Wikipedia:投稿ブロック依頼/イザヤ
このページは以下にある投稿ブロック依頼の議論を保存したものです。さらなる議論が必要な場合は当該ページのノートページで行ってください。このページは編集しないでください。
注意: あなたが投稿ブロック依頼を提出しようとしてこのページを見ている場合は、依頼へのリンクを {{Wikipedia:投稿ブロック依頼/利用者名 (日付または依頼回数)}} のように書き換え、新しい依頼ページを作ってください。新しい依頼ページでは、過去の議論を参考にできるよう、該当の古い依頼ページへのリンクを作成してください。
議論の結果、1か月間ブロック に決定しました。
「聖絶」の項目における2度にわたるリバート(1度目と2度目)を複数のユーザーから咎められているにもかかわらず(1度目や2度目など)、それに対する反論(1度目や2度目など)を見る限り、その編集姿勢(ウィキペディアを布教活動の場としている)に改善の見込みがまったく認められないため、イザヤさんに対する投稿ブロックを依頼します。
ここに至るまでの議論は「Wikipedia:コメント依頼/ימח שמו וזכרו」のほうをご覧になってください。なぜ依頼者であるわたし自身を被依頼者にしてコメント依頼を提出したのかと言えば、わたしが4月16日に行ったこの統合が今回のリバート合戦の発端となったからであります。某利用者さんの会話ページにおけるイザヤさんの主張によれば、依頼者であるわたしの行為、およびユーザー名は即時ブロックに相当するとのことです。かといってわたしの会話ページに乗り込んで直接抗議するわけでもなく、ましてわたしを被依頼者にコメント依頼やブロック依頼を提出して自身の正当性を訴えるほど正々堂々とした方でもなさそうなので、手っ取り早くわたし自身を被依頼者にしてコメント依頼を提出した次第であります。面と向かって議論できないからでしょうが、わたしに対する誹謗中傷も含め各所で喧伝しまわっているようで、上記利用者さんだけではなく、それ以外の利用者の方々もとばっちりを食らっているような有様です(この利用者さんとこの利用者さん)。こんな攪乱戦法にいつまでも付き合っているわけにはまいりません。
客観的に見れば「Wikipedia:コメント依頼/ימח שמו וזכרו」での議論はまったくかみ合っていないようにも見受けられるでしょうが、これもイザヤさんによる攪乱の典型的な例に他なりません。そもそもわたしが問題としているのは、某利用者さんが2月16日に行われたこの改名であります。この改名は、聖絶という言葉にまつわるキリスト教における保守派とリベラル派による議論が不調に終わったことによる妥協の産物なのですが、改名そのものには全く妥当性がなく、信頼性のある百科事典を作るというウィキペディアの理念からは完全に逸脱した行為だったのです。無知が原因で「ヘレム」という無用な項目が作成されたりもしました。なによりも、4年以上も存続していた「聖絶」という項目(項目名)がたったひとりの利用者によって実質的に乗っ取られてしまったという事実は、ウィキペディアにとっても由々しき事態であるといえましょう(現在でも乗っ取られたままです)。わたしはこれらについて指摘したうえで、2月16日以前の状態に不完全ながらも戻したわけであり、それが4月16日の統合に他なりません。この統合の結果、2度にわたってリバート合戦が生じたのですが、これはすなわち保留状態にあったキリスト教徒間の対立が再燃したともいえるのです。にもかかわらずイザヤさんは、わたしを一方的にユダヤ教徒か反キリストと認定したうえで、この対立が、あたかもキリスト教対ユダヤ教、あるいはキリスト者対反キリストの争いであるかのごとく各所で喧伝し、わたしの同調者であれば誰であれキリストの敵と見做し、議論をすり替えて論者を攪乱しつつ、いわば暴力的に「聖絶」の項目を占有しようとしているのです。もちろんキリスト教徒間の対立とはいえ、イザヤさん以外の利用者の方々は包摂主義を謳うウィキペディアの方針に従い、わたしの行った統合を支持してくれております(わたし自身は他の利用者さんが行うべき作業を代行したという認識しかないのですが)。それは「Wikipedia:コメント依頼/ימח שמו וזכרו」における第3者による複数のコメントが証明しているかと思われます。
被依頼者であるイザヤさんは「聖絶」以外の項目でも、これと類似した暴力的ともいえる編集姿勢でもって多々問題を起こされているようで、およそ2か月前にも他の利用者さんによって「Wikipedia:コメント依頼/イザヤ」が提出されております。しかし、今回の投稿ブロック依頼は「聖絶」の問題にのみ限定しても審議に値すると思われるので、そちらのほうは考慮してもらわなくとも結構です。--ימח שמו וזכרו 2011年5月15日 (日) 16:12 (UTC)[返信]
(追記)「ウィキペディアを布教活動の場としている」というブロック依頼の理由についてですが、イザヤさんによる反論の1度目だけでもその傾向が顕著に表れていることから特段の説明を要しないと思っていたところ、これだけでは不十分と感じている利用者の方もおられるみたいなので、これ以外にもこういった例やこういった例があることを提示しておきます。それからこれは蛇足ですが、ウィキペディアに参加しているからにはウィキペディアン全員が兄弟姉妹であることを忘れないでほしいものです。こんな前提だからこそ自分と意見の食い違う利用者がいれば即座に敵対者とみなして牙をむき出すようなことになってしまうのです(同類の方が他にもいるみたいですが)。それはともかく、これまでにイザヤさんが残されたコメントのいくつかを改めて熟読したところ、布教活動というよりもむしろ信仰告白といったほうが相応しいのかもしれませんが、いずれにせよそんな個人的な目的のためにウィキペディアを利用されては困るのです。キリストを賛美しないからという理由でリベラル派による記事をリバートするというのは、言い換えればキリストの賛美を強要しているに他ならず、これはすなわち布教活動どころか共産主義国家並みの思想統制を敷こうとしているも同然なのです。聖絶に関する福音派によるキリストを絡めた解釈以外のものはその存在すら認めないという明確な意思を行動でもって示しているのです。なぜこのような利用者に対してしかるべき措置が取られないのか不思議でなりません。質量共に最高峰の百科事典を完成させるというウィキペディアにおける目的意識を共有できない以上、参加を辞退していただきたい利用者であることに間違いはないのです。わたしがイザヤさんの投稿ブロック期間を無期限としているのは、ウィキペディアの理念が不変だと思っているからに他なりません。--ימח שמו וזכרו 2011年5月17日 (火) 13:45 (UTC)[返信]
- 賛成 無期限(依頼者票) 正直なところ、わたしとイザヤさんとの間にはウィキペディアでの編集において対立するものは何もありません。わたしの会話ページなどを見ればわかるように、「聖絶」についてはむしろイザヤさんに同情的であったにもかかわらず、一方的に敵視されていたわけです。もう少し利口に立ち振る舞ってもらえれば、最終的にはイザヤさんの思惑通りに事を運べたのかもしれないのでまことに残念でなりません。つまり、統合を容認できないゆえにわたしに楯突くのではなく、統合されたこの記事の信憑性について疑問を呈したうえで、不適切と思われる記述を順次削除していけばよかったのです。実際わたしも統合にさいしては某利用者さんによるデタラメな記述を削除しておりますし、不適切な単語の使用を指摘してもおります。イザヤさんがその方針であれば、わたしも編集に協力するのにやぶさかでなかったものを、選択を誤ってしまった以上はブロックもやむを得ないでしょう。それに、わたしのユーザー名を糾弾するにおいては、どうやらあらゆる無法が許されると勘違いされているみたいなのですが、この手の狂信めいた信念が一過性のものであるとは到底思えません。つまり、今後イザヤさんによって無用な混乱がもたらされるであろうことは必至なので、今のうちに対処しておくのが賢明な判断となりましょう。それゆえ無期限ブロックが相応しいと考えている次第であります。イザヤさんにはウィキペディア以外の場で活躍してもらいたいものです。--ימח שמו וזכרו 2011年5月15日 (日) 16:12 (UTC)[返信]
