Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/スラヴ人トマス 20200330
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選考終了日時:2020年4月13日 (月) 21:56 (UTC)
- (推薦)2018年12月の月間新記事賞に漏れた記事です。ベースは英語版の秀逸な記事からの翻訳で、日本語文献を含めてうまく主題の人物と出来事についてまとめられているものと思います。--Los viajeros 77(会話) 2020年3月30日 (月) 21:56 (UTC)
- 賛成 :推薦者票。--Los viajeros 77(会話) 2020年3月30日 (月) 21:56 (UTC)
- 賛成 :GAの水準を満たしていると思いますので、賛成票を投じます。--Greenland4(会話) 2020年3月31日 (火) 11:21 (UTC)
- 賛成 「スラヴ人トマス」という個人の伝記というよりも、「スラヴ人トマスの反乱」という歴史上の事件についての記事という印象ですが、この反乱以外の部分についてはほぼ不明な人物のようですから、こうなるのは仕方無いのでしょう。「スラヴ人トマスの反乱」については、公称というか歴史学上で一般的に使われている名称は無いのでしょうか。もしそういう名称があるならば、本記事を、人物記ではなく戦乱史の記事としてその名称に改名してもよいかと思います。
- 異説や異論も多く、事実関係も明瞭でなく、一次資料も信用できないようなこういう歴史的出来事は、ほぼ事実と考えられることや逆にほぼ信頼性のない話を明確に区別して解説するのもなかなか難しいことです。うっかりすると、現在では史実と考えられていない話を史実として(あるいは、執筆者は史実でないことを理解していても、読者に史実と思わせてしまうような文章で)解説してしまう、ということもやりかねません。その点、本記事はそれらの書き分けがしっかりできていると感じました。いろいろな説や解釈が入り交じっているので、所々誤読・誤解しそうな部分があってとまどいましたが、よーく読めば文脈も明らかでした。もっとわかり易く書けないだろうかと代替案を考えてもみましたが、結局は書き直しても同じような文章にならざるを得ない、またはかえって誤読し易くなりそうな文章にしかならず、本記事の解説文はかなりよく推敲されていることがわかりました。こういう解説は対象に対する理解としっかりした基礎知識を持っている者でなければなかなか書けないものです。
- 本記事とは直接関係ないことですが、冒頭部で「トマスの反乱はビザンツ帝国史上最大の反乱の1つ」とされているにもかかわらず、ビザンツ帝国の記事には、トマスの反乱について一言も言及されていないのはどういう訳でしょうか。ビザンツ帝国がスタブレベルの記事ならともかく、こちらの記事も多くの専門書を出典としてかなり詳細に書かれています。そして、「ビザンツ帝国史上最大の反乱の1つ」がそれらの出典にほとんど(あるいはまったく)記載されていないとは考えられないし、ビザンツ帝国の歴史にとって百科事典に書くほどの特筆性のある出来事ではない、とも考えられませんから、ビザンツ帝国で触れていない理由がわかりません。
- § 2.4 トマスの敗北と死、反乱の終結
- 「年代記作家によればブルガリア人にビザンツの都市を陥落させることができることを証明して見せてしまう恐れがあったからだという」
- この文意がよくわかりません。「ブルガリア人がビザンツの都市を陥落させることができる程の力を持っている、ことが証明されるとまずい」ということでしょうか。つまり、この時ミカエル2世が率いていた軍隊はブルガリア人が主体であった、ということでしょうか。
- 「...彼らの指導者トマスを降伏させた[74][78]。トマスはロバに座るミカエル2世の前に引き出され...」
- この部分に限りませんが、この種の反乱やら戦乱などの解説においては、こういう重要な転換点となる(事実上の反乱の終結と解釈できる)出来事については日付けの記載も欲しいところです。もちろん、正確な日付けは不明でしょうが、何年の何月ごろ、くらいの情報でも記載が必要だと思います。
- § 2.5 余波と影響
- 「ウォーレン・トレッドゴールドは、...(中略)...重要であると述べる」
- 文意は明瞭で誤読の余地はありませんが、長い文章の最後まで読まないと、これが「二つの島の喪失の原因」に関する主張であることがわからないので、やや読み難いです。たとえば、
- 「ウォーレン・トレッドゴールドは、帝国の軍事力は相当素早く回復したのであり、シチリア島とクレタ島の喪失の原因としては、この反乱よりもむしろ、無能な軍事的統率と「シチリア島が遠隔に過ぎたこと、クレタ島の常備軍の不在、この二つの島に対する攻撃がほぼ同時期であったこと、ビザンツ帝国政府の長期にわたるシーパワーに対する無関心」などが合わさったことが重要である、と述べる」
- というふうに、「二つの島の喪失の原因」に関する主張であることを最初に明言しておく方がよいと思います。
- 文意は明瞭で誤読の余地はありませんが、長い文章の最後まで読まないと、これが「二つの島の喪失の原因」に関する主張であることがわからないので、やや読み難いです。たとえば、
- --Loasa(会話) 2020年4月1日 (水) 06:35 (UTC)
