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Wikipedia:井戸端/subj/特筆性を理由とした記載拒否について

特筆性を理由とした記載拒否について

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現在、Wikipedia:特筆性というガイドラインがあります。本来、その意図するところは主題にあまり関連のない記載の肥大化を抑止しようというものだと考えます。しかし、実際においてはこの「特筆性」を理由に記載そのものを実質的に拒否するような論陣が議論において度々みられ、相応の出典があるにも関わらず記載が妨げられるケースも散見されます。何等かの理由により記載を好ましくないと思う側からすれば、ほぼ、どのような状況にあっても「特筆性がない」という魔法の言葉によってWP:VWP:NPOVをキャンセルし記載を拒否できてしまうということです。本来、方針であるWP:VWP:NPOVはガイドラインに優先するにも関わらず、このような状況が現出している状況について改善が必要であると考えるのですが、みなさんのお考えをお聞かせいただけないでしょうか。--Truesight 2012年1月7日 (土) 12:16 (UTC)[返信]

逆です。Wikipedia:特筆性は記事自体(主題)の特筆性に向けられたものであって、その内容・要素の特筆性についてではありません。氏のような誤解はよく見られますが、「記事内容の特筆性」の節に「特筆性のガイドラインは、ウィキペディアにおいて、その話題が単独の記事として項目を立てるのに十分な特筆性があるかどうか、というものを示します。 このガイドラインで述べている、記事として書くことができるかという意味での「特筆性」は、その記事の内容については直接には関係しません。」とはっきり書かれています。
くわえて三大方針の既定は、その既定を守れば何をしても許されるというわけではありません。いくら出典があろうとゴシップ的などで事典的で無い記述は抑制されるでしょう。あくまで三大方針は必要条件であって、十分条件ではない。そういった勘違いがあるからこそ、むしろこのWikipedia:特筆性というガイドラインが作られたのではないかなと私は考えます。
ただし、「特筆性」という魔法の言葉が横行していることには否定しません。「○○だから特筆性がない」とちゃんと理由を述べる必要性があるでしょう。--EULE 2012年1月7日 (土) 12:45 (UTC)[返信]
(追記)Wikipedia:特筆性は記事自体について述べられた物なので、氏が問題視されている、これを理由に「記載そのものを実質的に拒否するような論陣」を張る人についてもガイドラインの認識を誤っていると言えるでしょう。--EULE 2012年1月7日 (土) 12:51 (UTC)[返信]
この件は私も以前にSergei氏と私の会話ページで議論を交わした事が有ります。私の認識はEULEさんと同じで、混乱を避ける為に記事中の記述に於ける特筆性を特記性と言ってます。そして特筆性はページそのものの単独立項を出来るかどうかの基準だと認識してます。そうすると、現在特記性に関する基準を示すルールは無いと思っていますが、私とSergei氏の共通認識としては特筆性のルールに準じた判断です。私とSergei氏との認識違いはその準じる度合いで、Sergei氏は特筆性のルールを特記性にも全面的に用いるべきだとし、私は、特筆性のルールで明確に「このルールは特記性の為のものではない」と述べられているのだから、参考程度に準ずるべきとし、基本は検証可能性のルールなど一般ルールや世間での認知度など広く考慮して考えれば良いと主張しています。
確かに特記性の是非を議論すべきシーンで特筆性のルールを全根拠に議論する人は私もちょっと困ってますので、何かしらの改善が必要なのかも知れませんね。
--Toshi999 2012年1月7日 (土) 13:25 (UTC)[返信]
特筆性の文書が第一義的に求めるものは、些細な事柄で単独項目を作らない、ということです。Wikipedia:特筆性#記事内容の特筆性も参照ください。記述において、書かないということを含めて適切な分量を示唆するのは、中立的な観点#中立的な観点とは何か? 「偏りのない」「中立的な」というのはここでどのような意味で使われているのか?の「公正に論争を記述するためには、競合する様々な観点を、その主題についての専門家や関係者の勢力に合わせて提示すべき」という記述やWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありませんWikipedia:存命人物の伝記#私人・非著名人の「編集者は抑制して、それらの人々の知名度に釣り合う情報だけを記事に含めるようにすべきです。どちらとも決めにくい場合の経験則は、「害にならないことだけをせよ」です」あたり。何等かの理由により記載を好ましくないと思う側が、「特筆性がない」を理由に記述を除去しようとしたとしても、第三者的で信頼性があり影響力のある情報源を複数示すことで、その主題についての勢力が大きいことを示すことができます。そこにかかる労力や時間を書く側が受け持つのは、ウィキペディアではしょうがないこと。書くべき内容であれば、ほぼ、どのような状況にあっても、その記述を残すことができるでしょう。ただし、その記事の主題から離れた事柄であったり、得られる情報源が一時的な話題であったことを示す程度のものであるならば、記事全体の中では、ある程度の割合を越える記述は好ましくありません。記事全体が中立的であるという状態を保ちながら、加筆することが期待されます。--Ks aka 98 2012年1月7日 (土) 15:06 (UTC)[返信]
みなさんコメントありがとうございます。まず特筆性は第一義的には単独項目立項に関するものであることについては理解しております。この点予め説明できていなかった点については失礼致しました。ただしそれは第一義的なものであり、内容についても準じて適用されるということはToshi999さん、Ks aka 98さんが述べられている通りだと思います(逆にいえばWikipedia:特筆性は矛盾した文言を内包していると思われるのですが・・・)。さて、Ks aka 98さんの仰ることは尤もだと思います。ただ、Ks aka 98さんはあまりにも性善説に立ち過ぎています。実際は、必ずしも「書くべき内容であれば、ほぼ、どのような状況にあっても、その記述を残すことができるでしょう。」なんてことにはなりません。実際、それなりの幾つかの出典を示してもそれは「特筆性がない」という魔法の言葉によって退けられるケースが散見されるのです。そして、「そこにかかる労力や時間を書く側が受け持つのは、ウィキペディアではしょうがないこと。」と仰せですが、粘り強く議論を継続していくと今度はいつまでも納得しないのご登場とあいなる訳です。Wikipediaの記述には出典が義務付けられていますが、特筆性が無いと主張するには出典などの客観的な基準は要求されません。執筆者の恣意的な観点に左右されるのです。つまり、仮にきちんとした出典があったとしてもそれに反対する恣意的な観点を共有する参加者が複数いれば、記載拒否が可能なのが現状なのです。換言すれば、この(現状の)Wikipedia:特筆性いうルールはWikipediaを出典に反し恣意的に記述したい者達にとって格好の温床となっているということです。--Truesight 2012年1月7日 (土) 16:54 (UTC)[返信]
んーと、記述に対して「特筆性がない」という意見に対する反論を「Wikipedia:特筆性」を根拠にしたら、それでは反論になっていないわけです。単独記事とできるかどうかということについて、「Wikipedia:特筆性」に基づく特筆性がないという意見への反論なら、第三者的な情報源で有意に扱われていれば、多くの場合それで足りる。
ところが、記事の中での記述の有無とか、量とか、扱い・表現ということなら、そういう単純な基準はないし、多くの記事を対象として基準を作るのは好ましくない波及効果を生みかねません(プロジェクト単位で考えることはできると思う)。査読付きジャーナルのような情報源が得られるものでなければ、情報源の信頼性などについての議論も必要でしょう。つまり、対話の中で、それは、どちらかというと中立的観点の問題であったり、存命人物の伝記の問題だと捉えなおす必要がある。
