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Wikipedia:井戸端/subj/文学作品の記事のネタバレについて

文学作品の記事のネタバレについて

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文学作品の全体的なあらすじの記述の是非についてコミュニティの意見を求めたいと思い、このトピックを投稿させて頂きました。

議論のきっかけは、IP122.26.95.13 氏の行った記事坊っちゃんのあらすじの大幅な削除と、私の行った差し戻しです。 [1] [2]

以下は先行する関連議論です。

上の会話ページでも述べていますが、私の意見の主旨は、簡潔にまとめられた作品のあらすじ紹介は文学作品の記事には必要な物であり、そういった情報を求めてくる読者に対して、ウィキペディアは適切な量のあらすじを提供すべきである、というものです。

なお、私も、だらだらと何十行にもわたって作品の内容を書いた冗長なあらすじや、ほとんど筋書きと無関係な些事をいちいち取り上げてるあらすじや、推理小説の記事で事件の真相だけをそのまま書いているような、「ネタバレのためのネタバレ」を擁護するつもりはありません。

しかしながら、『坊っちゃん』のような有名な文学作品の記事には、この程度のあらすじはあっても構わないし、むしろ必要であると私は思います。また、仮に『坊っちゃん』で行われたような大幅なあらすじの削除を全ての文学作品の記事で認めてしまうと、ウィキペディアの文学作品に関連する記事の多くが、その情報価値を大きく失ってしまうのではないかと思います。--Kasuga 2008年11月12日 (水) 16:31 (UTC)[返信]

果てしなく詳しく筋を書くというようなことは前提として否定されたものとして書きます。
作品との初見の楽しみを奪われたくないのだったら、百科事典や解説本などの当該項目を見るべきじゃないのです。当該IPさんの削除におれは同意しませんし、もしWikipediaにどこまで書いていいかについての議論をやろうということならばアカウントを取得して議論主体の同一性を保障した上でやるべきでしょう。
とりあえず結論としては、当該IPユーザさんの主張は無視・否定して良いものと思います。現状のWikipediaにおける文学作品などの記述を全否定するような必要は出てきていないものと考えます(ただ、だからって野放図なだらだらと長いだけの筋紹介などを是認するものではありません、と最後にもう一度書いておきます)。--Nekosuki600 2008年11月12日 (水) 16:42 (UTC)[返信]
個人的には、小説本編を読んでみたいと思えるような記事が理想なので、自分で記事を書く場合、基本的にネタばれはしません。記事全体の構成のなかで各節にどれぐらいボリュームを持たせるかというバランスの問題もあるので、一概にはいえないのですが、あらすじを書いてしまうと作品そのものを読む楽しみや意味が失われる場合があると思います。とくに短編や中編など尺の短いものについては、プロットそのものが作品の生命線であることも多いので、内容の書きすぎには注意が必要ではないかと思います。ものによっては、設定や時代背景などにとどめて「あらすじ」は書かないという配慮も必要でしょう。長編であっても、展開がわかった方がいいかどうかは作品の性質ともかかわってくるでしょう。私が過去に投稿した『ダルタニャン物語』をごらんいただければ、と思います(こんなこと書くと、やたら詳しいあらすじが加筆されそうでコワイですが)。
そういう立場からすると、現坊つちやんの「あらすじ」は詳しすぎると感じます。とはいえ、連続冒険小説ではないので「坊ちゃんの運命やいかに!」も支持しません。結末まで書くな、ということではなく、単にストーリーを追うのが記事の役目ではないように思うからです。例えば、この記事でも「作品解説」の節で物語のラストがかなりネタばれしているわけですが、これは作品の説明上必要な記述で、むしろ避けて通ってはいけないだろうと思います。で、手を入れるなら「あらすじ」や登場人物のようなところばかりでなく、作品の位置づけ・評価や影響、掘り下げを、ウィキペディアの方針に則ってやってもらいたい、というのが希望ですね。残念ながら、この解説も現状ではだれのものなのか、なにを参考にして書いたのかわかりません。--みっち 2008年11月13日 (木) 11:31 (UTC)[返信]
私も、今の記事坊っちゃんのあらすじは三分の二から半分ぐらいの文章量に縮められると思います。少なくとも、今のあらすじにある「(厳密にはイナゴ)」とかの記述はあらすじには不必要な些事だと感じました。あらすじというのは、原作を読んだ人間であれば誰でも気軽に加筆できるため、「あれがない、これがない」でどんどん肥大化していく傾向がありますが、簡にして要を得ている事も、また大切であると思います(ただ、それはネタバレを認めない事とは別問題ですが)。--Kasuga 2008年11月13日 (木) 11:50 (UTC)[返信]
こんばんは。個人的には百科事典で作品記事を閲覧する際に、読む(見る)前の紹介サイト目的で利用することは無いので、梗概については英語版のPlot程度のものは期待したいのが正直なところです。現坊つちやんでいえば、私は適切な量に感じます。記述内容はもっと精査できそうですが、「冗長」や「ネタバレ」を理由とした削除であれば少々首をかしげます。ただ、ネタバレを嫌う方、昨今氾濫している購入(視聴)を促す宣伝的な冒頭だけを記したものこそが梗概であると考える閲覧者の方も多いと思いますので、例えば作品の冒頭だけを記したあらすじ節と、作品の結末までを記した英語版のPlot的な節を分け、キネマ旬報の作品データベースのように、Plot節にはネタバレがありますと冒頭に記載するという手もあるのではと思いました。だらだらと長すぎる梗概は私も問題だと思いますが、日本語版に限定していえば長すぎる梗概よりもむしろ短すぎて作品理解の助けになっていない梗概の方が多いように感じます。--Giftlists 2008年11月13日 (木) 12:58 (UTC)[返信]
「小説本編を読んでみたいと思えるような記事」なんて駄目ですよ。ウィキペディアは広告する場所ではありませんので、「購入(視聴)を促す宣伝的な」内容の記事は歓迎されません。--ヘコー 2008年11月13日 (木) 13:50 (UTC)[返信]

