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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハーフィズ (ファーティマ朝カリフ) 20240917

選考終了日時:2024年10月1日 (火) 23:59 (UTC)2024年10月15日 (火) 23:59 (UTC)

賛成 アーディド同様、高い水準で良質な記事の目安を満たしていると思います。--Gurenge会話2024年9月22日 (日) 11:12 (UTC)[返信]
賛成 --アロイス・ヒトラー会話2024年9月23日 (月) 23:35 (UTC)[返信]
コメント 投票へのコメントで恐縮ですけれど、アロイス・ヒトラーさんの賛成票はどのような理由によるものでしょうか? このような先例があるため、念のため読んでらっしゃるのか確認でした。--Moke会話2024年9月24日 (火) 01:07 (UTC)[返信]
必要な文がある程度網羅されており、読んでいても文に違和感がなく、かつ出典を強化できていることから。--アロイス・ヒトラー会話2024年9月24日 (火) 04:22 (UTC)[返信]
  • コメント 全体を読めていないので賛否は保留します。訳語の細かい点で違和感があったところがいくつかありました。
    • たとえば冒頭の要約節第2パラグラフ「クタイファートはアブドゥルマジードを投獄するだけでなく国教のイスマーイール派とファーティマ朝の廃絶を宣言し、自分自身は十二イマーム派における隠れイマームの代理人であると主張して独裁体制を敷いた。」"The latter imprisoned al-Hafiz, and moved to depose the Fatimids and replace Isma'ilism with a personal regime, possibly based on Twelver Shi'ism, with himself as the Hidden Imam's all-powerful vicegerent." の部分ですが、"depose" の他動詞は,辞書を引いたら 1.(人を高位から)退ける 2.宣誓証言する と出てきます。「廃絶を宣言する」に違和感を感じます。「廃絶」は自動詞的に「廃絶してしまう」ものであって、族滅や族誅によって廃絶させられてしまうことはあっても、他人が廃絶を宣言するものではないかもしれないです。あと原文は「自分自身は十二イマーム派における隠れイマームの代理人であると主張」したとは言っていないのではないでしょうか。「隠れイマームから全権を委任された代理人であると主張した」そして「この主張は十二イマーム派の教義に基づいているかもしれない」という意味ではないかと思います。この部分に対応する記事本文の「摂政時代と投獄」節の最後のパラグラフを読むとそういう感じです。ここでいうイマームは「十二イマーム派におけるイマーム」つまりサーマッラーの洞窟で隠れたとされる人物であるというよりは、イスマーイール派のイマームでしょう。
      • ここの部分は、「1.クタイファートが、アブドゥッラー・マフディーの男系子孫の系統(= the Fatimids)を、ファーティマ朝国家のカリフ=イマームから退けようとした。2.クタイファートは、ファーティマ朝国家の統治原理からイスマーイール主義を排して、個人が国家を統治する体制にしようとした。3.クタイファート自身は隠れイマームの代理人を自称した。このような主張は十二イマーム派に基づいているかもしれない。」という感じかなと思います。
    • 「摂政時代と投獄」節の最後のパラグラフにおいては、「クタイファートが「アブル=カースィム」のクンヤを名乗った」と読めますが、翻訳元の英文によると、クタイファートが自分が(イスムは明らかでないが(=つまり誰かは名指しされていないが))「ムンタザル」「マフディー」「アブルカースィム」という名前でだけ呼ばれるイマームの代理人であると主張したと読めます。そのクンヤで呼ばれるのはイマームです。関係代名詞の非限定用法が正確に翻訳されているといいなと思いました。なかなか面白い話であるだけに。この辺の記載の根拠となっている Halm (2014) p. 180 は、残念ながら鍵がかかっていて読めないので出典に忠実な記載かどうかそもそも確認できません。
    • 「摂政時代と投獄」節の後ろから2つ目のパラグラフに記載されている「そしてクタイファートは10月21日に父親と祖父が所持していた称号とともにワズィールに任命された」の部分の、「父親と祖父が所持していた称号」は何か、読んでいてわかりませんでした。ワズィールのことなら、この部分は直訳せずに「クタイファートは10月21日に、父と祖父と同じく、ワズィールに任命された。」でいいかなと思います。