そこで、中立的観点などを参照し、議論参加を促すためのコメント依頼を出したりしながら、情報源を示すのと同時に、どういうふうに書けばいいかということについて対話を行なうことになります。記載に反対する参加者が複数いると言うことは、その反対の立場をとる観点が「恣意的」かどうかを問い直す必要もあるでしょう。ある事柄を載せたい、ということではなく、記事の発展を考えるなら、現在Trusightさんが望んでいるのよりも少ない量で触れる程度で収めるというところで合意が得られるかもしれませんし、記事全体について必要と思われる事柄を書き加えることができれば、その事柄について触れる必要性も認識されるようになるかもしれません。人物や企業記事なら、その本来の仕事との関係が深いということを示すとか、対立説があるなら、その説が少数説であっても認知されていたり、文脈によっては扱うべき正当性や影響力があったりということを示すとか。自分は書くことが妥当であることが他の多くの利用者にとって理解されるもので、粘り強く議論を継続していると思うなら、相手も同様にいつまでも納得していないのですから、利用者に対するコメント依頼、ブロック依頼を出すということになります。--Ks aka 98 2012年1月7日 (土) 18:19 (UTC)[返信]
Ks aka 98さん、本当にいちいちご尤もな見解なのです。わたしも実際を知らなければ、Ks aka 98さんのご意見の通りであると思うに違いありません。しかし、甘いのです。特筆性を理由に分量云々で議論に臨まれるのであれば、それは良心的な方です。実際は、特筆性がないから記述は一言も容認しない、を主張するものも多々おり、それらについていちいちコメント依頼やブロック依頼を提出するのは効率的とは思えません。また、相手側との依頼の応酬による泥仕合になってしまうようにも思います。それにみなさんが関心がある記事であれば十分な告知のもと幅広い参加者も得られるでしょうが、そうでない場合はそのような善意の第三者の参画もおぼつきません。マイナーな記事群は、幅広い参加者抜きで閉鎖的に運営されているという現実を考慮すべきです。そういった閉鎖的な記事群での多数派は普遍的な多数派とは別物です。
問題の根本はやはりルールの不整備じゃないでしょうか。なんとか他のルールのようにもう少し明確な基準を導入できないものでしょうか。わたしが思うに、この特筆性ルールは(その本来の意図には賛同できるけれど、)Wikipediaにおける一大欠陥ルールであると思います。--Truesight 2012年1月7日 (土) 19:16 (UTC)[返信]
記事内の記述の必要性について(単独記事の立項基準ではなく)一元的なルールを導入することには強く反対します。Ks aka 98さんがおっしゃっているように、好ましくない波及効果が懸念されます。すでに指摘されている中立的観点やBLPの問題だけでなく、記事の構成や他の記事との分担などを総合的に考慮しなければなりませんから、個々に議論して合意を形成するべきです。もちろん労力と時間のかかることですが、それは協同作業によって百科事典を構築しようというウィキペディアの理念のために必要なコストであると思います。--Trca 2012年1月7日 (土) 21:47 (UTC)[返信]
Truesightさんが懸念したり求めたりしているものの詳細がいまいち掴み切れていないので、ちょっと回りくどい言い方になるかも知れませんが、まず、特筆性と言うルールは、他のルールの「まとめ」的な存在だと思っていまして、その主な主旨はざっくり簡単に言ってしまえば「しっかりした出典に基づいた記述で構成してね」だと思います。つまり、私の言う所の特記性とは、先にも述べた通り他の様々なルールに照らし合わせて臨機応変に与えられるものだと思っていますし、そうで有るならば、大抵の場合は有意な出典が付与されると思います。そして特記性を持った記述(ピース)の集合体が即ち特筆性を兼ね備えている事になるはずだと思うのですよね。ですので、私的には、各記述が3大ルールを踏襲してさえいれば、特筆性なんてルールはむしろいらないと思っています。要は、そんな特記性に関して特筆性を持ち出す人を排除したいと言う旨だと思いましたので、特記性に関するルールを新設するのでは無く、特筆性のルール上に「特記性」と言う言葉を明確に示し、その上でページ全体でのNPOVバランスを示す現状の説明に加えて、特記性は他のルールを踏襲する旨を明記するか、又は特筆性のルールは特記性では無いとはっきり分かる文言だけ入れて、いっその事特記性の説明は削除してしまえば良いのでは無いかと思います。現状では特筆性のルール上に特記性の説明が中途半端に入ってしまっており、更にタームも同じだから、これを同一視してしまって特記性の議論に特筆性を持ち出す人が出て来るのだと思います。 --Toshi999 2012年1月7日 (土) 23:53 (UTC)[返信]
「性善説に立ち過ぎている」あるいは「甘い」、と抽象論ゆえに水掛け論になっているので少し実例を持って聞きたいのですが、坂の上の雲 (テレビドラマ)の記述についても、特筆性という魔法の言葉が横行しているという判断でしょうか?--EULE 2012年1月8日 (日) 02:38 (UTC)[返信]
Trcaさん、POV、BLPなどはその当該ルールに従って審議されるべきものではないですか。特筆性をそのような状況にあてはめて審議するのは誤った手法だと考えます。記事分担やその他云々があるのであれば、その旨意見表明し議論に望めばいいのです。そのような状況で特筆性という文言を使用するのは適切ではないと思います。いみじくもTrcaさんが仰せのように特筆性は種々の状況で用いられる便利な言葉、魔法の言葉と化してしまっている、その状況をなんとかしようというのがわたしの意見です。POV、BLP、またその他の明確な理由であれば建設的な議論の余地があるのですが、特筆性がない、といわれてしまえばどうにも水掛け論に終始する不毛な議論展開としかなりません。なぜならば、特筆性がWikipediaにおいては客観性を要しない特殊なルールであるからです。
Toshi999さん、大凡、わたしのいいたいことはToshi999さんのご理解の通りです。昨晩、Wikipedia‐ノート:特筆性や、その過去ログなどを流し読みしていたのですが、どうも現状の日本語版のWikipediaのルールは英語版のそれとも乖離したもののようです。英語版では特筆性は明確に記事立項に特化したルールとして定められており、記事内容については関知しない、他のPOV、BLP、Vなどのルールを参照せよとなっており、特記性に関する記述はハナから存在しないのです。Toshi999さんの見解はWikipedia英語版のそれと等しいものだと思われ、その見解にわたしも賛同するものです。
EULEさん、ご指摘のケースもわたしがそうだと考えているもののひとつですし、こちらもそうです。ただし、それらが全てではありませんし、適切なテストケースであるとも主張しません。ここではあまり個々の実例を掘り下げて論議しようとは思いません。そういった具体例を扱うことは枝葉末節に捉われやすくし、大局的な観点からの議論が深まっていない現状では徒に議論を混乱させてしまう恐れがあるからです。--Truesight 2012年1月8日 (日) 04:15 (UTC)[返信]
「いみじくもTrcaさんが仰せのように特筆性は種々の状況で用いられる便利な言葉、魔法の言葉と化してしまっている」そんなことを申した記憶はありません。さて、Wikipedia:特筆性#記事内容の特筆性では、立項基準としての特筆性Aと、ここで問題になっている特筆性Bが、同じ語が用いられるものの別の概念であることがはっきりと書かれています。特筆性Aについて議論するのは簡単です。特定の条件を満たす情報源を示せばおしまい。これは単純明快で客観的なルールです。
すでに書いたように、特筆性Bはもう本質的に難しいものです。文献があるかどうかは誰にでもわかることですが、ある情報が記事主題を説明するうえで重要かどうかを判断するには、それなりの知識が必要です。先ほどはそこまで踏み込みませんでしたが、これはPOV等のルールだけに還元できるものではなく、総合的な判断を必要とするものです。ある批判意見をフィギュアスケートの採点法に書くべきかを判断するには、信頼できる情報源の有無に加えて、その批判が採点法をめぐる議論全体のなかでどの程度影響力を持つのか、フィギュアの現状や歴史を説明するために必要なものなのかを判断しなければなりません。
私が血縁選択説を改訂したときには、いろいろな研究を紹介しました。血縁選択説に関する研究は当然もっとたくさんあって、網羅することは不可能です。そこで私は、教科書や総説で言及されている事例を中心に、私なりに取捨選択して記事を構成しました。そのための客観的で単純なルールを示せと言われても不可能です。シロビタイハチクイよりもフロリダカケスの研究のほうが重要だと思う人や、利他的分散は節を立てるほど重要でないと思う人、ヒトへの言及はもっと短くてよいと思う人もいるでしょう。このような取捨選択はPOVやVなどの明快なルールだけでどうにかなるものではありません(参考にはなりますが)。
ですから、特筆性Bに関する議論が大変なのは当たり前のことなのです。特筆性と呼ばないとか、特記性と呼びかえるとか、言葉の問題で簡単になることではありません。どんな言葉に言い換えたところで、単純な客観的ルールに還元できるものでない以上、議論は手間のかかるものになるでしょう。--Trca 2012年1月8日 (日) 06:12 (UTC)[返信]

