Wikipedia:井戸端/subj/要出典について
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[要出典]について
[編集]最近「要出典」タグの乱用が目立ちます。 明らかに何らかの文献から引用あるいはそれに準ずるような記述で出典が明記されていない場合は確かに必要かもしれませんが、 常識的な知識や対象物の「特徴」として認識されているもの(例えばphotoshopはプロも使用している高級なソフトである、など)に対しても 要出典タグを付けている例が多々あります。 これらは出典がそもそも不必要なのに加え、出典にあたるもの(明記されているもの)を探す方が困難であり、 このような知識をいちいち出典出典と口やかましく言っていたら、万人が編集できるはずのWikipediaの記事編集活動を大きく阻害することになります。 いかがなものでしょうか。 —以上の署名の無いコメントは、121.2.137.58(会話・履歴)さんによるものです。
- うーん、Photoshopがプロユースだというのは10年前ならいざ知らず、Adobe Photoshop Elementsもリリースされている現状では当てはまらないんじゃないですかね。まあ、それはさて置き、要出典の汎用(乱用)が存在していることに異論はありません。特にひどいケースでは、対象事物に無理解なことや自らそれを知ろうともしないで、自身が知らないことを持って、あるいは自身が受け入れたくない事柄であるために、貼り付けて回る([1])というケースもあるし。誰にでも簡単にその妥当性の調べが付く事柄(ググッたとか関係する書籍一般に目を通したくらいでも同様の言説が見出せるとか?)までは出典は必ずしも必要とされないと思う(Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料)んですけどね。もっとも、そういった問題は個別に当事者と意見交換して解決したほうが良いわけで、きちんとした理由に基づいて要出典を付与されているなら問題ではないかと。問題は自身の行動の説明責任も果たさず、ただ要出典を付与して問い質しても理由にならない理由を述べたり(例:ノート:野菜嫌い)、何等問いかけに答えないことだと思います。逆にどー見てもマズい言説に要出典を付与して出典が必要な理由を(明らかに検証可能な事実に基づかない記述だという証拠をつけて)幾ら説明しても、その付与自体に反発して納得しない困った人もいたりするし、どっちに転んでも程度を過ぎれば荒らしだと思います(→ノート:記録媒体/Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/神奈川の動的ソネットIPユーザー群みたいなケースとか)。--夜飛(話/歴) 2009年2月23日 (月) 13:26 (UTC)
- 「万人が参加できる」ってのは、参加に対して資格を求めないという意味で、内容をすべて受け入れるわけではないですよ。「そもそも不必要」はどうやって確認しますか? 逆に「出典を書いておけば、文句言われない」というひとつの肯定的なルールではあるとおもうのでが(万全じゃないけど)。--ゆきち 2009年2月24日 (火) 01:43 (UTC)
- 要出典が乱用されているのには同感です。中には「要出典バカ」と言いたくなるくらい貼りまくって、役に立った気になっている人もいるようです。「不必要な要出典を取り除く」という方向での草取りも行う必要があるかもしれません。--Adan 2009年2月24日 (火) 02:19 (UTC)
- ◆個人的には、「要出典タグなんて消えてなくなってしまえばいい(大意の上デフォルメ済)」と思うくらい、要出典タグは嫌いです。「要出典をつけるべき事柄なのかどうか」という判定は、その分野・記事に対してある程度の理解がなければできないことであり、であるならば、要出典をつけることよりも直接出典をつけたほうが記事の質の向上にも寄与できるからです(ある程度の理解がないならば、要出典はおろか、軽微な草取りでさえも遠慮願いたいと思っています)。
- さておき、「要出典をつけるべきとき」というのは、「自らがおこなった記述に対して裏づけを用意できないものの、しかし確固たる事実を記載した場合」、ありていにいえば「これ、常識だと思うんだけど、文献、見つけられなかったや…。誰か、出典持ってたらつけてくれないかなあ?」というような場合のみだと思います(これ、執筆者としては「敗北宣言」に近いことだと、全ての執筆者は肝に銘ずるべきじゃねーの、とか思ってます。自分自身も、記事を新規に起こすような場合には、心がけていることのひとつです)。夜飛さんが提示されているような([]付けのリンクのほう)ものは、論外というべきでしょう。
- しかしながら、「本来出典が必要であるべきにもかかわらず、出典が掲示されていない場合」を容認すべきではなく(消すとかそういうことではなくてね)、「要出典が濫用されているんじゃねぇの?」という話とは対になる話題として、「書き手のレベルが低いよ!出典意識してもらうにはどうすればいいんだ!」という方面も、常に意識していた方がいいのではないかな、と思います(ここが結論)。個人レベルでは、「適切に出典をつける(書き手)」のもそうですし、「(要出典をつけるならば)最後まで面倒を見る」ということもそうです。初心者の方に、出典の重要さをどのように伝える(文面だけではなく、システム面からも)のか?を考えるとかね。--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions)2009年2月24日 (火) 03:36 (UTC)
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- 基本的に要出典タグの乱用というのはありえないと思います。あえて乱用というならば、
- ある程度まとまった範囲で要出典を付ければいいのに、単語や文節単位にべたべた貼る
- 出典が示されているにもかかわらず、その内容を確かめもせず貼る
- の2ケースしかありえないかと。個人的には、要出典がべたべた貼られるくらいの記事の方が全体として内容が適切かなと感じています。
- 当たり前と思われる内容について要出典が貼られる問題については、一般的な出典を探せば済む話だし。Fuji 3 2009年2月24日 (火) 03:50 (UTC)
- ◆俺が「もっとも嫌いとするところ」を見事に打ち抜いていたりするので、せっかくなのでレスポンス。
- Fuji 3さんがあげた例はどちらも「濫用」でしょう。どう考えても不適切です。「要出典がべたべた貼られている記事」のどのあたりが健全なのでしょうか。「要出典の代わりに、きちんとした出典がつけられた記事」のすばらしさと比べて、足元すらにも及ばないと思うのですが。要出典をつけるくらいなら、出典を探してつけたほうが何倍も健全だと思いますが。それが出来ずに、「要出典を貼り付けるだけ」、これは恥ずべき手抜き以外のなにものでもありません。「そもそも出典をつけられない」「思い当たる節すらない」というレベルの理解度ならば、その編集を遠慮すべきではないかと思います(ノートで提起するくらいがせいぜいでしょう)。--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions)2009年2月24日 (火) 04:07 (UTC)
- いやいや、「きちんとした出典がつけられた記事」の方が素晴らしいのは当たり前なので書いてないだけですよ。
- 出典を付ける責任はまずは記事の記述者にあると思うので、第3者が眉唾と思われる部分に出典ではなく要出典を貼ることには問題はないでしょう。出典探して貼るより要出典貼る方が当然労力・時間ともに少ないわけで、その記事が怪しいかどうかも判断できない読者のことを考えると、出典貼るまで記事を触るなというのは、賛成しかねます。自身、知識があいまいな記事を読む時に、一部に要出典がついていると「この部分は何かしら争いがあるんだ。その他は信じて問題なしか」という判断ができてありがたい。
- 無論、出典をすぐに付けることができるなら要出典なんか貼らない方がいいし、せっかくならちょっと労力使って出典出すくらいはした方がいいでしょう。また、示されている出典が出典になっていると理解できないくらいの理解度で要出典を貼るのは問題という認識は上記(2)の通り。Fuji 3 2009年2月24日 (火) 04:28 (UTC)