    • 「建築」節の第2パラグラフの冒頭、"In 1133, al-Hafiz erected the Mashhad of Sayyida Ruqayya, a shrine dedicated to a daughter of Ali ibn Abi Talib—but not by Fatimah, Muhammad's daughter—after she reportedly visited him in a dream.[125]" の部分の訳文ですが、「1133年にハーフィズはアリー・イブン・アビー・ターリブの娘ルカイヤの霊廟を建立した。その動機はハーフィズが夢の中でルカイヤの訪問を受けたからだと伝えられている。」みたいな感じに意訳してしまっていいと思います。次の第3パラグラフの "During the last years of his reign, al-Hafiz commissioned the Mashhad of Yahya al-Shabih, a cenotaph for two sons of al-Qasim Abu Tayyib, a son of Muhammad ibn Ja'far al-Sadiq,[129]" はおそらく "During the last years of his reign, al-Hafiz commissioned the Mashhad of Yahya al-Shabih and al-Qasim Abu Tayyib, a cenotaph for two sons of Muhammad ibn Ja'far al-Sadiq,[129]" の誤りであろうと思います。「ハーフィズは在位期間の最後の数年間に、ジャアファル・サーディクの孫ふたりの霊廟の建築も依頼した」みたいな感じにところどころ省略して翻訳していいと思います。翻訳元の enwp がけっこう間違っているときもあるので、翻訳していておかしいなと思ったら、一字一句訳さなくても、ところどころ省略したほうがいいかもしれないです。
  • ファーティマ朝末期のカリフについてはあまりよく知らないので、何か言及しそびれている事項があるのかないのかも判断できないのですが、むしろ記載を整理したり説明を省略したりして、もっと読みやすくできるかなと思います。--ねをなふみそね会話2024年9月24日 (火) 10:41 (UTC)[返信]
返信 (ねをなふみそね様宛) :記事を確認していただきありがとうございます。今日は時間がなくご指摘の内容に対する確認は十分にできていませんが、ねをなふみそね様で確認ができなかった Halm (2014) p. 180 は何故かこちらでは鍵がかかっておらず見ることができたので明日以降に詳細を確認してみます(ただしドイツ語のため私には十分に理解できません)。また、摂政時代と投獄節の最終段落の主要文献である Stern (1951) もウィキペディア図書館経由で入手しているのでこちらも明日以降詳細を確認してみます。ただし、ざっくりと見た限りでは、'disestablished' Ismailism や the abolition of Ismailism といった表現も見られるので、ご指摘にある「廃絶」という表現(廃止でもいいですが)は妥当ではないかと考えています(国語辞典も後で調べてみます)。あと、「父親と祖父が所持していた称号」はご意見の通りあってもなくてもいい情報だと思いましたので後ほど省略します。また、建築活動節のご指摘についてはねをなふみそね様の意見に同意します。私も翻訳時に but not by Fatimah, Muhammad's daughter や a cenotaph for two sons of al-Qasim Abu Tayyib, a son of Muhammad ibn Ja'far al-Sadiq などは無駄に詳細で回りくどく感じたので、ご提案に従って省略を含めもう少し簡潔に書き直そうと思います(見返すとyearsをyearで訳しているというミスもあり少し凹んでいます)。いずれにせよ詳細については明日以降に確認する予定です(選考を開けておくために一旦推薦者票は取り消しておきます)。--Los viajeros 77会話2024年9月25日 (水) 05:40 (UTC)[返信]
  • 報告:本選考の指摘事項への対応は数日先に行う予定のため、選考期間を2週間延長します。--Los viajeros 77会話2024年10月1日 (火) 23:49 (UTC)[返信]
    賛成 いくつかこの時代の概説書を読んでみました。出典に挙がっている Magued, A. M. (1971) を参考にすると、現在の記事は最低限記載されるべきことはすべて記載されていると思います。あと、上で挙げた、読んでいてわからなかったところ、自己解決しました。
    • クタイファートの称号は「アフダル」al-Afdal だそうです。祖父も父も名乗った同じラカブを、ワズィールに就任した時に名乗ったということだそうです。
    • クタイファートのクーデタの際に、クタイファートはファーティマ朝の国家イデオロギーであるイスマーイール主義を十二イマーム派主義に切り替えたという話は、イブン・ムサイヤル、スユーティー、イブン・タグリービルディー、イブン・ハッリカーンなどに書いてあるそうです(Magued, A. M. (1971)、菟原 (1982) の注(50))。
