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Wikipedia:井戸端/subj/放送番組の検証可能性について 20120411

放送番組の検証可能性について 20120411

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元議論はノート:あの夏で待ってるで行っておりましたが、記事とは無関係な議論になったとの発言もありますゆえ、議論場を井戸端へ移動します。

議論は2012年3月6日15:03(UTC)のDojikingさんの発言に対する2012年3月21日11:28‎(UTC)の私の発言に端を発します。Dojikingさんの発言が検証可能性の理解不足でないかと思い件の発言を行いました。その後DVDやBlu-rayの検証可能性について話がずれましたが、ここでは議論の対象と致しません、ご了承を。その後も議論を続け検証可能性について言及がされましたが、

  • 「私たち編集者だけが検証できても検証可能とは言わない」とする拙案
  • 「検証する手段を保有している人が検証する」とするDojikingさん案

以上の二つが正面からぶつかっております。一対一で議論しても話が平行線を辿る一方のため、広くご意見を頂きたく宜しくお願い致します。--Ritis会話2012年4月11日 (水) 12:15 (UTC)[返信]

放送局や制作会社が保存しているはずのVTRやフィルムにきっと残っているはずだから検証可能だ!・・・は、恐らく誰の賛同も得られないと思うのですが。この場合の検証可能って、閲覧者層や検証を望む将来の編集者が、そのVTRやフィルムを見ることが現実的に可能かどうかですから。・・・・・・無理でしょう。それが検証可能と認められるなら、どこかの会社のどこかの会議資料も「検証可能」になってしまいますし、○○家に門外不出の古文書なども「検証可能」と見なせてしまいませんか?望めば誰でも(多少は困難でもよいので)検証できなくてはいけません。--Hman会話2012年4月11日 (水) 13:07 (UTC)[返信]
検証可能性の「検証」は、読者自身が記述の正確さを確かめるために行う行為です。そのため、読者が検証を行いたいときに、常識的な方法で入手できる資料だけが検証可能だといえます。したがって、「検証する手段を保有している人」が「不特定多数のウィキペディアの読者」と等しくならないものはふさわしくありません。そういった事情から、一度見逃してしまうと見ることの出来ないテレビ番組は、検証可能な資料とはみなされてきませんでした。--有足魚会話2012年4月11日 (水) 13:36 (UTC)[返信]
一般論でいうと公開された動画は検証可能性を満たしています。一方で、テレビなどの一回きりの流しっぱなしの放送番組は記録しておかないと消えてしまうので検証可能性を満たしていないです。検証可能性というのは、他の人もその情報の裏が取れるということです。要するに「俺がTVで観たときはこうなっていた」は他の人が検証しようがないです。方針WP:V#NRでもそういう風になっています。
一方で、今回のケース、記事の主題が放送番組自体の場合、ここまで厳格にこのルールを適用できないと思います。というのは、プロットやキャラクターに関しては放送内容をもとに記述することができるのに、それ以外のことは検証可能性を満たしていないので記述することができないというのでは変な感じです。番組を観た編集者の間で見解が一致しているのであれば(もめていないのであれば)、主題が放送番組の記事では放送内容を根拠にしてもよいのでは。--Bugandhoney会話2012年4月11日 (水) 13:58 (UTC)[返信]
それについては、後日、アニメ評論家なり、アニメ雑誌なりによる「二次資料」が出てくれば検証可能と言うシステムですね。10年もすれば「懐かしのアニメ」的なムックが出てくるかもしれません。一次資料ですが、制作者のうちあけ話も出てくるかもしれません。それから書けば良いのです。「二次資料がまだ出てこないから取り敢えず検証不可能だが書いておく」のは、非常にまずいんじゃないでしょうか。そこまで拙速を求める必要はありませんし、ウィキペディアは速度より検証可能性と信頼性に重きを置くべきものと心得ておりますのですが。クイズ番組やバラエティ番組の記事などでも、「見た」からと言って加筆される例を非常に多く見かける印象があるのですが、検証も反証も不可能でして、いやはやなんとも・・・。検証可能性、大切ですよ。ウィキペディアでは。この辺りはWikipedia:検証可能性にぼんやりと書いてはあるのですが、もう少々踏み込んでわかりやすく明記しておくべきなんじゃないかと、今の状況を見ると、考えざるを得ません(もちろんこれはウィキペディアと言うサイトの指向がそういうものなんじゃないかと言うだけの話であり、テレビで見たままを記述してよいwiki百科事典は、それはそれでもちろん、アリと思います。私も結構余所で色々、自由奔放に、楽しく書いてます)。--Hman会話2012年4月11日 (水) 14:08 (UTC)[返信]
もとの議論をちゃんと追っていないので勘違いしているだけかもしれませんが、もめているのはテレビ番組のエピソードのサブタイトルの表記をめぐってですよね?この場合はもっぱら一次資料(つまり作品そのもの)に依拠することになると思うのですが。たとえば、ある本を主題にした記事で章見出しを一覧にしたい、という場合はその本を見ながら書くことになると思うのですが。活字媒体と違ってテレビ放送には原則として検証可能性がないというのはそのとおりですが、一方でテレビ番組を一次情報にあらすじや登場人物を記述することは一般的に行われていて、問題の記事でもそうなっています。たとえば、あるテレビドラマで時間の経過を表すために画面に「その3日後」というキャプションが表示されたとして、ウィキペディアの記事の「あらすじ」に「それから3日が経って」と書くのはありなのに、番組冒頭で画面に表示されたサブタイトルはウィキペディアでは参考にできない、というのでは変だと思います。何を情報源にして記事を書くかは記事の主題によるかなと。
製作者や出演者のコメント、作品の評価といった二次情報を記述する際にテレビ放送を認めるべきではない、というのはそのとおりだと思います。--Bugandhoney会話2012年4月11日 (水) 16:16 (UTC)[返信]
今回の場合は議場が井戸端ですので、テレビ放送が検証可能かと言う一般論で考えるべきでしょう。Bugandhoneyさんの仰る「テレビドラマでそれから3日経ってと表記されていた」とういものも、やはりこれがDVDなりBDなりで流通し、検証可能になった時に一次資料として成立するんです。人によってはDVDやBDでさえ十分でないと仰る場合もあります。まあ所詮一次資料ですから、一次資料なりの扱いしかできないのですが。筆がちょっと走りすぎるとすぐに独自研究になってしまいます。そう言った意味で二次資料の報が遥かに好ましいのは申し上げるまでもありませんがそれはさておいても、結局史料が出てくるまでは有効な出典を示せません。検証不可能なので、書くべきではないのです。更に、「本放送では甲であったが、DVDでは乙であった。確かにそうなのだ。私は確かに見た」場合も、それがDVDの冊子やその他各種二次資料で示されるまで、書くべきではないんですね。どうしても入れ込まねばならないほど重要なことであればきっといずれ二次資料が出る、と、どんと構えているしかないでしょう。まあウィキペディアって大抵そんな事だらけですし。漫画やゲームならまだ、十分に流通に乗ったものでしたら現実に情報にアクセスできる可能性もあると言えますが、いかんせん電波は、無理でしょうね。もっとも、DVD化されていなくても、その気で望めば多少時間と手数料がかかっても、常識の範囲で、おおよそ誰もが検証できる映像ソースももちろんありますでしょう。そういうものが示されましたら、それはそれでケースに合わせて検討すれば良いのです。・・・と、Wikipedia:検証可能性は言っていると思うんですけどね。結局は「(誰でもそれなりに満足に)検証可能かどうか」ですから。--Hman会話2012年4月11日 (水) 16:41 (UTC)[返信]
誤解を生じない様、念のため発言させて頂きます。元のノートでも述べていますが、私は「私たち編集者だけが検証できても検証可能とは言わない」と言う意見を否定する気は全く有りません。検証するのが編集者であるか閲覧者であるかを、限定しなければならない様な理由は全く無いと思います。ただし、それはあくまでも「検証する手段を保有していれば」の話です。検証材料が無いのに検証すると言う発想は有り得ないと思いますし、検証材料が手に入らないから検証可能性を満たさないと言う事にもならないと思います。そうでなければ、高価な専門書を出典とする様な記事で、「そんな書籍を私は買えない」「だから検証できない」「なので検証可能性を満たさない」と言う事になってしまいます。ニュースやバラエティであればともかく、不特定多数の方が録画を所有している事が期待できる、アニメやドラマの場合に於いて、「私は録画を所有していない」「だから検証可能性を満たさない」は、通用する話では無いと考える次第であり、事実、本放送作中の描写は、無数の記事に於いて存在していますし、それを全否定すると言う話は、現実問題として有り得ないと思います。--Dojiking会話2012年4月11日 (水) 16:45 (UTC)[返信]
一部の記事で高価な文献を使っている可能性もあるのでアニメ記事でも電波を出典としてよい、とはもちろん、なりません。他の出典に問題が有るのであれば、それは他の記事を改善すべきだけの話です。もちろん極端に参照(購入する必要は無いんですよ、念のため。アニメDVD/BDだと公的な図書館での参照や貸し出しが難しく、購入になる場合が多そうですが)が難しく事実上不可能だと言いたくなる様な文献が典拠とされているのは、厳しいでしょうね。そちらはそちらで改善しましょう。もちろん、日本中に幾十枚か幾百枚か有るかもしれないでもない本放送の個人録画・個人所有のDVDは、満足に検証出来る媒体ではありません。--Hman会話2012年4月11日 (水) 17:06 (UTC)[返信]
Hmanさん、コメントどうもです。いろいろと読み比べてみた結果、Hmanさんと似たような意見に変わりました。一番合点がいったのはen:Wikipedia:Identifying reliable sources#Overviewでした。ここには"Published"(公表された)の定義には音声や動画など放送されたものも含まれるが、"Additionally"として但し書きがあり、その場合はアーカイブされたコピーが存在することが必須だ、となっています。その際、有効なアーカイブと呼べるのは、信頼できる第三者によるものだけだと限定すると、私的な録画はアーカイブされたコピーとまでは言えず、ウィキペディアでは出典として用いることができない、ということになると思います。DVDなどになっていないテレビドラマでも、あらすじや登場人物を記述することは現状では広く行われていますが、これは検証可能性の方針が一貫して適用されているわけではないから、というふうに理解することにします。DVDとして発売されていなくても、何がしかの機関が録画・アーカイブにしていれば、検証可能性を満たすことになると思います。--Bugandhoney会話2012年4月11日 (水) 18:44 (UTC)[返信]
まあ結局は「まともに参照可能かどうか」なだけでして(その次には信頼出来るかという関門がありますが)、昔から言われているらしい笑い話に、「マニアックな文献を出典としたいなら、それを図書館に寄贈してしまえばいい。それで検証可能になる」などと言うものがあります(笑)。DVDなどになっていないテレビドラマのあらすじ等は、どうなさったのかは執筆成されたご本人に聞いてみないとわかりません。ウィキペディア創世記は、方針の適用もかなり鷹揚(適当)だったと聞きまして、この3,4年でしょうか、記事の数や分量もそれなりに整ってきたしそろそろちゃんと方針通り、信頼できる百科事典にしていこう、となってきた様です。すいません、私も特にかつてのIP時代など、ちゃんとした本でなくて真偽不明のネット情報やテレビを見た記憶で書いた事がいっぱいあります(苦笑)。はい、もちろんその様な事は現在も将来も、もう金輪際行いません。でまあ、そう言った時代の記事については徐々に(時として大幅削減と言う痛みを伴いながら)改善していくしかないのですが、何よりこれ以上増やさない事が、急務なんでしょうね。何十人もの人が情熱を注ぎ込んだ記事の大幅削減と言うのは本当、心が痛むのですが(他のwikiに転載すればいいのかもしれませんね)。--Hman会話2012年4月11日 (水) 20:44 (UTC)[返信]
武勇伝(?)どうもありがとうございました。en:Wikipedia:Reliable sources/Cost(私論)には、その資料がたった一箇所のアーカイブや博物館でしか閲覧可能でないとしても検証可能であることには変わらない、とはっきり書いてありますね。テレビドラマのあらすじは新聞の番組紹介やテレビ情報誌を参考にすることもできますが、そういうのは普通結末までは書いてないのでウィキペディアで紹介するあらすじとしては不適当なはずです。あらすじには普通出典をつけないですが、これは記事の主題である作品そのものが出典であることは自明だからだと解釈しています。つまり、アーカイブのないテレビドラマのあらすじは検証可能性を満たしていないとみなされても仕方ないでしょう。ただ、今どきテレビドラマなんて、どこかでアーカイブにされてそうですが。--Bugandhoney会話2012年4月11日 (水) 21:39 (UTC)[返信]
日本語版にどの様なかたちで移入されるのか、或いは制式化されるのかは全くわかりませんが、相応に公的な資料館で確かに閲覧できるのであれば、検証可能と見なされるのが自然そうです。私の頼りない英語力で読む分には、全ての項目について妥当な考え方に見えます。現在でも書籍なら、どうやら「地方図書館になくとも最悪国会図書館に蔵書されていればよし」と言う運用になっていますしね。フィクションのあらすじに出典が明記されていない事例が多いのは、ご指摘の理由によります(細かい点については何巻、何分頃、まで脚注で示すべきでしょう)。実際にその参照先がどうなのかは個別の記事に因りますので、ノートでお問い合わせ頂くよりないでしょう。実は何かの本が典拠でした、となって頂きたいものです。--Hman会話2012年4月12日 (木) 04:06 (UTC)[返信]
議論の為の議論の結果として、「本放送は検証可能性を満たさない」と結論付ける事は簡単ですが、それを編集方針として記事の編集を行ったとして、現状のWikipediaに於いて、果たして支持は得られるのでしょうか。現実問題として、本放送を出典とする記述は星の数ほど有り、放送作品の記事全てに存在すると言っても過言では無い状況下で、その全てを「検証可能性を満たさない」として切り捨て、片っ端から記述の除去を行ったとして、それが受け入れられる行為だと思われますか。もちろん、何処かのガイドラインに「本放送は検証可能性を満たさない」と、誰もが読み取れる表現で明記されたとすれば、それに沿った編集を行うのが筋ですが、現状の曖昧で解釈の分かれる記述では、許容される編集とは到底思えません。また、受け入れられたと仮定しても、その様な編集を行った記事が、マトモな記事としての体裁を維持できるのかどうか、甚だ疑問に思われます。もし、「本放送は検証可能性を満たさない」と明言されている皆さんが、実際にその方針に沿って編集を行われているのであれば、該当する記事を御案内頂ければ参考にしたいと思いますが、実在しないと言う事であれば、裏付けの無い机上の空論に過ぎず、全く説得力が有りませんし、今後その様に編集する、と言われても、単なる掛け声に過ぎません。ノートであれ井戸端であれ、議論の経緯や結果は少なからず周りに影響を与えますし、この場の議論の結果を頑なに遵守する編集者も現れるかもしれません。もっと現状を見据えた上で、それを指針とした編集が実際に行われる事を想定した議論を行うべきではないでしょうか。なお、「Additionally」には「アーカイブされたコピーの存在が必要」とは書かれていますが、「有効なアーカイブと呼べるのは、信頼できる第三者によるものだけ」とも「私的な録画はアーカイブされたコピーとまでは言えず」とも書かれておらず、「ウィキペディアでは出典として用いることができない」との発想は、余りにも強引で乱暴過ぎると思います。--Dojiking会話2012年4月12日 (木) 08:13 (UTC)[返信]