- 賛成(長期) この被依頼者イザヤさんの場合、いきなり無期限でブロックすると、ブロック破りをしそうな感じがします。期限を設けて、
長期間猛省を促し、それでも悔い改めず、行動を変えなかったら無期限にするのはいかがでしょうか?--Mr.Max 2011年5月16日 (月) 04:34 (UTC)[返信] - 反対 依頼者の投稿ブロック依頼理由の編集姿勢(ウィキペディアを布教活動の場としている)に関して吟味して見ました。依頼者の方が提示されているログにはそのような活動をしている箇所は見つかりませんでした。布教活動ではなく彼の信仰的立場を説明したものに過ぎません。確かに、御自身の信仰的立場に対し確固とした信念があり他を受け付けないという面が見え隠れしますが、布教活動と捉えるには問題があります。もちろんあからさまな布教活動をされるならば、同じキリスト者であっても賛成に回ります。聖絶に関して意見を申し上げます。これは編集の方法論に問題があるかもしれません。言葉「造語」は作られた当時、キリスト教以外に用いられない言葉であっても時代が経るに従い言葉の用いられ方は様々な様相が生まれてきます。編集方法としては、様々な用いられ方を紹介する形にするべきで、一緒くたにして説明するべきではありません。これは自戒を込めて申し上げますが、反対意見がある以上統合などの行為を強引に行うことも無効とされるべきものと考えます。しかし度重なるリバートも問題があります。双方に問題があり、対話を尽くすべきだと思います。投稿ブロックは時期尚早と考えます。また、このような、投稿ブロック依頼の中においても礼節は守るべきであり、中傷的な言葉を用いるのは不適切だということも指摘させていただきます。--Pauro 2003 2011年5月16日 (月) 12:43 (UTC)[返信]
- コメント ご意見をいただきありがとうございます。ただし不明な点があるので質問いたします。Pauro 2003さんのおっしゃる「編集方法としては、様々な用いられ方を紹介する形にするべき」というのは至極まっとうな意見であり、ウィキペディアの編集に携わる者であれば誰も反対はしないでしょう。そこでお聞きしたいのですが、リバート合戦となったこの編集とこの編集では、どちらのほうが「様々な用いられ方を紹介する形にするべき」という編集方法に適っているとお考えなのでしょうか? (大雑把にいえば)前者は『新改訳聖書』による聖絶と『岩波訳聖書』による聖絶の両論併記という体裁になっており、後者は『新改訳聖書』による聖絶の独壇場です。わたしは前者であると考えております。なぜなら、両者とも旧約聖書に書かれた同じ行為を同じ言葉を用いて語っているのであり(若干重複しない箇所があるようですが)、違うのはその行為についての解釈でしかないからです。「様々な用いられ方」というのはこの場合は同じ行為、同じ言葉における「様々な解釈」ということになります。つまり、「様々な用いられ方を紹介する形にするべき」というのは、「一緒くたにして説明するべき」という意味になり、それはすなわち前者のような両論併記という体裁で編集されることになるはずなのです。ところがPauro 2003さんは、それとは相反する「一緒くたにして説明するべきではありません」というコメントを残されております。「編集方法としては、様々な用いられ方を紹介する形にするべきで、一緒くたにして説明するべきではありません」という文章は、前半と後半がまったく矛盾しているように思われるのですが、その真意を説明してもらえないでしょうか?
- それから、この問題をなにか一般論として語られているような節があるのですが、Pauro 2003さんのおっしゃるとおり、聖絶という言葉には「キリスト教以外に用いられない言葉であっても時代が経るに従い言葉の用いられ方は様々な様相が生まれてきます」という40年にわたる具体的な歴史があるのです。つまり、ここでは具体的なことを質したいのであり、それは、リバート合戦となったこの編集とこの編集では、どちらのほうがウィキペディアにとって相応しい記事であるのか、という選択に他なりません。イザヤさんのブロックについては2次的な問題に過ぎないのです。わたしと同様、前者のほうが相応しいとお考えであれば、それを断じて認めようとしないイザヤさんの処遇については自ずと結論が見いだされるはずなのですが、いかがお考えなのでしょうか?--ימח שמו וזכרו 2011年5月16日 (月) 16:12 (UTC)[返信]
- 賛成賛成いたしますが期間については個人的に意見がまとまっていません。言動からすれば無期限相当ですが、知識を考えれば、ちゃんと更生さえすれば立派な記事を書くことも可能だろうとは思っています。ただ、一方で更生の可能性は限りなく薄いとも考えてはいますが。布教の場にしているかどうかについては個人的な見解を差し控えます。賛成理由について、依頼者様に完全に同意しているわけではないことも付け加えておきます。ブロックに賛成の理由としては
- ノート:聖絶#カナン時代に限定されませんにおける答申から、被依頼者は編集合戦を確信犯的に、つまり相手との議論や論争を自身の都合の良い方向にもっていくための手段として使用している節があること。また編集合戦は自身が正しいと考える場合許されると思っている節もあること。これはウィキペディアの基本的なルールから逸脱する行為です。(Wikipedia:投稿ブロックの方針/改定案#過剰な差し戻しに該当)
- 上記ノートでの私とのやり取りのほか、ほかの方の議論から見るに、自身の意見を通すために、あるいは自身の編集状態を維持するために、議論のための議論とも呼べる状態に持ち込もうとしている節があること。結果他のユーザーを疲弊させるユーザーになっていると考えられること。(Wikipedia:投稿ブロックの方針/改定案#コミュニティを消耗させる利用者に該当)
- ウィキブレイクを他者との議論や、自論を通すために、牛歩戦術的に使用していると思われること。たとえば聖絶において統合議論が始まり、行われている間、被依頼者はウィキブレイクを宣言しており、また実際に編集が半月以上にわたってありませんでした。相手の状態が見えないインターネット上の議論において、このような状態で相手が戻ってくるまで結論を先延ばしにするというのは現実的ではなく、参加者で合意した後に反対を表明する行為はちゃぶ台返しに近い行為に思います。
- 以上のことから、ブロックすべきであるという結論に達しています。--Koon16000 2011年5月16日 (月) 13:23 (UTC)[返信]
