とは言えず、ただの記事の情報不足となってしまうと思います。つまり、WP:独自研究は載せないに「そのような状況でも言及しないべき」ととれる文言があるならば方針を改訂すべきとまで思いますが、いかがでしょうか。--Sethemhat(会話) 2022年3月21日 (月) 10:32 (UTC)
- 「死因に関しては、AAA(19XX)、BBB(20XX)、CCC(201X)において言及が無い」と書くなら、有りですが、美しい表現ではありません。私なら言及を避けます。「いろいろな文献をあたった結果何も書いていなかったのであれば、それは「詳しい経緯が不明」というところに立派に根拠が付与されると考え」るのは、WP:SYNです。このことはWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ツタンカーメン_20211211でも申しました。この場を汚したくないので、これ以上は書きません。--Falcated(会話) 2022年3月21日 (月) 11:29 (UTC)
- @Sethemhatさん 2回目に頂いたコメントへの返信です。
- 「出典が無ければ『分からない』とも書くわけにはいかない」というのはFalcatedさんと同意見です。「わからない」と明言するのも研究者の仕事であり、言及が見当たらないのは何か理由があって明言を避けているのか、あるいは探している当人の調査不足である可能性の方が高く、うかつに「自分が探し当てられなかった、理解できなかった」ということを「(学術的な話をしている流れで)不明である」と混同するわけにはいきません。ただラザル・フレベリャノヴィチのように著名で様々な研究がある人物について「分からない」と明記している出典が存在しないほうがおかしいのであって、今回の件の責任は十分な文献集めと記述を怠った私にございます。ひとまずセルビア叙事詩における一般的な伝説と、学術的にはよく分かっていないという記述を出典付きで加えました。
- 戦いの日付は、ユリウス暦では6月15日、グレゴリオ暦では6月28日になり、現代のヴィドヴダンは後者で開催されています。実は同じ段落内でその説明もしてあるのですが、14世紀の記述と現代の記述が入り混じって分かりにくくなっていたかもしれません。整理してみました。
- 以上2点、ご確認をお願いします。--McYata(会話) 2022年3月21日 (月) 15:17 (UTC)
賛成票のみ3票以上の状態が48時間継続したため、早期終了・通過となります。--アリシア-jawiki(会話 - 投稿記録) 2022年3月23日 (水) 11:05 (UTC)