- ish-kaさん、当たり前のことを持ち出して難癖をつけるようなことを言わないでください。私が言いたいことは Fuji 3さんがほとんど既に仰られているので指摘しませんが、「その編集を遠慮すべきでは」あたりは、どうでしょうね。実名を出している研究者・専門家以外、ウィキペディアの投稿者のほぼ全員は、言ってしまえば「素人」なわけで、要出典を付けられたら、淡々と(あるいは有り難がって)出典を出すなり、あまりに「貼り方」がひどければ要出典を整理する(減らす)なりすれば良いだけです。出鱈目を(ちゃんと出典を出して整備されている記事に)加筆されて憤慨するならともかく、要出典をつけられたら、不備を恥じこそすれ、怒る心情は理解できません。要出典の濫用だー濫用だー、と過剰に騒ぎ立てる方々には、「門外漢だとか、自分より詳しくない人の視点を考えられないようなら、匿名の自称専門家だけで専門のwikiでも立てたら如何ですか?」と、問いたいところです。
要出典の濫用は個々で対応する程度のことであり、「(全体的な)問題となり得ない」と主張します。そろそろウィキペディア日本語版も、どこのものとも知れない情報をただ加える、そして情報量の増加だけを重視・尊重するのではなく、内容を批判・検証・削除することも重視・尊重されてよい時期だと思うのですが、なかなか難しいようですね。--氷鷺 2009年2月24日 (火) 05:11 (UTC) - ◆まずはFuji 3さんに。
- 出だしの一段と最後の一段が、ほぼ完璧に俺の思考とリンクしていたので、安心しました。イチャモン付けみたいになってしまって申し訳ないです。
- 中段のあたりは…多分、要出典テンプレートを「普通に文章を読んだときに感じるノイズ」ととるか、Fuji 3さんのようにとるか、の違いだと思います。俺は、ノイズに思える(だって、普通に本を読んでて「要出典」とか出てきたら興ざめじゃないですか。出典をつける、つけないというのは、あくまで記述する側の問題であって、読む側(検証者とイコールではありません)の問題ではないと思います)ので、要出典テンプレートを張るくらいならば、出典を探します。見つけられず、かつある程度の知識がある分野であれば、ノートに提起します。要出典テンプレートは使わずに。要出典を貼るということに比べて、手間も時間もかかるでしょうが、記事のレベルを上げる方法としては、より適切であろうと思っています。知識がなければ、無視します。いつか、自分よりもそれに詳しい誰かがもっと適切な方法でやってくれるでしょうから。
- ◆そして氷鷺さんに。
- いちゃもんであることは、(上記の通り)認識してます。俺の言が、かなり赤黒いものであることも。でも、着地点は同じだと思いますよ。
- 要出典を貼られるのは、基本的には「執筆者の失敗」であって、そちら(自分を含めた執筆者)を甘やかす意図はありません。「不備を恥じこそすれ、怒るな」というのは、至極もっともです。「やたらと貼るな」の対には、「はじめから出典を出しておけ」という言があるでしょう、当然ですよね。「要出典貼るなんてとんでもない!」と言ってはいますが、それは「他の方法も考えてみようよ」というアウトプットとイコールです。要出典の使い方は、確かに個人個人の問題ですが、「要出典から一歩先を考えてくれたら、もっといい記事が出来るのになあ」と思うことも多々あります。要出典を張る前に、そっちの方にも気を配って欲しいなあと思うわけなのですよ。「門外漢はさわるな!」については…、文中で示した俺の利用者サブページを見ていただければ、大体何をいいたいのかがわかっていただけると思います。--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions)2009年2月24日 (火) 06:18 (UTC)
- ish-kaさん、当たり前のことを持ち出して難癖をつけるようなことを言わないでください。私が言いたいことは Fuji 3さんがほとんど既に仰られているので指摘しませんが、「その編集を遠慮すべきでは」あたりは、どうでしょうね。実名を出している研究者・専門家以外、ウィキペディアの投稿者のほぼ全員は、言ってしまえば「素人」なわけで、要出典を付けられたら、淡々と(あるいは有り難がって)出典を出すなり、あまりに「貼り方」がひどければ要出典を整理する(減らす)なりすれば良いだけです。出鱈目を(ちゃんと出典を出して整備されている記事に)加筆されて憤慨するならともかく、要出典をつけられたら、不備を恥じこそすれ、怒る心情は理解できません。要出典の濫用だー濫用だー、と過剰に騒ぎ立てる方々には、「門外漢だとか、自分より詳しくない人の視点を考えられないようなら、匿名の自称専門家だけで専門のwikiでも立てたら如何ですか?」と、問いたいところです。
- 《「要出典を貼り付けるだけ」、これは恥ずべき手抜き以外のなにものでもありません》って意見はまあ納得できるんだけれども。でも、「出典なき記述をすることはウィキペディア日本語版においては恥ずべき手抜き以外のなにものでもない」ということも理解しておくべきだと思うんですよね。Ish-kaさんはたぶん理解しているんだろうけど、それを抜きに要出典テンプレートの添付だけを非難しても仕方ないと思う。--iwaim 2009年2月27日 (金) 10:45 (UTC)
- 記事の内容が怪しい場合や引用元が知りたい場合には「要出典」タグが添付されるのは通常のことですが、意地になって「要出典」タグが貼り付けられてると可読性が著しく阻害されますね(こ[要出典]ん[要出典]な[要出典]ふ[要出典]う[要出典]にです)。節そのものに大量に「要出典」が張られて可読性が著しく低下している場合は「出典の明記」テンプレートに置換しておけば宜しいのではないでしょうか。また内容があまりにも信頼できない不正確なものなら記載そのものをコメントアウトしておけば宜しいかと。--ネコバット 2009年2月24日 (火) 07:40 (UTC)
- 「要出典」のタグを貼るときは必ずどういう理由で「要出典」なのかをノートに書いておくべきだと思います。 私が「要出典」をつけたくなるのは、例えばある人物の記事でその人に関するゴシップがついているときです。 それはその人ならば如何にもありそうだが少々出来過ぎている感じであるときなど、それが事実であることの信用ある典拠が欲しくて「要出典」をつけ、ノートにその旨記載します(最近の例として「洲之内徹」参照)。このようにノートに必ず理由を書くという習慣が広まり、理由を書いてない「要出典」は無視し、取り除いてもよいという風潮になれば、乱用はなくなると考えますが、いかがでしょうか。 --Midz 2009年2月24日 (火) 08:29 (UTC)
- ノートに記載がない「要出典」は取り除いてよい、というのはWikipediaの基本ルールに関わりかねない提案なので賛同できかねます。Wikipediaの記事にはすべて引用元が存在しているというのが原則(Wikipedia:検証可能性)ですので、引用元が十分に明示されていない記事のほうが「過渡的」「作成中」なわけです。ある編集者が「要出典」タグを付けて出典要求しているのに対して、出典を提示しないままタグだけ除去するのは本末転倒です。引用元については引用リストが大量にありすぎて煩雑すぎて困る、などという事はありません。--ネコバット 2009年2月24日 (火) 10:30 (UTC)
- あくまで検証可能性(三大方針)の問題であると考えます。ノートに要求する具体的内容を示したもの{{要出典範囲}}タグを使用したものについては、検証対象を特定できないということはないので、出典提示なしにはがすべき理由がないと考えます。「検証可能」というのは言語で説明できるということを意味するので「当たり前」としか主観を述べる以外に説明の方法がないのであれば、それは主観に基づく意見であり、第三者が検証できないのでその様な主観的な根拠で要出典を解除してよいという合理性はないと考えます。具体的内容が不明なものはノート等で問い合わせをした上で、先方が議論を拒否するのであればダグを無効化でよいと考えます。--あら金 2009年2月24日 (火) 11:22 (UTC)
- あまりにも常識的なものに要出典をつけるような場合は、「そのような知識もないあなたはこの記事を編集する資格がない」とノートや会話ページで書いておきます。それでも記事の編集を強行するのなら、多数の合意を持って、ブロック依頼をかければいいでしょう。--経済準学士 2009年2月24日 (火) 15:03 (UTC)
- 私が過去に関わったものに、グーグル八分という項目があります。現状でもそこそこ要出典がついています。経緯についてはノート(ノート:グーグル八分#「要出典」が多すぎます。)を見ていただければ判るかと思いますが、「信用できない執筆者(出典中に書かれていないことまで記事に記す、複数の合成に伴う独自研究、など)による出典なので、どの出典も信用できない」「一律、出典(らしきもの)を要出典に置き換える」という対応が行なわれた記事です。