- 反対 コメント 私は、アナバプティズムに立つ非戦論の立場から、また今日の死刑制度のあり方から、旧約聖書における聖絶論については大変に関心をもって研究しています。イザヤさんは福音的なクリスチャンの立場から、聖絶論について非常によく研究されている方で、旧約聖書の原語であるヘブライ語にも精通しており、興味深い内容の記事を編纂されております。私も、楽しく興味深く記事を拝見させて頂いております。ここに参加されている方の立場や見識の違いもあるかと思いますが、イザヤさんは、そんなにデタラメなものやズレたような内容の記事を編纂されているとは、到底、私は思えないです。イザヤさんは、よく勉強されている真面目な方のようですし、故意に他の人の編集の邪魔をしたり荒らし行為のような人にも思えません。 編集する上でお互いに軋轢のようなものがあれば、ノートページでの議論や、コメント依頼での話し合いで充分済むことだと思いますが、如何でしょうか。 もし仮にですが、イザヤさんに客観的に何か問題点があるとすれば、コメント依頼での話し合いで、お互い注意を喚起することで、ほぼ解決する内容ではないかと思います。ここはみんなで事典を編集するというコンセプトのもと、さまざまな立場の人や考え方の人が匿名で集まる環境で、時と場合によってお互い意見の軋轢が生じてしまうのは、ある意味やむを得ないのですが、だからと言って今回のように、いきなり投稿ブロックして締め出そうとするのは、いくら何でもやり過ぎだと思います。 また、ガイドラインを一読すれば分かることですが投稿ブロックは、もうほかに手の打ちようがない時の非常手段の時に行使すべきものですし、そう安易に依頼すべきものではありません。なるべくなら、お互いの意見交換で解決できるよう努めましょう。 お互い編集合戦や非難の応酬をするのではなく、もっと建設的に意見を出して話し合ってはいかがでしょうか。お互い異なる立場から、さまざまな視点に立って意見交換すれば、もっと良い記事が編集できると思いますよ。--Tsubasabbs 2011年5月16日 (月) 13:42 (UTC)[返信]
- コメント イザヤさんのwikijpにおける布教については、その可能性は極めて低いと判断します。 イザヤさんはとても熱心なクリスチャンのようで、言うまでもなく聖書を大切にしキリストをとても尊敬しています。当然ながら尊敬している方(キリスト)の記事については肯定的な内容で編集されるし、それが違法な「布教」にあたると判断すれば、偏った視点に立つものか、或いは反対者や無神論者などの偏見というものではないでしょうか。何をもってイザヤさんの記事が布教と見なされるのか曖昧な感じもしますし、もし仮に布教するとすれば、特定団体に勧誘(入会)を勧めるような内容のものではないでしょうか。私が拝読した限りにおいては、そのような内容の記事は、ほとんど皆無です。--Tsubasabbs 2011年5月16日 (月) 14:01 (UTC)[返信]
- コメント布教であるとする依頼者の依頼理由ですが、どの点が布教であるのか明確にコメントいただきたいと思います。--Pauro 2003 2011年5月16日 (月) 15:00 (UTC)[返信]
- コメント 万人が共有できる信頼性のある百科事典を作るのがウィキペディアの理想であるとわたしは理解しております。しかしイザヤさんの編集姿勢から判断するに、この方の理想は、極端に言えば福音派にとって好ましい言説でもってウィキペディアを支配することにあると判断できます。でなければリバートという短絡的な行為には及ばなかったでしょう。布教という言葉からは、各地を巡りながらある宗教、宗派の教義を積極的に広めるというイメージが浮かぶでしょうが、ネットという媒体はその積極的な行為を代行してくれるのです。ウィキペディアであればその効果は絶大でしょう。質問に対して質問で答えて申し訳ないのですが、なぜイザヤさんはウィキペディアに拘るのでしょうか? 万人が共有できる信頼性のある百科事典を作りたいからなのでしょうか? それならばイザヤさんの振る舞いも全然違ったものとなっていたはずです。ヘブライ語についての無知を散々晒しているような方がヘブライ語由来の造語について記事を書いたところで、誰がその記事に信頼性があると認めるのでしょうか? それから、これはイザヤさんだけではなくPauro 2003さんにも留意してもらいたいのですが、自分自身の宗教上の所属を間接的であれ明らかにしている以上、布教目的という疑惑に晒される可能性が高まってしまうのです。それゆえ、より慎重な編集を心がけるべきところを、今回のような騒ぎを起こしてしまったのですから、これは当然の報いともいえるわけで、むしろPauro 2003さんのような利用者にこそ進んで賛成票を投じてもらいたいと思っているのです。--ימח שמו וזכרו 2011年5月16日 (月) 15:54 (UTC)[返信]
- コメント布教目的という疑惑というだけで投稿ブロック依頼を出すのはいかがなもののでしょうか?それは推測の域を脱していません。明らかに布教であるという言動があったかということを示してください。依頼理由に「布教」とある以上その痕跡がないので申し上げているのです。彼の言動や行動から「布教目的」であると推測しての依頼であるならば、大いにその非はあなたに向けられるのではないでしょうか?再度お尋ねします。彼のどの言動行動がウィキペディアを布教活動の場としているのでしょうか?布教の痕跡や言動を明示してください。推測でそのような理由を出されるのでしたら、今後同じようにキリスト教、仏教、神道などその信仰に立った記事を固執し書くものは布教者として排除される前例を作ることになってしまいます。どうかそのようなことにならないためにも、以上の質問に対してはっきりさせていただきたいと思います。--Pauro 2003 2011年5月16日 (月) 16:19 (UTC)[返信]
- コメント 万人が共有できる信頼性のある百科事典を作るのがウィキペディアの理想であるとわたしは理解しております。しかしイザヤさんの編集姿勢から判断するに、この方の理想は、極端に言えば福音派にとって好ましい言説でもってウィキペディアを支配することにあると判断できます。でなければリバートという短絡的な行為には及ばなかったでしょう。布教という言葉からは、各地を巡りながらある宗教、宗派の教義を積極的に広めるというイメージが浮かぶでしょうが、ネットという媒体はその積極的な行為を代行してくれるのです。ウィキペディアであればその効果は絶大でしょう。質問に対して質問で答えて申し訳ないのですが、なぜイザヤさんはウィキペディアに拘るのでしょうか? 万人が共有できる信頼性のある百科事典を作りたいからなのでしょうか? それならばイザヤさんの振る舞いも全然違ったものとなっていたはずです。ヘブライ語についての無知を散々晒しているような方がヘブライ語由来の造語について記事を書いたところで、誰がその記事に信頼性があると認めるのでしょうか? それから、これはイザヤさんだけではなくPauro 2003さんにも留意してもらいたいのですが、自分自身の宗教上の所属を間接的であれ明らかにしている以上、布教目的という疑惑に晒される可能性が高まってしまうのです。それゆえ、より慎重な編集を心がけるべきところを、今回のような騒ぎを起こしてしまったのですから、これは当然の報いともいえるわけで、むしろPauro 2003さんのような利用者にこそ進んで賛成票を投じてもらいたいと思っているのです。--ימח שמו וזכרו 2011年5月16日 (月) 15:54 (UTC)[返信]
- コメント とりあえずこのあたりをご覧になってください。ウィキペディアはキリストを賛美するためのツールではないのです。これ以上何か説明が要りますか?--ימח שמו וזכרו 2011年5月16日 (月) 17:01 (UTC)[返信]
