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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/セルゲイ・ウィッテ 20200805

選考終了日時:2020年8月19日 (水) 15:44 (UTC)

  • (推薦)先月の月間強化記事賞に漏れた記事です。ロシアの近代史で重要な人物で、日本にもかかわりがあるウィッテについて、十分詳細に説明がなされており、良質な記事の水準に達しているものと考え、推薦します。--Tam0031会話2020年8月5日 (水) 15:44 (UTC)[返信]
  • 賛成 :推薦者票。--Tam0031会話2020年8月5日 (水) 15:44 (UTC)[返信]
  • コメント:ある表現が気になって出典の一つにあたってみたのですが、一部の単語や表記を置き換えただけの文が散見されるなど、著作権の観点から危うい印象を持ちました。また、出典として脚注に示されている文献に記載のない内容が書かれている箇所があるようです。--Semiprecious stone会話2020年8月14日 (金) 13:00 (UTC)[返信]
    • コメント 表現の類似については編集内容から該当箇所を判断できましたが、どのぐらいの類似であるかもう少し詳しい説明をお願いできませんでしょうか(私には日本語文献にアクセスする手段がないので、原文を引用できれば幸いです)。文献にない内容についても具体的な指摘がなければ(記事の長さもあって)指摘の妥当性の判断が難しく、また改善のしようがありません。--ネイ会話2020年8月16日 (日) 12:54 (UTC)[返信]
      • コメント 私が確認した出典は保田孝一『最後のロシア皇帝 ニコライ2世の日記』のみですが、今日はちょっと時間が取れそうにありませんので、具体的な説明は明日以降となることをお許しください。--Semiprecious stone会話2020年8月16日 (日) 14:26 (UTC)[返信]
  • コメント 記事の内容的には十分な品質のものと思え、個人的には賛成したいですが、とりあえず上記指摘の具体的な内容の確認が必要でしょうか。一応、参考文献のうち佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』を確認しましたが当該書籍について本記事に特に問題はありません。--TEN会話2020年8月16日 (日) 17:13 (UTC)[返信]
  • コメント Semiprecious stoneさん、ネイさん、TENさん、ありがとうございます。人物記事なので、評伝をもとに編集できればよかったのですが適切なものがなく、自伝も入手できなかったので、歴史学者のものを中心に加筆しました。保田孝一『最後のロシア皇帝 ニコライ2世の日記』については、確かにたいへん重宝しました。歴史書で手が届かないかゆいところに手が届いた感じです。それだけに安易に使ってしまったところがあると思います。反省しています。類似表現の指摘も納得しています。当該出典の箇所は緊急にリライトしたいと思いますので、少々お待ちください。ウィッテはロシア史においてはきわめて重要な人物で、日本史でも三国干渉やポーツマス条約などで深いかかわりをもった人物ですので、そういう箇所の出典には事欠かないのですが、私生活の部分は弱く、特に翻訳由来の部分には出典のつかないところも出てきてしまいました。そこは自分でも不本意です。Semiprecious stoneさん御指摘の「出典として脚注に示されている文献に記載のない内容が書かれている箇所」という点についても御教示ください。全文に出典を付けるように心がけているのですが、その過程でつい拡大解釈をしてしまうということがあるのかもしれないと思います。申し訳ありません。よろしくお願いいたします。--Greenland4会話2020年8月16日 (日) 22:13 (UTC)[返信]
  • コメント 遅くなって申し訳ございません。また、Greenland4さんにおかれましては、私の中途半端な指摘から記事改稿のご対応をいただきありがとうございました。私が感じた著作権の観点からの疑義についてはノートで説明いたしましたが、昨日来の改稿によって現在の版では概ね問題は解消しているように思います。
    「出典として脚注に示されている文献に記載のない内容が書かれている箇所」についてですが、晩年節で保田孝一『最後のロシア皇帝 ニコライ2世の日記』の199ページから201ページのみ(現在の版の脚注107)を出典としている文章として「セルゲイ・ウィッテは1915年3月13日、脳腫瘍・髄膜炎により露都ペトログラード(現、サンクトペテルブルク)の自宅で死去した」「ウィッテの葬儀はペトログラードのアレクサンドル・ネフスキー大修道院で執り行われた」と記述されていますが、出典の当該ページには死去年月日(年月はあります)、死因、死没地、葬儀の行われた場所についての記載がありません。別の出典と取り違えているか複数の出典から記述されたものと思われます。
    また、記事にはウィッテがラスプーチンに接近してまでして第一次世界大戦参戦に反対した旨の記述がありますが、出典では「ウィッテは第一次大戦への参戦にも反対し、最後まで権力中枢への返り咲きを夢見て、怪僧ラスプーチンにさえ接近したといわれるが、それもかなわなかった」(保田孝一『最後のロシア皇帝 ニコライ2世の日記』200頁)となっており、参戦反対のためというより権力復帰のために接近したと私には読み取れますので、出典と記事のニュアンスに齟齬があるように感じました(中山治一『世界の歴史21 帝国主義の開幕』も併記してあるのでそちらに記述があるのかもしれませんが)。
    以上、ご確認ください。--Semiprecious stone会話2020年8月17日 (月) 14:47 (UTC)[返信]
    • コメント 御教示ありがとうございます。死因、死没地、葬儀の場所、第一次大戦参戦反対、これらはいずれも英語版からの翻訳です。政治的権能を失った最晩年部分なので、歴史書からはなかなか拾えないところですが、あいにく英語版にも出典がついていない箇所なので苦慮していたところです。英語版では死去年月日も記載されていないので、年月だけ保田出典をいただきました。しかし、おっしゃる通り、こういう出典の付け方はまずいと思います。英語版ではウィッテとラスプーチンが大戦への参戦に反対したというふうに書かれているので、ウィッテが戦争に反対したのは間違いなく、保田出典によればウィッテがラスプーチンに接近したのも間違いないだろうとは思いましたが、ただ「最後まで権力中枢への返り咲きを夢見ていた」という部分に関しては、憶測・伝聞に属することであり、また、そういう書き方もしており、保田出典だけでそう書いてしまうのはまずいと考えました。首相を引き受けたものの自ら辞めた人であり、ニコライ2世と対立して蔵相を辞めると言ったことのある人でもあるので、彼は自分の意見、ないし自分の政策が実現されることについては強いこだわりはあっても、権力欲そのものが強い人なのかというと、どうもそうではないのではないか、というのが私の理解です。英語版ではパレオローグがサゾーノフに抗議したことが脈絡なく書かれていたりして、これも何とか脈絡を持たせるように他の文献にあたりましたが、整合性がとれなかったので最終的には記事に反映させませんでした。当該部分については保田出典をいったん外し、人物事典や百科事典を参照して出典が付けられるようなら付けるという方針で改稿したいと思います。ありがとうございました。--Greenland4会話2020年8月17日 (月) 21:19 (UTC)[返信]
  • 賛成 問題は解消しているということですし、自分の確認する範囲の出典では重大な問題はないので賛成いたします。--TEN会話2020年8月19日 (水) 15:51 (UTC)[返信]

TENさんの賛成票は選考期限終了後ですので、選考期限終了時点では賛成1票のため、今回は見送りとなります。--Tam0031会話2020年8月20日 (木) 14:38 (UTC)[返信]