(インデント戻し)先立つ発言でTrcaさんは、「中立的やBLPの問題だけでなく~」と発言されています。本節は特筆性に関する議論です。特筆性ルールの改訂に話が及んだとき、Trcaさんが上記の根拠を述べ反対を表明されたということは裏を返せば特筆性という言葉は種々の状況で便利に使われている魔法の言葉であるということになりませんか。意図する意図しないに関わらず、Trcaさん自身がそのように解釈している証左ではないかと存じます。わたしがここで述べていることはPOVなどに照らし分量を勘案しようという善意の利用者だけでなく、恣意的な記述削除を目指す利用者や、公平ではない、真摯とはいえない記述に落ち着けようと画策する利用者もまた存在しているということです。前者の善意の利用者の利益を守りつつ、後者の利用者の行為を抑制するにはどうしたらいいだろうか、ということです。またわたしは議論の手間を惜しんでいるのでもありません。粘り強く議論することによって改善が施されるのであれば、迂遠であろうとも全体的に正しい方向に進むプロセスは機能しているともいえ、消極的ではありますが受容します。しかし、上にも書いているように、そのような粘り強い議論を行えば、そのような議論を行っているのが少数であれば少数であるほど、いつまでも納得しないという第二の呪文によって苛まわれる訳です。これでは正しい方向に進むプロセスは担保されません。具体例にはあまり踏むこみたくはありませんが、たとえば、フィギュアスケートの採点法では、現状のフィギュアスケートの採点法がソルトレークシティオリンピックにて発覚した不正を糺すべく公正を期すべく導入されたという華々しい説明があります。これは一方の観点です。しかし、同時にフィギュア界の著名人が現状でも問題ありと発言しているし、米ダートマスの准教授は未刊行であるけれども、経済学の統計手法を用いた分析ではルール改訂後も不正は僅かづつ逐次的に増加しているとの論文を大学のWebサイトで公開しています。これはニューズウィークにも引用され記事ともなりましたし他の論文にもリファレンスとして紹介されているものです。ところが、フィギュアスケートの採点法ではこれを特筆性がないとし記述を拒む勢力が大勢であり、長い議論を経ても一言も記述できない状況となっているのです(フィギュアスケートの採点法では特筆性以外にもさまざまな手法を駆使して記述を妨げる試みが行われているので単純に特筆性問題に帰着できませんが)。--Truesight 2012年1月8日 (日) 08:11 (UTC)[返信]

お望みならば特筆性という言葉を言い換えて特記性なり記載基準なり、好きなように呼べばかまいませんが、それで問題が解決するとは思いません。どんな言葉を使おうと、記載内容の取捨選択が総合的な判断を必要としていて、単純なルールに還元できない以上、話は同じです。再び私が関わった例を挙げると、腕足動物を改訂したとき、箒虫動物をこのグループに含めるというコーエンの意見についてはごく簡単に触れるにとどめ、コーエンが拡張した腕足動物の定義や、それに基づく分類体系を詳述することはしませんでした。コーエンの論文はロンドン王立協会の発行する、権威ある学術誌に掲載された査読付き論文で、数十本の論文に引用されています。WP:VWP:RSに照らせばまったく問題なし。それにも関わらずこの見解を大きく取り上げなかったのは、無脊椎動物学の教科書やデータベース等でこの体系を採用しているものが見当たらなかったこと、他の研究ではこの見解に矛盾する結果を出しているものもいくつかあること、箒虫動物を含めた広義腕足動物の生物学的特徴を一般的に概説するのが困難であること、箒虫動物触手冠動物など他の記事でも触れられることなどを総合的に判断し、少なくとも現時点では、それ以上の紙幅を割くほど「特筆」すべき説ではないと考えたからです。このような判断をするうえでの指針として、Wikipedia:特筆性#記事内容の特筆性にそれほど致命的な欠陥があるとは思いません。
ノート:フィギュアスケートの採点法では、Dwyさんやsergeiさんらによる文献の内容や信頼性の検討が穏当かつ建設的に行われており、Truesightさんが強調するほどに問題のある状況とは感じられません。--Trca 2012年1月8日 (日) 10:09 (UTC)[返信]
たとえば、Trcaさんの上記の例でいえば、コーエンの学説が一切述べられていないとするのであれば、わたしにその知見があれば書き足すことでしょう。何もコーエン学説が全てというような書き方はしません、こういう説もあるよというレベルで紹介します。わたしが目指そうとしているのはそういった行為を妨害する恣意的な観点での編集姿勢の排除です。
こう書くとTrcaさんはコーエンの学説が述べられていなくともそれはそれで構わないとこう仰るかもしれませんが、わたしの意見は、百科事典としては主な観点は網羅すべきであり、取捨選択を行うのは閲覧者という考えですのでVやPOV、RSを覆してまで記載削除を行おうと言う姿勢は許容できません。そしてVやPOVを覆す姿勢というのは基本的にWikipediaの理念からしても許容されるべきものではないはずです。
自然分野の学術記事であれば各々が特定の学説に入れ込み、感情的な編集姿勢が入り込むことは少ないとは思いますが、例にあげたフィギュアスケートの採点法ではどうもそうではないらしく、1年前からニューズウィークをタブロイドであるとか、ニューズウィークの記事は誤訳であるとか、論文には現行の採点法の評価の記載がないという虚偽だとかを申し立てて、記述の削除が行われているのです。これは記述を何が何でも削除しようと考える人物が存在するという証左です(Dwy氏やsergei氏は最近、1、2回発言している程度ですので、少なくとも現時点でフィギュアスケートの採点法においては、ここで述べている「人物」に該当しません)。そしてそのような記事はWikipediaでは山のようにあるのです。こうした人々はさまざまな理由をつけて記載の削除を試みます。フィギュアスケートの採点法のノートを良く読むとそこにはそうした滑稽とも映る種々の試みの残滓がみてとれるはずです。そうしてそれらが論破されたときに最後にこれらの人々が援用するルールがあります。特筆性です。わたしが問題にしているのはそういった意味での特筆性であり、Trcaさんが述べている一般的な意味での特筆性ではありません。このことはこれまで再々述べています。--Truesight 2012年1月8日 (日) 12:50 (UTC)[返信]
逆方向から意地悪な見方をすると、Truesight氏がある記述を何が何でも残そうとし、そのために特筆性に関するルールに手を加えようとしている、と解釈する事も出来なくはない。本当にそうしようとしてるわけではまさかないだろうけど、自分側の意見が当然に妥当だという認識のように見える。提案の是非や個別事案について口を挟むつもりはないけど、議論の姿勢としては自分の意見も第三者的に扱えた方が良いのでないかな。杞憂ならスレ汚し失礼--124.26.234.115 2012年1月8日 (日) 14:40 (UTC)[返信]
私が関わったもので言えば進化では、現在広く認められている理論とその周辺の説明に的を絞っていて、極端にマイナーな異説(ウイルス進化論、構造主義進化論、分子駆動理論、重力進化論、今西進化論、空飛ぶスパゲッティモンスター説その他もろもろ)には一顧だにしておりません。Truesightさんは、これらをすべて無条件に進化の記事に盛り込むべきだとお考えでしょうか。もしそんなことをすれば、記事は散漫で冗長な、読みにくいものになってしまうでしょう。
一部の利用者がルールを間違った文脈で持ち出すからといって、安易にルールを変えようとするべきではありません。自分が関わっているいくつかの議論に片を付けたいがために、多くの記事に悪影響を及ぼしかねないルール変更を提案するのは慎むようお願いします。明らかな虚偽を述べる利用者がいるのが本当ならば、Truesightさんご自身で丁寧に文献に当たり、根拠を示したうえでコメント依頼やブロック依頼を提出すれば、速やかに合意がなされ、いつまでも納得せずに虚偽を繰り返す利用者はブロックされることとなるでしょう。--Trca 2012年1月8日 (日) 14:58 (UTC)[返信]
124.26.234.115さん、いやいや、ご助言ありがとうございます。ちょっとここでの話題に馴染まない具体例に踏み込みすぎた部分がありました。
Trcaさん、そう極端な話を持ってこられても困ります。わたしが論じているのはそういった極端な例でなくとも特筆性を理由に記載拒否がみられるということです。それとそういうことをやる利用者は「確信犯」なのですから正論は通じにくいのです。たとえば、ブロックされても別アカウントで現れたり、IPで現れたりしては別人を騙り、延々と反論を示し続けたりするのです。そりゃ、理想的にはそういった参加者は即ブロックされるのでしょうが、実際はそうもうまくいくもんでもありません。--Truesight 2012年1月8日 (日) 15:17 (UTC)[返信]
私が言いたいのは、検証可能性を満たす事柄をすべて記載することは不可能なので、WP:Vのような明快なルール以外に何らかの取捨選択をする必要が絶対にあるということです。その取捨選択の基準を特筆性と呼ぼうと呼ぶまいと、そのことは同じです。ですから、たとえ特筆性という用語がまったく存在しなくても、「××は些細な事柄であり、この記事に記載するほどの重要性はない」と主張することは可能です。WP:NOTあたりを持ち出すこともできるでしょう。ウィキペディアが不特定多数による共同プロジェクトという理念を持つ以上、悪意を持った利用者の存在は避けられないことです。明確な悪意を持って確信的にやれば、ほとんどどんなルールだって悪用できます。悪質利用者への対処は、本来の記事作成のためのルールを曲げることではなく、悪質利用者を速やかに排除する努力をすることによって行うべきことです。--Trca 2012年1月8日 (日) 15:51 (UTC)[返信]
しかし、Wikipediaの記事には最終版がないのと同様、どのようなルールであれ、改善の余地はあるはずです。中でも、現状の特筆性は最も悪用されるルールであると思っている訳です。わたしはその観点で述べています。Trcaさんがそうした改善を考慮せず現状ルールで努力しようという考えであることは理解しました。--Truesight 2012年1月8日 (日) 16:14 (UTC)[返信]
Truesightさんのご意見には2点において反対します。第1に、記事執筆のための指針であるWP:N#記事内容の特筆性を、悪意を持った利用者への対処のために曲げることには賛成できません。よりよい記事執筆に繋がるなら特筆性ガイドラインの改訂も検討するべきですし、逆に悪質利用者に対処するための方針類(WP:VANDWP:ILLEGIT等)を改善してより速やかに対応できるようにすることも検討に値します。しかし、百科事典作成を目的とするプロジェクトで、記事執筆の指針を悪質利用者対処のために曲げるのは、プロジェクトの本分を見失いかねない行為ではないかと危惧します。第2に、Truesightさんのおっしゃるほどに悪意を持った利用者であれば、WP:Nが使えなくなれば他の方針類を持ち出すだけではないかと考えます。先ほども書きましたが、WP:NOTを引き合いに出してほぼ同様の論陣を張ることもそれほど難しくないでしょう。Truesightさんご自身、フィギュアの記事では特筆性以外もさまざまな手法が駆使されているとおっしゃっていますね。まとめて言えば、有効性に疑問のある悪質利用者対策のために、記事執筆のための指針を曲げることには賛成できないということです。--Trca 2012年1月8日 (日) 17:59 (UTC)[返信]
方針をいじろうという提案であればTrcaさんのご意見は納得できます。方針は完成度が高く、悪用されることもありません(と思います)。しかし、ガイドラインは異なります。今までもガイドラインは改訂されているし、今後も恐らく改定され続けていく性格のものです。これは指針を枉げ続けているわけではありません。そもそも特筆性は未だ草案です。草案であるからには草案である理由がある訳です。確かにWP:NOTも詭弁的な意見で時折見ることはあります。しかし、現状最も幅を利かせているのは特筆性です。わたしは次の点から特筆性の改善を提案しています。
  • 特筆性は他ルールに比べ基準が明確でなく、恣意的な援用を許す可能性がある。
  • 実際に特筆性を援用した詭弁ともとれる論陣が散見される。
恐らく、Nを改訂すればNOTに移行するというTrcaさんの懸念は正しいものでしょう。しかしそれはガイドラインの整備を遅らせる理由にはならないのではないかと思います。--Truesight 2012年1月9日 (月) 04:47 (UTC)[返信]
WP:N#記事内容の特筆性に関して、恣意性を排除するような基準を設けることは難しいし、またそうするべきではないと思います。これははじめに書いたことで、そろそろ議論が堂々巡りになってきました。これ以上の議論は、具体的な改定案が提案されてからにしましょう。--Trca 2012年1月9日 (月) 05:09 (UTC)[返信]
Trcaさんのご懸念は理解できます。ただ、わたしの意見は冒頭に書かせていただいたように特筆性ガイドライン(草案)が本来優先すべき方針WP:POV、WP:Vを駆逐している状況をなんとかしたいというものでこれに変わりはありません。現在は幅広いご意見を賜る目的でこのような発議をさせていただいた段階であり、近々、具体的な改定案の提案に踏み込む予定は、現時点、わたしとしては考えておりません。そういった意味においては主張は異なるとはいえ、ご意見をお寄せいただいたTrcaさんには感謝しております。ありがとうございました。--Truesight 2012年1月9日 (月) 05:35 (UTC)[返信]