- 賛成 一応賛成票だけ 「キリスト教関連の資料に関して、福音派のみの物を用いる」「無駄にスタブ(字引記事ばかりの上、ほかの編集者が容易に編集できない)を作る」「宗教的中立性 客観性がない(『異教』『異教(仏教など)』というタームを用いる)」「ימח שמו וזכרו様が、ヘーレムとへレムとへ(平仮名)ーレムとアナテマと聖絶を再編集する際まともな手続きをしているのに、削除依頼に対して反対票を投じず記事の方を編集する」「協調性がない」点から、ブロックしていいと思います。それから、ヨッドみたいな「他国語記事へのリンクのない記事」は、福音派POVの証拠でいいと思います。雑多ですいませんがー Pauro 2003さんwikiは布教の場じゃないから仏教でも神道でも布教しちゃいけないんですよー--江本亨進 2011年5月17日 (火) 04:26 (UTC)[返信]
- コメントימח שמו וזכרוさんが示されたログは万人宛に書いかれたものではありません。特定のお話し相手(キリスト者であることを表明されている個人)に対し、イザヤさんの信仰的立場における信仰の表明と個人的お願いに過ぎません。布教の意味を取り違えないでいただきたいと思います。信仰的な意見表明をしたからといってそれが個人や万人を信仰に導く行為である布教にはなりません。このどこに布教の意図があるというのでしょうか?明確にしてください。--Pauro 2003 2011年5月17日 (火) 11:31 (UTC)[返信]
- コメント 内容が重複するので(追記)のほうもご覧になってください。利用者個人がどのような思想信条を持とうが一向に構いませんが、それが暴力的な編集態度となって表れてしまっていることを問題視しているのです。たとえ個人的な会話であれ、このコメントにおいてリバートの動機と自らの正当性を訴えている以上、言い逃れはできないでしょう。ようするに岩波による聖書解釈が気に入らないからリバートしたと表明しているのです。こうしたイザヤさんの行動が布教活動でないのなら、いったい何なのでしょうか? テロ活動ということでいいのでしょうか? 「布教活動」というのがわたしのできる最大限好意的な解釈であることをご理解ください。--ימח שמו וזכרו 2011年5月17日 (火) 13:53 (UTC)[返信]
- コメントブロックする理由の言い回しに意見が出ている以上、意見が出ないような、ふさわしい言い回しを考えるべきです。ブロックするべき根拠は最初にימח שמו וזכרוさんが挙げているわけですから、例えば「特定教派の教義に偏った記述を行う」とかはどうですか?布教活動よりしっくりくるかなぁと思ったのですが…。駄文ですいません。--Mr.Max 2011年5月17日 (火) 22:43 (UTC)[返信]
- コメント 内容が重複するので(追記)のほうもご覧になってください。利用者個人がどのような思想信条を持とうが一向に構いませんが、それが暴力的な編集態度となって表れてしまっていることを問題視しているのです。たとえ個人的な会話であれ、このコメントにおいてリバートの動機と自らの正当性を訴えている以上、言い逃れはできないでしょう。ようするに岩波による聖書解釈が気に入らないからリバートしたと表明しているのです。こうしたイザヤさんの行動が布教活動でないのなら、いったい何なのでしょうか? テロ活動ということでいいのでしょうか? 「布教活動」というのがわたしのできる最大限好意的な解釈であることをご理解ください。--ימח שמו וזכרו 2011年5月17日 (火) 13:53 (UTC)[返信]
- コメント イザヤさんに語の厳密な意味での布教活動をする意図があるとは必ずしも認められず、おおむね方針に従って出典に沿った編集を心がけているようにはみえます。しかし同時に、純粋主義的な自分の思想信条にも忠実であろうとするためなのか、意図的にか非意図的にか、検証可能な事実を記述するという Wikipedia の分を超えて、結果的に自分の宗教上の意向を押し付ける形の編集になっているケースが見受けられ、それは布教に準ずる行為とみなしうると考えます。たとえば、「祓魔」という言葉は岩波のキリスト教辞典にも記載があり、キリスト教用語として現に存在することは事実であるはずです。しかるにイザヤさんは、「祓」が異教的な意味でも使用されうる字であることに思い至ったのか、この編集で、わたしが前に記述した祓魔式という言葉について、それが過去の呼称か非公式的な名称であるかのような印象を与える改変を行っています。キリスト教用語は異教的要素を排除した純粋なものであるべきとの個人的な意向を記事に反映させ、それがキリスト教用語として現に使用されているという事実を曲げようとした操作的編集である疑いがあります。イザヤさんはノート:悪魔払いで「異教用語の中にキリスト教を閉じ込めようとするPOVが働いています」と主張されていますが、そのような意図でもって編集している人がはたしているのだろうか、と大いに疑問に思ったものです。(そもそも言葉が実際にどのように使われているかということと、その言葉のもつコノテーションが宗教上好ましくないから使用すべきではないという意見は別問題でしょう。なお、「異教」というタームの使用に関しては、「未開社会」などと同様に「政治的に正しくない」言葉でしょうが、paganism などの定訳としてキリスト教関連でない一般的な翻訳書でも使われており、適切な文脈上であれば問題ないと思います)。--Doomreaper 2011年5月18日 (水) 10:20 (UTC)[返信]
- コメント 親切な助言をいただきありがとうございます。Mr.Maxさんの言葉にも耳を傾けたいところなのですが、イザヤさんの場合は「特定教派の教義に偏った記述を行う」という建設的な行為をすでに放棄しており、現状では「敵対する教派による記述を削除する」という破壊的な行為に徹している状態であります。しかも教派に関係のない中立的な記述でさえもイザヤさんが気に入らないとあらば抹殺されてしまうのです。要するに百歩譲ってもテロリズムに過ぎないものを、情けをかけて「布教活動」と言っているようなものなのです。これはわたしがイザヤさんのことを宗教家と認めている証でもありますので、今一度ご理解ください。イザヤさんのこれまでの行動とコメントなどを総合的に鑑みれば、イザヤさん自身は神聖護持のための戦い、すなわち「聖戦」とでも考えておられるのかもしれませんが、いずれにせよ誰が本当の敵なのかをいい加減に見定めてもらいたいところです。
- Mr.Maxさんも誤解されているかもしれませんが、この問題はわたしとイザヤさんとの間の意見の対立によって生じたものではないのです。依頼文において「ここに至るまでの議論は「Wikipedia:コメント依頼/ימח שמו וזכרו」のほうをご覧になってください」と要望しましたが、これを熟読すれば自ずと「ノート:ヘーレム」などにも目を通すことになり、この問題が「聖絶」というひとつの項目に限ったものではなく、かつては複数の項目にわたって複雑に絡み合った状態にあったことが理解できるはずです(依頼文にある「「聖絶」の問題にのみ限定しても審議に値すると思われるので」というわたしのコメントが誤解を招いてしまったのであればお詫びします)。わたしがこの問題に介入したのはあくまでも仲裁者としてであって、それは江本亨進さんの言われる「ヘーレムとへレムとへ(平仮名)ーレムとアナテマと聖絶を再編集」するためであり、Doomreaperさんの言われる「聖絶関連の整理統合」を果たすためだったのです。なぜその必要があったのかと言えば、いずれもがヘブライ語の חרם (ヘーレム)という単語を由来とした言葉であるにもかかわらず、まさに「特定教派の教義に偏った記述を行う」利用者によってこれらの項目が乱立され、混沌とした状態になっていたからであります。