まあ、個人的なアーカイヴが検証可能なものとして認められることは、ウィキペディアでは、ありえないでしょう。--Hman会話2012年4月12日 (木) 09:37 (UTC)[返信]

個人が撮影したホームビデオならイザ知らず、本放送された作品の録画が検証可能では無いなんて話は、支持を得られる意見では無いですね。--Dojiking会話2012年4月12日 (木) 11:40 (UTC)[返信]
これ以上私から申し上げることは無さそうです。もちろん方針の改訂に向けてのロビー活動に制限はありません。--Hman会話2012年4月12日 (木) 11:52 (UTC)[返信]
一つの懸念としてあるのは、その録画が全く何の改変もされていないという保証は誰が行うのでしょうか。ウィキペディアは匿名の不特定多数の人間が編集しているのですから、たとえ善意の行動だとしてもすべてを信頼するわけには行きません。--有足魚会話2012年4月12日 (木) 11:55 (UTC)[返信]
コメント それだとコモンズの画像を元に記述したものも「Photoshopで大きく加工したかもしれないから無効」となって泥沼化するような気もするのですが……(出典がない記述は論外として)Wikipediaは性善説ではないのでしょうか。あと、素朴な疑問なのですが専門家自身が「○日のテレビを見ていたらこんなことが放送していたがこれはこうだ」とWeblogや書籍でmentionするのは出典になるのでしょうか。こうなってくると「なる」にしても「ならない」にしても異論が噴出してくる感じがするのですが。--にの会話2012年4月12日 (木) 12:35 (UTC)[返信]
画像に関しては確かにおっしゃるとおりで、撮影者を信頼する姿勢なのだと思います。しかし、そういった画像は記事の記述の出典にはならないので、ここで議論になっている話題とは関係しないと思います。複数の情報源で矛盾する事実があった場合は、Wikipedia:中立的な観点に従って記述されるべきでしょう。--有足魚会話2012年4月12日 (木) 13:30 (UTC)[返信]
ブログはともかくTwitterは気軽に放言できてしまうと言う問題が有り、公式に書籍として出版する場合より慎重に扱わねばならないと思いますが。東日本大震災および福島原発事故の時も、Twitterでのつぶやきを逐一記事に盛り込もうとして悶着が有った様な記憶が・・・。Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:言葉を濁さないに則って、○○がTwitterでつぶやいた、という筆致で書いておけばあまり間違いも起こらないかもしれません。ただし検証可能性以前に、事象に特記性がなければ仕方がないですけどね。commonsの画像の方はやはり、それを根拠に記事を執筆することは難しいでしょう。恐らく、論外です。それはさておき私も時折、「○○の写真」を上梓しますが、「それほんまに○○の写真なん?捏造とちゃうの?」と言われると・・・。「この写真は他の資料に掲載されている写真と矛盾していない」と主張することで、その追求を一部、免れ得る可能性はありますが、本当のところは難しいです。「これは琵琶湖の写真である」でしたら、他の資料に似た風景があれば、証明になるかもしれません。ですが、「この写真がキャプション通り7月下旬の琵琶湖であり、8月上旬のものではないと言うことを証明せよ」と言われたら、どうするんでしょうね。--Hman会話2012年4月12日 (木) 14:21 (UTC)[返信]
ちょっと話がそれているとは思いますが、コモンズは基本的に改変などありのフリーな素材集であすし、コモンズに画像をアップしてそれを根拠に何かを記述するというのではWP:CIRCULARに抵触しますし、コモンズの画像を記事の出典に用いるということは行われていないと思います。画像は、記事の出典ではなく主題理解を助ける一手段ではないでしょうか。その上で画像やキャプションに改変が加えられていないことをどうやって確かめるのか、という問題を考えてみますが、私的に撮影してコモンズにアップした画像と私的に録画して手元にある動画の違いは、他の編集者が内容を確認できるかどうかにあると思います。画像やキャプションの中に、記事の主題にとって重要となる情報があるが真正であるかどうかが確認できない、あるいは記事の主題理解にそもそも役立ちそうにない、というのであれば単にその画像を使わなければいいだけですので。画像はなくとも記事としては成り立つはずです。
名前の通った専門家が何人もの編集者が編集に関わっているような評判のよい情報源で「○日のテレビを見ていたらこんなことが放送していたがこれはこうだ」と言及することは基本的に出典になります。同じことを誰でも書き込むことができるウィキペディアのノートに匿名の人が書いたとしても、情報の信頼性や重みがまるで違います。出典としたいブログや書籍がウィキペディアと同じルールで記述されている必要はないですし、ウィキペディアで大事なのは、編集者が記述していることが検証可能かどうかなのであって、記述の内容(出典)が真実であるかどうかではありませんので。--Bugandhoney会話2012年4月12日 (木) 15:49 (UTC)[返信]
なるほど「この地域の看板の色は他と違う」というようなものは補助的なものに過ぎないということですね。これは得心しました。--にの会話2012年4月12日 (木) 20:13 (UTC)[返信]
Dojikingさん。まず、基本的な事実を共有したいのですが、TV番組は信頼性に乏しい情報源であるというのは現行の方針ではっきりと謳われています。
一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源です。 — WP:V#NR
次に、英語版の文書ですが、アーカイブに関しては確かに何も規定されてないですが、「俺は録画テープを持っている」「その内容はこうだ」というのは、結局他の人が客観的に確認する手段がないです。今問題になっているのはテレビ番組を一次資料として使用してよいか、ということだと思いますが、一次資料に関しては以下のように決められています。
信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません。 — Wikipedia:信頼できる情報源#情報源
現行の方針文書でこのように謳われているので、「TV番組やそれを私的に録画したものは検証可能性を満たしているとは言えない」という見解は多くの編集者から支持されているとみなすことができると思いますし、実際この議論でもDojikingさんの見解に対して賛意を表明した人はいないです。テレビ番組の検証可能性に関しては過去に何度も議論されているのでそちらも参考にされるとよいでしょう[1]。それから、ガイドラインがどうなっているか、ということと、それが一貫して守られているか、というのは別の問題であって、たとえば駐車違反を取り締まる法律があるだけで駐車違反を根絶できるわけではないですし、また、現状でたくさんの駐車違反があるからといって、それならそれを取り締まる法律がないのだろうとか、そんな法律は尊重しなくてもいいはずだ、ということにはならないです。ウィキペディアでは記事は徐々に改善していけばよい、という考えであって、TV番組は出典としないという一貫した扱いが編集者の間に徐々に浸透していけばよいのであって、何かの方針に反している記述が一斉に除去されるというようなことはウィキペディアでは普通起こらないです。--Bugandhoney会話2012年4月12日 (木) 13:04 (UTC)[返信]
根本的に認識が相違している箇所が2点有ります。まず、「TVで観た」と「TV番組」は同義では有りません。「Webで見た」と「公式サイトに載せられている」が全く異なる位置付けであるのと同様に、単に「TVで観た」と言う得体の知れない証言と、記事の題材そのものである、素性の明らかなPGの中で描かれた内容とでは、全く意味合いが違います。次に、例えば何々と言う放送作品について、記事の対象として扱うのは、個人の録画では無く本放送です。Aさんの保有している録画に関する記事を作成している訳では無く、本放送された放送作品の記事を作成する際の検証材料として、Aさんが検証物として録画を使用するのです。つまり、「俺は録画テープを持っている」「その内容はこうだ」という事を検証するのでは無く、記事に書かれた内容の真偽を確認する為に、録画を参照する訳です。従って、「結局他の人が客観的に確認する手段がない」のでは無く、他の人が検証する際に使用する手段が録画なのです。これは、出展として余り異論の出ないであろう活字媒体にしても同じ話で、Bさんが所有する、唯一無二の書籍の個体の記事を書く訳では無く、その書籍に於いて語られた作品の内容を記事として書く訳で、それを検証する為に、Bさんは保有する書籍を参照する訳です。これらに関しての認識が曖昧なままでは、確かに「TVは出典に相応しくない」との漠然とした結論に至るかもしれませんが、各々の位置付けを適切に認識しさえすれば、自ずと答えは違ってくるはずです。--Dojiking会話2012年4月12日 (木) 15:42 (UTC)[返信]
うーん、ちょっともう私のほうからは何とも。たとえばDojikingさんが録画したものを出典に何かを記述したとして、その内容を私が検証したければDojikingさんの家に出かけて行って録画したものを見せてもらえば検証することはできますが、それをウィキペディアでは検証可能性を満たしているとは言わないというだけだと思いますけど。--Bugandhoney会話2012年4月12日 (木) 18:12 (UTC)[返信]
うーん、ちょっともう私のほうからは何とも。たとえばBugandhoneyさんが所有する書籍を出典に何かを記述したとして、その内容を私が検証したければBugandhoneyさんの家に出かけて行って所有する書籍を見せてもらえば検証することはできますが、それをウィキペディアでは検証可能性を満たしているとは言わないというだけだと思いますけど。と言う文章が正しいと思いますか。--Dojiking会話2012年4月13日 (金) 05:44 (UTC)[返信]
(呆)図書館と言うものがこの世にはあってだな。--125.2.47.93 2012年4月13日 (金) 15:36 (UTC)[返信]
(戯)それは知りませんでした。大変勉強になりました。彩の国を訪れた際には、是非とも図書館と言う場所を訪問したいと思います。情報に感謝致します。--Dojiking会話2012年4月13日 (金) 16:37 (UTC)[返信]
