Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ベルリン封鎖 20230611
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選考終了日時:2023年6月25日 (日) 00:05 (UTC)
- (自動推薦)2023年5月の月間強化記事賞受賞記事。--Trgbot(会話) 2023年6月11日 (日) 00:05 (UTC)
- 反対 英語版からの翻訳ですが、多くの誤訳があります。例えば「分割統治節」の最初の段落と次の段落の冒頭、
- ※太字は誤訳とそれに対応する部分
- (本記事)
- 1945年7月17日から8月2日まで、戦勝国は戦後ヨーロッパの構想をポツダム協定に基づいて、オーデル・ナイセ線の西側を4つに分割し、4か国で臨時統治することを決めた。その4カ国とは、アメリカ、イギリス、フランス、そしてソ連であった。これらの支配地域は都市の場所ではなく、戦勝国の軍の現在位置によって、大まかに決められた。連合国統治評議委員会はベルリンについても、同様に4つに分割されることになり、160 平方キロメートルがソ連統治下に収まった。アメリカ、イギリス、フランスは都市の西側を統治下においた。
- (英語版)
- From 17 July to 2 August 1945, the victorious Allies reached the Potsdam Agreement on the fate of postwar Europe, calling for the division of defeated Germany, west of the Oder-Neisse line, into four temporary occupation zones each one controlled by one of the four occupying Allied powers: the United States, the United Kingdom, France and the Soviet Union (thus re-affirming principles laid out earlier by the Yalta Conference). These zones were located roughly around the then-current locations of the allied armies. As the seat of the Allied Control Council, Berlin was also divided into four occupation zones, despite the city's location, which was fully located 100 miles (160 km) inside Soviet-controlled eastern Germany. The United States, United Kingdom, and France controlled western portions of the city, while Soviet troops controlled the eastern sector.
- (試訳)
- 1945年7月17日から8月2日まで行われた会議を経て、連合国は戦後ヨーロッパの運命を決めたポツダム協定を締結した。協定によりオーデル・ナイセ線西側のドイツは4つの占領区域に分割され、それぞれ米英仏ソの4か国が暫定統治することとなった(ヤルタ会談での方針の再確認)。各国が当時占領していた地域が、大まかに各占領区域として割り当てられた。連合国管理理事会が置かれたベルリンも、ソ連占領区域の内側160キロメートル東にあるにもかかわらず4つの占領地区に分割され、英米仏がベルリン西地区を、ソ連が東地区を統治することとなった。
- (本記事)
- 東側はソ連が共産党(KPD)と社会民主党(SPD)を統合し、ドイツ社会主義統一党(SED)を結成させ、SEDはマルクス・レーニン主義であって、ソ連の傀儡ではないと主張した。
- (英語版)
- In the eastern zone, the Soviet authorities forcibly unified the Communist Party of Germany and Social Democratic Party (SPD) in the Socialist Unity Party ("SED"), claiming at the time that it would not have a Marxist–Leninist or Soviet orientation.
- (試訳)
- ソ連占領区域では、ソ連軍政本部が共産党(KPD)と社会民主党(SPD)を強制的に統合させ、マルクス・レーニン主義やソ連の傀儡にはならないとその時点では主張していたドイツ社会主義統一党(SED)を結成させた。
- はじめの方だけでも以上の通りで{{要改訳}}を貼りましたが、記事全体を見直す必要があろうと思います。--Iso10970(会話) 2023年6月17日 (土) 02:04 (UTC)
- コメント 今回の改稿以前の記事の主要な部分は私が書いたものであったこともあり、翻訳に基づく大規模改稿にすぐに気づいて、メインページ強化記事に推薦しました。しかし、労の多い改稿を顕彰するというつもりで推薦はしたものの、文章的に疑問はいろいろあり、月間強化記事賞では投票しませんでした。上記Iso10970さんの指摘事項の最初の文章「連合国統治評議委員会はベルリンについても、同様に4つに分割されることになり、160 平方キロメートルがソ連統治下に収まった」でも、4つに分割されるのはベルリンであり、「連合国統治評議委員会は」とはつながらないわけで、原文と比較しなくてもおかしく、推敲が必要であることは明らかでした。Iso10970さんの作成された原文との対照を見ると、さらに翻訳自体がおかしいことがわかり、これでは問題が多すぎてとても良質な記事には賛成できません。--Tam0031(会話) 2023年6月17日 (土) 14:59 (UTC)
- 賛成 Iso10970さん・Tam0031さんの指摘事項は尤もですが良質な記事の目安は満たしていると判断します。--津三(会話) 2023年6月24日 (土) 10:43 (UTC)
- 反対 誤訳が未修正のままですので、改訳が行われない限り、良質な記事への推薦は難しいかと存じます。 --Anesth Earth(会話) 2023年6月24日 (土) 11:57 (UTC)
選考終了時点で、賛成1票、反対2票より、見送り。--Family27390(会話) 2023年6月25日 (日) 01:58 (UTC)