しかも「ヘレム」と「ヘーレム」(当時)は無知を孕んで立項された項目であり、放っておけば本来あるべき意味とは違った的外れな外来語が定着してしまう恐れがあったのです。だからこそこの分野について少なかれ知識のあるわたしが問題の対処に乗り出したのですが、わたしが介入した時にはすでに「特定教派の教義に偏った記述を行う」ことによる対立は過ぎておりました。依頼文において紹介した「某利用者さんが2月16日に行われたこの改名」によってイザヤさんと某利用者さんとの間で妥協案が成立していたからであります。しかし「聖絶」から「ヘーレム」への改名というのは全く理に適っておらず(このあたりを参照してください)、おかげで「ヘレム」という無用な項目が誕生するといった具合に、あべこべに混乱を助長してしまったのです。しかもこの妥協の背景には、信頼性のある百科事典を完成させるというウィキペディアの理念とは程遠い、いうなれば政治的な判断が働いていたとも考えられるのです。つまり、お互いが「特定教派の教義に偏った記述を行う」ことができるよう棲み分けを行ったということなのです。この提案(A案)をご覧になってもらえれば一目瞭然でしょう。少なくとも両者ともヘブライ語のヘーレムについて知っているかのごとく語っている以上、この的外れな改名の目的をそのように判断されても仕方がないのです。妥協とはいえ、これは不可侵条約みたいなものであり、和解を果たしているようでいて実のところは関係を断絶したに他ならないのです。この妥協についてイザヤさんは合意が成立したと述べておられますが、これはもはや談合といっても過言ではありません。しかし、この談合を持ちかけたのはイザヤさんではなく某利用者さんのほうであります。しかも「ヘーレム」の項目を、いわば不法占拠することによって談合を成立させたわけです。「ヘーレム」の項目において書かれるべき主題は、リンクが貼られている他言語版ウィキペディアの内容から鑑みても、わたしの編集した現在の「ヘーレム」こそが相応しいのです(実際わたしはヘブライ語版ウィキペディアの「he:חרם (הלכה)」を中心に文章を翻訳し、英語版ウィキペディアの「en:Cherem」を参考に記事を構成しました)。にもかかわらず、ユダヤ教における破門については全く書かれておらず、しかも書く余地さえないほどキリスト教POVに染まった某利用者さんによる記事は、日本語版ウィキペディアの特異性を象徴しているかのようでした。わたしが行った整理というのは、なによりも某利用者さんによる記事を「ヘーレム」という項目から立ち退かせ、元の状態に戻すことにあったわけで、この方が犯した不始末の尻拭いをしたようなものなのです。つまり、この問題が他の項目にまで波及して収拾のつかないくらいこじれてしまった責任の大半は、イザヤさんではなく某利用者にあるというのがわたしの見解であります。アカウントを取得して対処に乗り出した当初からそのように考えておりました。これについてはMr.Maxさんだけでなく、ほかの利用者の方々にも公正に判断してもらいたいと思っております。当時議論に参加していた方の中には、おそらく現在でも誤解されている方が大勢おられるはずです。いずれにせよ統合を果たしたうえは、イザヤさんと某利用者さんには聖絶の問題についてとことん話し合ってもらうつもりでおりました。ところが、残念ながら某利用者さんはこの件から手を引かれてしまい、一方のイザヤさんは統合された記事のリバートを敢行されました。これに対して別の利用者さんが応戦したことでリバート合戦となり、ついには編集保護の状態に置かれてしまったのです。この行為についてのわたし個人の率直な感想はここで述べております。統合後の「聖絶」を再編集するにおいては、できる限りイザヤさんの意向に適うよう配慮するつもりでいたのですが、何か逆恨みするかのようにわたしを敵対視され、さらには1度だけでなく2度にわたって編集保護を招いてしまった以上、投稿ブロック依頼もやむを得ないと判断するに至ったのであります。本当に残念でなりません。
- 以上、依頼文の繰り返しになってしまったのですが、この問題が多岐にわたり、しかも相当根が深いということを理解していただきたく改めて文章を起こした次第です。とはいえ、問題の根は深いものの、そこまで深く考えなくとも結論は見いだせると思うのです。Pauro 2003さんへのコメントでも申し上げているとおり、リバート合戦となったこの編集とこの編集では、どちらのほうがウィキペディアにとって相応しい記事であるのか、という選択をすればいいだけのことで、イザヤさんのブロックについては本当に二の次でいいのです。言い換えれば、技術的に「聖絶」の項目でのみイザヤさんをブロックできるのなら、現在のところはそれで十分なのです(他の項目で迷惑をこうむっている利用者さんには申し訳ないのですが)。何よりも深刻な問題として立ちはだかっているのは、イザヤさんの暴挙によって「聖絶」の項目が繰り返し編集保護下に置かれ、記事の発展が完全に妨げられていることであります。今回の編集保護が解かれるのは8月4日となっておりますが、こんな時間の浪費を慢性化させるわけにはいきません。現在までに「ヘーレム」の編集を済ませ、「ヘレム」をリダイレクト化し、ひらがなの「へーレム」の削除まで終えました。ようやくここまでの整理にこぎつけ、残るは「聖絶」のみとなったのです。つまり、イザヤさんこそが唯一残された整理対象に他なりません。もちろんイザヤさんによる後者の編集を選択される利用者のほうが多いのであれば、ウィキペディアの総意としてそれに従うつもりでおります。長文に付き合っていただきありがとうございました。--ימח שמו וזכרו 2011年5月19日 (木) 12:15 (UTC)[返信]
- 反対 イザヤさんの編集内容は独自研究ではなく伝統的立場の書籍に基づくものだと考えます。聖書の語句に関して、伝統的立場が重要視されるのは当然です。近年の多様な捉え方は、参考としてあげるべきですが、個人的には研究年数の浅い独自研究の範囲であると考えます。--木人 2011年5月17日 (火) 12:23 (UTC)[返信]
- 賛成 真面目で規範意識の高い、悪意のない利用者であるとは思いますが、問題が多くブロックもやむ無しと考えます。問題ある編集については個々に是々非々で対処していけばよいのでしょうが、姿勢が硬直化しており、対話困難で対処が厄介と思われます。イザヤさんは ימח שמו וזכרו さんが聖絶関連の整理統合を行った意図を理解しようとせず、統合が不当だという主張を繰り返すのみで、論点が合っておらず対話が成立しているようにみえません。--Doomreaper 2011年5月18日 (水) 10:20 (UTC)[返信]
- 賛成 依頼者や複数の利用者の説明にも理解を示さず、一方的に差し戻し行為を行っているのは問題があると思う。よって、長期の投稿ブロックに賛成。--SACHEN 2011年5月19日 (木) 15:06 (UTC)[返信]