ウィキペディアのように対象が多岐にわたる場所においては、ルールは万能ではありません。現行の方針でもガイドラインでも記事ごとに解釈をしうる幅があるでしょう。今回のようにある特定の記事の問題を演繹的に展開し、ルールの不備について井戸端で話し合うよりも、最初からTruesightさんがさしあたって困っている「フィギュアスケートの採点法」という記事に対しての特筆性の扱い方に絞って、議論参加を求めたほうがよいと思います。今回のように特筆性という語句やガイドラインについて議論提起しますと、イメージする例がそれぞれ違ってくるので非常に漠然とした議論となります。現在の議論は特にそうした傾向が強いと感じました。具体例に踏み込むのを躊躇されていたようですが、まずルールがすべての記事に同じように必ず適用されなければならないとお考えにならないほうが良いと思います。当該ガイドラインが「Truesightさんがイメージしている記事の議論において」は、機能していない、あるいは欠陥があると感じていることを、当初から表明されたほうが有意義な議論になると思います。--海獺 2012年1月8日 (日) 16:32 (UTC)[返信]

示唆に富むご意見ありがとうございます。ただひとつ言いたいのは、わたしはフィギュアスケートの採点法のみを問題にしているのではありません。フィギュアスケートの採点法以前にも特筆性の恣意的運用についてはさんざん見てきています。そういった恣意的運用可用性の高いルールは整備されていない証左でもありますし、そういったものに対し改訂の要望を記しておくのもそれなりに意味のあることだろうと思い発議させていただいたものです。ただ、これまでご意見を交わさせていただいた限りにおいては海獺さんのご意見には首肯せざるを得ないものが多々あります。--Truesight 2012年1月9日 (月) 04:47 (UTC)[返信]

私は現在のWikipedia:特筆性の記述内容に再検討の余地はあると思います。ただし私のモチベーションはTruesight氏のそれとはおそらく180度真逆のものです。私は一昨年は日本航空123便墜落事故 、昨年は赤報隊事件の編集に首を突っ込みました。これらを通して感じるのは、現在問題なのはむしろ「出典がある」のみを拠り所に記事主題との関連性の薄い事項や別の記事に加筆すべき事項を何でもかんでも自分が贔屓とする記事本文中にぶち込みたいと志向する人々だということです。この人達は実にやる気満々で、自分の加筆の妥当性をツユほども疑わないどころか、ちょっと記述を整理しただけで、被害者の心情を踏みにじっていてけしからんとか、お前は犯人のシンパかとか、もうめちゃくちゃなことを言ってくるので頭が痛くなります。まさに「特筆性の恣意的運用」で「いつまでも納得しない」このような人たちと議論を継続できる人となると、やはりどうしても限られてしまうでしょう。

ウィキペディアにおける特筆性という言葉は直感的に理解し難いものがあり、非常に混乱を招いてきたと思います。現に、当節の議論はウィキペディアにおける特筆性について理解しているはずの人同士の議論であるはずなのに、話が今ひとつ噛み合わず、特記性だの特筆性Aだのと、新たに用語を定義し直すはめになっています。こうなる原因は、ここでも言及されているとおり、2つの異なる概念に対して同じ「特筆性」という言葉が使われていることと、記事立項における検討条件としての「特筆性」が、辞書に載っている特筆性とは少しニュアンスを異にしていることによると思います。両方の「特筆性」について、より誤解しづらく直感的に意味を捉えやすい別の用語がないか、検討してみる価値はあるように思います。そして、WP:Nにおける「記事内容の特筆性(=特記性、特筆性B)」の解説は、結局のところ「どれぐらい詳細に書く必要があるのか」をどう判断していけばいいのかという疑問に十分に答えられていないように思えます。「特筆性B」の判断が単純な客観的ルールで対応できるものでなく議論に手間をかけることは避けて通れないというtrcaさんの主張はわかるのですが、考え方の基本のようなものをかみくだいて説明したガイドライン的なものが整備されていれば各記事における議論ももう少し楽にならないかとも思います。--Kojidoi 2012年1月9日 (月) 05:36 (UTC)[返信]