それぞれの出典(らしきもの)が出典足りえるか、以前は気が向いたときにぽつぽつと確認しては要出典を剥がしていたのですが、最近は気が向かない(半分忘れていた)ので放置してありました。(執筆者/編集者として)強い興味がある記事ではなく、私が加筆した文章もないので、積極的に文章を残すための出典確認という気持ちも、この数ともなるとあまり起きないというところです。最初は出典確認してくださる方(要出典を付与した人、要出典に賛同した人、第三者、どの立場の人でも構いません)が現れれば、呼び水となれば、と思っていましたが、結局現時点までにお一人の方が出典を新たに付与してくださっただけで、従来の出典(らしきもの)の出典確認を行なってくださる方は現れませんでした。
この時は「一律要出典ではなく、要出典を貼る人が個別に出典として妥当であるか確認してほしい」「その個々の出典では駄目だというなら、なぜ駄目なのかをノートに記してほしい」と思いましたが、要出典を貼る人(賛同者を含む)からはそういう動きはありませんでした(補足:ノートの次の節は、日付が紛らわしいですが昨年の話です)。
ここまでに挙がっているケースとは違うかもしれませんが、事例紹介として。--NISYAN 2009年2月24日 (火) 15:50 (UTC)
- {{要出典}}を貼るなとは言いませんが、貼ってある文章に「それに関する記事へのリンク貼ってあるだろーが」てなこともあるので。先日、狂犬病の記事を久々に見たらぺたぺた貼ってあったので、出典を示すべく手を入れたんですが、「ルイ・パスツールによって弱毒狂犬病ワクチンが開発された[要出典]」ってのを見た時には流石にくずおれそうになりました。取り合えず、その文中にあるルイ・パスツールへのリンクは一体何だと思ってるんだ・・・と。--KAMUI 2009年2月25日 (水) 13:45 (UTC)
- (コメント)Wikipedia:信頼できる情報源#情報源ではWikipedia内の記事は三次情報源となっております。Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」で求められているのは二次情報源であり、その要出典は妥当であると思います(Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料「ウィキペディア以外のウェブサイトや公共図書館を通じて閲覧者が閲覧できることが必要」)。その要出典に対してパスツール,L. - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェストや世界狂犬病予防デーなどのWikipedia外にある二次情報源を明示することが冗長であるとは思えません。--凪海(Nami-ja) (会話 / 履歴) 2009年2月25日 (水) 14:27 (UTC)
- 「パスツールが狂犬病ワクチンを開発した」ってのは狂犬病について調べれば普通に出てくる話の一つです。{{要出典}}というかこの場合はご丁寧にUTCまで入れて{{要出典範囲}}で(しかも複数を)括ってますので、その手間かける時間を検索に回せばコンマ何秒でなんぼでも外部の二次情報が引っかかるだろうに、「何で出典を追加する」方に手をかけてくれねーかなぁ・・・という思いが、ね。--KAMUI 2009年2月25日 (水) 14:45 (UTC)
- パスツールと狂犬病ウィルスの件を見ていて疑問に思ったのですが、出典を要するというのはどのレベルまででしょうか?
たとえば、吾輩は猫であるの冒頭部「『吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説。1905年1月、「ホトトギス」に発表、好評のため翌年8月まで継続した」には一切出典が書かれていません。
著者が夏目漱石であること、長編小説であること、1905年1月に発表されたこと、発表誌が「ホトトギス」であること、好評であったこと、翌年8月まで継続したこと(好評と継続の因果関係も必要でしょうか)等の資料の提示が必要なのでしょうか? 考えをお聞かせください。また、この部分にも出典の明示が必要であるということならば、要出典タグを貼り付けるべきかどうかもあわせてお聞かせください。Goodmoon 2009年2月25日 (水) 18:16 (UTC)- 日本人ならば知っていて当然でも、出典明示を求められたならば応えるべきかとは思います。簡単に見つかりますし[2]、むしろどれだけ著名なものでも出典がない状態の記事は検証可能性に照らして「事実であるが(まだ)検証可能にない状態」と認識します。自分は疑問点に思ったならば検証可能性に従い記述を残そうとする観点から出典を明示する努力を行いますが、要出典貼付を行うことは不当とは思いませんし、要出典貼付行為を制限する理由はないと思います。ただし、適切に出典が明示されて以降も出典を閲覧すれば判ることについても更に貼付をやめないような状態では剥がすことも正当でしょう。出典明示については富士山とen:Mount Fuji、ゴールデンゲートブリッジとen:Golden Gate Bridgeの比較(その言語版でよく知られた著名な事象に対する出典の必要性比較)が良い例かと思っています。--凪海(Nami-ja) (会話 / 履歴) 2009年2月25日 (水) 20:14 (UTC)追記。--凪海(Nami-ja) (会話 / 履歴) 2009年2月26日 (木) 03:09 (UTC)
- お返事ありがとうございます。お答えには概ね納得いたしました。ただ、簡単に見つかるのだから出典を求められたら提示すべきだという点については疑問があります。私は簡単に見つかるのだから、『要出典』を貼るくらいなら出典を追記した方がよいのではないかと考えます。(凪海さんが「疑問点に思ったならば検証可能性に従い記述を残そうとする観点から出典を明示する努力を行います」と書いておられることは認識していますが、一般論として)
Wikipedia:「要出典」をクリックされた方へに
とあるように、要出典タグは削除予告なのですから、「ちょっと調べればわかることなのに、削除を前提とされちゃたまらない」という印象を与え、反発を産んでいるのではないでしょうか。簡単なのだからはじめからつけておくにこしたことはありませんが、削除より追記という方針もあることですし、もうすこし平和にいけませんかねえ。Goodmoon 2009年2月26日 (木) 14:10 (UTC)「出典のない記述について「検証可能性」の方針は「誰でも取り除くことができる」、「除去されても文句は言えない」としています。しかし、論争の発生しやすい記事においての突然の除去は編集合戦につながることがありますし、出典を明記すべき範囲についての見解の相違などもあります。そのため、利用者による議論や出典提示の機会を与えるために「要出典」、「要出典範囲」などのテンプレートが用意されています。」「出典を示す義務を負うのは、除去を求める側ではなく、書き加えようとする側」
- (コメント)Wikipedia:信頼できる情報源#情報源ではWikipedia内の記事は三次情報源となっております。Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」で求められているのは二次情報源であり、その要出典は妥当であると思います(Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料「ウィキペディア以外のウェブサイトや公共図書館を通じて閲覧者が閲覧できることが必要」)。その要出典に対してパスツール,L. - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェストや世界狂犬病予防デーなどのWikipedia外にある二次情報源を明示することが冗長であるとは思えません。--凪海(Nami-ja) (会話 / 履歴) 2009年2月25日 (水) 14:27 (UTC)
こんにちは。書いた人や、その項目の執筆に参加している人のほうが、情報を持っていますし、判断も確かでしょう。まあ、項目や記述内容に拠っては、自分がそれだけの労力を加える気にならないようなこともあるでしょう。出典がないという状態を解決するための労力や動機としても、記事の執筆者らが、出典を付するのが妥当ではないかと思います。書く側が示す、というのは、そういうことではないかと。
「要出典」というのが、編集除去へのステップであるとか、正しさへの懐疑であるとかいうものではなく、まずは、出典を示してほしいということ、通常の百科事典では細かな情報源は示されないけれど、ウィキペディアは誰でも編集できるから、それを示すということになっているのだということ、どんな人が書いているかわからない文章で、その内容の由来が何かは示されていないということ、タグを使って、執筆者や読者に伝えているということだということが、貼る側にも書く側にも共有されるのが望ましいのかな。「誰でも取り除くことができる」「除去されても文句は言えない」とされてはいますが、出典のない記述は除去しなければならないとは書かれていないのです。