    • クタイファートのクーデタの際に、クタイファートがファーティマ朝の新たな主権者とした者の名前については Stern (1951) p.205 に記載がありました。"The Imam Muhammad Abu-l-Qasim al-muntazir li-amri-llah, Commander of the Faithful" だそうです。カイロやアレクサンドリアで見つかっている鋳造金貨の刻印です(同時代史料)。この刻印の解釈について、Stern (1951) はスユーティーなどマムルーク朝期の歴史家(非同時代史料)の理解を踏襲して「クタイファートが十二イマーム派に転向した」と理解しています。菟原 (1982) にもクタイファートが「十二イマーム派教義を信奉する」と記載されています。でも、史料に残されているクタイファートの宣言を読むと、そのような転向がはっきりとわかる証拠がない、というのが Halm (2014) p.180-181 あたりに書いていることのようです。出典に挙がっている 菊地 (2009) の p.188 には上記コインに刻印されているような名前が、十二イマーム派のみならずイスマーイール派にも、もっと言えばその他の信条を持つムスリムの間で、当時、救世主の名前として浸透していたという旨の記載があります。イスマーイール派が秘教主義をとり、ファーティマ朝の最後のイマームが死んだあとエジプトでは教義書が燃やされたそうですので、後世の歴史家には数百年前の政変の細部が分からなくなっていたという話は、なるほど、ありそうな話だなあと思います。
    • 「廃絶」という言葉を使うか使わないかという問題については、英語の原文が to depose the Fatimids であり、abolish ではなかったので少し違和感を感じたという程度です。この政変が abolish the Ismailism を唱えた(Stern (1951) p.205)というのはわかるのです。ファーティマ朝国家の統治イデオロギーにイスマーイール主義を採用するのをやめるという意味で。「王朝の廃絶」というよりは、政権の主権者からファーティマ朝家(=アブドゥッラー・マフディー以来続く家)に退位いただく、主権者は幽明界に姿を隠していらっしゃる「救世主」という設定で、ファーティマ朝国家という政権・政体は続かせるよ、という話なのかな、と思いました。一方で、マムルーク朝期の歴史家が理解したように十二イマーム派転向説が正しければ、王朝の廃絶でもおかしくない(最初の分岐点ジャアファル・サーディクからの歴史を否定することになるから)とも思います。要するに、どっちでもいい気がしてきました。
    • 記事のベンチマーク的に読んだ Magued, A. M. (1971) と比較すると、建築活動に関する言及が Magued, A. M. (1971) にはない記述です。ファーティマ朝イマームが、自派正当化の根拠のひとつであったファーティマ・ザフラーの血統からは外れるサイイダ・ルカイヤの霊廟を建立したこととか、イスマーイール・イブン・ジャアファル・サーディクの血統からは外れるムハンマド・ディーハージの子どもたちの記念碑を建立したこととかは、控えめに言ってちょっと驚きでした。もうちょっと詳しく知りたい気はします。
    • 出典も確認して検証したのはごく一部ですが、冷静に考えると、ウィキペディア日本語版の歴史分野の同種の記事は出典を記載することすらしていないゴミだらけであり、それらと比較するとこの記事は、出典を十分に示していてしかもその出典に異常なものがないという点で、紛れもなく良質な記事だと言えます。--ねをなふみそね会話2024年10月2日 (水) 13:08 (UTC)[返信]
  • 返信 (ねをなふみそね様宛) :先行で多くの点を確認していただきありがとうございます。私もStern (1951)、Magued, A. M. (1971)、菟原 (1982)、Halm (2014)を確認した範囲では現状の記述で特に問題はないように思いました。本文には書いていませんが、Stern (1951)では国教としてのイスマーイール派は放棄したけれどもイスマーイール派のカーディーは残して非合法化まではしなかったという話もあり、クタイファートのクーデター周辺の記録とそれに対する解釈は複雑ですが色々と興味深い点が多いです。あと、deposeの用法について英語版とStern (1951)の記述を英語とラテン系言語のマルチリンガルの語学教師(日本語は話せません)に見せて意見を求めたところ、deposeは基本的に人を目的語にとるのであまり自然な表現ではなく、文脈を無視するならば自分ならもっとわかりやすくstop、close、disappearのどれかを使う。私が推したabolishでも良いという意見でした。なのでdeposeは結構意図的な表現で、ねをなふみそね様の言うように王家は退場させるけれども政権は維持するよといったニュアンスを含んでいるのかも知れませんが、出典からはそこまで細かい内容は読み取れなかったので、厳密さには欠けるかも知れませんが十二イマーム派転向説も踏まえると「廃絶」でも大きな問題はないように思いました。
  • 建築活動の節はアリー家と言えどイスマーイール派の血統に属さない人物が多い点に私も翻訳時におや?と思ったので確かになぜなのかは興味があります。この節は最初のご指摘に従って若干記述を簡略化しましたが基本的な内容は変えていません。
  • ファーティマ朝の政治史全般は通史を扱っている日本語の書籍すらない状態なので基本的に外国語文献に頼らなければならないのが難しい点ですが、今後も折を見て同分野の記事を作成しようと思います(自分の賛成票は復活させておきます)。--Los viajeros 77会話2024年10月4日 (金) 07:27 (UTC)[返信]

賛成のみ3票以上の状態が48時間継続したため、早期終了・通過となります。--Los viajeros 77会話2024年10月5日 (土) 04:51 (UTC)[返信]