うーん。繰り返しになりますが、単独の項目として認められるかどうかの基準としてウィキペディアコミュニティで成文化している「Wikipedia:特筆性」と、記事内の記述をどうするかを考える上での一般的な「特筆性」の話は別であって、記事内の記述について、「Wikipedia:特筆性」を根拠にするとか、改訂するとかというのは、方向が違うんじゃないでしょか。Wikipedia:特筆性#記事内容の特筆性にある「各記述は、その重要性に従って適切な重みをかけて扱ってください。 どこまで詳細に説明するか、記述の量、その記述の目立ち方や同等の記述を書く場合の順番など、記述の重みが偏りがちな点については、その重みのかけ方に注意してください。」は、「中立的な観点」の話です。「ただ、百科事典の記事は、その主題に関する一般的な知識の概要であるということを心に留めておいてください。 可能な限り全ての詳細なものを完璧に説明するものではありません。」は、「何ではないか」の話です。
Kojidoiさんの挙げている、「「出典がある」のみを拠り所に」の例は、検証可能性(の一部)の濫用じゃないですかね。検証可能性や独自研究は載せないなどの方針を広めるなかで、まずは情報源を示そうという形で助言とか批判がなされてきました。それは、秀逸な記事や良質な記事のレベルでもそうだし、削除依頼のようなところでもそう。初期には、「編集方針」にある「他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてください」いうところと、検証可能性の除去できるという記述の間で衝突があった。でも、情報源があったとしても、記事の主題との関わりや中立性や百科事典であることから、書くべきことと書くべきでないこと、表現に留意すべきこと、というのがあって、それらは「何ではないか」や「中立的な観点」、あるいは「存命人物の伝記」を参照する。記事内容の三大方針は、相互補完的な関係にある、というのは、そういうことだと思うわけです。
なお、「特筆性」は呼称を含めいろいろもめてるんですが、基本的には古い英語版の翻訳にベースがあります。以前Wikipedia:特筆性/改善案「収録項目の基準」というかたちの文書を作ったことがあります(議論は長いですが[1]以下。これはnotabilityと名づけられた文書である英語版の方向性を、フランス語版だったかな?で用いられている収録項目の基準という文書名として示すために書き換えたもので、英語版との整合性については、先の場所に議論があります)。単独で存在が認められる基準としての文書なのであって、それを強調するような方針にしてしまうほうがいいだろう、と。単独記事の線引きとしても、分野ごとの特性や、分割によって「単独」では基準を満たせない記事を作ることの可否については、十分検討されていない。
それと別に、記事中の記述として取り上げるかどうか、その量的な多寡は、「中立的観点」と「何ではないか」に基礎があり、法的なあるいは倫理的な観点から「存命人物の伝記」で制限が加えられる。特に中立的な観点は、文書としてわかりにくいというのはあるでしょうから、ガイドラインとして包括的な文書を作るとか、プロジェクトレベルで線引きをしていくというのは(難しいと思うけど)考えられると思います。--Ks aka 98 2012年1月9日 (月) 07:10 (UTC)[返信]
私の認識も概ねKs aka 98さんと同じなので、認識にかんする話は割愛させて頂いて、もうちょっと突っ込んだコメントをさせて頂きます。Kojidoiさんが指摘する辞書上の特筆性とWikipediaで言う特筆性の意味がちょっと違うと言うのはまさにその通りで、Notabilityの単語に振り返れば、むしろこれは「特筆性」と言うよりも「単独立項可能性」と言う事で、勝手に日本語を作るとすれば「立頁性」とでも言った方が適切だと思います。
現状の特筆性のルールでは、全体的には立頁性の説明になっており、その中の一部に特記性の説明として「このルールは特記性の為のルールでは無いが、時に特記性は重要度(つまり辞書で言う所の特筆性)と言う意味で特筆性と呼ばれます」的な説明が入ってしまっている。そしてそこでは確かに、一般的に言う所の特筆性に基づいて記述量を調整しろと言ってる様に見える。そして、TrcaさんやKojidoiさんは、ここを根拠に「なんでもかんでも書きたい人を排除したい」と言ってる様に見える。更に、なんとなく前後の立頁性説明の虎の威を借りたニュアンスも根拠に含めてる様にさえ見える。(特記性の説明だけでは記述を矮小化させる根拠にはなっても、排除する根拠に成りきれていませんから、排除を強弁するには虎の威を借りるしか手段は有りませんので)そうすると、Truesightさんからしてみれば「まさにそれが問題なんだよ!」と言う話になる。と言う方向に議論が流れている様に、少なくとも私には見えてます。(だから噛み合っていない)
ぶっちゃけた話をすれば、私は論争の無い記述に関しては執筆者の裁量で記述を排除する分は一考に構わないと思っていますが、少なくとも論争が有る記述に関しては、出典基準を満たしている限り量的なNPOVバランスを考慮しつつ両論併記すべきで有ると思いますし、ルール上もそれを斡旋してるのでは無いかと思ってます。ピースとしての記述(つまり特記性)に関しては、何度も言うとおり、3大方針を踏襲し、必要に応じて他のルールを総合的に判断し、更に現状の特筆性の説明に有る重要度(辞書で言う所の特筆性)を加味してNPOVバランスを考えて記述する。それでいいんじゃないですかね?
そして、そこにコンセンサスを得られるならば、現在の特筆性のルールの文言や特記性に関する説明の見直しなどは一向にTrcaさんやKojidoiさんに不都合を与えないとも思うのですが、どうでしょう? --Toshi999 2012年1月9日 (月) 17:23 (UTC)[返信]
追記:Kojidoiさんの言う所の関連性の低い記述をしたがる輩に付いては、これは明確な基準を示すのは事実上不可能だと思います。個人の温度差が激しくなりそうで、個人的には辞書で言う所の特筆性(つまり一般認知度や注目度)を基準に合意を目指せれば確かにスッキリ出来る気もしますが、現状のWikipediaのルール体系では例えばぐぐった検索結果とかで注目度を立証する事などは受け入れ難い所ですので逆に現状の特筆性内特記性説明を拠り所にしたいとなる。と言うのは非常に理解出来ます。が、現状のルール体系ではKs aka 98さんも仰ってますが、やはりWP:NOTWP:NPOVなど総合的な判断で合意を目指すしか無いんじゃないかなと思います。(もしかするとプロジェクトによっては一定の基準を定められるケースも有るかも知れませんが) --Toshi999 2012年1月9日 (月) 18:14 (UTC)[返信]
Toshi999さんのご意見が、少しでも論争があれば必ず少しは言及しなければならないということであれば、強く反対します。進化のような大きなテーマの記事を大混乱に陥れる可能性が非常に高いです。もちろんNPOVは大事ですし、記事は議論と合意に基づいて執筆されるべきです。議論の結果、少しは言及するべきだと合意されたなら、当然少しは言及するべきです。ですが、議論と合意の結果として、ある見解をまったく取り上げないという選択肢も残されているべきだと思うのです。ルールの変更が、「取り上げないという合意を形成する」ことの妨げになることを危惧します。
これも私が関わった案件ですが、ノート:科学における不正行為では、ある文献の意見を取り上げるか否かで論争になりました。私は、文献自体は形式的にはWP:RS等を満たしているものの、試論的な性格が強いことを著者自身が認めている意見を取り上げるべきか疑問であることを理由に記載に反対しました。議論はかなりこじれたものの、最終的には言及しないことで一応の合意に達し、この文献について現在の記事ではまったく触れていません。Toshi999さんの提案されるようなルールができることで、「論争があるのだから少しは書かなければいけない」となってしまうのが心配です。
(追記)これを書いている途中で、ちょうどToshi999さんの追記が投稿されました。記事内容の取捨選択が総合的な判断しかないというのは私がはじめから繰り返していることで、完全に同意します。だからこそ、論争があれば必ず記述しなければならないというような、一元的な基準を設けるべきではないと主張しているのです。--Trca 2012年1月9日 (月) 19:13 (UTC)[返信]
一つ私の言葉足らずで誤解を招いてる気がしましたので補足致しますと、追記以前の私のコメは「関連性が担保されている前提」です。そして追記は「関連性が有る無しに関して」です。前者について、論争を無視して記述の排除を推進するのは、明らかに、WP:NPOVに反する行動に思えます。と、ここでまたぶっちゃけた話なのですが、この辺もケースバイケースだとは思うのですよね。例えば科学分野で、有る非常識な参加者が「これは論争が有るんだ!」と主張して、常識的にどう考えても似非科学だろう?みたいな主張を両論併記しろなんて主張は当然却下されるべきだろうと思いますし、そういう場合はコメント依頼などで科学に明るい議論参加者を集めれば、当然、非常識な参加者が浮き彫りとなり、コメント依頼やブロック依頼などへ持っていける。また、似非科学では無く、ちゃんとした科学であり、更に信頼出来る情報源も担保出来ているのだけれども、余りにも主流派からかけ離れた突飛な新説などに関して、仮に論争が起きた時にスムーズに「これいらないよね」と合意が取れるなら、それはそれでいいとも思います。しかし、合意が難しく議論が紛糾する位なら、それはやはりWP:NPOVに則って両論併記をデフォルトと考えるべきだと思います。そしてその様なやり取りは、現状の特筆性の文言の見直しや特記性の説明の見直しによって影響を受けるべきものでは無く、WP:NPOVの話であるとKs aka 98さんも言ってる様に見えますし私もそう思ってます。--Toshi999 2012年1月9日 (月) 21:32 (UTC)[返信]
もしToshi999さんのおっしゃりたいことが、「論争があり、合意が得られていない場合に記述の除去を強行してはならない」というだけのことであれば、それはWP:NでもWP:NPOVでもなく、WP:DR等の問題です。論争中の編集強行が推奨されないのは当然で、それだけのことを言うために現行方針を変える必要はありません。もしさらに踏み込んで「合意が形成できずに論争が続いていても、記述の追加を強行してよい」「論争が紛糾した場合に、除去支持の意見を主張し続けてはいけない」というルールの制定を意図しているのであれば、強く反対します。それ以外の意図であれば、たたき台でもよいので、そろそろ具体的な変更案を提示していただかないと、建設的な議論が難しい段階に入っていると感じます。--Trca 2012年1月9日 (月) 22:58 (UTC)[返信]
やや傍論のような気もしますが。「(執筆者間で)論争があり、合意が得られていない場合」に何をするべきかと言うと、合意を目指して対話をするべきであって、「記述の除去を強行してはならない」と同時に、「記述の復帰を強行してはならない」です。どちらの編集を行なうにしても、保護ないし双方のブロックに導かれます。
「常識的にどう考えても似非科学だろう?みたいな主張」であっても、一定の影響力があれば、排除するべきではないですよ。説の存在だけではなく、それが取り上げられている情報源を示し、疑似科学だということがわかるように、配分を考えて書く。説の存在しか示すことができないのならば、ある見解をまったく取り上げないという選択肢は当然含まれるでしょう。--Ks aka 98 2012年1月10日 (火) 04:02 (UTC)[返信]
いまいち話が噛み合いませんね。論争中の強行編集はどの様な場合でもダメだと言うのはデフォルトだと思っておりますので、そこは議論に含めていません。
また、「「論争が紛糾した場合に、除去支持の意見を主張し続けてはいけない」というルールの制定を意図しているのであれば」に関してまして、意図も何も既にWP:NPOVで制定されているのでは?と申してるつもりですし、一義的には両論併記すべきだと書かれていると思います。(だから両論併記有りきをデフォルトで考えるべきだと申し上げました。) もちろん何事にも例外は有りますし、それ以前に合意至上主義である事を鑑みれば、記述の除去の提案を妨げる物では無い事は先の「ぶっちゃけ」で例に挙げた通りです。(但し、この例自体もKs aka 98さんご指摘の通り、例外は常に有り得ます。) そしてこれらの話は全てWP:NPOVの話で有って、特筆性とは関係ないはずだと申し上げているのですが、いかがでしょうか。そしてTrcaさんに限らず、やはり現状のWP:N#NCONTENTの説明はWP:NPOVWP:NOT等の話とWP:Nを混同させやすい説明になっているのだと言う事の証左なのでしょう。
--Toshi999 2012年1月11日 (水) 03:50 (UTC)[返信]
おっしゃる通り、論争が紛糾した場合には編集の手を止めて合意を目指すべきであり、「デフォルト」では、どのような編集も行うべきではありません(BLP案件の場合には、論争中に一旦除去するべきケースもありますが)。したがって、論争が紛糾した場合に「デフォルト」で編集すべき内容などあるはずもないのです。これはWP:NPOVの話ですらありません。--Trca 2012年1月11日 (水) 10:48 (UTC)[返信]