脈絡の無い発言は無視するとして、改めて説明させて頂きますが、上で書いた内容は少しフザけて見えたとしても、言っている事は変わりません。まず、繰り返しになりますが、出典は録画では無く本放送です。例えば、仮に「三国志」の単行本をAさんが個人的に所有していたとして、その単行本を見て記事を書いたとします。その場合の出典は、あくまでも「三国志」であり、「Aさん個人所有の単行本」では無いはずです。また、手元に単行本を所有するAさんが、わざわざ図書館や、ましてや国会図書館に出向いて検証を行うとは考えられません。であるならば、手元の単行本を元に検証を行うのも、手元の録画を元に検証を行うのも、全く同一の行為です。にも関わらず、放送作品の場合だけ「録画が出典」と連呼するのは、明らかに印象操作です。更に言えば、Wikipediaの執筆や検証だけの為に、国会図書館にまで足を運ぶコアな利用者は、極めて少数派だと思います。従って、それが書籍であろうが放送作品であろうが、現実的には「個人所有の」ソースを使用していると考えるのが妥当です。この様な現実にも関わらず、公的なコピーが参照できい事だけを盾に、頑なに検証可能性を否定し、Kanoharaさんの算式に倣えば、都内だけでも1万本の存在が期待出来る録画を全て無効とする考え方は、ルールと常識の尊重を無視した、法律家ごっこそのものです。--Dojiking会話2012年4月13日 (金) 20:41 (UTC)[返信]
コメント 月1回以上国会図書館にまで足を運ぶコアな利用者から一言。もしかして、国会図書館の蔵書は国会図書館でしか閲覧できないとお思いですか?資料の状態が悪いものや、雑誌・DVD・マイクロ化資料などの一部資料を除き希望すれば地元の図書館で閲覧できます(図書館によっては送料が必要な場合があります)。また遠隔複写申し込み制度などにより資料の複写を受け取ることも可能です。--Vigorous actionTalk/History2012年4月14日 (土) 03:33 (UTC)[返信]
いや、だから今話しているのは、Aさんの手元にその書籍がない場合なんですけど。内容を確かめたかったら、Aさんはその書籍を図書館や書店で探すことになりますよね?記事で引用されている書籍がどの図書館や書店でも利用できないのであれば検証可能だとはいえない、ということなんですけど。本だったら、都内だけで1万部もあるのに、図書館や書店で見つけることができないというのでは探し方が悪いのだろう、ということになるとは思いますが。--Bugandhoney会話2012年4月13日 (金) 21:53 (UTC)[返信]
あ、スミマセン。月に数回程度でコアな利用者と呼ぶとは思っておらず、Wikipediaの為だけに、暇さえ有れば毎日の様に通い詰めている方を想定していました。これは私の認識不足でしたので今後は気を付けます。
さて、何故Aさんでなければならないのでしょうか。別にBさんでもCさんでも構いませんし、Aさんが図書館で見た本でも構いません。だったとしても、「Aさんが図書館で見た本が出典」では無く「三国志が出典」です。にも関わらず「個人の録画が出典」と連呼するのは間違いだし、印象操作ですよと申し上げているのですが、言っている意味が伝わらないのでしょうか。--Dojiking会話2012年4月14日 (土) 06:28 (UTC)[返信]
うーん、もう同じことしか書けないですけど、ある書籍に関して、Aさんが図書館で読んだ場合、BさんもCさんも同じ図書館か別の図書館や書店で同じ書籍を参照することができますが、ある動画に関して公に利用可能なコピーがない場合、それをたまたま録画していたAさんは参照することができますが、録画していなかったBさんやCさんは内容を参照することができない、ということなんですけど。検証可能性というのは誰でも検証することができる、ということなので。--Bugandhoney会話2012年4月18日 (水) 13:05 (UTC)[返信]
どうしても情報の入手性の話に持って行きたい様に読めますが、私は、放送作品に限って「録画が出典」と連呼するのは「印象操作」ですよと申し上げているだけなのですが、何故、意図が伝わらないのでしょうか。出典は「広く信頼されている発行元からすでに公開されている」本放送であり、録画は、限りなく本放送と近似したものではありますが、あくまでも本放送の記録であり、出典では無く、検証材料もしくは参考資料です。例えばAさんが、東京スカイツリーの写真を撮影し、それを見ながら記事を書いたとしても、「出典はAさんが撮った写真」とは言わないでしょう。この場合の出典(一次資料)は、あくまでも東京スカイツリーである事は、私が説明するまでも無く、誰にでも理解できる簡単な話です。にも関わらず、放送作品の場合だけ「録画が出典」と表現する事は、私的な所有物を出典とした記事であると印象付けようとする、意図的な「印象操作」なので差し控えて下さいと申し上げているのです。もし、「東京スカイツリーの写真は誰でも撮影できるから」と言う的外れな反論を御用意であれば、世界貿易センタービルにでも置き換えて頂いても構いませんが、何れにしても、「出典はAさんが撮った写真」とは言わないはずです。なお、やたら電波電波と連呼されている方も見えますが、誰も(それ系の研究室等は知りませんが)TV画面で電波を観ている人は居ませんし、電波の記事を書いている訳でも有りませんので、こちらも明らかに本放送の軽視を意図した「印象操作」なのが見え見えですので、自重頂ければと思います。
それと、発言のついでに申し上げますと、「誰でも検証可能」を曲解されていませんか。この「誰でも検証可能」は「全人類が検証可能」を意味しているのでは無く、「特定の関係者等で無い任意の第三者が検証可能」である事を意図しており、総人口の全てが検証できなければならないと言っているのではありません。もし、全人類が検証可能である事を意味しているのであれば、極端な話、「目の不自由な人は記事が読めないし資料も読めない」だから「全ての記事は検証可能性を満たしていない」と言う、無茶苦茶な屁理屈が成り立ってしまいます。目が不自由と言うのは、あくまでも「その人の事情」であり、そうでない方々の手で相互に検証を行う事が可能であれぱ、検証可能性を満たしていると考えるのが普通です。放送作品の検証可能性も全く同じ話で、録画を所有していないのは、あくまでも「その人の事情」であり、下でKanoharaさんも述べられている通り、録画を手元に残している不特定多数の方の相互確認が行えれば、全く何の問題も有りません。ニュースやバラエティは厳しいと思いますので除外して良いと思いますが、高い録画率の期待できるドラマやアニメに関しては、充分に検証可能であると考えるのが妥当であり、それを否定する事は、間違っても支持を得られる様な考え方では有りません。--Dojiking会話2012年4月19日 (木) 14:53 (UTC)[返信]
再度お邪魔しますがDojikingさんのおっしゃっていることは再度根本から考える価値が十分あると思います。In the first place, WP:V#NRが解釈の余地を残しすぎなんですよね。数百万人が実際見た、あるいは録画したものを「事実確認の機能を欠く」と片付けるのは明らかに「フツー」の感覚とかけ離れているでしょう。「だから見てなかった人はどうやって検証するんだ」というのはネットが普及する遙か前、親戚・友人に問い合わせたり地方の広報誌などで「どなたか録画した人いませんか?」ってやりとりがあったものですが……。(法律云々は一旦おいて)「その録画が改変されている可能性は」といいだしたらもはや出版物だって同じことがいえるでしょう。(それとも図書館に存在するものだけを信頼できる出典にする?)で、ここでベクトルを変えます。「この番組でこんなすごい内容が放送された」となればメディアがそれなりに反応するからそもそも出典には困らないはずです。ということは数百万人が認知していることでもメディアが喰いつかなかったものは「検証云々」の前に「特筆性がないということでは?」という気がしたのですがDojikingさんはいかがお考えでしょうか。整理しますと「2次言及がないテレビ放送は検証可能性以前にWikipediaに載せるだけの特筆性がないのでは?」ということです。井戸端のタイトルとはかけ離れますが「載せる/載せない」という視点で見れば同様ではないかと思います。--にの会話2012年4月19日 (木) 15:44 (UTC)[返信]
コメント ビデオテープ、DVD、BDなどで販売された実績も予定もないテレビ番組は、検証不能とは言えないものの合法的な事実確認が困難な「信頼性に乏しい情報源」ですので、{{信頼性要検証}}を貼って二次資料を求めるべきかと考えます。映像ソフト化の予定があるものは、いずれ時間が解決してくれることが保証されるため、{{信頼性要検証}}は不要でしょうけれど。
日本においては建築物に著作権は生じないためスカイツリーの写真を見せたりすることは自由ですが、著作権が失効していないテレビ番組の録画(私的複製)を家族以外の誰かに見せることは著作権法で保証された私的利用の範疇を逸脱し、法的な問題があります。編集者間で検証ができたとしても「非合法な方法で検証できた」ことを大っぴらに公言することは、色々な意味で法的リスクが存在するため、検証できたことを報告できないし、ウィキペディアとしても非合法な活動を推奨する訳にはいかないという問題があります。--Kanohara会話2012年4月19日 (木) 16:54 (UTC)[返信]

(Dojikingさんへ)公に利用可能なコピーがないのは本人の責任じゃないでしょう。実際、それを用意しているテレビ局はありますし。「自分がテレビで見たときと違うことが書いてある!」と指摘した人に対して、録画しなかったおまえが悪い、と言われても納得する人はいないと思いますが。「録画を手元に残している不特定多数の方の相互確認が行えれば、全く何の問題も有りません」というのは、論争を呼ぶような発言があったニュース番組と違って、シリーズ物のテレビドラマでは記述をめぐって揉め事が起きにくいだろう、というだけの話であって、実際には三点リーダかピリオド三つかでもめている現状では説得力があるとは思えませんが。たとえば、動画よりもはるかに解釈の入りづらい活字媒体であり、なおかつ録画テープよりもはるかに数多くのコピーが出回っている新聞記事を用いていても、内容の解釈や引用の正確性をめぐってもめるということはざらにあります(私が編集に関わった例ノート:野田佳彦#人物、性格、趣味など)。検証可能性というのは、検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう、などという大雑把なことではないですよ。--Bugandhoney会話2012年4月19日 (木) 18:32 (UTC)[返信]

