コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

Wikipedia:井戸端/subj/結論を示唆するような記述は「情報の合成」か否か

結論を示唆するような記述は「情報の合成」か否か

[編集]

Wikipedia‐ノート:独自研究は載せないに書こうかとも思いましたが、こちらに記します。日本プロサッカーリーグノート / 履歴 / ログ / リンク元及び命名権ノート / 履歴 / ログ / リンク元の記述を巡って利用者:シェルシードブレッド会話 / 投稿記録氏と論争になった(利用者‐会話:シェルシードブレッド#情報の合成について)ので第三者の意見を聞きたく井戸端に議論提起します。

簡単に言いますと、いわゆる「情報の合成」(WP:SYN) について、私が「相互に独立した情報源を持って『AでありBである、ゆえにCである』と云う論証を書くことは『情報の合成』に当たる」と主張したところ、シェルシードブレッド氏は「『Cである』という結論さえ書かなければそれは情報の合成に当たらない」と強く主張されておられます。ただ、客観的に見る限り、AとBという事象を羅列することでCという結論を閲覧者に強く示唆しているような並べ方をしているのではないか、というのが私の見立てです(シェルシードブレッド氏はAとBは「主題に関して関連性がある」と主張しておられますが、私は「敢えてAとBを並べることで読み手にCという結論を導き出させようとしている」と主張しています)。

確かに、こういった記述法についてはWP:SYNにも、WP:NORにも言及がないのは事実ではあるのですが、WP:SYNの趣旨を考えると「結論を示唆するような記述方法」もWP:SYNに抵触するのではないかと考えるところですが、皆様の見解をお伺いしたいと思います。--Bsx会話2025年1月3日 (金) 02:49 (UTC)[返信]

  • 「主題に関して関連性がある」「敢えてAとBを並べることで読み手にCという結論を導き出させようとしている」という2点が真である、ということを前提に一般論を述べさせていただきます。AとBという(出典付きの)事実を並べて記述することは独自研究には該当しません。まず、仮に独自研究に該当する場合、①AB両方の記述を除去する、②ABいずれかの記述を除去する、③ABの記述箇所を移動させる、などの対応が必要になるかと思われますが、主題に関して関連性がある限りは、①②のような対応が妥当でないことは明らかかと存じます。WP:SYNは、「出典のないCという記述はせずに、出典のあるABのみを記述せよ」という趣旨であり、ABを記述することにまで制約を課すことを意図しているとは考えにくいです。
例を挙げましょう。「甲が殺人容疑で有罪判決を受けた(D)」という出典付きの事実があれば、「甲が殺人を犯した(E)」という事実が強く推定されます。とはいえ甲が再審請求をしているとか、再審無罪判決を受けたなどの事情があれば、Eが独自研究にあたることもあるでしょう。そのような場合でも、Dの記述は除去されるべきではありません。再審請求をしているとか、再審無罪判決を受けたといった事情は、Wikipedia:中立的な観点の問題として加筆が必要になるにすぎず、Dの記述まで独自研究(に読者を誘導する)として問題にするべきではありません。これは独自研究に読者を誘導しうる記述が複数であっても同様であると考えます。「甲が無罪判決を受けた理由」として複数の事実を羅列し、「甲は殺人を犯していない」という独自研究に誘導しようとしているように見える場合でも、「甲は殺人を犯していない」と書かない限りは独自研究にあたらないと考えるべきでしょう。--こやまひろ会話2025年1月3日 (金) 10:26 (UTC)[返信]
こやまひろさん 対応方法について。①②が適切とは言い難いという御意見は理解できますが、③に関してもABの記述箇所を(別々に)移動させるというのも文章全体の構成で捉えたときに適切かどうかという点において疑問が残るところです。一方で殺人事件に関する例示で、複数の事実を羅列し、執筆者が「甲は殺人を犯していない」という独自研究に誘導しようとしているのが明らかであれば、それは独自研究と云うほかない(中立的な観点に照らしても「甲が殺人事件を犯している可能性」にも言及すべき)だと考えるのですが、その点は如何でしょうか。--Bsx会話2025年1月4日 (土) 01:12 (UTC)[返信]
「複数の事実を羅列し、執筆者が「甲は殺人を犯していない」という独自研究に誘導しようとしている」場合、中立的な観点に抵触する虞はありますが、「「甲は殺人を犯していない」という独自研究」が記事上でなく執筆者の頭の中にしかないのなら、記事自体は独自研究ではありません。--フューチャー会話2025年1月4日 (土) 19:53 (UTC)[返信]
コメント まま見られる論点です。具体的に結論を述べなければ独自研究ではない、というのは時折見られるものです。しかし、「文章」というのは「文」の組み合わせによって編まれるもので一定の論理性を持ってなされるものです。たとえ接続語などなくとも、文の組み合わせによってセンテンス単位で意味を成すというのは普通にありうることで、そこに元出典では示唆すらされていないような、執筆者個人の独自の見解といった創作性が見られるならば、情報の合成で独自研究といえるでしょう。むしろ逆に、文章に論理的整合性や意味合いがないセンテンスを書いたとしたならば、その人は説明文を書く能力が劣っていることなのですから、独自研究という観点以前に、他者に事物を説明するという基礎的な部分で能力がないという話ではないでしょうか。
別に今回に限らない話ですが独自研究を回避するために、説明文(というか文章)として失格なものを執筆したら、独自研究以前に、そもそもその者の文章能力を疑われる行為なのですよ。他意なくその文章を読んで、当然に読解される結論を、執筆者は「そう読まれる意図がなかった」とのたまうなら、「じゃあ、あなた日本語が下手なんですね。日本語で他者に解説するウィキペディアには向いてないです」としかいいようがないです。--EULE会話2025年1月3日 (金) 12:53 (UTC)[返信]
EULEさん おっしゃるとおり、Wikipediaの文章が「単語の羅列」ではない以上、「全体としての文意」をどう評価するか、という話になると思うのですよね。創作性の評価という点は少し微妙な話になるかも知れません(「創作性のある文書」ではなく「事実の羅列だ」と抗弁される可能性が高いですから)が、その事実の並べ方で別の(出典で言及していない)意図を匂わせるのは独自研究(情報の合成)ではないかと考えるのは同意です。--Bsx会話2025年1月4日 (土) 01:24 (UTC)[返信]
その独自研究が行われている(かもしれない)のは執筆者の頭の中であって、Wikipediaの文面上ではありません。
EULEさんの「元出典では示唆すらされていないような、執筆者個人の独自の見解といった創作性が見られるならば、情報の合成で独自研究といえるでしょう。」を肯定してらっしゃいますが、文章内に書かれていないものは見られませんから、執筆者が内心で独自研究を行っているかを知る術はありません。ですから会話ページで相手の意図を決めつける発言を繰り返すのも控えるべきでしょう。なお文章力云々は本件とは無関係だと思います。--フューチャー会話2025年1月4日 (土) 20:14 (UTC)[返信]