◆たった三日でこれだけの分量ですか。連休は怖いですねぇ。今更になって意見を書いても良いものか否か悩むところではありますが………

このような状況が現出している状況について改善が必要であると考えるのですが
もしもその「改善」というのが「ルールやガイドラインの新設や改定」を意味しているのであれば、不要である(むしろ害になる)と考えます。現行の多岐に渉るルールの一部を取り沙汰すことで他のルールに関してルール違反を犯す者に対抗する為の新しいルールを設けることは、「ルールの一部を取り沙汰すことで他のルールに関してルール違反を犯す」ことをより容易に(=事態の悪化を助長)するからです。ルールを悪用する者に対して、さらなる悪用手段を与える意義を見出せません。
方針であるWP:VやWP:NPOVはガイドラインに優先するにも関わらず
この場合の「優先」とは「特筆可能性があっても、検証可能性や中立的観点に反する記述は許されない」という意味であり、「検証可能性や中立的観点に反しないならば、特筆可能性の無い記述が許される」ではありません。ついでに言うと、この(立項基準ではない)場合に於ける特筆可能性とは要するにWP:5の最初の柱に由来するものであり、優先順位としては他の柱であるWP:VWP:NPOVに等しいものと考えます。
特筆性が無い~~客観的な基準は要求されません~~恣意的な観点に左右される
百科事典に相応しい記述であることの客観的な基準が存在するのであれば、特筆性の有無に関する客観的な基準を設けることが出来るでしょう。立項基準に限ってではあるがそれに挑戦し相応に認められているのがWP:Nではありますが、それでさえ各分野別に分かれ異なる基準が設けられるに至っている状況下に於いて、一般的汎用的に特筆性の有無に関する客観的な基準を設けることが可能であるとは到底考えられません。
その通り、全ては恣意的な観点に左右されるのです。だからこそ中立的な観点を構築する為に対話を行うことが重要なのです。相手が対話拒否を行っていることは問題でしょう。ですがだからと言って、こちらも対話せずに解決を可能とする方法を模索しようとするのであれば、それは同じ穴の狢と言うものです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2012年1月10日 (火) 01:33 (UTC)[返信]

コメント 別の場所で、しばしばTruesightさんやToshi999さんとお会いしたことのある者です。どのような場所でお会いしたかと思い出しますと、たとえば、“平清盛 (NHK大河ドラマ)‎”や“キム・テヒ”などだったと記憶しています。前者は、当時まだ放映されてもいなかった大河ドラマの記事内に、政治団体の人の批判的主張を掲載しろというものでした。後者は、特に政治的志向があるとも思えない若手女優の経歴中に、実態不明で本人の関わりもはっきりしない領土キャンペーン記事を大々的に書けというものでした。先ほど拝見したところ、“坂の上の雲 (テレビドラマ)”は、平清盛と類似の構図でしょうか。これらから、論争になりがちな傾向を推定すると、①芸能人・スポーツ・マスコミを主題とする記事を対象に、②政治的主張や政治的行動を大きめの扱いで記述することを要求する執筆者と、それに何らかの抵抗を示す執筆者がいるということです。そこでしばしばキーワードとして「特筆性」が使われたということであって、本来の意味での「特筆性」が俎上に上がっているのではないと思います。その点を素通りして「特筆性」一般の話として考えると、論点を見失います。個別の議論で陥りがちなパターンを挙げておきますと、このようなものです。

  • 番組○○に対して、△△さんが、「××」と批判している。出典があるから掲載させろ -- という意見
    • これに対して、「それには特筆性がない」 -- と抵抗する意見
  • △△さんの意見を掲載すると中立性が損なわれる -- と抵抗する意見
    • ならば△△さんの意見と反対の意見を両論併記すればいいじゃないか -- という意見
  • 出典の信頼性に疑問がある -- と抵抗する意見
    • 芸能情報の出典の基準は他の記事よりゆるくていいじゃないか -- という意見
      • 内容が芸能活動ではないのでそれはおかしいし、信頼性の異なる出典を合成するのは不適切 -- と更に抵抗する意見
  • 主義主張系の出典は適切ではないのでは? -- と抵抗する意見
    • そういう主張があるという事実を示すべき -- という意見

--これを延々と繰り返していくと誰もが疲弊するわけです。特に、もともと政治的主張にあまり関心がなくて、芸能人やドラマ等にのみ関心のあった執筆者は、そうした状況が続くと嫌気がさしてきます。中には、我慢できなくて、やや粗暴な振舞に出て無期限ブロックの憂目を見た人もいます。私自身の意見としましては、『①芸能人・スポーツ・マスコミを主題とする記事を対象に、②政治的主張や政治的行動を大きめの扱いで記述すること』は、(その芸能活動やスポーツの本質に不可分に関わる問題であればまた別ですが)百科事典であろうとするWikipediaに寄生して政治的主張を行うことであり、目的外利用の一種ではないかと思います。百科事典の編集方針内部の問題である「特筆性」とはレベルの異なる議題です。目的外利用を推進しようとしたところ「特筆性」を楯に抵抗されて邪魔されたから、「特筆性」を言わせないようにしてくれ、というのが議論の発端なら、それはとんでもないことです。--すたすた坊主 2012年1月10日 (火) 03:48 (UTC) --すたすた坊主 2012年1月10日 (火) 03:50 (UTC)(typo)[返信]