特筆性に関しては、概ね御指摘の通りである様に思います。必ずしもイコールとなるかと言えば、様々な要因が絡む事から、そうでも無いとは思いますが、大筋で言えば、外部のメディアが触れていない些末な話題は、特筆性も薄いとの判断で問題無いと思います。ただ、公式ガイドブック等に詳細に書かれてるからと言って、それ全てを載せる事にはならないと思いますし、逆に、例えば最近なら家政婦のミタ辺りを思い描けば判る様に、視聴率や「承知しました」の回数ばかりが記事になり、(意図的に避けているのかもしれませんが)特筆性の高い内容には触れられていない事も有ると思いますので、個々の項目毎の判断も必要かと思います。実際には、多くの利用者の取捨選択によって、載せるべき項目が絞り込まれ、過不足の無い状態に遷移していく場合が多いですし、自ずと特筆性の有る項目だけが生き残るであろうとも考えますが、如何でしょうか。まあ、登場人物欄に人物の行動を逐一加筆して、小学生の日記帳の様になっている記事も見掛けますし、雑多な項目だと言ってバッサリと切ってしまうのも、それなりに勇気の要る行為だと思いますので、単純な話で無いのも事実では有りますが…。
次に、違法な検証手段に関しては、気にしなくても良いのではないでしょうか。もちろん、ここで言う気にしないとは、問題が無いと言う意味では有りませんし、「違法な手段で検証しました」と公言していれば、それを排除する必要も有りますが、原則としては性善説のスタンスで良いのではと考えます。例え活字媒体だったとしても、不正に入手したコピーや電子書籍を参照している可能性だって有る訳ですし、法的にグレーやクロの状況を想定すれば、それこそキリが無い様に思えます。そもそも、執筆者が違法なソースを用いて検証していたとしても、それを知る術は基本的に無いので、判別する事自体が不可能(だからと言って不問にせよと言う意味では無いですよ)なのが現状ではないでしょうか。
最後に、どうもBugandhoneyさんとは、根本的な考え方に大きな乖離を感じます。始めに申し上げておきますが、私は「録画を所有していないのは、その人の事情」と申し上げましたが、「公に利用可能なコピーがないのは本人の責任」なんて、一言も言っておりませんし思ってもいませんので、デタラメな発言は御遠慮頂きたいと思います。さて、揉め事が起きるのは、すなわち、それだけ多くの人が異なる視点や考え方で検証を行っていると言う事であり、決して悪い事ではありませんし、それを以て説得力が無いと考える意見こそ説得力が有りません。また、「録画しなかったおまえが悪い」と言われれば、少なくとも私なら納得しますし、誰だって確たる出拠が無ければ言い張る事はできませんので、納得するしかないでしょう。検証材料を手にしていないのに、検証しようと言う発想は有り得ませんし、それは放送作品に限った話でも有りません。ただし、本放送を視聴した際の記憶が鮮明で、絶対に間違いが無い自信が有れば、それを主張する可能性は有りますね。なにしろ、出典は本放送であり、録画ではありませんから。次に、言い回しが少しアレな感じもしますが、検証可能性が「検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう」で無いのであれば、それでは一体何が検証可能性なのでしょうか。不特定多数の任意の第三者の目で、「この記事は確かに事実と相違無い」事を検証する(査読を外部に求める)事で成り立っているのがWikipediaだと思っていますが、違うのでしょうか。
補足ですが、元の議論の論点は「三点リーダかピリオドか」では無く、「表記が下詰めか中寄せか」ですよ。本放送が下詰めで、公式サイトが中寄せであった事から、どちらに準ずるべきなのかに始まって、本放送は検証可能か否かに至っていると言う次第です。もっとも、一部に独自研究(想像による文字やフォントの特定)を根拠とした主張が存在していた為、議論は混沌とした解り辛い内容になっており、誤解が生じても無理は無いのですが。--Dojiking会話2012年4月20日 (金) 14:36 (UTC)[返信]
すみません。横槍ですが。検証可能性は「検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう」とは全く違いますよ。「不特定の人が、(ある程度のやる気とほんの少しの金銭的負担を負えば)”記述の正しさをあとから検証することが出来る”」ということだと、私は思っています。散々言われていますが、書籍や新聞による出典が検証可能性を担保するのは、日本語で書かれたものであれば国立国会図書館にいけば誰でも、いつでも記述の正しさを確認することができるからです。対して、DVD化されていない番組については、例えば10年、20年経った後にとある人が記述の正しさを確認しようとしても、検証することが「確実にできる」と言えるでしょうか。20年も経ってしまえば個人所蔵の映像もかなり数が減っているでしょうし、人の記憶なんて曖昧になってしまいます。--133.86.235.200 2012年4月23日 (月) 07:13 (UTC)[返信]
例えばビデオテープやカセットテープ、フロッピーディスク等を想像すれば解る様に、20年先にDVDを誰もが参照可能であると言う保証は有りません。また、何かの作品の公式サイトが、20年先にも存在していると言う保証も有りません。もちろん、録画や記憶が残っている保証も有りません。従って、永続的な検証可能性に関しては、(それはそれとして議論の意義は有りますが)この場の議論に混ぜ込んでも意味は無いでしょう。それに、映像ソフト化されていない(予定も無い)作品に関しては、検証可能性を満たさないと言う見解で一致している様に思いますので、敢えて引き合いに出すのも無意味でしょう。また、先にも述べていますが、「検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう」と言う言い回しは、確かに聞こえが良く無い(私からすれば印象操作の意図を感じます)ので、偏見を生むと思いますが、要は前述の通り、「不特定多数の目で記事の内容が事実と相違無い事を検証する(査読を外部に求める)事」であると私は考えていますし、明快な誤りでは無いとも信じています。ちなみに、「ほんの少しの金銭的負担を負えば」の部分に関しては、ケースバイケースですし、情報の入手性の話ですので、この場での言及は避けておきます。--Dojiking会話2012年4月23日 (月) 11:47 (UTC)[返信]
うーん、前に私は「発言を注意深く読んで」と、また「アクセシビリティあたりが(中略)異なる記述です」と書いていたんですが、まったく理解頂けていなかったのですね。内容に関する三大方針としてWikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないそしてWikipedia:検証可能性がありますが、これらは密接に関わりつつも独立した方針です。翻ってアクセシビリティは検証可能性の内部項目であり、独立した方針ではないんです。もしアクセシビリティがDojikingさんの言う「情報入手性」なのだとしたら検証可能性とは切り離せないことになる、切り離して議論するなら該当する方針を示してくださいと述べたのですが未だにご理解頂いていなかったとは残念です。--Ritis会話) 2012年4月23日 (月) 15:16 (UTC)リンクtypo--Ritis会話2012年4月24日 (火) 11:47 (UTC)[返信]
確かに、検証可能性とその情報のアクセスしやすさがごっちゃになっていて、Dojikingさんになかなか話が通じない、という気がしますね。盲目の人なり、フロッピーディスクなり、外国の図書館なり、アクセスしづらいだけであって検証可能なことには変わらないと思いますけど。--Bugandhoney会話2012年4月23日 (月) 18:43 (UTC)[返信]
「ごっちゃになっていて私に話が通じない」のではなくて、「ごっちゃに考えているから整理できない」のですよ。既に過去にも提示していますが、ここには、ハッキリと「この検証可能性の原則は文献へのアクセスが容易でなければならないことを意味するものではありません。」と明記されていますが、お読みになっていないのでしょうか。この事は、多くの利用者の共通認識でもあり、この場でも過去に指摘が挙がっていますので、再確認してみて下さい。--Dojiking会話2012年4月24日 (火) 01:58 (UTC)[返信]
また話がこじれてしまうと大変恐縮なのですがprincipalに従うとすると視聴率が30%を超えた番組でも定期的再放送がない限り「出典無効」ですよね?ところが視聴率1桁でもその番組をガジェット通信あたりがmentionすればさしあたりのrequirementを満たす……と。(少なくても「無効」ではないですよね)このあたりがどうにも引っかかって仕方ありません。確かにprincipalを尊重するというルールは完璧だとは思うのですが「常識」からはどえらい乖離を感じます。で、「じゃあどうすんだよオメー」という話なるのですが例えばn回の再放送が決まっている場合は「Wikipedia検証委員会」なるものが「こういう内容の放送をconfirmした」みたいなことはできないのかなと。時が経って検証を希望する人がいたら「検証委員会」にcontactしてメンバーのおうちにお邪魔して視聴、みたいな。まさか録画した人の家に行って見るだけで違反にはならないですよね?「何言ってんだこいつ」と思われたら恐縮の限りですが現実可能性と法律を天秤にかけるとこうなってしまうのかなと思った次第です。(もちろん上記は「想像」の話なので提案でもなんでもありません)--にの会話2012年4月24日 (火) 09:44 (UTC)[返信]
ウィキペディアは基本的に誰でも(その気になればそれなりに容易に)検証可能である、というのが根っこです。定期的再放送が約束された番組などほとんど無く、というかそういうものならDVDでも二次資料でもなんでも有るはずであり、また一般人の所有物を探し歩くなどは明らかに方針の精神に反しています。あまり「何故かDVDも二次資料も全く皆無だが定期的再放送が有れば・・・」などと言った超レアケースでのウルトラCにこだわると本質を見失うんじゃないでしょうか。ガジェット通信やJ-CASTが「信頼できる情報源」であるかどうかは、また別の話でしょう。--Hman会話2012年4月24日 (火) 10:13 (UTC)[返信]
Dojikingさんご自身が検証可能性に記載されている文献へのアクセス情報入手性だと述べられているのですから、「情報入手性」は中立的な観点独自研究は載せないの様に別個の方針ではなく検証可能性とは切り離せないものだと述べているのですよ。Dojikingさんは別のものだと思っているようですが、他の方から同様の意見が出たことは少なくともこの議題上では無いようです。Dojikingさん以外の方で、情報入手性は検証可能性と切り離して考えることだと考えている方がいれば、私の意見に異論を頂戴したいと考えます。--Ritis会話2012年4月24日 (火) 11:47 (UTC)[返信]
何度も同じ事を書くのにも飽きてきたんですが、ここに、ハッキリと「この検証可能性の原則は文献へのアクセスが容易でなければならないことを意味するものではありません。」と書いてあるんですが、この一文では御不満なんでしょうか。それと、同様の意見とは、例えばこれとかで如何ですかね?--Dojiking会話2012年4月24日 (火) 12:22 (UTC)[返信]

インデント戻します。IP変わってますが、上の横槍です。容易である必要はないとは、例えば出展となる書籍が国立国会図書館一館にしかない場合なんかのことですよね。確かに近所の書店や図書館にちょっと行って手に入るというわけではありません。しかし、複写依頼を通せば日本にいる限りは誰でも検証可能です。一方で、テレビ放送の場合、「後から」「本放送を見ていない誰かが」検証しようとした場合、それは果たして可能なのでしょうか?容易と不可能の間には大きな溝があるように思うのですが。それとも、Dojikingさんの仰る「不特定多数」とは「本放送を見た不特定多数」なのでしょうか?--113.159.24.145 2012年4月24日 (火) 13:23 (UTC)[返信]