方針を踏まえれば、ウィキペディアに参加してしばらくしたら、出典に基づいた記述をするのが、普通という状態になるのが、望まれている。そのためには、要出典を貼る側には、その執筆者に検証可能性を満たすことの重要さや資料を探す方法などを説明して理解していただき、以後の編集では、できるだけ検証可能性を満たしてもらうというのも大事だと思います。 もっとも、正しさへの懐疑があるような記述に対しては、「要出典」が除去へのステップとなりえます。記述そのものの様子や、執筆者の傾向、分野なり項目なりでの検証可能性の必要性の認識のされ具合などにもよりますが、このような意図での「要出典」であれば、疑義についての理由をノートなどで示す事が望ましいでしょう。
「請出典」とか「乞出典」とかにするとか(は、わかりにくいか…)、「Wikipedia:「要出典」をクリックされた方」を書きかえるとか、手続きとしての要出典か、疑義としての要出典かで使い分けられるようにするとか、そういうことは考えられそうですね。--Ks aka 98 2009年2月26日 (木) 18:15 (UTC)
- 「正しいことだがWikipediaのルールを満たすために要出典」と、「正しくなさそうだから疑義があるので要出典」が同列になっているのがまずいというのは同意です。Wikipediaはルール上「正しいことを記す場所」ではないとしても、「正しくないことを記す」ことはWikipediaのルール以前の問題として良くないわけで、Ks aka 98さまの議論には全面的に支持します。Wikipediaはしょせん欧米的な発想に基づいたサイトではありますが、欧米的な発想で求められる「常に根拠を明らかにしつつ著述する」態度は決して悪いとは思えませんし、そもそもそういう場所が日本語で容易にアクセスできる場所にあること自体なにか良い意味があるのでしょう。
- しかし、要出典タグがついているのに秀逸な記事認定を受けている記事があるというのも異常なことのような。--きたじま/あかみ 2009年2月27日 (金) 04:14 (UTC)
- Ks aka 98 さん:
- 要出典の意図を明確にすべきだという結論には賛成します。
- 以下、枝葉末節になりますが、おつきあいください。
- 先に引用した部分にあるとおり、私には「要出典」タグは削除予告としか思えません。また削除予告でないとすればなんなのかという疑問があります。「要出典」タグを貼り付ける意図はわかりますが、どう決着をつけるつもりなのでしょうか。そのまま出典が明示されなければどうするおつもりなのでしょう。自分で出典を追記するわけではない、しかし削除するわけでもない、そうなると放置するしかありません。原則に則って出典を求めながら、出典がなくても放置するというのは矛盾しませんか?「要出典」タグに反発する人は、「証拠を出せないなら消すぞ」と言われたと捉えているとか、いかにもうさんくさい記述につけられた「要出典」と同レベルに扱われたとか、「こんな調べればすぐにわかるんだから、自分で出典を追記してくれよとか、そういう感情的なものが大きいような気がします。--以上の署名のないコメントは、118.8.84.33(会話)さんが 2009年2月28日 (土) 19:20 に投稿したものです。
- その記述を除去すべきと考える人が現れれば、除去されるでしょう。この場合は、ノートで除去の理由を示すことが望ましい。除去と同時にタグは除去されます。その記述を積極的に残したいと思う人が現れれば、出典を探して、タグを外すことになるでしょう。いずれの立場の方も現れなければ、まあ、タグが付されている記述は、それほど間違っているわけじゃないだろうけれど、あまり信頼できないものとして読者に受け取られるでしょう。古い記述で、執筆者が活動していなければ、出典を探すことが難しいという事態は十分起こりえます。自分で出典を追記するわけではない、しかし削除するわけでもない、当面は放置する。それらしか選択肢がないのではなく、その記述について、何らかのリアクションをとる人もいるだろうから、その人に委ねる、というのが、タグを貼って記述を残すという判断だと思います。そして、除去されては困ると思う人に限っては、除去の予告なのですね。それなら、出典を加えましょう、と。
- 「要出典」タグへの反発は、実際、感情的なものだと思うんです。方針上は、出典がなければ除去できるということになっています。ですから、除去してもいい。検証可能性という、容易に改変できないとされる方針を抱えるウィキペディアで、「矛盾」を解消するなら、除去する以外にはないということになります。貼る人の態度が悪すぎるとか、出典が示されているのが明らかなのに読解力が欠けているような場合もあるとは思いますけれど(これは、別の方針にそむく振る舞いです)、でも、そういうようなことでなければ、その反発は正当化できない。
- しかし、急いで除去する事が、出典を示すことを含めた記事、あるいはウィキペディア全体の発展に、そのまま結びつくわけではないと思います。ひとつの記事の、いくつかの記述に「要出典」があるかどうか、それを解消すること、よりも、執筆時に出典を付することの重要さ、読者にとっての有益さを、執筆者に理解していただき、検証可能性を満たした記述をするようになってもらうのが、大事だと思うのですね。すぐには情報源を見つけられないけれど、記述がある程度確かだと信じるなら、すぐに除去する必要はないと、ノートで主張することもできます。その場合でも、情報源を示すまでは、タグは残すことになるでしょう。あるいは、記事の根幹となる部分でないのであれば、いったん除去して、情報源が見つかってから加筆するということでもいいのです。--Ks aka 98 2009年2月28日 (土) 20:55 (UTC)
- 「正しそうだが出典が付与されていないので記事の精度向上のために出典を求む」場合と「正しくなさそうだから疑義がある」場合の使い分けが行なわれると確かに嬉しいように思います。今、Wikipedia:Template メッセージの一覧/問題のある記事を見ていましたが、「正しくなさそうだから疑義がある」時に使うのに適したテンプレートは{{疑問点}}かもしれません。第1引き数にはノートの節名を記すこともでき、ノートに疑義内容を記すのにも適しているような気がします。あまり使われてはいない様子なのが残念ではあります。表示サンプル[疑問点 ]も置いておきます。--NISYAN 2009年2月28日 (土) 23:21 (UTC)
「要出典」と理由の記入
[編集]先日、「要出典」には必ず理由をノートに書いた方がよい、理由を書いてない「要出典」タグは「取り除いてもよいという風潮になれば・・・」と書いて、その「取り除いてもよい」に光があたって大分叩かれましたが、私の言いたいのは「要出典」タグを貼るのは「理由をノートに書く」といういう労力に値いする重い行為であるべきだ、ということでず。 検証可能性はもちろん必要ですが、そのために本文中の文章ひとつひとつに引用元をつけていってはとても読みにくい文章になります。 ですから「要出典」タグを貼るのは、その人が読んでいって挙げられた参考文献などを読んでも解消しない何らかの疑義を感じたところに限るべきだと思うのです。 そうであればその疑義の内容をノートに書いておくのは当然だと思います。 そして「要出典」タグを貼るときは理由をノートに書く、という空気が一般に醸成されれば事態は大いに改善されると思います。
疑義の1つのタイプは「内容が誤りではないか」という疑問です。 その種の例として「富ヶ谷」では以前に他の人が貼った「要出典」タグがありましたので、最近その理由をそこのノートに書き込みました。 このように他人の貼った「要出典」タグについても自分が同感であればノートに理由を書き加えるのがよいと思います。 また「ありそうなことだけど出来過ぎの感がある」内容の文章に対して、その信用性を高めるための出典を要求した例に前にも挙げた「洲之内徹」があります。
「要出典」タグが貼ってあれば必ずノートに理由が書いてある、ということになればよいのですが、今のように貼りっぱなしの「要出典」タグが多いと、貼られた文章の執筆者にちゃんと理由を読んでもらうために「要出典、理由はノートに」とでもいうようなタグが欲しくなります。 どなたかお骨折り頂けると幸いです。 --Midz 2009年2月27日 (金) 04:23 (UTC)