- コメント 私は編集合戦を是としてはおりませんし、「布教」のために編集しているのではありませんが、差し戻したのは事実なのでその理由について釈明します。統合されたBokemiann氏の記述についてですが、Bokemiann氏がヘーレムの記述の出典とされたものは『古代ユダヤ教』の聖戦や『聖書思想事典』の文書仮説によるアナテマの説明であり、執筆者のBokemiann氏自身が聖戦への改名を提案しておられ、出典の裏付けがあるため統合に反対する理由を出典付きで述べてありました。また、この統合編集に際して履歴継承がなされておらず、神学的な指摘がまったく考慮されない編集であったため、差し戻しました。江本亨進さんは、ここで「編集を強行した」と述べて強行であるという自己認識のある編集を行い、[1]「一応「差し戻し上等!」という物にさせていただいたはずでございますが」と言っています。江本亨進氏のこの発言は編集合戦に持ち込もうとしているかのように見えます。ヘブライ語ユーザー氏は4月9日 (土) 13:33 (UTC)の編集[2]で「編集合戦を繰り返すというのもウィキペディアならではのものなのです。その忍耐力がないのならウィキペディアに参加しなければいいのです。」と、編集合戦を是とするかのような発言を行なっています。私はこの編集合戦を是とするかのような発言に同意しません。また、ここで、ヘブライ語ユーザー氏は「改名後の記事名についてはBokemiannさんの判断に委ねたいのですが、「聖戦」という言葉を使用した場合にもたらされるであろう混乱をどの程度のものと見積もられているのでしょうか? 」「これでは新たな論敵を招き寄せることは必至です。」と発言しておられますが、聖戦への改名に反対する理由が「新たな論敵」を招きよせないためというものでは、出典に基づく理由ではありません。著作権に問題のある履歴継承の無い記述は差し戻すべきだと思っていましたが違うのですか。履歴継承のない記述については削除依頼を出すべきでしたが、余裕があれば削除依頼も出そうと思いつつも説明不足でした。いずれにしても編集合戦は是としません。気を付けたいと思います。編集合戦として保護されてしまっており、申し訳なく思います。
- 聖書解釈における、1.文法的、2.歴史的、3.神学的解釈のうち、ヘブライ語ユーザー氏の主張はおもに文法的(字義的)解釈についてであり、他の解釈についての意見も反論もありませんでした。文法的解釈というのは言葉の本来的意味のことです。歴史的解釈というのは、当時の文化的、社会的要素も考察し、キリスト教では歴史の中において示された神の啓示として聖書を理解します。Bokemiann氏の執筆された記述の中には非キリスト教的であるとはいえ歴史的解釈はありましたし、批評的聖書学は歴史的解釈を強調するわけですが、文法的、歴史的解釈だけであれば、聖書は他の書物とどう違うのかわからないということになります。この三番目にあるのが、神学的解釈であり、イエス・キリストの十字架による救いを教える神啓示として聖書を理解します。キリスト教にとってこの三番目が重要なのです。キリスト教は新約だけではなく、旧約もキリストの救いを教える神啓示と理解します。三番目を無視して文法的、歴史的解釈だけの理解もあるでしょうし、非キリスト教の聖書解釈をウィキペディアから排除したいなどと私は全く考えておりません。百科事典としてのウィキペディアに書かれる場所はあるでしょうし、大いに執筆があればいいと思います。歴史の項目はウィキペディアに沢山あると思います。また、リベラル神学や批評的聖書学についても英語版のウィキペディアでは項目そのものが多くあり、たいへん充実しています。英語版では保守的な神学の項目も多くあります。百科事典としてのウィキペディアには長い歴史と重厚な蓄積のある歴史的キリスト教会の保守的、正統的な神学が書かれることは、あってよいはずです。福音派の解釈はジョン・ウェスレーも取っている伝統的、正統的なものです。
- 聖絶についての総合記事にするというなら、イザヤ書の聖絶、エレミヤ書のバビロンへの裁きとしての聖絶という、神の終局的裁き、キリストによる最後の裁きというキリスト教において重要な個所が無視されてしまっていました。自由主義神学(リベラル)との両論併記にしたいならば、キリストによる最後の裁きを否定する思想として、リベラルには万人救済説もあります。ただし、リベラル系でも手束師の講解のように、エリコの戦いから救われたラハブを信仰義認とする、プロテスタントの伝統的な理解が保持されているものもあります。ローマ・カトリックの聖書解釈の伝統では聖書の四重の意味を見ました。ローマ・カトリックの伝統的解釈についても書かれるならば百科事典として興味深い記述になると思います。
- 史学的評価について、ヘンリー・H.ハーレイに土着の宗教についての説明があり、土着宗教の幼児犠牲の写真も載っています。史実性についてティンデル聖書注解や実用聖書注解にも説明があります。保守的なプロテスタントにも歴史的、史学的な理解はあるのですが、前提が違います。コーネリウス・ヴァン・ティルで有名なカルヴァン主義では前提で切り分けをします。前提主義では無謬の聖書が出発点であり、聖書の歴史性、史実性については疑いもしませんが、イザヤ書の聖絶については未来の出来事なので、史実性や語彙の変化ついて云々しても意味がありません。また、エレミヤにおける聖絶の執行者はヨシュア記とは違い、イスラエルではなく、メディヤ人の軍勢です。
- 繰り返しになりますが、私は編集合戦がよいことであるとは考えておりません。私の口調の強さや議論で傷ついた方がおられましたら、お詫び致します。ただ私自身が非常に疲れていることは申し添えておきます。ウィキブレイクは戦術ではなく関わる余裕がないのです。いまウィキペディアに以前のように関わることはできませんし、必ず復帰するとお約束できるものではありませんが、もし本格的に復帰することができたなら、大いに反省し、今後は論争の解決手段により、キリスト教プロジェクトの各執筆者とも相談し、対話で解決してきたいと願っております。--イザヤ 2011年5月19日 (木) 22:47 (UTC)[返信]
- まず、私が以前指摘されたことが結局まるきり理解されていないようで、甚だ遺憾です。編集合戦がそもそも行われるべきでないというのはWikipedia:Three-revert ruleにも記載されています。避けるべきは編集合戦に陥る可能性のある差し戻しそのものであり、そこには「自身の執筆状態を維持」しようとすることを自ら積極的に、一旦放棄する必要があります。今回の(被依頼者と論争になっている)お二人の態度に問題が無かったとは言えませんが、だからといって相手に対抗して差し戻しを行って良いということにはならないはずです。
- 加えて、議論を拡散させるなという私の指摘にも、ここで延々と自身の論と行為への弁明を行っていることから理解なされているようには思えません。ここはブロック依頼に対する弁明をする場所ではあると思いますが、自身の執筆そのものに対する弁明は相手との議論で紳士的に行うべきです。にもかかわらず、ここでいきなり大演説を始めてしまうというのは、被依頼者がウィキペディアのような共同作業には向かず、結局他のユーザーを疲弊させるのみであるということを証明してしまっているように思います。加えて、関わる余裕の有無は個人的な問題であり、だからと言って一度合意されたとみなされうる議論をちゃぶ台返ししても良いということにはならないと思います(私はこのあたりもすでにノート:聖絶#カナン時代に限定されませんで指摘していますが)。ブロックは懲罰ではありませんが、お引き取りいただくのがお互いのためであろうという結論に変わりはなく、票の変更はいたしません。イザヤさんには、ウィキペディア以外の場所、たとえば書籍などでご活躍いただければと思います。--Koon16000 2011年5月20日 (金) 00:24 (UTC)[返信]
- はじめに、「Wikipedia:コメント依頼/ימח שמו וזכרו#イザヤさんへ」において設定した10日間の猶予が短すぎたのかと心配していたのですが、今回のイザヤさんのコメントを見る限り特に不平を述べているわけでもありません。返答ができる状況にありながらここまで返答を引き延ばしていたものと解釈してもよろしいのでしょうか?