その「誰でも」と「本放送を見た不特定多数」の違いが、Dojikingさんにはなかなか伝わらないのですよ。Dojikingさんは実際的な話をしているのだと思います、たぶん。国会図書館にある資料は確かに誰でも参照することができるが、実際にはごく少数の人しか参照しようとはしない。それに対して、テレビ放送は誰でも参照することはできないが、実際には多くの人が録画していて手軽に参照することができる、というような。これは単に資料の参照しやすさを、簡単に参照することのできる人の数で測っているだけであって、WP:Vとはそういうことではない、ということなのですが...。
(にのさんへ)一次資料(テレビ放送)を基にして記述できないというのはそのとおりです。ただ、視聴率30%の番組の場合、二次資料はふんだんにあると考えてよいでしょう。にんげんだものを加筆したときに、そのことがよく分かりました。ここから先は個人的な考えですが、一次資料を基づいてこと細かに記述してもファンサイトみたいにしかならなくて、あるテレビ番組という主題の理解を助けるとは思えないです。百科事典を目指すんだったら二次資料メインでいいんじゃないかなと。--Bugandhoney会話2012年4月24日 (火) 13:58 (UTC)[返信]
私が南極に赴いて、世界中の文献に載せられていないコウテイペンギンの知られざる生態を発見したとします。同じ事は「誰でも」できますので、この事を記事に載せても、文句無しに検証可能性を満たしています。もちろん、南極でコウテイペンギンの生態を見ていない、見に行く気も無い人々にとっては、検証可能であっても検証はできません。ちなみに、これは冒頭の「検証する手段を保有している人が検証する」にも関わりますが。逆に、全国ネットであれば、場合によっては数千万人の人々の目に触れた本放送が、そして録画率が0.1%であったとしても、数万の存在が期待できる録画が、そして追って映像ソフトもがリリースされる予定の作品が、検証可能性を満たしていないと主張されています。これは明らかに、ルールと常識の尊重を無視した、法律家ごっこです。あくまでも常識的な見地に立った上で、常識的に物事を考えたとして、冒頭のコウテイペンギンの記事は、検証すらする事無く、即座にリバートされるでしょうね。皆さんの言う「誰でも」検証する事が可能な事実であるにも関わらず、です。私は、例えルールと常識の尊重の記載が無くとも、Wikipediaの原則の全ては、常識と言う世間一般のルールから逸脱しないレベルで存在していると思っています。南極でコウテイペンギンの生態を調査しなければ検証できない事柄が、常識的に考えて、検証可能性を満たしているとは(フツーの日本人の立場として)考えられません。同様に、数千万人の観た(あくまでも素性の明らかなものに限定しても良いですが)放送作品の検証可能性を、観ていない人が存在するから、と言うだけの理由で否定する事は、常識の範疇を完全に逸脱しています。また集中砲火を浴びそうですが、誤解されるのを覚悟の上で明言すれば、「不特定多数」とは「本放送を見た不特定多数」もしくは「録画を(合法的に)観る事が可能な不特定多数」および「その内容を伝え聞く事で確認できる不特定多数」で良いと思っています。録画は確か、家庭内での視聴は問題無いはずなので、3~5人家族の御家庭に録画が1本有れば、単純に検証可能な方は3~5倍に膨らみますので、先ほどの算式で言えば10万を超える人々が検証可能と言えます。これでも不足なのであれば、それ以上の人数が、南極でコウテイペンギンの生態を調査する事の実現性を立証して頂きたいと思います。私は、この場の議論に於ける「不特定多数」の認識をお話させて頂きました。逆に伺いたいのですが、皆さんの仰る「誰でも」とは、一体どの程度の範囲を指しているのでしょうか。ちなみに、「本放送を観ていない人を含む誰でもだ」と言うのは回答になっていませんので御遠慮下さい。--Dojiking会話2012年4月24日 (火) 15:57 (UTC)[返信]
Dojikingさん、Dojikingさん。世界中の文献に乗せられていないペンギンの知られざる生態だったら、独自研究ですよ。なぜ独自研究かといえば、検証可能な信頼出来る情報源がないからです。「見ればわかる」は基本的にwikipediaでは通用しません。たとえ他の編集者が南極まで行ってDojikingさんと同じ事実を確認できたとしても、やはり記事に追加することはできないのです。ですから、これは検証可能性を満たしていません。検証可能性は、再三申し上げておりますように、基本的に「後から」「誰でも」検証が可能である、ということを意味します。回答になってないと先回りされてしまいましたが、本放送を見ていない人が検証できないのであれば、検証可能性が満たされている、と言うことはできません。たとえ全世界で50億人が見た放送であったとしても、日本国民全員が目にしたものであっても、時間が経ってからその事実を再確認できる信頼できる情報源が出てこない限り、検証可能性は満たされないのです。いくら前置きされようと、これはWikipediaにおける基幹となる方針ですから、これ以外の回答はありえませんよ。常識、とおっしゃりますが、少なくとも学術論文ではそれが常識ですよ。常識は人によって異なる、ということをご理解ください。共通認識を作りにくいからこそ、否定出来ない検証可能な情報源というものが必要となるのですから。--113.159.24.145 2012年4月24日 (火) 17:08 (UTC)[返信]
一次資料の意味を理解されていない方に対しては、例えが悪かったですかね。「検証可能な信頼出来る情報源」がペンギンと言う一次資料なのは、誰にでも解る話なんですけどね。それでは、「南極のヘンギン」を、「南米の奥地に唯一存在する原書」に置き換えて、「知られざる生態」を「二次資料に載っていない重要な記述」とでも思って頂いても結構ですよ。何れにしても話は全く同じですが、これでも意味が伝わらない様であれば、これ以上噛み砕いて説明するのは私には無理です。--Dojiking会話2012年4月25日 (水) 07:35 (UTC)[返信]
例えが悪いというのには同意させて頂きます。。検証可能性と独自研究をしないを最大限に重んじるならば、入手性の最悪な、引用されていない一次資料は使うべきではありません。その媒体がなんであってもです。「常識的」に考えて、他の文献に引用されていない一次資料に重要性があることは稀ですし(被引用数で論文や資料の重要性が語られることが多いのはご存知かと思います)、WP:NORから鑑みてwikipediaに載せるのには適切とはいえません。真に重要であるのであれば、近いうちに二次資料が出てくるでしょうし、それを待って編集したほうが真実性の点でも検証可能性の点でも優れているのは明らかでしょう。後、下でBugandhoneyさんのおっしゃっていることが少なくとも文系の研究分野では「常識」でしょうし、wikipediaでもそれに準じているのだと思っています。--113.159.24.145 2012年4月25日 (水) 11:40 (UTC)[返信]
別に二次資料でも三次資料でも構いませんよ。要は同じ話なので。ですが前述の通り、これ以上噛み砕いて説明するのは私には無理です。悪しからず。--Dojiking会話2012年4月25日 (水) 15:10 (UTC)[返信]
使えないという点では同じですね。二次以下の資料で、Dojikingさんがおっしゃるような「特定の限られた人」しか手に入れられない資料の場合は、、こんどはWikipedia:信頼できる情報源に対する逸脱です。二次資料というのは一般に広く知らしめるためにあるのですから、どうして特定の人しか入手できない、たった一部しか存在しない資料について「信頼出来る二次資料」であると認定できるのでしょうか?それでしたら、私が手元に書いたメモ書きも二次資料としての効力を持つことになってしまいますよ(どの時点で信頼出来る二次資料になるのか、という野暮はやめてくださいね。砂山のパラドクスです)。大体ご意見がわかりましたのではっきり言わせて頂きますが、Dojikingさんの仰ることが伝わっていないわけではないのです。伝わっているのですが、共感することができないのです。なぜなら、Dojikingさんのご主張、常識が「Wikipediaというコミュニティの内部」では誤っているからです。どうかどうしたら伝わるのか、などという無駄な努力をするようなことをせず、誠心にここまでの議論とWP:VWP:NORWP:RSをお読みになって、どんなにご自身の常識から外れていたのだとしても「wikipediaではこうなのだ」ということをご理解いただきたいと思います。長々失礼いたしました。--113.159.24.145 2012年4月25日 (水) 15:46 (UTC)[返信]
皆さん苦笑して傍観されていると思いますので、敢えて私から申し上げる事でも無いのですが、残念ながら113.159.24.145さんは、Wikipediaと言うものを、まるで理解されていません。たった一部だろうと、「広く信頼されている発行元からすでに公開されている」資料であれば信頼出来る資料だし、100億部有ったとしても、113.159.24.145さんのメモ書きであれば、信頼出来る資料では無いと言うだけの話ですよ。--Dojiking会話2012年4月26日 (木) 00:57 (UTC)[返信]


(Dojikingさんへ)それはまた、「一人vs.十万人超」という人数の話になってますよね。WP:Vは人数の話ではないです。WP:SOURCEACCESSの趣旨は、手軽に資料を参照することのできる人数は検証可能性を満たすための条件や制約にはならない、ということです。「誰でも」は、ずばり「本放送を観ていない人を含む誰でもだ」です。WP:Vはそうとしか読めないです。もっと具体的に言うと「記事にある記述を出典となっている資料で確認したい任意の読者」です。つまり、たとえば「Bugandhoney」というユーザーです。私にも出典の内容を確認する手段がないとだめだということです(記述した編集者に問い合わせる以外の方法で)。--Bugandhoney会話2012年4月24日 (火) 17:25 (UTC)[返信]
それは不可能ですよ。Bugandhoneyさんの御意見は、一見マトモそうに見えますが、言い方を変えれば、例えば私が検証できない(出典や検証資料を参照できない)内容は、全て検証可能性を満たさないと仰っているのですよ。繰り返しますが、もっと世の中の常識で物事を考えて下さい。--Dojiking会話2012年4月25日 (水) 07:53 (UTC)[返信]
コメント ううむ、やはり「後から検証したくなっても、建前上は誰にでも合法に検証できる」のと「後から検証しようと思っても合法的に検証できる者が限られる」のとでは、決定的な溝があるのではないでしょうか。
古本は合法的に売買したり図書館で借りたりできますが、私的な目的で録画された放送番組は合法的に貸し借りできないため、検証に参加できるのはその放送日に録画をセットしていた人に限られます。「建前上は誰でも見ることができる」「建前上は誰にでも見ることができてはいけない」という条件は、明らかに矛盾するでしょう。あまり例え話に深入りすると話がややこしくなりますが、「南米の奥地に唯一存在する原書」に例えるなら、その地域の言語を勉強し、旅費を稼ぎ、大金を支払って渡米し、現地ガイドを雇って、生命の危険を乗り越えて奥地にたどり着き、閲覧する……というところまで、全て合法的に行うことができるなら建前上は検証可能でしょうけれど、一方、その原書に触れるためには特定の部族の血筋を引いていなければ立ち入ることができない聖地を通り抜けなければならない、といった場合には検証不可能である、といったことになるかと思います。--Kanohara会話2012年4月25日 (水) 09:10 (UTC)[返信]
(Dojikingさんへ)何が「不可能」なのかがちょっと分からないのですが、その場合は、私もDojikingさんも検証できるようなことだけ書けばいいのであって、ウィキペディアではそのようなポリシーのもと、いずれの記事も基本的にはそのようなことしか書いてないと思いますが。WP:Vの冒頭にあるとおり、『ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」』ですから。--Bugandhoney会話2012年4月25日 (水) 17:50 (UTC)[返信]
ですから、それが不可能な事だと申し上げているのですが、意図が伝わりませんか。「私もDojikingさんも検証できるようなことだけ書けばいい」のであれば、「それ以外の事は、例え他の人が検証できたとしても、書いてあってはならない」と仰っているのですよ。言い換えれば、「全人類が検証できて初めて、記事として書く事ができる」と仰っているのですよ。御自身で仰っていて、マトモな発言であると思われているのですか?--Dojiking会話2012年4月26日 (木) 00:57 (UTC)[返信]
Dojikingさんの発言に対し思うところがあり、本議論のノートにて提起致しました。--Ritis会話2012年4月26日 (木) 10:52 (UTC)[返信]

(インデント戻し)Dojikingさんの2012年4月24日 (火) 15:57 (UTC)の発言ですが、少なくともDojikingさんが言及されたような方法で取得した内容をコウテイペンギンに加筆しようとすると、即刻差し戻されることでしょう。学術的な分野においては現地調査で得られた結果は1次資料ですらなく、コウテイペンギンの生態を観察して得られた結果の一つでしかありません。しかるべき学会での査読を経て論文として発表されてようやく1次資料となるかとは思いますが、それでもウィキペディアに記述する内容とするためには、単に出典となる論文を明記するだけでは不足で、「生物学者何某によれば・・・・という観察結果が得られた」というような記述方法とせざるを得ないでしょう。なお、少なくとも鉄道関連の記事では、「現地で見た」の類の記述は検証可能性を満たさないとする合意がほぼ成立しています。--VZP10224会話2012年4月26日 (木) 15:25 (UTC)[返信]

◆放送番組に関する記述でその放送自身を一次資料とみなすのであれば、信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません。この場合放送事業者自身によりアーカイブ等で公開されているかDVD等で発売されていれば『信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態』といえるでしょうが、『どこかの誰かが私的に行った録画』では、量的な多寡以前の問題として一次資料として使えないでしょう。--M_aisawa会話2012年4月28日 (土) 03:29 (UTC)[返信]