いまの『坊っちゃん』のあらすじは詳しすぎることはないと思います。量的にも適切だと思います。例えが映画の記事になってしまいますが、英語版の映画の秀逸な記事では、このぐらいの文章量であらすじが書かれています。むしろ少ない方かもしれません。--Afaz 2008年11月13日 (木) 14:56 (UTC)[返信]

WPは「百科事典」であって「未読者のための紹介書」の類いではないのですから、そもそも「ネタバレかどうか」という視点が不要です。紙製の百科事典を見れば、解説に必要であれば結末まで書かれているのは普通です(念のためですが、不必要に詳しく書く事を肯定しているわけではもちろんありません)。そうした点から考え坊つちやんについては現状で問題はないと思います。
私ならネタバレが嫌ならそもそもインターネットでは調べません。--マクガイア 2008年11月15日 (土) 07:13 (UTC)[返信]
一応、上のご意見に付け加えさせて頂きたいのですが、「ネタバレかどうか」という視点が不要というのは、やや語弊があるように思われます。必要であれば結末まで書かれているのは普通ではありますが、その対象となるもの(この場合はくだんの文学作品)の作品価値を失わせるようなことはすべきではありません。要するに推理小説の記事だったら、それがどのような密室構造であったのか、それをどのように推理していくのか、文体、構成はどのような特徴があるのか、といったことは記述する必要はあっても、トリックの詳細や(江戸川乱歩のシリーズもののように最初から明らかであるものは別として)真犯人の特定までを明記することで明らかに作品価値を失わせる危惧があります。しばしば著作権侵害云々という話がでてくるウィキペディアですが、それらは記事として転載することで、もとの作品自体の価値を損なわせる危惧がある故と心得ます。そうであるならば、“それ”を記述することで解説の範疇にとどまれるか、それとも作品の価値を奪うことになるかを考えることで、おのずと相当であるか否かの判断がつくのではないかと思います。ウィキペディア━━というよりも百科事典━━として「ネタバレ如何」という概念とは、かようなことではないでしょうか。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2008年11月15日 (土) 09:50 (UTC)[返信]
ネタバレして困るような作品は百科事典に載せるに値しない、もしくは百科事典に掲載するには時期尚早であるということだろう。浦島太郎が竜宮城へ行った後にどういう運命になったのかを百科事典に載せて憤る人はいないであろうし、載せなければウラシマ効果について記述が困難になるのであるから。昨日発表されてまだ世間の評価を十分に受けていないような小説を百科事典に載せるべきかを考えることが必要だ。--220.159.3.5 2008年11月15日 (土) 12:03 (UTC)[返信]
話の内容を書くのに、例えば浦島太郎であれば『歴史上・文献に基づく解釈』の節にある結末が老や死ではなく肉体が地上から消え去るという神仙的な戸解譚になっているとか『横浜市神奈川区に伝わる話』とか。 こういう比較や関心を引くための形を伴って話を語る分には、私はネタバレだろうが構わないと思います。 そのもの本体の説明。つまり概要のような位置づけのみに、詳細を書くから問題が生じているのだと思いますが。 個人尺度を言わせてもらうと、15秒で分かるぐらいが私には丁度いいんです。
坊っちゃんに限定して言えば冒頭の作者の松山での教師体験をもとに、江戸っ子気質の教師が正義感に駆られて活躍するさまを描くと「作品解説」の節によって、十分あらすじとして機能しているので「あらすじの節」を、ごっそり削除しちゃっていいんじゃないかと思いますが(というか内容重複してませんか?)。--秋月 智絵沙(Chiether) 2008年11月18日 (火) 03:29 (UTC)[返信]
それはどうでしょうか? 作者の松山での教師体験をもとに、江戸っ子気質の教師が正義感に駆られて活躍するさまを描くというのは、どう考えても「あらすじ」ではなく「作品概要」あるいは「背景説明」だと思いますし、作品が扱っている主題を説明する事と作品の筋の展開を具体的に述べる事は、全く別物だと思います。--Kasuga 2008年11月18日 (火) 10:23 (UTC)[返信]
Kasugaさんのご意見に同感です。何故日本語版ではこうも作品記事でのストーリー説明がタブー視されているのか、参加して日が浅いせいか正直理解しかねています。過去に何かもめた経緯でもあるのでしょうか。--Giftlists 2008年11月18日 (火) 14:04 (UTC)[返信]
(To:Kasuga氏)定義的な観点であらすじ=作品概要/背景説明と申しているわけではなく、現状の坊っちゃんの記事の状態では、坊っちゃんという作品を知るに、特に作品概要の節が作中の内容を適度にピックアップしつつ纏められているがために、あらすじ節を削除しちゃっても私個人としては違和感がない。という事です。 作品概要が例えばあらすじ部との重複が少ない、製作的な話が主である。などであれば差別化ができていますし多分今でも構成の仕方次第で差別化が図れそうな気がします。というか今の坊っちゃんの形の方が少数ではないでしょうか。--秋月 智絵沙(Chiether) 2008年11月18日 (火) 17:43 (UTC)[返信]
(To:Gift氏)作品価値へのダメージや無意味化に対するボーダラインを引きにくいのであれば二極化したほうが分かりやすい構図になるからではないでしょうか。というか全員がそれぞれ「俺は、ここにラインを引くぜ」と意見を集めたところで合意に至りにくいですし。合意が取れるとしても二極化の結果を望むわけでもなく。こうした個々に任せられている状況なのでしょう。 あとは、その「あらすじ」自体が「執筆者の感性だけ」であることと。Wikipediaが誰でも編集可能であるが故に、百科事典の質とは影響の低いところでチマチマした編集が積み重ねられるとしたら、それも歪な気がします。--秋月 智絵沙(Chiether) 2008年11月18日 (火) 17:43 (UTC)[返信]