- つぎに、相変わらずの神学的主張を繰り返される前に、More blessingさんから聖絶という造語について意見をいただきましたので、それに対するイザヤさんの感想なりを聞かせてもらえないでしょうか? そのために10日間も待っていたのです。More blessingさんも福音派の看板を背負って発言されている以上、相応の覚悟をもって臨まれたに違いありません。「意見の違いを超えて、これからも「聖絶」が普及することを願います」という寛容性のある志を共有できるのでしょうか? できないのでしょうか? それからイザヤさんはウィキペディアでのご自身の活動が「布教活動」であることを否定されておりますが、それではこれまでの活動をどのように考えておられるのでしょうか? わたしが今回の投稿ブロック依頼において「布教活動」という言葉にこだわっているは、実のところ、More blessingさんの会話ページにおけるイザヤさんに対するコメントを拝見したうえで、最終的にそのように判断したからであります。イザヤさんと同じ福音派に属していながら、今回の問題について達観した意見を述べられるMore blessingさんには当初から一目置いており、対話ページにおけるイザヤさんとのやり取りなどを参考にしつつ、わたしなりに聖絶について理解しようと努めてまいりました。5月5日の対話においてはこのようにコメントされております。「私は実生活においては福音宣教が最大の使命です。インターネットは便利なツールですが、インターネットという手段に依存したいくないと考えています。インターネットはあくまでも情報を得たり提供する場であり、伝道をする場ではないと考えています。だから、私は、伝道するときは実名を使い、面と向かってそれぞれの魂に向き合います。」イザヤさんとの対話の流れから察するに、これは明らかにウィキペディアにおけるイザヤさんの活動に対するアンチテーゼとして提言されたはずです。つまり、同じ福音派に属しておられるMore blessingさんの目にも、イザヤさんが「ウィキペディアを布教活動の場としている」ようにしか見えなかったのだと思われるのです。これに対しても意見があれば答えてもらえないでしょうか? もちろん「宣教」と「布教」の細かい違いについてお聞きしているわけではありません。余計なことかもしれませんが、福音派の看板を背負っている自覚がイザヤにあるのかを質しているのです。イザヤさんの言われる「兄弟姉妹」に対してもっと気遣いがほしいのです。
- さて、わたしはイザヤさんの論争相手ではないので、イザヤさんの主義主張にはさほど関心はございません。仲裁者として、Bokemiannさんによる間違った主張を鵜呑みにされていると思しき箇所については何度か指摘したのですが、これまでのイザヤさんが他人の意見に耳を貸さないのは誰の目にも明らかだったので、徒労に終わるようなことを積極的には致しませんでした。とはいえ、せっかく大勢の利用者の方が集まっていることなので、根本的なことを一点だけ申し上げておきます。イザヤさんによる現行の「聖絶」の記事では、「聖絶(せいぜつ、ヘブライ語: חרם)とは」という書き出しでこの造語が定義されております。執筆を始めた最初の版からすでにそうでした。つまり、この短い一言だけで、聖絶という造語が福音派による חרם (ヘーレム)という行為の一解釈でしかないことを認めてしまっているのです。「聖絶」という造語に仮託したうえで、あくまでも旧約聖書の時代における חרם (ヘーレム)という行為について解説しなければならないのです。その行為についての神学的な解釈は後回しでいいわけで、正直なところなくても構わないのです。それが百科事典というものなのです。それに加えて、「ここでは福音派の神学的意味を中心に解説する」という独断専行も許されません。なぜなら同じ「聖絶」という言葉に仮託した岩波による別の解釈がすでに存在し、一定の支持を得ているからであります。日本聖書刊行会が「聖絶」を商標登録でもしていない限り共存は避けられないでしょう。
- それからこれは蛇足ですが、過去のわたしの発言において不適切な言葉づかいがあったようなので、それだけは訂正しておきます。「編集合戦」という言葉ですが、わたしは駄文ながらも長文癖の持ち主であるゆえ、「編集合戦」という言葉には建設的でポジティヴなニュアンスが含まれているとばかり思い込んでおりました。「紅白歌合戦」のようなものです。しかし「編集合戦」の項目をのぞいてみてはじめて、ウィキペディアでは「リバート合戦」と同義のネガティヴな意味で使用されているのを知った次第であります。つまり、わたしもイザヤさん同様、編集合戦を是としない立場でありますのでご了承ください。
- それはともかく、イザヤさんには重ねてお願いしたいのですが、自分と意見を異にする利用者を即座に敵対視する姿勢は何とかならないのでしょうか? そうも牙をむいてばかりいては接点を見出そうにも見出せなくなってしまうのです。誰もがイザヤさんとの対話を望んでいるのです。なぜなら、わたしも含め聖絶の問題にかかわってこられた利用者のほとんどは仲裁者として意見を述べているに過ぎないからです。断言はできませんが、イザヤさんとBokemiannさん以外には聖絶という言葉に特別思い入れのある利用者などいないでしょう。2月16日の改名以前は互いに火花を散らしあっていたおふたりが、それ以降(正確にはわたしが介入して以降かもしれませんが)、妙に気を遣いあっているのは極めて不自然であります。もしこの問題について正々堂々と向き合えないほど後ろめたいものがあるのなら潔く手を引いてください。たとえBokemiannさんによる記事を「聖戦」あたりに追いやって棲み分けを果たしたころで、この方以外にも何千、あるいは何万という岩波訳聖書の読者がいるのです。遅かれ早かれイザヤさんにはお気に召さない文章を「聖絶」の記事に加筆する利用者が現れるでしょう。イザヤさんはその都度、今回のような神学的うんちくを並べ立てて追い払うつもりなのですか? そんなことを生涯繰り返すつもりなのですか? 結局それを未然に防ぐ手立てといえば岩波書店に殴り込むことになるのですが、ウィキペディアがためにそんなことをしてほしくはないのです。