- 最初から、出典を書いて、あとから疑問が出てくるような記事を書かなければいいだけだと思うのですが。「出典」の議論が品質の議論に結びつかないのに疑問を感じます。--ゆきち 2009年2月27日 (金) 12:08 (UTC)
- 《最初から、出典を書いて、あとから疑問が出てくるような記事を書かなければいいだけ》という点には完全に同意します。但し、要出典系テンプレートを付与するだけの行為もまた品質の向上にはならないということをゆきちさんは理解した方がいいんじゃないかと思います。ゆきちさんの最近の投稿記録を見させていただきましたが、{{出典の明記}}を付与するだけで、要約欄でもノートでもその付与理由が明言されていないものが多いように思いました。品質の話題に触れるのであれば、品質の向上に向けた行動とはどういうものなのかということをもうちょっと考えてみてはいかがでしょうか。そりゃまあ原則論としては「すべての記述は検証可能性を満たすべし」というのはあるでしょうが、まさか検証可能性を満たしていないすべての記述に要出典系テンプレートを付与しようとしているわけでもないでしょうから。なお、「テトリス」での付与理由(差分)のように、記事の分量と比較して出典が少ないってのはあまり適切な付与理由ではないと私は思います。
- 私は、要出典系テンプレートの付与を嫌悪している人々がウィキペディア日本語版にいるとは思っているんだけど、それはゆきちさんみたいな行動への怒りが原因であるようには思っています。ちょっとゆきちさんにはそのあたりを考えてみて欲しいと思う。--iwaim 2009年2月27日 (金) 12:36 (UTC)
- ええと。ある記述に対応するという事がわかるように参考とした文献が示されていれば、それは「出典」なのです。そこに「要出典」タグが貼られているなら、「何らかの疑義」以前に、書き手が思っている文献の提示が読み手に伝わっていないか、その参考文献の示し方では雑駁としているので、検証が容易ではないかのどちらかではないかと思います。
- 脚注を使うか、他のスタイルを使うか、あるいは、文節ごとか、一文ごとか、段落/節ごとか、というようなことは、資料と文章の関係から対応がわかるようにして、かつ可読性を損なわないように書くには、どうすればいいかというところから考える必要があります。よみやすさは重要なものですが、検証可能性を犠牲にするべきものではありません。執筆者は、すでに「知っている」のですから、これでも分かるとか、これくらい読んでおけ、というように考えるかもしれませんが、それでは読者にとって足りないのだということを、とりあえずは指摘されているのだと受け取ってほしいと思います。
- 「「要出典」タグを貼るのは、その人が読んでいって挙げられた参考文献などを読んでも解消しない何らかの疑義を感じたところに限るべきだと思うのです」というのは、検証可能性の方針からは、受け入れがたいものでしょう。ウィキペディアは、誰でも書く事ができます。だから検証可能性を満たすことが求められるのですね。誰が書いたものかはわからない、分かったとしても、百科事典を書くような立場にある人ではないことがほとんどです。ですから、せめて、執筆者の思い込みや誤った理解や思いつきではなく、誰かが書いていることを書いているのだということを示さなければならない。もし、その分野について、ある程度の知識がある人なら、誰でも知っているようなことを書くのであれば、何を参照すれば「ある程度の知識」が得られるのかを書いてください。それによって、読者が「ある程度の知識」を得る事ができますし、どの記述が「誰でも知っているようなこと」なのかがわかります。これは、何かを調べようとして百科事典を読む人にはとても有用な情報です。
- 要出典を貼る理由というのは、出典が記されていないということ以外にはないのですよね。出典が求められるというのは、内容が正しくないからではない。正しくない記述であれば、出典は示されないか、信頼できない情報源か、信頼できるはずなのだけれどたまたま誤りが記されていたものに依拠していたか、わかりやすさのために厳密さを犠牲にしていた入門書を参照していたか、といったことが考えられます。だから、まずは、出典を示してほしいということ、通常の百科事典では細かな情報源は示されないけれど、ウィキペディアは誰でも編集できるから、それを示すということになっているのだということ、どんな人が書いているかわからない文章で、その内容の由来が何かは示されていないということ、タグを使って、執筆者や読者に伝えているということになります。
- 「要出典」タグを貼られるということは、誰かが記事を読んで、少なくとも形式的に検証可能性を満たしているかどうか、人によっては、記述の内容や書式などから特に強く求められるのはどれかということを判断し、編集するという負担を、他の編集者に負担させてしまっているということです。そして、可読性以前に、読者が混乱し、あるいはウィキペディアの信頼性を落とす可能性があり、加筆しなければそれが継続するということです。誰でも書けるということは、誰が書いているかわからないということでもあります。たとえ正しい記述でも、典拠が示されていなければ、信頼を得ることは難しい。
- 「内容が誤りではないか」という疑義があるときや、「ありそうなことだけど出来過ぎの感がある」場合ならば、それは、「要出典」と関係なく、ノートで対話して、正しいとされている情報源が示されなければ除去しなければなりません。そこでは、出典の有無という形式的なことではなく、情報源の信頼性や、情報源にある記述とウィキペディアの記述の整合性といったところに踏み込むことになるでしょう。そうした話をするためには、まずは何に基づいた記述なのかがわからないと話ができません。あるいは、出典さえきちんとつけてあれば、そのような話は必要ないことも多いでしょう。
- 執筆者に厳しいことを書いているように見えるかもしれません。わたしたちが書いているのは、百科事典なのです。百科事典は、信頼できるものでなければなりません。しかし、わたしたちは専門家ではないですから、どれだけ信頼できるように頑張ったとしても、なかなか信頼に値する記事は書けません。書けないのだ、ということを、いったん受け入れることで、できるだけ信頼できるようにするということを自分に課すと共に、その結果が不十分なものでも、批判を受けるべきではなく、貢献と評価される。「できるだけ」というのも、基本的には、その人にとって、ですよね。執筆と同様に、記事を読んで改善を執筆者に促したり、方針の理解を求めたりというのも、とても難しいことです。わたしたちは、百科事典の執筆経験がないのと同じように、百科事典の編集者として執筆者とやりとりをするような経験も持ち合わせていないのです。記事のメンテナンスなどを主に活動する側も、いろいろ考えたりしないといけない事があるのは言うまでもありません。
- 要出典を貼るかどうか、というのは、本来いくらか難しい判断が必要だと思います。出典のない記事に対して、自ら出典を加える、要出典を貼る以外にも、いろんな方法があると思うのです。記事に対して要出典を貼るのがよいか、投稿者の会話ページへ行くのがよいか。出典があれば残すのか、そもそもその記述自体が適切でないか。記事の性質や、履歴などから推察される投稿者の様子によって、対応を変える必要もあるでしょう。要出典を貼る側にも、出典をつけるのが当然という態度ではなく、ウィキペディアでは出典を示すことが求められていて、どういう理由でそれが必要で、どのように示せばよいのかということを、執筆者に伝えることが望まれます。そして、当面は明らかとしてもよいようなこともありますし(たとえば、通常の記事で東京が日本の首都であるということは、ことさらに示す必要はないでしょう。「東京」や「首都」であれば、どのような制度の下で、どのような規定によって首都となったかを記す事が望ましいですけれど)、逆に、明らかに主観的な感想を述べている部分や、百科事典的ではない記述について、編集除去を前提として要出典タグを使う場合もあるでしょう。「内容が誤りではないか」という疑義があるときや、「ありそうなことだけど出来過ぎの感がある」場合に、まずは出典を求めるということであれば、ノートで理由を示すことのほうが好ましい。--Ks aka 98 2009年2月28日 (土) 12:30 (UTC)
- >出典が求められるというのは、内容が正しくないからではない。正しくない記述であれば、出典は示されないか、信頼できない情報源か、信頼できるはずなのだけれどたまたま誤りが記されていたものに依拠していたか、わかりやすさのために厳密さを犠牲にしていた入門書を参照していたか、といったことが考えられます。
- 「執筆者の誤読」も入れておいてください。Uryah 2009年2月28日 (土) 15:39 (UTC)
