Wikipedia:査読依頼/イギリス東インド会社 20080309
表示
イギリス東インド会社 - ノート
[編集]<依頼者コメント> インド近代史を語る上で、重要な記事です。年表しかなかった記事をある程度充実させたとは思いますが、欠けている視点があるかもしれません。皆様の幅広い批評を承りたいと思います。Tantal 2008年3月9日 (日) 07:41 (UTC)
- 【査読】 ──専門家の方による審査結果。
- 投稿ありがとうございます。さぼっている私がいうのは大変に気が引けるのですが、気付いた範囲でコメントしてみます。細かいことは【検証】項目に書きました。なお、イギリス史側からの、および17世紀中心のコメントになってしまうことをあらかじめ申し上げておきます。
- 1)構成:会社内の歴史叙述にほぼ限定された書き方になっていますが、イングランド本国との関係、ネイボッブなど東インド会社とその関係者はどのように見られてきたか、また帝国以前・帝国とどのような関係にあったか、などなど書けそうです。さらに19世紀は会社を介さない直接統治に切り替わりますが、そこで東インド会社時代とどのような変化があったかも言及するに足る視点と思われます。これは私の主観ですが第2節「歴史」は字数を削ってもよさそうな感じはします。
当時の「会社」がどんなものであったか、一節を設けて説明する必要があるかもしれません。現代人は会社というとトヨタとかの企業をイメージして、軍隊を持っていたとかインド統治をしていたと言ってもピンと来ないこともあるかと思います。
さらに将来的には(これはTantalさんだからこそ要求することでもありますが)「研究史」項目の必要度は高いと考えます。イギリス東インド会社に関する古典など無知な私にはわかりませんが、時代の変化とともに「イギリス東インド会社」観も当然変化しているであろうと思います。 - 2)文献について:要求しだすときりがないのでさわりだけにしておくと、浅田実はイギリス東インド会社を語る上で外せない著者です。数冊出ているので一通り目を通すのがよいと思いますが「イギリス東インド会社とインド成り金」(ミネルヴァ書房)あたりは必携かと。そこで掲載されている文献を追っていくことになると思います。
- 以上、思ったことをつらつら書いてみました。色々いちゃもんつけましたが、大変な労作であることには変わりありません。かさねがさね、お疲れさまでした&ありがとうございます。なお、このコメントをどこに入れるか迷いましたが【査読】項目がほとんど使われてないので、僭越を承知でこちらに入れさせていただきました。--S kitahashi(Plé)2008年3月16日 (日) 20:41 (UTC)
- 【検証】 ──参考文献などと照合しつつ正確性を評価頂いた結果。
- 上の【査読】セクションと一緒に投稿します。
- アルマダ海戦を海外進出の契機とする(または匂わせる)のは「ん?」と思いました。制海権がイングランドに移ったわけでもない(「世界歴史大系イギリス史2」p95ほか)こともあるし…。もともとイングランドは内向的で大陸や海外に興味が薄く、ようやく大航海時代の機運がイングランドにまで波及したのは16世紀後半、エリザベス期でした。こうしたマクロな潮流をこそ要因としたほうがいいのではないか、というのが私の考えです。
- アンボイナ事件によってイングランドが香料の東南アジアから撤退した、とするのは現在は誤りとされています(小野功生・大西晴樹「〈帝国〉化するイギリス」p77)。事件前から(本国では)オランダとの融和路線が進んでおり、また東南アジアからの撤退も、同様に事件前からみられています。
- デュプレクスについて。この人物を私は知りませんが、いずれにせよ個の力を戦争の決定要因とするのは多少ひっかかる気がしました。ジョン・ブリュア(大久保桂子訳)「財政=軍事国家の衝撃」のように財政面における戦争遂行能力の優劣を、そのまま植民地にあてはめるのは危険な気もしますが、これについてもマクロな差をこそ問えば、よりよくなると思います。--S kitahashi(Plé)2008年3月16日 (日) 20:41 (UTC)
- (ご返信)
- アルマダ海戦を契機にという文章は、フランシス・ドレークの文章に改稿しました。イングランドの海外への雄飛となるとエリザベス1世時代をもう一度俯瞰する必要があるわけですが、ドレークの世界周航は、アルマダ海戦よりも前の出来事ですし、ドレーク自身がその後に、アルマダ海戦で活躍していることを鑑みての改稿です。
- アンボイナ事件に関しては、『〈帝国〉化するイギリス』を読んでの改稿になるかと思います。どうも、自分が読んだ文献では、そこまで英蘭関係が融和路線に進んだものがなかったので。
- デュプレクスに対しての評価は難しいですが、彼がイギリス東インド会社にとって、目の上のたんこぶだったことは確かなようです。しかし、デュプレクスに対する本は私も手にとって読んでいないので、一概には言えないですが。--Tantal 2008年3月30日 (日) 13:03 (UTC)
- 【書評】 ──専門外の方による評価および助言。
- 歴史的にみて、これほど大きな意味をもった組織に関する記事が、年表しかなかったというのは少し驚きでした。東インド会社にはさまざまな人物がかかわったこと、視点も、インドや東南アジアはもとより、イラン、ヨーロッパ大陸諸国、アメリカ、日本にまでおよぶ、広い視野をおさめたすばらしい記事、たいへんな力作だと思いました。ただ、会社の変質や創業、廃止について、政策とのかかわり(重商主義から自由放任主義へ)をまず冒頭部分で取り上げた方がわかりやすいかなと思いました。それから、やはり、産業革命との関連が読者としてはもっと知りたいのではないかと思いました。全体的には、「沈黙の塔」の建設やボストン茶会事件など多様な関心をもっている読者の知的欲求にも答えており、東インド会社そのものの役割や性格の変化はもとより、会社にかかわった人物像の描写も巧みになされていて、読み物としてもおもしろかったと思います。個人的には、レヴァント会社など16世紀のイギリスというのは、意外に知識の空白域なので、そこの部分が勉強不足だなと思いました。すばらしい記事をありがとうございました。--Greenland4 2008年3月9日 (日) 09:44 (UTC)