少し話は外れるかもしれませんし、議題提起者は≪DVDやBlu-rayの検証可能性について話がずれましたが、ここでは議論の対象と致しません≫と書いていますが、≪他の人が客観的に確認する手段がない≫という観点に絞って、少し気になっているところを書きます。映像メディア(ビデオテープやDVD)における、国会図書館のような存在(放送ライブラリーなど)で、網羅的なものがあるならその旨ご指摘ください。以下、そういうものがないという前提で。
例えば、流通されなくなったあるいは法改正によって入手が規制された映像メディア(ビデオテープやDVD)は、≪信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない≫≪他の人が客観的に確認する手段がない≫と扱われるべき、ということになるでしょうか?例えば、ある人物記事の(法改正前の)写真集は国会図書館でも閲覧できないのではありませんでしょうか?当該写真集やビデオに撮影秘話のようなものが掲載/収録されていたかどうか私は知りません(手元にもありませんし、入手のしようもありません)。しかし、そういったものを出典として記述していたときに、ある日突然(施行までの半年くらいの有余の後に)、法改正によって当該資料の入手が規制され、≪他の人が客観的に確認する手段がない≫状態に変わることがあり得る、ということがこのケースから想像できます。
アニメにしたってそうです。先日某所で意見相違からいろいろと意見交換を行いました。そこでの主意見は、登場キャラクターのキャラクター描写について「DVDを見れば検証可能」(話数などの情報がないと検証困難かもしれないが、ここでの話とは無関係なので省略)というものでした。当該アニメのDVD版が流通しなくなった場合、{{Cite video}}付きの出典が付いていたとしても、当該DVDを≪他の人が客観的に確認する手段がない≫状態になったことを理由に「出典として使えなくなる」ということになるのでしょうか?
つまり、≪DVDなりBDなりで流通し、検証可能になった時に一次資料として成立するんです。≫とHmanさんが書いていらっしゃいますが、「過去に検証可能であったものが検証可能でなくなることもありそうですが、じゃあ検証可能でなくなった時には一次資料として(に限らず、二次資料としても)成立しなくなるのでしょうか?」という話です。--NISYAN会話2012年4月12日 (木) 15:29 (UTC)[返信]
えっと、上にあるある人物の写真集は、NDLでは閲覧どころか複写も可能なようです。--Vigorous actionTalk/History2012年4月14日 (土) 03:33 (UTC)[返信]
同一の内容が繰り返し放送されている場合については、少なくともその放送期間中については「資料」が一般に対して確認可能な状態に置かれており、検証可能といえます。また、放送期間終了後については、リンク切れのウェブページ資料と同様の扱いとなります。(一般論としての放送番組の検証可能性については、判断を留保致します)--4行DA会話2012年4月12日 (木) 15:57 (UTC)[返信]
何らかの事情で事実上参照不能になったものは、検証可能性や正確性の保証がほぼ潰えているのですから、ウィキペディアの原則に沿って対処するよりないでしょう。また、自己言及・自己参照が認められて居ないことは言うまでもなく、「長くウィキペディア編集者から異論が無い記述だから」という理由だけで記述を維持することも難しそうです。私は広く流通しているDVDはおおよそ、現在または今後数年間は検証可能性を満たすと考えていますが、将来的に中古でも入手が困難になると、最早それは成り立たないでしょう(超人気映画、超人気アニメであれば問題は無いのでしょうけど)。新たな情報源が見付かるまでの間、サブページやノートに退避するなり、コメントアウトしておくなりが考えつくところですが、何のかんのと言いながらウィキペディアもまだ、歴史が浅いものですから、この辺りの文書の整備はこれからなのかもしれません。何分私はメタを存じ上げませんので、あちらや英語版でどの様な構想が持たれているのかはよくわかりませんが。--Hman会話2012年4月12日 (木) 16:19 (UTC)[返信]
NISYANさんや4行DAさんの発言と少し重複しますが、劇場公開作品を思い描くとイメージし易いと思います。劇場公開作品の記事の内容については、外部媒体に載せられている事柄を除けば、基本的には劇場に観客として足を運んだ執筆者が、自身の記憶を頼りに執筆している事になると思います。劇場公開中は、劇場に足を運びさえすれば、誰でも「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっている一次資料」を閲覧できますので、皆さんの言う所の出展としての問題は無いと考えます。ただし、TVと違い録画は存在しませんので、作品と記事とを突き合わせて確認する事はできませんので、厳密な検証は、映像ソフトのリリースを待つ事になるかもしれません。では、劇場公開が終わり、映像ソフトがリリースされるまでの期間は、一体どうなってしまうのでしょうか。特殊なセールスパターンを除けば、劇場公開後、映像ソフトは数ヶ月から1年程度遅れてリリースされるのが一般的だと思いますが、その間、当該の記事には出展が存在しない事になってしまいます。TVと違い、録画も一般には存在しないはずですので、真に検証材料が存在しなくなってしまいます。では、この期間に限り、記事から該当箇所を削除すべきなのでしょうか。少なくとも私の知る限り、そんな不自然な編集が行われた記事は見た事が有りません。TVでの放送作品も、これと全く同じ話で、放送期間中は「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっている一次資料」が存在するにも関わらず、出典足り得ないとの扱いは理不尽であると考えます。また、放送期間が終わったからと言って、手のひらを返した様に、「事実確認の機能を欠く情報源」として扱われる事も理解に苦しみます。--Dojiking会話2012年4月12日 (木) 16:44 (UTC)[返信]
(NISYANさんへ)難しい問題ですけど、はっきりいえるのは、検証可能性と文献の入手しやすさは別の概念ということですね。WP:SOURCEACCESSでも説明されていますが。誰かにとって入手が困難な資料だとしても、それを出典にして記述した編集者は少なくともその資料を参照できるわけで、その場合はその編集者にその資料になんと書いてあるか問い合わせることはできますし、場合によっては(著作権の問題がなければ)スキャンしたものを見せてもらえるかもしれないわけで(というようなことはen:Wikipedia:Offline sourcesで説明されています)。検証可能かどうかを、その資料が市場で流通しているかどうかに読み替えるのは間違っていると思いますけど。(WP:VWP:RSはそういうふうには読めないです。)
アニメのキャラクターに関する記述は検証可能性とも関わってますが、主に独自研究にあたるかどうか(執筆者の解釈が入ってるかどうか)の問題だと思います。一次資料をもとにあらすじや登場人物を記述する際に大事なのは解釈を交えずに見たとおりに書く、ということであって、あるキャラクターの性格はこうだ、というのはいくつかのエピソードの中のそのキャラクターの行動をまとめて編集者が総合的に勘案しているわけで、独自研究に当たると思います。この場合は、あるキャラクターの性格はこうだ、と直接的に書いてある資料が必要でしょう。--Bugandhoney会話2012年4月12日 (木) 18:12 (UTC)[返信]

話をややこしくする意図はないのですが「定期的に再放送が行われているテレビ番組はどうなるのか」「地域によって放送日に差があるテレビ番組はどうなるのか」という疑問がわいてきました。これなら「えっ、本当かな?」と参照したいとき間違いなく確実に参照可能ですよね?(その日の予定がどうとかその地域までの交通費うんぬんは全部棚上げすれば)過去ログも見たのですがなぜか再放送あたりに話が及ぶと名言を避けるような傾向を感じました。ということを鑑みても「テレビ放送の出典は100%除外する」のは少々無理があるのではないかと考えるのですが……。これを「再放送時にさらに編集される可能性がある」と言い出したら出版物に関しても「初版にだけ書かれている」とか映画も「上映時とブルーレイで異なる」となっていよいよその先には混沌しかないのでは。ギュウギュウにしめるよりも、もう少し性善説よりでもいいのではないでしょうか?(過去のバージョンが公開されていないソフトウェアとかもありますよね)--にの会話2012年4月12日 (木) 20:13 (UTC)[返信]

コメント 一般の書籍として流通した文献は、たとえ絶版になったとしても図書館で借りたり古本屋で入手したりできるので、絶版になっても検証可能です(何世紀も前に木版印刷で出版された古書、といったものとなればまた話は別でしょうが)。多くの書籍は通常、何年も経てば品切重版未定や絶版になってしまうので、これを「常に出版元から新品の状態で入手できなければ検証不可能である」と定義してしまうと、ウィキペディアの検証可能性は成立しません。同様に「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる」状態になったことがあるBD/DVD/ビデオテープなども、レンタルで借りたり中古で購入したりできるので、検証可能でしょう。またインターネットで公式配信されている番組も、Web上の文献と同様に「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる」ので、検証可能です。将来的にWeb上での配信が停止したとしても、その頃にはBDやDVDでの検証が可能になっていることでしょう。
さて、テレビで放送され、BD/DVDとしてリリースされる予定がある映像作品の検証可能性ですが、私は「ある」と考えます。まずBD/DVDとしてリリースされる予定があるということは、その映像は将来的には永続的な検証可能性が保証されるわけです。ではBD/DVDとして発売されるまではどうか。一般に、アニメやドラマなどは録画率が高いことが知られています。BD/DVDで発売される予定があるということは、その映像にはそれだけの商業的価値があると見做されているわけですから、当然、録画している視聴者も多いわけです。ここで「Wikipedia:検証可能性」で、ウィキペディアではなぜ検証可能性が重視されているのかを思い返してみて下さい。
> なぜいけないのでしょう。それは「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから」です。
ウィキペディアのルール解釈で重要なのはルールの精神と常識を尊重することです。確かに、その番組を見ておらず録画していない者は、その記事の正確さを検証することができません。ですが、テレビドラマやテレビアニメといった放送番組は、放送開始前から雑誌などで宣伝が告知されます。また、どんなにローカルな番組でも都道府県レベルの広域にある人々が、一時的にせよ「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる」状態に置かれます。たとえ東京都民の0.1パーセントの人しか録画しなかったとしても、一万人の視聴者がその番組を録画したことになる計算です。その番組に関心を寄せており執筆に関わろうとしている編集者や読者であれば、高い録画率が期待できるでしょう。つまり、たとえ自分は番組を見ていなかったとしても、番組を録画していた少なくない編集者や読者がその正しさを検証することができます。これが学校の部活やサークルで作られた個人作品で、執筆者全員がその関係者である、といった場合であれば「私たち編集者だけが検証できても検証可能とは言わない」という批判は正当ですが、そういった作品との違いは「信頼できる出版元(一定の放送圏を持った放送局)によって、その情報が(自宅のテレビで)入手でき」たか否かにあると言えるでしょう。
また、テレビドラマやテレビアニメが現実の出来事と異なり、娯楽作品としてデフォルメされたものであることも見逃せません。全ての視聴者には同じ内容の番組が届けられますので、これは個人的な体験談といった意味での一次情報とは事情が異なります。出来事には起承転結が設けられ、登場人物の性格や容姿には一貫した特徴が用意され、有限に区切られた時間の中で筋道立てて説明されます。義務教育を通して小説の読み方を習ったことがある大人であれば、わかりやすく整理された娯楽作品の内容を整理して説明することは容易でしょう。解釈や分析に踏み込まない限りは、一次資料に基づいて構わない範囲です。
一方、BD/DVDとしてリリースされる予定がない番組は、私も検証不可能であると考えます。例えばニュースなどは録画率を期待できませんし、内容を詳細に覚えていることも期待できないでしょう。また、BD/DVD化された際に、オンエア版と異なる内容でリリースされた映像作品は、BD/DVD版に合わせるべきであると考えます。もっとも「オンエア版とBD/DVD版で主題歌が差し替えられている」といった大きな違いは、たいてい公式ファンブックなどに記載されますし、取るに足りない作画修正などの違いは、そもそも百科事典的な記述ではないので不要と考えます。--Kanohara会話2012年4月12日 (木) 21:20 (UTC)[返信]

コメント「映像メディア(ビデオテープやDVD)における、国会図書館のような存在(放送ライブラリーなど)で、網羅的なものがあるならその旨ご指摘ください」との話がありましたが、国立国会図書館#資料の収集・整理には、「CD-ROM、DVDなどパッケージで頒布される電子出版物(音楽CDやゲームソフトも含む)」は納品対象となっています。実際国立国会図書館 蔵書検索・申込システム NDL-OPACで検索すると、最近のDVDやゲームソフトなども収納されています。念のため。--アルビレオ会話2012年4月12日 (木) 21:45 (UTC)[返信]