- 賛成 :良質な記事の水準にあると思います。「小アジアにおける反乱の勃発と拡大」節の第2パラグラフ(2020年4月1日現在)の内容は出典によるサポートが欲しいところです。ホッラム教徒の反乱がバーバクの下で最高潮を迎えたのは確かに同時期ですが、当時は反乱が頻発していた(ジャジーラの Kaysum における Nasr b. Shabath の反乱、820年の下イラクにおける marsh Arab の反乱、同年のホラーサーンの反乱)ので、その中から特にバーバクの乱だけをピックアップするなら何らかの史料に基づいた専門家による考察があるはずです。Bury 1912 を読みましたが、よくわかりませんでした。Treadgold 1988 はネットでは読めないので検証できませんでした。なお、Encyclopaedia Islamica II のマァムーンの項、vol.6, p336 には、「スラブ人トマスの反乱を援助するにとどめ、830年までビザンツ帝国への軍事遠征は手控えた」というような内容が書いてあり、具体的にトマスとの関係は紹介されていません。バルヘブラエウスによると(PBE I Online edition)、820年から823年までの間、マァムーンはトマスに兵を与えてコンスタンチノープルを攻めさせたそうです。「トマスは攻撃された地域に戻るのではなく、821年春にアッバース朝の領土への侵攻作戦を立ち上げた」という記載は間違いかもしれません。その次の「ベリーや他の学者によればシリア、トレッドゴールドによればアラブ人の支配下にあったアルメニアの地方」という文についてですが、当時の「アルメニア」はキリキアを含むこともあるので、同じ場所を指しているかもしれません。Treadgold 1988 が歴史的アルメニアに言及している可能性を要検証っす。--ねをなふみそね(会話) 2020年4月1日 (水) 11:48 (UTC
- 返信 みなさまコメントありがとうございます。一応日本語版を立項したのは私なのでまとめてになりますがコメントさせていただきます。
- 記事主題と反乱の名称:記事名についてのLoasaさんのご指摘は適切なものだと思います。この反乱について日本語でまとまった量の記述があるのは中谷功治、尚樹啓太郎両名の著作・論文のみで後は1,2行触れる程度のものしかないので、もし事件ベースの記事にするとすれば、用語としては「トマスの乱」となると思います(両者はそれぞれ「トマスの乱」(中谷)または「ソマスの乱」(尚樹)と呼んでいる)。ただ、ビザンツ帝国の反乱の名称として確固として確立されている用語、例えば「ニカの乱」などに比べれば弱く、やはり正式な日本語名は現時点では存在しないと言える状態と言えるのが現状に見えます。ですので、本記事がほぼ反乱についての情報しかないのは確かなのですが、現時点では人物ベースの方が穏当であると個人的には判断します(各国語版も「スラヴ人トマス」で建てられており、Wikidataの兼ね合いからもこの方が整合性がとりやすいと思います。)
- ビザンツ帝国の記事との兼ね合い:ビザンツ帝国の記事は確かにスタブではないものの、あまりきちんと筋道立てて説明する構成になっておらず改善点が大きい状態です。歴史節についていえば前半部の「ローマとビザンツの境界」あたりが一番詳細で、より「ビザンツらしく(妙な表現ですが)」なっていく中期、後期に向けてどんどん記述が貧弱になっていく形となっていて、トマスの乱に言及がないのはこの構成上の問題の結果だと思います。ただ、一般的な西洋史の叙述においてビザンツ帝国の内乱は(期間が長く数が多すぎるのものあるかもしれませんが)ニカの乱を例外としてほとんど取り扱われない傾向があるので、ビザンツ帝国の記事でトマスの乱に触れるとしても2,3行、テマ制と絡めて説明する程度のものになるのだろうと思います。
- 文章表現の問題:時間のある日に調整したいと思います。
- バーバクの乱その他の問題:ねをなふみそねさんのご指摘通り、確かにこれは本来出典が必要と思います。ただ、「関連知識を持たない人にもわかりやすく」という観点考えると、フッラムやそれと関連が考えられるとされる?マズダク教など、中東史に相当突っ込んで興味を持ってる人しか聞いたことが無いレベルの話であるような気がするので、本文ベースは紹介いただいたEncyclopaedia Islamica IIのように単にマアムーンがトマスに対して好意的態度を取っていたことを述べ、当時のアッバース朝内での反乱についての細かい話は注釈に逃がしたスタイルの方がWikipedia記事としては好ましいかもしれません。改めて読み返してみると、本文中に「わかるでしょう」という感じでバーバクやフッラム・ディーナーンという用語が突然登場するのはユーザーフレンドリーではないなぁと思ってきました。
- 歴史的アルメニア:全く想像が至りませんでしたが、これもご指摘の通りと思います。Treadgoldの『The Byzantine Revival, 780-842』はちょっと見てみたいのでいずれ確認したいですね。現状、COVID-19のせいで国立国会図書館が来館サービス中止中で利用できませんし、いつになるかわかりませんが・・・^^;--TEN(会話) 2020年4月1日 (水) 18:06 (UTC)
- 返信 選考は終わっていますが、Loasaさんに指摘いただいた点について微調整をかけました。「ウォーレン・トレッドゴールドは、...(中略)...重要であると述べる」については提示していただいた修正案をそのまま使わせていただきました。--TEN(会話) 2020年4月5日 (日) 17:43 (UTC)
賛成のみ3票の状態が48時間継続のため、早期終了・通過となります。--Tam0031(会話) 2020年4月3日 (金) 14:26 (UTC)