- (ご返信)産業革命とインドという視点は、確かに欠けていますね。今日、注文していた小谷汪之 編『世界歴史体系 南アジア史』 2巻、山川出版社、2007年。が到着したので、記事の内容を膨らませることができそうです(時間は少しかかるかもしれません)。1757年以降は、インドを実質的に支配した組織ですので、この記事に1757年以降のインド社会・経済を組み込んでみたいと思います。そうなると会社組織から1つの政権の歴史へと記事の内容が大きく変貌を遂げる可能性があります(苦笑)--Tantal 2008年3月10日 (月) 12:05 (UTC)
- イギリス・インド両国については高校世界史で習うレベルの知識しか無いので、全くの素人意見として、変な所があってもご容赦ください。
- まず小さいところですが気になったこととしては一番最初の定義部分です。「株主215人、資本金68,373ポンド」というのはここに書くようなことでもなく、歴史の部分で少しだけ触れる、あるいは全く触れなくても良いくらいのトリビアでしょう。「貿易商人の組合に近い性格を持っていたレヴァント会社・・・自前の従業員を持ち、貿易を行った」という部分も冒頭には必要ないと思います。それよりも概要にはかいていますが、イギリスのアジア政策において重要な役割を果たしたということを書いておいたほうがいいように思います。
- また「砂糖、胡椒、香辛料を輸出し、その代金で金、銀、銅といった金属を手に入れることができた」という記述がありますが、この辺りの貿易構造をもっと詳しく、時代ごとに変化があるのならそれも加えて、節を独立させて解説してほしいところです。
- そしてムガル帝国などの現地諸国との関係ももっと欲しい所と思います。現地政府との関係は良好であったのか、現地の一般民はどういう感情を持っていたのかなど資料が難しいかもしれませんが。らりた 2008年3月30日 (日) 11:53 (UTC)
- 18世紀後半から19世紀にかけての貿易構造ですが、特に産業革命勃興後は、インドは輸出産品をほとんど持っていなかったというのが正解だと思います。産業革命以後のインドはあくまで、「富の流出」に直面し、アヘンとインディゴ以外の一次産品は輸出産品足りえず(だからこそ、茶を新大陸に再販売しようとして、ボストン茶会事件が勃発する)、逆にイギリスで生産された廉価な綿布によって、ヨーロッパと東南アジアの市場を失うと言う一方的な輸入超過だったと思います。また、産業革命の勃興はマンチェスターやリヴァプールといった新しい産業資本家の台頭と彼らによるインド、中国市場への参入、彼らとの競争だったこと、それが1833年の広東貿易解禁という構図です(さあ、文章にどう盛り込もう……)。
- 会社のそれぞれの関係ということであれば、基本的に、対ムガル帝国・マラーター同盟・ニザーム藩王国・シク王国の4点がある程度重要になるかと思います。アワド藩王国に対して反逆の姿勢を見せた藩王国は取り潰しの憂き目に合うというのが一般的で(これが本文でも示唆しているとおりインド大反乱の遠因になるわけですが)、日本語文献をもう少し渉猟しないといけないんでしょうね。ただ、アウラングゼーブ以後のムガル帝国はデリー周辺の小領主に転落しているわけで、そこまで、ムガル帝国を協調する必要はないのかなとも思います。あくまで、1757年のプラッシーの戦い以降、会社がベンガル、オリッサ、ビハールの徴税権を獲得しただけで、北インドでの威光はある程度残っていたと思いますけど、ここまで来ると自分の推論になるんです……。--Tantal 2008年3月30日 (日) 13:03 (UTC)
- (追記)実はイギリス東インド会社、ムガル帝国を2月から3月にかけて、加筆をしていく過程で、日本語版ウィキペディアの不足しているところを明らかにしようという自分なりの試みでして、やはり、日本、朝鮮、中国、西ヨーロッパ、アメリカ合衆国を除いた地域の歴史というのは弱いのだと思います。トルコやイランといった地域は専門の方がある程度執筆をされているので(利用者:Kotoitoさんや利用者:Haydarさんなど)ある程度のカバーできていますが、中世イスラーム史(特に中央アジア)は空白地帯みたいなものです。今までの歴史教育のひずみがこういうところに出ているのかなあという気はします。あと、インドやパキスタンに関して言えば、中国以上に難解かもしれません。なんといってもインド亜大陸を初めて統一した政権が実はイギリス東インド会社が最初で中国と違って文字も言葉も違う(すぐに思いつくだけで主要言語は、ヒンディー語、ウルドゥー語、ベンガル語、タミル語、マラーティー語など)、宗教観も多様(ヒンドゥー、イスラーム、仏教、シク教、ジャイナ教、ゾロアスター教など)と一筋縄ではいかない地域です。インド亜大陸と簡単に私も言っていますが、インドの歴史を徹底的に勉強すればするほど、1人でヨーロッパの歴史を古代から現代まで執筆しているようなブラックホールに吸い込まれそうな感触を持ちます。--Tantal 2008年3月30日 (日) 13:03 (UTC)
- 【感想】 ──専門外の方による感想。
- 【その他】 ──表記・文体など