こんな暴言が許されるのでしょうか。--Truesight 2012年1月10日 (火) 12:09 (UTC)[返信]
傍から見ている限りでは、Truesight氏の発言の方が「敏感に過ぎる」ように思えます。すたすた坊主氏の記述には主語が欠けている所為もあり、私は「個人攻撃をしたいのか一般論なのか傾向分析なのかよくわからんな」と思いながら読み進めました。そのまま「政治的主張だ」と(内容的に飛躍して)結論付けているのを見て「思い込みの激しそうな人だな、話半分四半分半値八掛け二割引で聞いておいて関わらないようにしておかないと後で面倒な目に遭わされるに相違無い」と判断しました。それに対してTruesight氏は「(恐らくはTruesight氏に対する)暴言」だと判断したわけですが、傍から見ている者は「すたすた坊主氏の記述に欠けていた内容」を推測する為にTruesight氏がどう反応したかも判断材料のひとつにするものです。そして私はTruesight氏が「この人何言ってるの?」と反応しなかったのを見て「すたすた坊主氏の記述内容にはそれなりの妥当性があったのだろう」と判断するに至りました。それはTruesight氏の望むところではなかったはずです。
またTruesight氏は確かに「こんな暴言が許されるのでしょうか」と思ったのかも知れませんが、それをそのままそれだけを書くのもどうかと思います。悪名高き2ちゃんねるでさえ、書き込む前の注意事項に「頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性があるので、注意しましょう。」とあり、その頭のおかしな人の判定基準の一つとして自分の感情だけ書く人を挙げています。2ちゃんねるでは「放置してあげてください」で済む話ですが、対話を旨とし中立的な観点を目指すWikipediaでは放置するわけにはいきません。だから「なにかと面倒なこと」が起こり、今此処でこうしているように井戸端に持ち込むに至ってしまったのではないでしょうか。その要因の一つにはもしかしたら、Truesight氏の対応の拙さがあったのかも知れません。相手にも非はあるのかも知れませんが、相手に非がある事実はTruesight氏に非が無いことを示していません。私自身は、井戸端に持ち込んで議論を始めているあたりで既に「対応の拙さ」を発揮しているのだと判断しています。
世界最狂の魔法使いCray-G 2012年1月11日 (水) 03:23 (UTC)[返信]
まぁ、私は過去にすたすた坊主氏と井戸端で周りを省みない議論を起こして皆様に迷惑を掛けた過去が有りますから、すたすた坊主氏による議題から外れたコメントには直接的に返信を付けるつもりは有りませんが、氏のコメントが一般論としてならば、議論参加者を名指ししたり該当議論箇所を示さなくても十分に語れる内容で有るにも関わらず、敢えて私とTruesight氏を名指しし、該当議論箇所を示した上での話ですから、これはもう一般論では無く個人攻撃である事は明白だと思いまして、であるならば、コメント依頼で話すべき内容であって、やはり議題から外れた目的外利用だと思うのですが、しかしながら、すたすた坊主氏は既に幾つもの私やTruesight氏に対するコメント依頼を出しており、そこでご自身の意見に沿うコメントを貰えないからと、この様な場でも印象操作的な話を持ち出すのだろうと思いますれば、私としましてはスルーかなと思っておりますが、しかしながら、事実に沿わず根拠もまるで示せていない誹謗中傷とも思える印象操作はこれが初めてでは無く、あっちこっちで展開されております故、万が一、その言を信じる人が出てきたり、または「ルールをどうすべきか」と言う議題から外れて「この利用者の参加姿勢はどうなの?」と論点をずらされる議論参加者が出ないとも言い切れません事を考えれば、非常に迷惑な話で有りますから、Truesight氏の様に、該当の印象操作箇所に対して一言程度はまぁ、有っても宜しいのでは無いかと言う気も致します。ご自身の望むコメントを得られるまで印象操作を繰り返す姿勢はWP:POINT違反で有ると他所で既に指摘済みなのですが、ご理解頂けない様で非常に残念です。尚、このコメントはすたすた坊主氏への返信では有りませんから、氏におかれましては、このコメントに返信しないで頂きたいなと申し添えます。私もすたすた坊主氏のコメントに付いてはこれ以上言及致しませんので。--Toshi999 2012年1月11日 (水) 09:36 (UTC) 追記:書き忘れていましたが、私のこのコメントはいつでも第3者によってノート移動して頂いて構いません。--Toshi999 2012年1月11日 (水) 09:39 (UTC)[返信]
私はすでにこの話題の中で出てきているフィギュアスケートの採点法のページでTruesightさんにあらぬ疑いをかけられており、第三者的コメントとは言いがたいかもしれませんが一言。Truesightさんの行動は、自分の意に沿う意見を記載し宣伝したいものの、その出典が現在のWikipediaの(Toshi999さんの言葉を借りれば)特記性のデファクトスタンダードには適わず、今のままでは記載は難しいため、ルールそのものを変えろと要求しているように見えます。
余談ですが、そもそも当該ページでTruesightさんがいうような問題が発生しているようには感じませんし、私の感覚からすれば「なぜAなのか?」と聞かれて「Aだから」と答えるようなやり取りを延々くり返して相手の疲弊を待つTruesightさんのほうがちょっとどうかと思います。またTruesightさんはブロックからそこそこ時間がたっている状態でいまさら、LTA:Kuloleなる記事を用い、Kuloleさんと同じISPと地域であることが疑われるなどと称し、(私含む)神奈川DION利用者の言論を一切封殺しようとするかのような行動を取っています。--210.230.133.183 2012年1月11日 (水) 16:08 (UTC)[返信]
LTA:Kuloleについてのご意見はそちらへどうぞ。--Truesight 2012年1月12日 (木) 03:37 (UTC)[返信]

さて、いまひとつ発議の主張についての誤解がみられると思うので述べておきます。今回、発議に至った理由は、多くの記事、議論においてNPOVの侵害が特筆性を理由としてみられるのではないかということです。これは、わたし自身の編集方針が包摂主義であり、主題に対する賛否両論いずれもVを満たす限りNPOVに配慮しおこなわれるべきであるとの考えからでたものです。POVやBLPなどを理由に、NPOVに配慮した分量での記述にとどめよ、という意見であれば、それは理解できるものであり、考慮すべきものです。しかし、ここで問題としているのはそういったことではありません。問題は、V、NPOVを満たした記載について、特筆性を利用した記載拒否がみられるということなのです。記載拒否というのは字義どおり一言の記載をも認めないということです。また、NPOV、BLPなどを担保するために特筆性のこういったグレーゾーンを維持すべきであるという論がみられますが、NPOVやBLPなどを担保するためのルールはNPOVやBLPです。特筆性ではありません。 英語版では記事中の内容の特筆性(特記性)についてはNPOV、BLPなどを参照せよ、とされており、特筆性ルールの中では扱っておりません。--Truesight 2012年1月12日 (木) 03:37 (UTC)[返信]