Kanoharaさんの説明はわかりやすくてすごく頷けました。あとからDVDが出ることが分かりきっているにも関わらず、TV番組や劇場公開の終わった映画を出典とすることを排除する必要はないと思います。あと、もうひとつ英語版の文書を見つけたのですが、そこには書籍に関しては世界中でたった一つの古本屋にしかないとしてもアクセス可能である、テレビ・ラジオ番組に関しては放送局にあるアーカイブが(お金を払えば)誰でも視聴することができるのであればアクセス可能、番組アーカイブが大衆に解放されていないのであればアクセス不可能、今この時点で誰でも利用することのできるコピーがただの一つもなければ、たとえ過去の時点では利用可能であったとしても、アクセス不能、などとなっていて理にかなっていると思いました。
(にのさんへ)「ギュウギュウにしめる(参照した資料を特定する)」のと「性善説」は別なのでは。DVDは発売されたバージョンで内容が大きく違うというのは普通にありますし、書籍でも初版とそれ以降の版で内容が大きく異なるというのも普通にあります。そのため、{{cite book}}や{{cite video}}では発売日や版・エディションなど、どのバージョンを参照したのか事細かに指定できるようになっていて、編集者も当然どのバージョンを参照したのか明記する必要があるでしょう。「性善説」というのは、たとえば、誰かが「○○という資料には××と書いてあった」と主張したときに、たとえそれが自分にとって入手が困難で内容が確認できないとしてもその内容は正確であると仮定することだと思います。テレビ番組を出典とできるのかどうかは、その公式なコピーがあるのかどうか、という問題であって、「性善説」とはちょっと違うと思います。たとえば、誰かがYouTubeやニコニコ動画にテレビ番組をアップすれば(普通は違法ですが)、誰でも内容を検証することができるコピーができたことになりますし、性善説にたてばその内容の正確さも保証されていると仮定してもいいかもしれませんが、このような出所が放送局や製作会社ではないコピーは、信頼できる第三者が公表した公式なコピー(発売されたDVDなど)と同列に扱えないかなと思います。--Bugandhoney会話2012年4月12日 (木) 22:45 (UTC)[返信]
はい、まさにおっしゃるとおりでYouTubeに違法uploadされたものは出典とはいえないと私も思います。あと、「どこかの古本屋にあるかもしれないはOK」であるというのは理解しました。残りました「再放送が確定している」・「地域によって放送日時がずれている」のは如何でしょうか。さらに「どこかの古本屋で入手できるかもしれない」なら「再放送されるかもしれない」というopinionが考えられそうですがこれはどういう扱いになるのでしょうか。もちろん逮捕歴のある芸能界を追放された芸能人が出ていた番組の再放送はまず無理でしょうから可能性ゼロ=出典無効といえるかと思いますが……。「性善説」「劇場版」については一旦おいて、まずは現行の「テレビ放送」について一定の方向を見いだせればと思います。--にの会話2012年4月13日 (金) 01:51 (UTC)[返信]
書籍やDVDであれば、国会図書館にも、各自治体の図書館にも、国立大学の図書館にも、最悪民間資本の図書館にも無い。資料館・博物館等での参照も困難。とどめにamazonでも流通しておらず、根気強いヤフオク巡回か古書店巡りくらいしか参照または入手の可能性が無い。・・・レベルの資料は、媒体を問わず、ウィキペディアでは満足に検証可能と見なすべきではないでしょう。古文書レベルになると引き写しが各所にあり、情報自体は参照可能なんですけどね。まあ、この辺りが「常識の範囲で一般人に検証可能」じゃないんですか。で、再放送の可能性ですが、これまでVTR化もDVD化もなされていないテレビ番組おおよそ全てについて(にのさんはバラエティ番組を想定していらっしゃる様ですが)、「放送局のVTRが上書きまたは破棄されたとの明確な情報がもたらされるまでは放送局がそれを持っている可能性もあり、人気番組であったはずだから今後再放送される可能性も0%とは言い切れないので一般編集者や閲覧者による満足な検証が十分に可能である。最悪の場合、個人宅にお邪魔して録画したテープを見せて貰える可能性やダビング(違法ですけど)できる可能性も無いとも言えないので、一般の編集者にも検証可能である」って、無理が過ぎませんか?この理論が通用するのであれば、かつてテレビで見た記憶や印象だけで何でも書けてしまえますけど。--Hman会話2012年4月13日 (金) 04:06 (UTC)[返信]
うーん、古書についての見解はバラけているところでしょうか。これは一旦おいてまず「再放送するかもしれない・しないかもしれない」というのは「想定される意見」で私自身が主張・推す意図はありません。これは「無理がある」ということは理解しました。引き続き「予定が確定している再放送」「地域で異なる放送日時」はいかがでしょうか。話がとっちらかるとぼやけてしまうのでここに絞っていきたいと思います。なお、私は「だから認めてほしい/認めるべきだ」というつもりはありません。(私はレコーダーすら持ってませんので……)「考えられうること」としてクリアーにしたいと思っています。--にの会話2012年4月13日 (金) 04:23 (UTC)[返信]
まあ実績から再放送の可能性が通常より高い番組ももちろん無いでもないのでしょうが、掲載を望む側がある程度それを担保できないと駄目でしょうね。さて、地方での時間差放送が4月20日としましょう。現在現役でウィキペディアに参加している編集者でありその記事に興味を示している方の一部は、その気になれば参照が可能です。結構一部な気がしますが、結構。では、4月21日以降に参加または興味を示された方は?・・・参照できません。つまり、本日4月13日から4月20日までの1週間の間のみ瞬間的に参照可能な資料を広く検証可能と見なすのも、やはり無理です。それを一日でも過ぎれば「過去に参照できたと言われている資料」に過ぎません。ただし長期間継続的に同じ内容のものの再放送が行われた実績があり今後もそうであることを掲載を望む側がかなりの確度で示せるものについては、例外かもしれません。「ドリフの大爆笑OP」レベルであったら、もしDVD化もVTR化もされていなくとも、認めると仰るかたもいらっしゃる可能性も・・・?--Hman会話2012年4月13日 (金) 04:45 (UTC)[返信]
なるほど「長期的再放送の実績なら一概に断定できない」ということですね。納得できましたので私の疑問の箇所についてはこれで「done」にしたいと思います。ありがとうございました。--にの会話2012年4月13日 (金) 04:57 (UTC)[返信]
あくまで私がそう思う、またはそうであってもいいんじゃないかなあ、と思うだけですので、念のため^^;。・・・っていうかドリフの大爆笑OPレベルのものの話で、ウィキペディアに掲載すべき事象について他の資料化がされてないって相当希なケースでしょうね。--Hman会話2012年4月13日 (金) 07:58 (UTC)[返信]
了解しました。As a whole, テレビ局がもっとアーカイブを公開すればいいんですよね……と思いました。(脱線してしまうので背景云々は控えます)--にの会話2012年4月13日 (金) 08:08 (UTC)[返信]
本議論提起者です。製品DVD等の検証可能性についてや、Hmanさんとにのさんによる再放送の議論(正確にはその結論)は前議論で既に意見を述べている(この辺とか)んですよね。ですので特定の案件についてではなく、広く放送番組の検証可能性について伺いたかったのですが、書き方が下手ですみません。
NISYANさんのおっしゃるような映像メディアが規制によって入手不可能となったとしたとしても、そのメディアが発売されたという事実及び規制された事実は他の検証可能な資料を元に記載可能でしょう。場合によっては規制理由について書かれた資料もあるかもしれません。さすがに元メディアの中身についての記述は無理になるでしょうが、発売及び規制の事実は特筆性が低くないと個人的に思いますので、その記載に代えるというのでは駄目でしょうか。製品DVD等については網羅とはいかないまでもアルビレオさんのおっしゃるとおり国会図書館にも所蔵が増えているようです(私的所有物タイトルで検索にかからなかったものも結構ありましたが)。
最初の提起に書きました「検証する手段を保有している人が検証する」については、製品DVD等の発売が見込めない番組を私的DVDに録画したものや放送局が非公開アーカイヴしているもので確認しても検証可能とは言わないということで宜しいでしょうか? --Ritis会話2012年4月13日 (金) 11:30 (UTC)[返信]
その確認の仕方は明らかに方手落ちでしょう。「製品DVD等の発売が見込めない番組を私的DVDに録画したものや放送局が非公開アーカイヴしているもので確認しても検証可能とは言わない」かを確認するのであれば、併せて、「製品DVD等の発売が見込める番組を私的に録画したもので確認した場合は検証可能と言う」のかも確認しなければ、結局是非はグレーなままではありませんか。--Dojiking会話2012年4月13日 (金) 12:04 (UTC)[返信]
Ritisさんの理解でよいと思います。書籍に関していうと、ある書物が発刊されたことがありどこかにコピーが存在している、というだけでは不十分で、検証可能性を満たすためには少なくとも一部が世界中のどこかの図書館か古本屋で利用可能であることが条件になります。その気になれば(お金と時間さえかければ)誰でも(関係者などでなくとも)アクセスできる、公に利用可能なコピー少なくとも一部が今この時点で存在していなければならない、ということです。世界中のどの図書館にも収蔵されてなく、法的な理由で売買が禁止されており、すべてのコピーが私的な蔵書としてしか存在していない書物は検証可能性を満たさない、ということです。これをテレビ番組に当てはめると、私的な録画は公に公開されているとはいえず、それ以外に今この時点で誰でもその気になればアクセス可能なコピーが存在していないのであれば、検証可能性を満たさない、ということになると思います。たとえば、NHKは各地のアーカイブで過去の番組を一般公開しています[2]。これは、その気になれば誰でも視聴することができるコピーが存在しているということであって、検証可能性を満たしている、ということになると思います。アーカイブの公開が放送関係者などに限定されている場合は、検証可能性を満たさない、ということになると思います。例外はKanoharaさんが指摘したDVD発売待ちの動画だと思います。--Bugandhoney会話2012年4月13日 (金) 13:12 (UTC)[返信]
(少し脱線してる気もしますが)DVD発売待ちの動画についてはWikipedia:性急な編集をしないにも注意が必要な気がします。マンガなどの分野ではコミックス発売まで加筆しないと言うローカルルールも良く見かけますし。--219.105.90.213 2012年4月13日 (金) 23:53 (UTC)[返信]
うーん、その二つの扱いは基本的に、違うと思います。マンガなどについて単行本発売まで反映を控えるのは、逐一だらだら書いていてはぐだぐだ或いは支離滅裂になり読めた記事にならないと言う意味が大きいんじゃないですか。そしてマンガ雑誌は通常の物であれば、単行本発売まので間も、それなりに参照と検証が可能です(外国の方などが日本の雑誌を相手にする時は単行本より入手何度が2つ3つ桁違いに高いかもしれませんが、一般的に見て十分に可能でしょう)。よって「性急な編集はしない」となります。DVD発売待ちの等、その時点ではまだ電波が発されただけに過ぎないテレビ番組については、その実執筆時には検証不可能であるのに将来的に検証可能になるからという理論で前倒ししているお話なので。こちらは仮に、善意の閲覧者がノートに現れ、「これ、ほんまですか?どうやって検証・確認すればいいんですか?」と言った際に、「当面無理です」とお答えせねばなりません。こちらは「検証不可能なことを書かない」となります。いずれにしても「基本的には二次資料を使う」というウィキペディアの原則をできるだけ尊重することで、記事の品質は向上するはずです。--Hman会話2012年4月14日 (土) 01:33 (UTC)[返信]
コメント 漫画がコミックス単位で加筆されるのは、ストーリーがある程度まとまってから加筆すべきという理由によるものですが、テレビアニメのDVDはたいてい2話単位で収録されるので、ストーリーのまとまりという点ではオンエアを元に加筆するのと大差ないでしょう。
それと、漫画は作者の個人作品という性格が強く、雑誌などに事前情報が掲載されるのは稀ですが、マニアックな客層がつく深夜アニメなどは、アニメ雑誌などに特集記事やスタッフインタビューが掲載されることも多く、ある程度先の展開への展望や、解釈が分かれる場面の解説などに触れられることもあります。現在の「Wikipedia:創作物を基にした逐次的な編集」では、出典により裏付けのある情報は加筆して良いことになっています。
> 善意の閲覧者がノートに現れ、「これ、ほんまですか?どうやって検証・確認すればいいんですか?」と言った際に、
それは、録画を手元に残している人が検証・確認すれば宜しいかと。仮に虚偽の内容をでっち上げたい人がいて、ソックパペット、ミートパペットを大量動員して「検証した」と言い張っても、その番組がオンエアされたものである以上は別の誰かにも検証できるので、虚偽は相互監視によって見抜かれることでしょう。騙し通せるはずがありません。そもそもウィキペディアには締め切りなんてないので、記事の内容が疑わしく思え、ノートで質問しても納得がいく答えが得られなかったのなら、BD/DVDの発売を待って自分でじっくり検証すればよいのです。虚偽の記述が書き込まれる可能性がないのなら、BD/DVDが発売されるまで記述の内容を検証できないのも、BD/DVDが発売されるまで記述自体が存在しないために疑問を抱くこと自体が不可能であるのも、結局は同じことでしょう。--Kanohara会話2012年4月14日 (土) 02:05 (UTC)[返信]
一部の方には私が感じていたものが理解いただけたかなと。
私はKanoharaさんの言う製品DVD等の担保による録画された番組の検証可能性も、Ohgiさんの言う永続的な検証可能性を追求するという言葉も、いずれかに結論付ける必要はないと考えております。いずれの考えも方針の精神を十分に理解した上での解釈の差異であり、いずれかに決める必然性が無いからです。好みだけを語るなら製品DVD等の担保によって書いても良いのではとは思っていますが、急いで書き上げる必要性もないですからね。
だからこそ結論は前の発言で述べたとおり「製品DVD等の発売が見込めない番組を(中略)確認しても検証可能とは言わない」しかコミュニティでの同意を得られないと思うわけですが。--Ritis会話2012年4月16日 (月) 12:50 (UTC)[返信]
少し空いてしまってコメント付けづらいインデント状況になっているので、下に書きます。
Vigorous actionさんの≪NDLでは閲覧どころか複写も可能≫について。コメントありがとうございます。そうでしたか。確認に行くつもりもありませんが、2005年7月16日の朝日新聞に載った記事(法務省に「摘発対象になりうる」と指摘されて調査に乗り出した云々)で、その後てっきり閲覧不可になっていたものと思っていました。
アルビレオさんの≪「CD-ROM、DVDなどパッケージで頒布される電子出版物(音楽CDやゲームソフトも含む)」は納品対象≫について。ありがとうございます。そうすると、その方向で問題がありそうなものは、納品がほとんど行われていないとされている、アダルト作品類(参考:『図書館界』61巻4号、国立国会図書館における成人向け出版物の納本状況)くらいかもしれません。そうすると、ここでの主題(放送番組の検証可能性の話)からは大きく外れそうですね。--NISYAN会話2012年4月16日 (月) 13:45 (UTC)[返信]