要出典系テンプレートを貼る際には原則として理由をノート(か要約)に書き込むという風潮をガイドライン程度の重み(ルールではなく)で制定する、という提案をしてみます。ありとあらゆる記述に出典が貼られることが理想ではありますが、サブカルチャー関連記事が目立つ現在の日本語版Wikipediaでは非現実的ですし、無視できないほど多数の記述に「要出典」が貼られているWikipediaは便利ではありません。
不適切な要出典系テンプレートを剥がして良いという言明には賛成しますが、そちらをガイドラインに書き込むのは反対します:「何が不適切な要出典テンプレートなのか」で議論百出してまとまらなくなるのが落ちだと思いますし。--きたじま/あかみ 2009年2月28日 (土) 09:20 (UTC)
- サブカルチャー関連記事についてです。通常百科事典は、あまりサブカルチャーを取り上げません。これは、従来の学問というものが、なかなか大衆文化を対象としてこなかったことに一因があるでしょう。しかし、わたしたちは、メインカルチャーとサブカルチャーを、それほど区別して扱うことはないと思います。ところが、これらの違いは、先行研究の量と質が違います。そして、大衆文化についての資料収集や分析、情報の蓄積は、マニアとかおたくとかコレクターと呼ばれる人によってなされてきました。そして、その情報が貴重なものであっても、主観的な分析や雑多な調査に留まったりすることも少なくなかったし、そもそも公表されることはあまりない。となると、かつて多くの学者が夏目漱石について研究したように、ラノベや漫画の作者や作品について調査しなければなりません。そして、そのような水準を目指すのでなければ、百科事典として信頼できるものには到達できません。そのような調査は、学者がこれから手をつけるよりも、その分野に興味を持ち、ウィキペディアに参加しようと考える人たちのほうが、向いているかもしれませんよね。そこで学問的な手続きのようなものから逸脱しないためにも、「検証可能性」は有効なはずなのです。競走馬や漫画やポピュラー音楽の一部では、秀逸な記事となっているものも出てきました。もっとも、このような場合は、要出典タグをたくさん貼り付けることよりも、志のある人が記事を書いて示すことや、プロジェクトごとに指針を持つようなことのほうが効果的なのだろうとも思います。--Ks aka 98 2009年2月28日 (土) 12:30 (UTC)
- ウィキペディアはどのような百科事典を目指すべきなのか、を考えてみることも大事と思います。私はやはり紙の百科事典とは違うと思っています。その特徴は、サブカルチャーや歴史上のさほど有名でない人物のように、通常の紙の百科事典では載っていない項目への読者アクセスが非常に多いことです。この分野は、学者や論文に頼るよりも一般人の執筆者の方が多くの情報を持っています。個人執筆者では独自研究に陥りがちな項目もありますが、その項目が多くの執筆者の加筆推敲によって素晴らしいウィキペディア記事になっていった例をたくさん知っています。ウィキペディアで最もアクセスが多い(すなわちウィキペディアに求められている)項目がそれであるとすると、やはり紙の百科辞典とは執筆の方法も異なって考える部分も出てくると思います。私は、出典は基本的に付けるのが原則と言うことに異議はありませんが、出典がないから独自研究だから削除、とするだけでなく、時間をかけて多くの執筆者で加筆して信頼性の高い記事にしてゆくことも、ウィキペディアを世の中のためになる新しい種類の百科事典にする重要な方向と考えます。--寂華 2009年2月28日 (土) 14:23 (UTC)
- (所感)私も濫用防止のために、もう少し要出典の貼付コスト(ノートへの理由表明条件等)を要求する運用の方がよいと思います。--yasumi 2009年3月1日 (日) 00:19 (UTC)
- (コメント)張る行為に関しては、人の記憶などはあやふやなものですから、要出典を張られた際に「ここで述べられてといた」と説明できない記憶のみに頼ったあやふやなことをことを書くのがそもそも間違いのもとです。説明できるのであれば何回貼られようとも要出典ははずすことは可能なはずです。要出典とは説明責任(アカウンタビリティ)の請求ですから(サブカルチャーか否かを問わず)投稿者なり、説明可能な者が明らかにすべきです。
- 削除する行為については議論の手続きなしに行うべきではないので、議論の手続きなしに削除したものはいったん戻してから、議論の議論の手続きをして(削除者が議論に参加しないのであれば)戻す話だと考えます。(そして議論の結論が削除ならば削除する話です)。張る行為と削除する行為とは基準は別であり、張ったから自動的に(議論なしで独断で)削除できるというものでないことはすでにルールで明らかになっていると考えます。--あら金 2009年3月1日 (日) 03:14 (UTC)
- ルールで明らかになっているとは知りませんでしたが、それが方針に分かりやすく明記されて居れば一番良いと考えます。また削除の議論になって要出典タグ貼り者が議論に参加する場合「とにかく出典がないのでルール違反で削除」と発言するだけではあまり建設的ではありません。やはり執筆協力する姿勢で議論に参加してもらえれば、問題がずっと穏やかになるように思います。--寂華 2009年3月1日 (日) 06:09 (UTC)
- (愚痴りに来ました)出典無しを理由に議論無しのリバート・削除荒らしにあったの昨日からWikipedia:コメント依頼/Sabkakusikakuにてコメント依頼中なのですが、今度は松任城に要出典タグを貼り付けてノートで削除を宣言しています。どうも編集加筆の熱意が感じられず、要出典が削除のための準備運動に使われる傾向なのは否めません。要出典タグが剥がせないからと言って議論合意のない削除が出来ないことがルール化されているそうですが、私も寡聞にして知りませんでしたし、皆さん認識の上で要出典タグを貼り付ける環境にあるのでしょうか? そして愚痴りたくなるのです、「要出典タグを貼る君はどんなに素晴らしい記事に編集してくれるんだろうか・・・」大抵の場合が貼り逃げ、又は削除の事前運動なんですがね。--yasumi 2009年3月2日 (月) 12:56 (UTC)
- 要出典タグ→記事削除を仕掛けるのはこれが原因かな、というのは思いつかないわけでもないんですよね。公式な方針である検証可能性にこういう表現があります:「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。」この記述は本来適切な出典がない記事を執筆する執筆者へ向けた警鐘と読み取るのが正当なはずなのですが、逆に削除を正当化するものであると読み取ることができるのかもしれません。
- おそらくSabkakusikakuさんもWikipediaのルールを金科玉条として裏読みしていると思うので、「要出典な記事/記述は削除/消去されてもやむを得ない(ので、そういう記事を書く場合は削除/消去(/改善編集)されることを前提とするように。けれども、要出典なことだけでは第三者が当該記事/記述を削除/消去する正当な理由ではない」こと自体を公式なガイドラインに組み込むことまで視野に入れることを考えるべきでしょう。--きたじま/あかみ 2009年3月3日 (火) 05:20 (UTC)
- 裏読み・合わせ技で要出典が削除の尖兵に使われているんですかねえ。私も要出典タグの貼り方を見に行ったとき特に削除へのプロセス注意も無かったので、実際に要出典タグ添付→削除という表層事例ばかり見ていたのでそんなもんかと思っていた一人ですし。テンプレページに注意を書くとかの要出典タグの濫用を防ぐ良い方法は無いのでしょうか?上でノートへの説明を義務化したりするのが良いと思ったのは、張付コストがUPすれば、もう少し本来目指した要出典の本領が発揮できるんじゃないかと思うし、削除に入るのであれば張り逃げに終わらずにそれなりの熱意を持って記事を改善してもらいたいです。どうもトリガーハッピーな人が色々居るので、もう少し引き金は重くなると良いな、と思います。--yasumi 2009年3月5日 (木) 12:35 (UTC)