(インデント戻して、個人的なこと)ぶっちゃけます。対象作品の価値に傷がつかなければ表面上の問題ないわけです。もっと言ってしまえば著作権の切れてる投稿者以外が書いたあらすじを持ち込めば幸福になれるかもしれません。EzDuzIt服用してでも幸福を維持しましょう。幸福は義務です。 そういえばメディア化しているドイツ語版とかは、今の日本語版の状況(というか日本メディアを相手にしている日本語版の状況)よりも問題と改めて向き合ったというか。少しなりとも考慮したのではないかと勝手に思うわけですが。気楽だったのか慎重に慎重を重ねていたのか。はたまたドイツらしく意見を陳情するのに、3D6を握り締めて、7個全て同じ目を出せと言われるぐらい過熱していたのか。お国事情も気になりますが。そのあたり詳しい方いらっしゃいますかね? --秋月 智絵沙(Chiether) 2008年11月18日 (火) 17:43 (UTC)[返信]

概説が百科事典としての本文であればあらすじは参考資料のような物であり、概説の中に全てを入れれば全体像が掴みにくくなるものでも、あらすじを別に設ける事によって作品に対する理解を深めるには役に立っていると私は思います。視点や役割が違えば、ある程度内容が重複するのは仕方ない事ではないでしょうか。またあらすじとは基本的に要約であり、国語の要約問題の解答が(国語の苦手な人は別として)大体同じような物になる事を考えれば、ある程度の履歴の積み重ねによって、問題のない形に落ち着く様に思います。
百科事典に載せる程の作品であれば、たとえ結末が分かった所で作品価値が失われる等という事はないのではないでしょうか。たとえそれが推理小説であったとしても、結末を知ってしまった人ががっかりしてその人にとっての価値が無くなるだけの事であり、作品そのものの価値とは根本的に関わりのない問題です。またこの手の議論になると商品価値が無くなるとの主張をされる方もいらっしゃいますが、『いきなり最終回』の様な本が発行されている事から考えましても、何も問題がないのではないかと私は思います。少しきつい言い方をしますが、結末を知りたくないのに百科事典を調べるような勘違いをしている人達へ配慮するために記事の充実を犠牲にする必要は全くないのではないでしょうか。--マクガイア 2008年11月19日 (水) 10:59 (UTC)[返信]