それは特筆性があることを相手にも理解出来るように説明し対話することで解決すべき問題であり、ルールを設けるべき問題ではないと考えます。もしも「どうあってもルールを設けなきゃヤだ!」とおっしゃるのであれば、ルールの概案ぐらいは提示して戴かないことにはどうにもならないと思うのですが。今までどうにもならなかった問題なのですから。ちょうど先日、この井戸端で「提案」という体裁を装った「要求」という表現を見掛けましたが、現状のTruesight氏がまさにそれなのではないかと。
NPOVの侵害が特筆性を理由としてみられる
見られるでしょうね。そのようなルールの一部を取り沙汰すことで他のルールに関してルール違反を犯す者の抗弁の機会を増やし議論を混乱させ利便性を与える意義が見出せません。
問題は、V、NPOVを満たした記載について、特筆性を利用した記載拒否がみられるということなのです
みられるでしょうね。ですが問題は、V、NPOVを満たしていれば何を記載してもいいわけではないことかも知れません。その記述に特筆性があることを説明してもなお、相手が聞く耳を持たないのであれば、Truesight氏の説明に如何なる不備があるのかをコメント依頼なり此処井戸端なりで質問し、改善して改めて説明するべきなのではないでしょうか。それでもなお相手が「ルールの一部を取り沙汰すことで他のルールに関してルール違反を犯す」つもりであるのであれば、さらに先のステップへと進むことになると思います。
世界最狂の魔法使いCray-G 2012年1月12日 (木) 04:45 (UTC)[返信]
なるほど。ただですね、わたしはルールの改善を求めているのであって、それはやり方次第だと思います。改訂にはCray-Gさんが仰るようにリスクが付きまとうとは思いますが、リスクを恐れ、ノーリスク、ノーリターンに甘んじるのでは物事は進みません。具体的に、このようにすれば良いという確定的な文案は持っていません。基本的には、ここはその前段階的にあたり、Cray-Gさん含め、皆さんにご意見をお寄せいただいている場だと考えております。
ただ、上にも書きましたように、ルールをプラスするのではなくマイナスすることでも改善は見られると思います。具体的には英語版にあるように特筆性ルールでは特記性については規定しないということです。恐らく、Cray-Gさんを含め、否定的なご意見を持つ方が一番おそれられているのは、有害な条文を付け加えリスクを助長する結果になるということだと思いますが、いってみれば、今がその状態にあるのではないかと。英語版のように特筆性では特記性を述べないことで悪用(誤用)も減らせるんではないかと。また具体例というと、全面的な賛成ではなく、細かいところの精査もできてませんが、Ks aka 98さんが挙げておられるWikipedia:特筆性/改善案「収録項目の基準」は英語版のエッセンスを取り入れた案であり現状よりも良いように思えます。--Truesight 2012年1月12日 (木) 05:28 (UTC)[返信]
《具体的には英語版にあるように特筆性ルールでは特記性については規定しないということです》ですが、現状の「Wikipedia:特筆性」でも同様になっていますよ。--iwaim 2012年1月12日 (木) 05:42 (UTC)[返信]
まぁそうなんですけど、要はWikipedia:特筆性#記事内容の特筆性Wikipedia:特筆性/改善案「収録項目の基準」#記事の内容についてのようにした方が良いのではないかということです。英語版の特筆性[2]もあわせて読んでみて貰えると現状の特筆性ルールのニュアンスが少し違うというのがお分かりになるかと思います。--Truesight 2012年1月12日 (木) 06:01 (UTC)[返信]
わたしはルールの改善を求めているのであって
はい、それはわかっています。「俺にはどう改善すればいいのか考える気は無いが俺が書いた内容が消されることを俺が止められない現状は問題であるのでお前等が考えて改善しろ」と言っているわけですよね。
それはやり方次第だと思います
そりゃ何だってやり方次第です。世の中に「やり方次第」ではないものの方が少ないでしょう。それを、その「やり方」が何かは知りません、ではあまりにも無意味な指摘ではないでしょうかね。
リスクを恐れ、ノーリスク、ノーリターンに甘んじるのでは物事は進みません
俺は知らんからお前等考えれ、とネダるだけでは物事は進みません。実際、開始から此処まで(Truesight氏が単にルール改変を望んでいるだけだということが判明した以外には)何も進んでいません。
せめて、Truesight氏の論敵がどのような反論(論理構造)により抵抗しているのか、どのような理由でそれに抵抗仕切れないのか、を纏めるぐらいしてみては如何でしょうか。
ここはその前段階的にあたり
「前段階」にすら至っていないように見えます。全体的に
  1. 問題の発見
  2. 問題の分析
  3. 原因の仮定
  4. 原因の追究/検討
  5. 改善策の出案/検討
  6. 改善策の採択
  7. 改善策の実行
と言った流れになると思いますが、私の見るところだと現在は2.をすっ飛ばして3.で意見が分かれている状況です。意見の一つはTruesight氏の「特筆性が無いと主張するには出典などの客観的な基準は要求されないことが原因である」であり、他方はKs aka 98氏の言葉を借りると「中立的観点などを参照し、議論参加を促すためのコメント依頼を出したりしながら、情報源を示すのと同時に、どういうふうに書けばいいかということについて対話を行なうことが不充分であることが原因である」です。
然るにTruesight氏の目的はルール改変であり、その為には前者でなければなりません。が、「他の人(例えば私)」には特に目的らしい目的は無く、単に(その他の多くの問題と同様に本件も)後者が原因なのだろうと何となく思っているだけです。Truesight氏は目的の為に「他の人(例えば私)」を説得し理解を得なければならないわけですが、残念ながら2.に於ける分析が成されていないので、説得力のある論拠を挙げることが出来ていません。なので「他の人」からは理解を得られず、故に協力的な態度を得ることが出来ず、それどころか「他の人(の一人である私)」から子供のわがまま呼ばわりまでされているのです。
ルールをプラスするのではなくマイナスすることでも改善は見られると思います
改善の可能性は常にあります、何をしてもしなくても。その当然の現実を単に指摘するような無意味なことをする前に、そう思う根拠を「他人が理解出来るように」説明する必要があるのではないでしょうか。客観的である必要も厳密である必要も修辞的である必要も長文である必要もありません、相手に理解出来ればいいのです。それが対話です。
案を出せと言うのも、その案を出した背景にその「根拠」があるからです。その「根拠」に基づいて案が出されるからです。例えTruesight氏にその「根拠」を説明することが出来なくても、案を見ればTruesight氏の「根拠」が推測出来るからです。その推測の分だけ話が進むのです。なのに説明もしない案も出さないまま目的(ルール改変)だけはしっかりと持っていてそれにそぐわない意見には「皆さんにご意見をお寄せいただいている場だと考えております(キリッ/それはやり方次第だと思います(キリキリキリッ」とか言うものだから、私みたいな口の悪い輩から「だっておwwww(バンバン」と言われてしまっているのです。
ルール改変結構なことです。ですが対話不足を棚に上げて論敵を意見封殺する為のルール改変ならば認めることは出来ません。そうではないことを「他人が理解出来るように」説明して下さい。その程度のことすら此処で出来ていないのに、議論の場ではちゃんと「他人が理解出来るように」説明出来ている対話は充分である論敵を意見封殺する為のルール改変ではないと主張だけは一丁前にされても、信じることが出来ません。
本件は数多くのウィキペディアンの多大な努力を要してなお解決がされていない重大な問題です。改善は誰もが望むところです。その為にルール改変が必要なら反対する者はこの場には居ません。問題は、それが「本当に必らず要るのか?」という疑問をTruesight氏が取り払ってくれないことです。或いは「他の方法で改善が可能であり『必らず』ではないにせよ、より効率が高く他の重大な問題が付随しない方法である」ことを示すことでも説得は可能でしょう。誰もが改善を望んでいるのですから。なのにTruesight氏はそれすら「やり方次第だと思います」とか「ノーリスク、ノーリターンに甘んじるのでは物事は進みません」などと言ってそれすら示そうとしません。
私には、Truesight氏がルール改変にこだわることが不自然に見えます。その不自然さは私の理解不足に拠り「対話不足を棚に上げて論敵を意見封殺することが目的だからなのではないか」という疑念を呼んでいます。理解させて下さい、対話によって。この場の誰もがそう望んでいるに相違無いと私は信じています。
蛇足になりますが、
要は~~のようにした方が良いのではないかということです
そういうことなら井戸端で騒がずにそちらでどうぞ。真面目に書く前に気付けなかった己が注意力の無さを呪うばかりです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2012年1月12日 (木) 13:58 (UTC)[返信]
まぁCray-Gさんが絡んできたときから嫌な予感がしてたのですが案の定といったところですね。もう少しなんとかならないもんですかね、そのように悪意に捉えられ一方的に詰られるような提案をした覚えはないのですが、これでは議論を継続する意欲がなくなってしまいます。大体、意気揚々とはりきっておられるのは結構ですが、もう少し読み手のことを考えてコンパクトにお願いしますよ。ところどころ散見される個人攻撃も相俟って全部読む気にはなれません。--Truesight 2012年1月12日 (木) 16:07 (UTC)[返信]
追記)まぁでも何にしろ率直な意見が寄せられるのは喜ばしいことです。意欲が復活すれば、そのうち上の見解についても分析してみようと思っています。--Truesight 2012年1月12日 (木) 16:19 (UTC)[返信]
追記2)もう少し言えば、わたしはこの場でCray-Gさんのフローにおける1、(及び付随する2.3.4)あたりを主として論じているつもりです。5以上はそれらの議論の後で十分です。いきなり5以上を求められてもそれは無茶というものです。--Truesight 2012年1月12日 (木) 17:58 (UTC)[返信]