- なんていうか、要出典の付与が目的化している人もいますからねえ…出典は検証可能性の向上や事実に基づかないような独自研究の除外とか中立性を保持するために記述者当人の意見を抜きにするためになどなど、他のガイドラインにも密接に関係しあってるわけで、その意味において全ては「Wikipediaは百科事典であること」に集約される要素のひとつではあるんですが、要出典が目的化してる利用者にとっては「<ref>~</ref>が文中に見当たらない」とか「参考文献の節が無い(悪くすれば参考文献が記述してあってもそれら文献の存在を無視して)」なんていう理由付けで付与され、その一方で記事を書く上で全く参考としておらず出典でもなんでもない「記事内容と同種ないし近しい言説が掲載されている」モノ(参考資料ではあるが)を示してやれば出典が掲載されたと認識するような「要出典を付与することが目的とする者」や、あるいは独自研究ないし演説をする際に「(ググッて出たような)自身の主張に近しい(と当人がみなす)書籍を羅列して出典と称する」ような利用者もいたりして…その両者に共通していえるのは「出典が何たるか」を全く理解できていないことなんじゃないかと思う次第。出典は記事の情報の出所を明かして検証可能性を満たし、読者がその妥当性を計り理解を深めるために利する情報であって、2ちゃんねるあたりで演説している連中に食い下がってソースソースと無邪気に騒いでる連中に食らわせる飴玉じゃあないと思います(漏電中)。--夜飛(話/歴) 2009年3月5日 (木) 12:55 (UTC)
- これまでの議論で方向性が出た、と理解してよろしいのでしょうか?--寂華 2009年3月8日 (日) 15:48 (UTC)
- ◆はっきりと「コレだ!」という結論は誰も出していないように思います(また、シロクロはっきり付くような話題でもないと、俺自身は思っています。なので「方向性」という表現をなさったのかもしれませんが)。
- もし、寂華さんのなかで何らかの結論・方向性が出ているのであれば、ご提示いただけると(俺自身もそうですし、他の方にとってもそうだと思いますが)後学のためになってよいように思います。よろしければ、ご提示願えませんか?--ish-ka a.k.a.lisky@s.i.b! (talk/wikimail/contributions) 2009年3月9日 (月) 13:05 (UTC)
- 検証可能性の「この文書の主旨」の句追加のとおりです。--寂華 2009年3月9日 (月) 22:22 (UTC)
- 議論を検証可能性のノートで提案しましたが、なかなか・・・・--寂華 2009年3月10日 (火) 11:13 (UTC)
- 寂華さんは、このように[3],[4]、合意もなくWikipedia:検証可能性を弄るのをやめてください。あなたは何かを提案するとかそういう以前の問題です。--fromm 2009年3月10日 (火) 13:10 (UTC)
- 私はかなり多くの要出典を付ける方ですが、これは明らかに個人的見解だと思うものは最初から削除しますし、要出典タグを付けるのは、きっと資料はあるんだろうなと思える記述に対してです。サブカルチャー関係の記事ではどうしても削除や要出典タグが増えますが、サブカルチャーを対象にした学術論文でも一次資料は研究者ではないマニアやライターが書いた文章を使うのが普通ですから、そういうものを時間があるときに示していただければよろしいだけではないかと。急ぐ必要は無いのですから。現状では出典を全く示さずに記事を書かれる方も沢山いらっしゃるのですから、そういう方々の存在とバランスを取る意味でも要出典タグを付ける編集が多い者の存在はあって良いんじゃないでしょうか。無理に型にはめずとも。--Peachkiller 2009年3月16日 (月) 23:41 (UTC)
- 寂華さんは、このように[3],[4]、合意もなくWikipedia:検証可能性を弄るのをやめてください。あなたは何かを提案するとかそういう以前の問題です。--fromm 2009年3月10日 (火) 13:10 (UTC)
- 一つ確認させてください。ライターの項にはまったく出典が記されていないので、削除しようと考えています。方針に照らしてもそれは正当な行為だと思いますが(「要出典」タグの貼付はあくまで温情であって、本来は「誰でも取り除くことができる」「除去されても文句は言えない」ものですからね)あたかもそれが悪いことのように議論されているのが気になります。仮に削除を実行したとして、ブロックなどの懲罰を受けることはあり得ますか? 114.164.236.4 2009年3月19日 (木) 12:14 (UTC)
- あなたはペナルティを受けない行為であれば何をやってもいい、という考え方を取られるのでしょうか。誰でも要出典な記事を取り除くことができるというのは「出典を明記していない記述を執筆した著者に向けた警告」と考えるのが妥当であり、たとえペナルティは発生しないとしても要出典な、しかしそれ以外の点では内容上問題のない記事を合意無く「削除する行為」それ自体はWikipediaの目的に照らして荒らしとしての評価に値する、即ち道義的によろしくないことなのは間違いないでしょう。削除して記事をスリム化することも時には必要かも知れませんが、本来は記事を充実させる方向へ向かうことがWikipediaの目的に照らしてより妥当であるという根源的な解釈を忘れないでいただきたいものです。
- もし「要出典」な記事の大量削除に踏み切った場合、当該ページをめぐる議論としてユーザー間で合意が得られていなければ(そして、「要出典」だけでは実際に記事を削除するのに十分な理由とならないと多くのユーザーが考えているのはこの井戸端で議論されている通り)そもそもWikipediaの利便性を損ねる行為として荒らし扱いされブロックされることも大いにあり得るでしょう。では、大量の記事を削除するのはNGだが1つの記事を削除するのはOKということがあるかどうか?私はそうは思いません。--きたじま/あかみ 2009年3月20日 (金) 05:36 (UTC)
- これまでの議論が全く踏まえられていないIP氏の発言に愕然とします。そもそも「温情」とは? 誰から誰に対する・いったい何のつもりでする発言なのでしょうか。読者に対して記事の品質を保証するために出典が必要である、だから出典を欠いた記事に対し出典を要請する、というのが「要出典」の趣旨であって、少なくとも削除の免罪符ではないはずです。そうした読者に対する配慮が欠けた参加者の執筆はWikipedaiの成長に資しません。自分が何を言っているのかよく考え直してください。--ikedat76 2009年3月20日 (金) 14:02 (UTC)
- きついことを申し上げますが、私から見れば、きたじま/あかみ さんや、ikedat76さんのほうがここまでの議論を踏まえられていない、と感じられます。
- 2009年2月24日01:43のゆきち さんの投稿は少なくともこの節の議題提起内容に懐疑的で、2009年2月24日03:50のFuji 3さんは「基本的に要出典タグの乱用というのはありえない」と書き、2009年2月24日05:11の氷鷺さんもFuji 3さんに同調し、2009年2月24日10:30のネコバットさんは出典の要求は正当であることを確認し、2009年2月24日11:22のあら金さんも同様と、出典を示す責任はあくまで執筆者・加筆者側にあることを主張している人は少なくありません。
- Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に(WP:V)を素直に読めば、出典を示す責任は執筆者・加筆者側にあり、出典のない記述に出典を求めること、除去することは正当であって、出典を求めるにせよ、除去するにせよそれを行うにつき負担を求められるようなことではない、とういうことは明白な方針として存在していると私は思います。また、上にアカウント名を挙げた方々や、Ks aka 98さん、凪海さんも同じか、近い意見だろうと思います。少なくとも、WP:Vを解釈するにつき、出典のない記述を除去するのは正当であり負担を求められることはないという素直な解釈(だと私は考えますが)を覆すような合意が確認されたとは思えません。
- 2009年3月19日12:14の114.164.236.4さんの考えは少し極端かもしれませんが、これまでの議論をふまえた上でなお、非難されるようなものではないと思います(というか、WP:Vはどちらかといえばそういう考えに肯定的なように読める)。--mizusumashi(月間感謝賞を応援します) 2009年3月25日 (水) 16:17 (UTC)
- 議論を再確認してきました。mizusumashiさんの読みこそ、失礼ですが議論の経緯を勘違いしていると考えます。なぜなら、挙げられている議論は「要出典タグ等の方法によって出典の明示を要求する」ことへの是認であり、要出典タグを根拠に「記事を削除する」ことへの是認ではありません。一方、私の発言は記事を削除することの憂慮であり、これまでの議論とは矛盾していません。立場の表明として申し上げると、私自身も要出典タグを貼ること自体を拒否はしません。もちろん「なぜ要出典なのか、どのような出典が必要なのか」をノートや要約等で明らかにすることは(Wikipediaの明文化されたルールではなく)よりよい議論を進めるために奨励されると考えます(自分自身もここの議論に参入するようになってから心がけるようにしています)。