(インデント戻し)こんにちは。こうした議論でよく「百科事典なのだから○○は不要」という言い回しを耳にします。今回の例である「百科事典なのだから結末までのあらすじは不要」という主張もその類型でしょうか。ですがお恥ずかしいことに私は普段は百科事典を読む機会が殆どないため、「百科事典なのだから」と言われてもいまひとつピンとこないのが正直なところでした。ですので今回、市販の百科事典では実際どうなっているのかなと興味をもち、久しぶりに近所の図書館へ足を運んでみました。大項目主義のブリタニカなどの事典では、作品単体の記事はない(作家の項目に包括されている)ので、創作作品を一項目として扱っている事典に目を通してみました。『坊つちやん』が独立項目として存在していたのは、『グランド現代百科事典』(学研)と『日本大百科全書』(小学館)の2つ。どちらもあらすじは存在し、そのどちらも結末までの記載がありました。記事全体の中であらすじが占める分量としては、目分量ですが学研は記事全体の半分、小学館は3/7程度でした。蛇足ですが、先にちらっと話題が出ていたバッタのエピソードについては、小学館のあらすじでは「いなご」と表記してありました。主人公がバッタと勘違いしていても実際のところはいなごなのですから、これは小学館の真似ではないですが、いなごと書いたほうがすっきりするのではないかと思いました。……脱線しましたが、私が目にした市販の百科事典に倣うならば「百科事典なのだから結末までのあらすじは不要」という論は当てはまらないような気がいたしました。--Giftlists 2008年11月23日 (日) 08:12 (UTC)[返信]

ネタバレ自体がきたないスラングで、意味不明な日本語だと思います。マトモな百科事典では本来は使えないコトバだと思いますね。見るたびになんだと思います。IPでやるのも批判回避でしょう。--T34-76 2008年11月30日 (日) 13:53 (UTC)[返信]


 たまたま紹介されてここに来ましたが、古典作品の場合はそのストーリーまでが一般的に知っておいた方がいい知識なのが常識でしょう。しかし、ネタバレと呼ぶときは、ほとんど現代通俗作品において、一般知識として不要ながらファン心理からストーリーを書いてしまうことを指すようです。紙の百科事典においては、頁制約上も百科事典の品質感としても、そのような項目の存在自体がまれです。
 ふつうの百科事典を見れば、「百科的にあらゆる項目をそろえたもの」 であり、項目のひとつひとつは紙の制約から簡潔に書かれています。それが比重の付け方です。 ふつうの人であれば、人間が調査し続けるときの初心(不慣れ)者状態での入り口情報ガイドであることは当然に見えるはずです。ウィキペディアの「百科事典」を参照してください。他の辞書で、「一般生活や専門知識の用語解説」、などと辞書の一種のような説明もありますが、これも‘ことばの解説’なのだから、詳しく書き尽くすというのは違います。
 ウィキペディアはその上で、「紙の百科の制約を超えて、そのことがらのハンドブックになることも目指す」 ということは書かれていますが、それは基本を超えた野心にすぎません。基本は百科事典です。そして野心には他を尊重しつつ拡大するという調整が必要です。
 他に付け加えると、1. ウィキペディアの編集方針では、たとえ専門家であっても自分の発表を控えるように書かれています。どうみても初心者向きの概観情報を第一にしていると思えますが。 2. ほとんどの場合、娯楽作品の結末とは、現実世界や他の作品には接点のない、作品世界に入った者にしか意味のない情報です。それが紙の百科事典の使命だったはずはないでしょう。 3. また、たとえば作品にある種の思想性がある場合、その作品の視聴読者‘以外の人々’から注目されたならば、それに応じて結末を細かく書く必要が生じることがあるでしょう。しかしそうでないなら作者の思想が読み取れるのは作品の常であり、それをもって結末まで書き出そうというのはファン心理による独占でしかありません。このような場合、偏った独自研究になりやすいし、また、作品とは受け手の想像力を刺激するものですが、その想像の範囲を抑制しかねない点でも、書き尽くすこと自体が偏りの疑いがあります。
 体調のせいでここでやめます。しばらく書けないかと。--Suuw 2008年12月20日 (土) 09:16 (UTC)[返信]
 追伸。ここで語るのは「文学作品」=「古典文学、または現代でも代表的に重要な作品、に限定」と受け取った人が議論する場ではないのでしょうか? 別の分野のことまで含めるなら、そういう題名で議論すべきでしょう。--Suuw 2008年12月20日 (土) 09:37 (UTC)[返信]