- 最後に、ここまで気を遣う必要があるのか迷うところなのですが、震災の影響でナーバスになり、さらには自暴自棄になっておられませんか? わたしはイザヤさんとは震災以前に1度しか対話しておりませんので、元からこういった人格の方なのか、あるいは震災によって人格が変わってしまったのかについては判断いたしかねます。震災による不幸がもとで冷静な判断力を失い、その結果ウィキペディアから締め出されるという2重の不幸を招いてしまうことになれば、悪循環はこれだけでは済まないかもしれません。もしイザヤさんに理性が残っているのであれば、現状では自らの意思でウィキペディアにけじめをつけるのが最も賢明な判断となるのではないでしょうか? そのような決断をしてくださるのなら、わたしも無期限のブロックなどとは申しません。とにかく今は、ご自愛くださいとしか言いようがありません。
- 以上、長文になってしまったのですが、これまでに申し上げたいくつかの質問に対して答えてください。億劫なのであればすべてでなくとも結構です。たったひとつ、「意見の違いを超えて、これからも「聖絶」が普及することを願います」という意見に対してだけは、イエスかノーかで答えてください。おそらくこれが最終弁論ということになるでしょう。--ימח שמו וזכרו 2011年5月21日 (土) 01:48 (UTC)[返信]
コメントこの件に関して深く関与しているものとして、大変遅くなりましたが意見表明いたします。賛否はとりあえず留保いたします。なぜならば、一つにWikipedia:コメント依頼/イザヤで議論が尽くされたとはいえないという現状があるからです。イザヤさんはあちらでは一度しかコメントを寄せておりません。ימח שמו וזכרוさん(以後「ヘブル後ユーザーさん」と呼びます)がブロック依頼を出す、そしてその猶予期間を設けることは知っていました。ヘブル後ユーザーさんにはコメント依頼に注力してほしい旨を伝えたかったのですが、どうにもならないくらい時間がとれなくて(ウィキペディアに割くことのできた時間は1日3分程度)、何も言えずに時間が過ぎ、今ようやくまとまった時間がとれた次第です。またブロックして強制的に書き込みができなくするような対処の前に、自らウィキペディアでの編纂から身を引いてほしいと思ったからです(イザヤさんのことを思ってというより、ウィキペディアコミュニティのため)。イザヤさんは「布教」はしていないといいます。では「伝道」はどうでしょうか。クリスチャンがイエス・キリストを述べ伝えること→伝道、福音を広めること→伝道。ウィキペディアの目的はあくまで百科事典を作ることであり、特定宗教を広めることではないのです。もしウィキペディアを用いて伝道活動を行うならば、それは目的外利用になります。「この書き込みをみた中で、一人でもイエス様の福音を知るきっかけができればよいな」。クリスチャンなら誰でも思うことでしょう。でもその意図を持って編集を行うならば目的外利用です。もっとも程度問題です。完全に適応してしまうとクリスチャンは誰も書き込みできなくなってしまいます。少なくともキリスト教記事を編集するのであれば、他教派についての最低限のことを下調べして、記事を中立的に発展させる余地を作るくらいはしてほしいものです。それをしないイザヤさんは、他教派について書くことに興味がないか、見下しているのではないでしょうか。キリスト者を自称していたり、そうではなくともキリスト教記事に強いウィキペディアンの方は複数いますが、なぜにイザヤさんだけこのような状況になるのか、考えてほしいです。
イザヤさんはクリスチャンのウィキペディアンに連絡を取っています例1、例2、例3。「クリスチャン仲良しクラブ」を結成しようとでもいうのでしょうか。利用者ページは個人の裁量うんぬんだから何かいてもいいんだと勘違いしているようですが、誰もが閲覧できることは知っていると思います。ウィキメールでのやりとりを望んでいるくらいですから。これは目的外利用です。意味がわからないというのなら、全くの他宗教の人達が利用者ページで自分の宗教の神を褒め称え賛美している様を想像してください(たとえばバアル崇拝者が利用者ページそれを賛美しあっているとか)。そしてクリスチャン仲良しクラブを結成して何をしようというのでしょうか。福音派の百科事典編纂でしょうか。(貴方が敵だと見なす)私だって今後もキリスト教記事に関わるのですよ。どう対処するつもりでしょうか。私は敵ですか。サタンの奴隷ですか。救われる余地すらない者ですか。私のことをどう思われてもいいのですが、そういう仲良しクラブ以外の人間もウィキペディアにはいるのです。
イザヤさんは神学を正規に学んでおりそれを誇りに思っているようですが、しかしウィキペディアにおけるその成果はいかがでしょうか。例示することはやめておきます。ウィキペディアとは「詳しい」と自称する者がその研究成果を発露する場所ではなく、検証可能な出典に基づいて、可能な限り中立な観点で記事を編集する場所です。ご自分ではそれができていると主張されているようですが、現実にはそうではありません(だからこんな騒ぎになった)。記事を書くたびに問題とみなされて、コメント依頼、ブロック依頼ときてしまった。どう少なく評価しても、イザヤさんに全く問題はなく、すべて周りのサタンの手に落ちた連中のせい、と責任を転嫁することはできないでしょう。ちなみに同じキリスト者で目的は同じであっても、イザヤさんとは用いる手段が全く異なる人がいるであろうことも付け加えておきます。
イザヤさんは疲れているそうです。そんなになりながらもなおウィキペディアで編集を続けたいという動機はなんでしょうか。そこに「伝道」目的はないといいきれるのでしょうか。イザヤさんに関わる周りの人も(別の意味で)疲れてしまっています。インターネットでイエス・キリストの福音を伝えるのであれば、ウィキペディアではなく、自分でレンタルサーバを借りて、賛同者を募り他のWikiソフトを使ってウェブサイトを開設すればよいのです。少なくとも、「親までののしられる」なんてことはないはずです(私はそこまで言ってないです)。聖書には人はそれぞれ神様からいただいた「賜物」があると書かれています。イザヤさんにはイザヤさんの貴重な賜物があるはずですが、ウィキペディアはその場所ではないことはもはや明らかです。--Sillago 2011年5月21日 (土) 05:40 (UTC)[返信]
- (終了)1か月間、ブロックします。--Bellcricket 2011年5月24日 (火) 12:36 (UTC)[返信]
上の議論は保存されたものです。編集しないでください。新たな議論は新しく依頼ページを別名で作って行ってください。