すいません、少しまぜっかえすようですが、テレビ本放送と製品BD/DVDがまったく同じだとは限りません。細かい所だとグッズのレーベルがかえられたり、ひどいときは話の内容までかえられているものもあります。また最近(でもないか)映画と製品BD/DVDの色が違うと話題になったこともあります。漫画の場合は雑誌と単行本(文庫本)を並べてみれば一目瞭然ですけど・・・--219.40.151.3 2012年4月18日 (水) 15:37 (UTC)[返信]

はい、その通りです。アニメを前提とされているのかもしれませんが、あらゆるテレビラジオ記事に言えることでしょうね。よってどうしても一次資料で書く時は、DVDに準拠して、DVDの内容を解説することになります。・・・というのもおかしな話ですが、とにかく過去発せられた電波がどの様なものであったのか、直接確認することは物理的に不可能ですのでどうしてもウィキペディアで書く以上こうするよりありません。しかし手立てはあります、と申しますかウィキペディアでは基本的に二次資料を使って執筆することになっていますので、有力な文献が出てくれば「○○著『××』(2010)は、DVDでは△であるが、本放送では□であったとする」と書く事ができます。「ウィキペディアには締め切りなんてありません」ので、検証不可能な事は書かず、ちゃんと検証可能な資料が出て信頼性を確認できるまで待ってから、が大原則です。もっとも、<ref>DVDによる。</ref>と、本放送とは違うんだぞ、と臭わすささやかな抵抗を行なうくらいは構わないんじゃないかな、と個人的には考えています(個人の考えです)。なお、間違い探しレベルの些末な違いは恐らく、ウィキペディアには列記する必要がありません。特記性・特筆性のあることだけで良いと思います。抗議が来て話を差し替えたとか、犯罪を起こした芸能人が編集カットされたとか、そういった重大な変更は二次資料で触れられているはずですので、それが一つの閾となるでしょう。コンピュータゲームの機種ごとの違いなどもそうですね。これも個人的には「多少筆が走るのがウィキペディア」と思い、おおらかにはやっておりますが。--Hman会話2012年4月18日 (水) 16:19 (UTC)[返信]
コメント(冒頭の問題提起に対して)基本的にKanoharaさんと同意見になりますが、本放送以外のメディアでリリースされているものについては検証可能性の面で問題はないと思います。たとえばこの議論の端緒として提示されている『あの夏で待ってる』であれば、テレビ録画をしていない人でも内容を検証したければバンダイチャンネルなどで閲覧可能ですから、もしも最初の投稿者がそれを知らずに本放送の放送情報を出典に提示して記事を書いていたとしても、他の編集者がより適切なアクセス性の高い出典に差しかえてくれることが望めますし、逆にその内容が正確でない場合にも(放送日時・放送回さえ分かれば確認の対象が絞れるので)記述除去の判断がかなりやりやすくなると思います。そもそも前述の作品の当該議論に参加されている編集者の方々はおそらく全員がその作品内容を確認する手段はお持ちでしょうから、そういったある程度メジャーな放送情報に対して「検証可能性」という側面をことさらに問題視する意味は(少なくとも編集の実務上は)あまり無いと思います。
それよりも、放送番組の録画でも何でも良いのでとにかく出典を提示する、ということのほうが格段に重要かもしれないと思う今日この頃です。たとえば、先日もののついででうる星やつらの登場人物の一部記述に{{要検証}}テンプレートを貼ったのですが([3])、「この情報は99%間違いだろう」と思う記述を目にしても、原作の漫画が全34巻、TVアニメは5年間で200回近い放送回数なので、それがどのメディアのどの箇所のことを述べているのかが分からないと容易にチェックすることができないということを経験しました。私個人はその作品のテレビアニメ版(テレビ録画もDVDも)は所有していませんが、それでももし番組放送日か話数だけでも記事の出典(実際に利用された情報源)として記載されていれば、その話数に対応する原作の内容を確認して「少なくとも原作にはそのような描写はないですよ」と指摘することは短時間でできますし、他の編集者の方に放送版の内容を確認頂くことも容易になったと思います。そういう放送情報源の有用性を全否定されてしまうと現実の運用面で逆に辛いものがあるようにも思います。--ディー・エム会話2012年4月21日 (土) 06:16 (UTC)[返信]
情報提供ありがとうございます。今どきのテレビドラマはおそらくそんな事情になっているのではないかなとは思ってましたが。この場合は、当然検証可能性を満たしているということになると思います。
「うる星やつらの登場人物」は(確かに焼け石に水という感じですが)、出典に関する情報をできる限り細かに提示するということであって、テレビ番組やフィクションに関する記事に限ったことではないと思います。--Bugandhoney会話2012年4月23日 (月) 18:43 (UTC)[返信]

最近の新しい試みとしてオンデマンドなんて物が出てきましたが、これはどういう扱いになるのでしょうか?--219.40.151.3 2012年4月28日 (土) 16:26 (UTC)[返信]

コメントもともとインターネットなどでは文字・音声・映像の区別にかかわらず、ストリーミング放送(著作権法でいう「放送」または「有線放送」)よりもオンデマンド配信(著作権法でいう「自動公衆送信」・放送法ではおそらくこれも「放送」の一種)が主流だと思いますので、後者のコンテンツに関しては基本的に通例的なウェブサイト情報源の出典の示し方に準じれば良いのではないかと。--ディー・エム会話2012年4月29日 (日) 05:03 (UTC)[返信]

報告 Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源#動画などのマルチメディアの扱いWP:RSに動画などの取り扱いに関する但し書きを加えることを提案しました。--Bugandhoney会話2012年4月30日 (月) 22:55 (UTC)[返信]

コメントWikipedia:井戸端/subj/テレビ番組は検証可能な情報源ですか?,Wikipedia:井戸端/subj/テレビ番組は検証可能な情報源なのか,Wikipedia‐ノート:検証可能性/テレビ番組Category:井戸端の話題/テレビ番組に関連議論があるようです。--fromm会話2012年5月1日 (火) 08:41 (UTC)[返信]

可変Ipからの書き込み失礼します。 私としては中立の立場なのですが、ガイドラインの解釈について、明らかに間違っている箇所が有りますので発言させて下さい。 何度となく『誰でも検証可能』との表現が使用されていますが、Wikipedia:検証可能性には、どこにも『誰でも検証可能』とは書いてありません。 これは私の勝手な想像ですが、『広く信頼されている発行元からすでに公開されている』の表記から、『公開されている資料なら誰でも入手できる』との発想が生まれたのではと思います。 しかしながら、この考え方は間違いで、公開されている資料を入手できない立場の人も大勢います。 最も分かりやすい例としては、レイティング指定の資料が出典となっている場合で、俗に言う『18禁』の書籍が出典であれば、未成年は入手も閲覧もできませんので、検証資料にできません。 この事と、放送を見ていない人とを同じに扱えるかどうかは意見が分かれると思いますが、参考になれば幸いです。--58.138.13.52 2012年5月2日 (水) 17:22 (UTC)[返信]

それは極論だと思いますけど、ウィキペディアの記事に出典として用いられている資料には当然時間とお金という制約があります。ワンクリックで閲覧することのできるものもあれば、相当のお金と時間をかけないと手に入らないものもあります。18禁の書籍以外にも、子供にとって事実上入手不可能な資料はいくらでもあるでしょう。こういうことは時間が解決してくれる制約だと思います。あとまあ、「誰でも」というのは「記事を読んだ誰でも」ということであって、そもそも、よい子は18禁の書籍を出典にしているような記事を読んだり内容を検証しようとしたりはしないと思いますけど。--Bugandhoney会話2012年5月2日 (水) 20:59 (UTC)[返信]
コメント全ての読者・全てのユーザーとはいかないまでも、特定の地位や職権などに依存しない不特定多数による検証手段の存在が求められているのは間違いありません。
Wikipedia:検証可能性現在の最新版)には、次のような言及があります。
Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」
検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。
Wikipedia:検証可能性#アクセシビリティ
この文章での検証可能性とは、ウィキペディア内の記述について他ユーザーが、信頼できる情報源によって公表されていることを検証可能でなければならない、ということです。
他方、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源では次のようにも述べられています。

一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源です。

そして、そのような信頼性に乏しい情報源にしか見つけられない情報の扱い方について次のように指示されています。

その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、それをくだんの情報源によるものと明示してください。

過去の議論の中でいえばKs aka 98さんのご意見(Wikipedia‐ノート:検証可能性/テレビ番組など)を私は支持しますが、必ずしも多数派ではないかもしれません。いずれにせよ、放送メディアの検証性に否定的な立場の方々に対して「横暴だ、やめてくれ」と不毛な抗弁に終始することよりも、なぜそのような厳しい声が多数沸き上がるのか、その理由に思慮を巡らせることのほうがより重要であり、建設的であると思います。少なくとも、
  • 重要でない情報は検証可能性を検討するまでもなく記述不要。
  • 情報源が何であろうと出典を記載しなくて良いということはない。
という点については方針に明記されていますから異論の余地は無いはずです。翻って、放送分野の記事の現状に照らし合わせて省みた時、認識を改めるべき部分も多いのではないかと思います。--ディー・エム会話2012年5月3日 (木) 07:09 (UTC)[返信]

Ip変わっています。 ウィキペディアには『よい子は18禁の資料を出典とする記事を読んではいけません』というルールはありませんが、世の中には『よい子は18禁の資料を読んではいけません』というルールがある以上、『記事を読んだ誰でも検証可能』という解釈は成立しません。 レイティングについては、分かりやすい例として書いたまでのことで、それについて議論しようと思っていませんし、他にも同じような事例は有ると思います。 また、著しく入手が困難なことと、立場上入手不可能なこととは、全く意味が違いますので、対比することに意味はないでしょう。 最後に、議論の内容へは深入りしたくないのですが、『時間が解決してくれる制約』を許すのなら、放送番組のDVDが発売されるのも、『時間が解決してくれる制約』ですよね。--101.128.163.43 2012年5月3日 (木) 09:06 (UTC)[返信]

DVDの発売が見込める場合については、私が見た限りでは統一した見解には至ってないですが、柔軟に対応すればよい(検証可能性を満たしている)という意見を私を含めて複数の編集者が表明しています。あと、一般論で言えば今どきのテレビ・シリーズはどこかにデジタル・アーカイブがあると考えてよいと思います(それをちゃんと探してという意味です)。--Bugandhoney会話2012年5月3日 (木) 12:41 (UTC)[返信]

報告「放送番組の検証可能性について」に関するまとめとして、WP:RSで動画などの媒体の取り扱いに関する提案を行っています。Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源#動画などのマルチメディアの扱いまでコメントよろしくお願いします。--Bugandhoney会話2012年5月14日 (月) 19:13 (UTC)[返信]

「Wikipedia:出典を明記する」の新規方針(リンク切れの回避と修復)との整合性について

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放送番組が直接対象となるものではありませんが、5月1日 (UTC, JST)以降、ウェブサイト情報源のリンク切れに関する扱いの方針がWikipedia:出典を明記するに加わりました(→Wikipedia:出典を明記する#リンク切れの回避と修復)。この新規方針の対象であるリンク切れウェブサイトと、当議論の対象である放送番組情報源とを比較した場合、

  • 各個人レベルでの複製保存以外、情報源に対する検証性(アクセス性)が担保されていない。
  • 情報源へのアクセス遮断からアーカイブメディアのリリースまでにタイムラグがある。
  • 当該アーカイブのリリースが見込めない情報源も存在する。

といった点で共通しており、今後それらの整合性を加味した明瞭な新規ルールを検討する価値はあるかもしれません。--ディー・エム会話2012年5月3日 (木) 13:29 (UTC)[返信]