- しかし、それと記事の削除は全く別問題でしょう。ここまでの議論では要出典タグのみを根拠とした記事削除について是認するような発言は見あたりません。mizusumashiさんが自らの主張を強化するために根拠にされているあら金さまの発言で、まさに2009年3月1日 (日) 03:14 (UTC)の発言で(以下引用)「自動的に(議論なしで独断で)削除できるというものでないことはすでにルールで明らかになっていると考えます」(ここまで引用)という内容があります。ikedat76さんの発言についても、要出典タグの貼り付け自体ではなく要出典であることを理由とした記事の削除について憂慮を表明されていると考えるのがより妥当な読み方でしょう(勘違いしていたらご指摘ください>引用・言及された皆様)
- ただし、原理主義的ではなくより現実的な解釈を書き添えておきますと、この手の議論は最終的にバランスの問題に帰着すると考えます。現在のWikipedia日本語版で、明確な出典が記載されていない記事を全部削除したらどのようなことが起こるでしょうか?おそらく大半の記事が消滅することが推測できるでしょう。そうなったWikipediaは果たして価値があるでしょうか?一方、Wikipediaの価値を高めるためにはすべての記事に出典が貼り付けられていることは確かに重要です。となると、いま「この場で」要出典タグが付いている記事はどれも削除して良いというコンセンサスを作ってしまうのはバランスを崩すことになるわけで、いま現実的な選択を考えるならば要出典タグが付いている記事については可能な限り改善を目指すべきであり、削除は「禁止されていないと明示される」程度の意味合いで受け取るのが妥当ではないでしょうか。そして、将来的に出典がついている記事の比率が高まれば、要出典タグのついている記事はタグがついていることだけを理由に削除して良いという形に持っていくことも不可能ではないかもしれません。というかWikipediaはそれを理想としている、と考えるのはWP:Vが「どちらかといえば肯定的」とご指摘された通りかもしれません。--きたじま/あかみ 2009年3月25日 (水) 17:39 (UTC)
- ノートにて応答いたしました。ご一読くだされば、幸いです。--mizusumashi(月間感謝賞を応援します) 2009年3月26日 (木) 08:31 (UTC)
(インデント戻します)まず、管理者でなければ削除することはできません。編集で除去すること、削除依頼に提出することは出来ます。ブロックは懲罰ではありません。ま、言葉の綾ではありますが。
記事があり、出典がなければ編集で除去することは可能ですが、編集除去できるというだけで、除去するべきとはされておらず、何かを書くときに出典を示さないことは正当化されないでしょうが、出典なく書かれてしまったものを除去するということが常に正当化されるわけではありません。出典なく書いた利用者は、まだ検証可能性の必要性を理解していない初心者なのですから、出典を示すことが大事だということを説明してあげてください。
わたしたちが目指すのは、検証可能な信頼できる情報源に由来する記事として充実させることであり、わたしたちは誰でも編集する事ができるのです。不確かな記述を除くことは記事を改善させるためのひとつの方法ですし、批判的であったり、内容が疑わしいものであれば、これを除去し、適切な記述に改めることが望ましいですが、妥当な記述であるなら、記述を除去しようとする前に、自ら出典となるものを探して加筆することを考える必要があります。とはいえ、出典のない記事の除去には、合意は不要ですし、除去のみで荒らしに値することではありません。
その記事をよりよいものにしようとするための選択肢として編集除去しか選ばない/選べないままであれば、ブロックされる可能性はありますし、除去する際に反対された執筆者に対して方針の意義や重要さの説明を怠ったり、高圧的なふるまいばかりをしていれば、これもブロックされる可能性はあると思います。
繰り返しになりますが、検証可能性の方針は、編集除去を可能にし、執筆する側に出典を付することを求めますが、除去しなければならないとするものではありません。現実には、出典のない記事はまだまだ多いですし、うろ覚えのまま書いたり、自分の考えを書いたり、出典をしめすということがどういうことかわかっていないまま、自明であるから示す必要がないと強弁したり、出典を示さずに書くことを正当化させようと議論に望むような事例もみかけます。コミュニティ全体が、その必要性を理解し、出典をつけるようになり、最低限の記事の質を担保できるようになるのがいいわけです。そのために、一度出典のない記事は削除してしまうという荒療治が必要だ、ということであれば、検討の余地はあるでしょう。個人的には、それよりも、おそらく出典を示しながら書くことに不慣れであったり、どのように示せばいいのかがわからなかったりという人たちに、必要性ややりかたを覚えてもらっていくことで、情報源に基づいた記事を書いている人は、きちんと出典を付けているという状態になる。それによって、慣れない人に説明できる人も増え、あいまいな記述や自分の考えを排することが容易になり、自分は出典をつけるけれど、その上で、どういう問題点があり、どういう運用をするのがよいかを議論できるようになっていく。そのほうが、よりよい百科事典になると考えます。--Ks aka 98 2009年3月25日 (水) 19:45 (UTC)
出典追加後のタグ剥がし、要出典タグに対する応答がない場合など
[編集]- すみませんが、この場をお借りしてお尋ねしたいことがございます。「要出典」タグを貼った方を「甲」、貼られた寄稿者を「乙」、第三者を「丙」としますが、
- 乙は要求に応えて出典を示す際にタグを剥がしてもいいのでしょうか?それとも、甲が出典提示を確認した段階で甲によって剥がされるべきなのでしょうか?
- また、甲が「要出典」タグを貼ってノートページに疑点を記し、それに対する乙の応答が無い場合は再度乙の会話ページに呼びかけを行うべきなのでしょうか?
- 更に、乙の反応、または丙による意見も無く、甲がその部分の記述を削除、または改変する場合、その期間(タグ貼付から改変まで)の目安といったものはあるのでしょうか?
- --胡亂堂 2009年3月25日 (水) 14:47 (UTC)
- 乙が剥がせばよいですよ。ある程度、情報源が特定できれば、まずは、それでよいと思います。ただ、その記述と、示された情報源にある記述・内容に齟齬があれば、再度指摘されるでしょうし、この場合は、再度「要出典」とされる可能性があります。不慣れな間は書誌情報の不足や書式上の不備などがあるかもしれませんし、また、その情報源の信頼性などについて、意見が分かれ、議論となるかもしれません。出典の有無だけでないところで、よりよい記事になるよう、対話を進めていただければと思います。
- 乙の反応がない場合、甲自身が出典を探す/乙の会話ページなどで出典の提示を促す/関連記事やプロジェクト、詳しそうな執筆者にお願いしてみる/記述を除去する/要出典としたまま記述を残す、などなど、さまざまな対応の仕方があります。これは、その記述がとりあえずは信頼できそうかどうか、誤りであった場合にどういう影響が考えられるか、批判的な記述かどうか、情報源となりそうなものを探すのがどの程度難しそうか、その情報はその項目にとって重要な位置を占めるかどうか、といったところから、個別に判断するしかないと思います。--Ks aka 98 2009年3月25日 (水) 15:53 (UTC)
- (編集競合が起きましたが、そのまま)
- 私の意見としては、出典が付いたのであれば誰が除去してもかまわないと思いますので、しいていえば「乙は要求に応えて出典を示す際にタグを剥がしてもいい」と思います。ただ、ノートですでに議論になっているのであれば、ノートで出典をつけたので「要出典」タグをはがしてもかまわないかと質問し、1週間くらいまったほうがよいと思います。
- 二点目については、そこまでする必要はないと思いますが、そうしてくださればより望ましいと思います。
- 三点目は、このサブページで議論されていることに関係しますが、どうも見解に幅があると考えたほうがよいように思います。ただ、改変については、文章・内容としてよほどの改悪になるというのではなく、ほぼ同じ内容で出典をつけ、より出典に正確な内容にあらためるならば、待つ必要はないと思います。--mizusumashi(月間感謝賞を応援します) 2009年3月25日 (水) 16:17 (UTC)
- ありがとうございました。3点目については、今後の上での議論に注目したいと思います。--胡亂堂 2009年3月26日 (木) 10:52 (UTC)